第三十九話 七百二十枚の仕事
「陸船の台は、明日も動くんだな?」
通知の写しを読み終え、オルドが顔を上げた。
「うん。工事の荷を運ぶから、陸船の便は残すって言われたよ」
ティアが答えた。
隣の台も水の力で動いている。水が足りないなかで、会社は工事の便を残す方を選んだのか。
「なら、運ぶ道はある。だが、うちの明日はまだ空いてると決まったわけじゃないぞ」
船長の視線が、会社の倉庫へ向いた。
三日で七百二十枚。
祭りの荷を今日運ぶために、下見の時刻まで変えてもらった仕事だ。
日給六枚の俺には、断ればいいと言うだけでも勇気が要る。
「ティア。下で困ってる人たちに、荷の量と届け先を聞いてもらえないかな。運賃を払ってでも頼みたい人が、どのくらいいるか」
「それを聞いて、どうするの?」
「船長に比べてもらいたい。資材を運ぶのと、みんなの荷を運ぶのとで」
よその店を心配するために、ここの飯代や修理代を軽く扱ったらおかしい。
オルドが、頷いた。
「積めるか見てから返事をする。それでよけりゃ、集めてくれ」
「分かった。昼過ぎに、下の荷場で待ってる」
ティアは鞄の紐を掛け直し、桟橋へ走った。
青い髪が人の間を抜けていく。その後ろから、会社の係がこちらへ歩いてきた。
*
倉庫の石は、俺の腹ほどの高さがあった。
四角く切り出したものが、木の台の上に列を作っている。隣には、両手で抱えるほど大きな鉄の輪が重ねてあった。
包帯の巻かれた俺の手と比べると、岩と呼びたい大きさだ。
「岸の壁を仕上げる石だよ。輪は、船を留める綱を通す」
ヴァルターが、石の角へ厚い指を置いた。
今日は深緑の上着の前を開けている。こめかみの白いものが、倉庫の入口の光でよく見えた。
「仕事が決まれば、重さを量ってから積む。君らの船の積める分だけだ。無理な山積みにはしない」
オルドが石の列の間を歩き、寸法と数を係に尋ねる。
リゼもついていき、一度に運ぶ重さを係と確かめた。
そのあと、俺たちは会社の荷馬車に乗った。
案内はヴァルター。船長とリゼ、それから俺。係が御者台で手綱を握る。
コハクは、上港の荷場で留守番だ。
港を出た道は、山の横腹を削って造られていた。
車輪が石を踏むたび、尻の下の板がごとんと跳ねる。
右に岩壁、左に谷。道幅は広いが、谷側を見ると尻が勝手に板の中央へ寄った。
向かいのリゼが、俺の膝を見た。
「そんなに足、閉じてたっけ?」
「今だけ。少しでも道の真ん中にいたくて」
「車輪は動かないよ、それじゃ」
分かっていても、寄るんだよ。
彼女は笑っていたが、谷の向こうに長い石の壁が見えた途端、荷台の縁へ身を寄せた。
壁は、山を二つに割った溝の両側に続いている。
溝の底は、道よりずっと下だった。
「あれが運河ですか?」
「そうだ。もうすぐ、底が見えるよ」
ヴァルターが答えた。
港を出て一時間ほどで、荷馬車は止まった。
*
水のない運河の底に、船がいた。
俺たちは馬車を降り、道沿いの柵から下を覗いた。
両岸を石で固めた、幅の広い真っすぐな溝。その底で、大きな船が木の台に腹を載せている。
まだ塗り終わっていない白い船腹に、何人もの職人が梯子を掛けていた。
かん。かん、かん。
船を叩く槌の音が、左右の石壁から返ってくる。
少し離れた場所では、岸の上の巻き上げ機が石を一つ吊っていた。綱が張ると木枠が軋み、下の男が両腕を振って、置く場所を指す。
石が下りる間、周りの職人は手を止めて待った。
「陸で造って、水を入れて浮かべるんだ」
リゼの声が弾んだ。
彼女は柵の前にしゃがみ、船底を覗き込む。自分の膝が石の粉だらけになったのには、まだ気づいていない。
ヴァルターは柵の柱を叩いた。
「君たちの石を下ろすのは、ここだよ。岸の上まで来てもらえばいい。下へ運ぶのはこちらでやる」
道から岸へ入る場所を、オルドとリゼが確かめる。
船を止める広場は平らで、向きを変える余地もある。荷台を寄せる場所には、杭が二本立っていた。
「水が入ると、どこまで来るんですか?」
俺が聞くと、ヴァルターは壁の上の方に引かれた白い線を指した。
底にいる職人の、何人分もの高さだ。
あそこまで水が来れば、下の船の甲板は、俺たちのいる岸の近くまで上がる。
今は頭のてっぺんが見える人と、横に並んで話ができるのだ。
「山の向こうまで通せば、海から船が来る。荷を何度も積み替えなくて済むんだ」
ヴァルターの目は、溝が曲がって見えなくなる先を見ていた。
海はまだ見えない。今は石を積んでいる途中で、水もない。
それでも、その大きな船がここを進むところを、俺は見たいと思った。
七百二十枚をもらって、その仕事を手伝う。
悪い話どころか、少し胸が躍る。
「下池の台を減らすのは、この運河に水を入れるためですか?」
ヴァルターが、俺を見た。
「今は水が足りないからだ。古い水路から漏れる量も増えている」
「じゃあ、漏れを直せば、便も戻せますか?」
「新運河ができたら、こちらへ船を集める。そのために水を確保したい。下池を残すための修理には、大きな金は掛けられないよ」
水路が直っても、下の暮らしは元に戻らない。
この人は、もうそう決めているのか。
「上へ移ってもらう。家も、仕事も用意する」
その仕事が、元の店を続けることとは違う。
昨日、ベルナはそれを断った。
俺は柵から手を離した。
運河はすごい。それは、今もそう思う。
でも、ベルナやザクが店を畳むことまで、いい話として頷きたくはなかった。
オルドが、先に口を開いた。
「一日一往復に減らして、他の荷も運ぶ。その契約はできるかね」
「それだと足りない。石を積む者も、ここで受ける者も、二往復に合わせて用意している。三日間、昼の仕事を任せられる船が欲しいんだ」
ヴァルターは、答えを濁さなかった。
「下の小舟の荷も運びたいのかい」
「ああ。朝の一便だけじゃ足りんそうだ」
「いくらになる?」
船長は答えなかった。
まだ、俺たちにも分からない。
「七百二十枚は、こちらで払える額だ。下では誰が払う?」
俺は、唇の内側を噛みそうになってやめた。
嫌な聞き方だと思った。でも、そこを確かめずに『下の人が困ってます』と頼めば、船長に損を引き受けてもらう話になる。
「港へ戻るまで、待ってもらえませんか。下の人がいくら出せるか、聞く前から諦めたくないんです」
ヴァルターの視線が、俺に止まった。
「なら、確かめておいで。うちも、いつまでも待つわけにはいかない」
オルドが腰の鍵束を握り、頷く。
「戻ったら俺が返事をする。それで頼むよ」
「分かった。断るなら、別の船を当たる」
*
帰りの荷馬車は、さっきより静かだった。
リゼが足を伸ばし、靴先についた白い石の粉を払った。
俺も同じ粉を見下ろす。
「船長。もし、全然足りなかったら」
「そん時は、足りんと言うよ」
オルドはすぐに答えた。
「コハクで暮らしてる奴らの金だ。いい顔をするために、なくすわけにゃいかん」
「……はい」
「お前も入ってるぞ、カイ」
顔を上げると、船長は自分の膝を手で払っていた。
石の粉が、板の隙間へ落ちる。
「お前の飯代だって、俺が稼ぐんだよ」
俺は、今度こそ黙った。
俺も、この船で明日の飯を食う。
リゼが、俺の肘を軽く突いた。
「私、今日はあの二人を乗せてよかったと思ってるよ」
「うん。俺も」
「明日もそうできる仕事、見つかるといいね」
俺は頷いた。
払える人の頼みを、ちゃんと持って帰ろう。
*
上港へ戻ると、ティアが倉庫の前にいた。
昼過ぎに下で待つと言ったはずの彼女が、こちらを見るなり、紙束を持ち上げた。
その後ろに、赤い頭布が見えた。ベルナだ。
ほかにも、籠を掛けた四十くらいの男や、前掛け姿の白髪交じりの女がいる。
「下で聞いてきたよ。こっちではベルナに、知り合いへ声を掛けてもらった。待ち合わせ、変えちゃってごめんね」
ティアは少し息を切らしていた。
リゼへ紙を渡すと、すぐに男たちへ振り向く。
「船長に順番に話して。私には、積んでいいって決められないからね」
ベルナが、一歩進み出た。
「明日も六樽。今日と同じ条件で頼めるなら、その分は払うよ」
籠の男は魚売りで、下池から魚を上げたいという。
隣の女は下の飯屋の主人で、上の店から粉と豆を下ろしたいと頼んだ。
「帰りにも、荷を積めるんですね」
「助かるよ。いくら下り坂でも、豆を背負って帰るのはごめんでね」
女が笑って、腰をさすった。
朝、空で下りたコハク。
あの荷場にも、積めるものがあったのだ。
オルドが紙を広げる。
リゼが横から、行を指した。
俺にも聞こえるように、船長が声に出した。
「下の十二軒と、ここの分。台料と人足代は荷主が別に払って、明日の運賃が百四十枚ほどか」
「うん。今日のベルナの値段を聞いて、これなら払えるって。荷の大きさも書いてもらったよ」
ティアが、紙の端を押さえた。
紙には大きさと、重さの見積もりもあるという。船長とリゼは、一度には無理だが、二往復なら収まりそうだと話した。
資材の仕事は、一日あたり二百四十枚。百枚も違う。
それでも、ゼロじゃない。あとは船長が、選べる。
ヴァルターが、俺たちの後ろで立ち止まった。
「決まったかね」
船長が顔を上げた。
紙を握った手は、そのままだ。
「資材の仕事は、今回は断らせてもらうよ」
「七百二十には届かんだろう」
「ああ。だが、こっちなら脚を動かす距離は短い。重い石を運ぶより、船はいたわってやれる。その上、明日で終わる客ばかりでもないだろうさ」
ヴァルターは、集まった顔を一度見渡した。
「そうか」
それだけ言って、倉庫へ入っていった。
俺の背中から、ようやく力が抜けた。
あとは、引き受けた方の仕事をちゃんとやるだけだ。
船長が、俺に紙を差し出した。
「カイ。リゼと一緒に、荷の置き場所を考えてくれ。乗せる人の分もな」
「はい」
俺は隣の彼女と顔を見合わせた。
リゼが袖口をそろえる。
「まず、明日の朝の分からだね」
*
ティアは自分の舟で先に下り、俺たちもコハクを下池へ向けた。
ベルナも船長の許可をもらって同乗した。下で、自分の舟を取りに戻る。
中町で台を乗り継ぎ、下池の荷場へ近づいたところで、俺は船首の足場から身を乗り出した。
岸が、荷物で埋まっていた。
木箱に、豆の袋。花を挿した桶。
ティアの周りには、十二軒より明らかに多くの店の人がいる。
リゼに船を手前で止めてもらい、脚を畳み終えたところで岸へ下りた。
「増えてない?」
「……コハクが来るって言ったら、隣の店も呼んできた人がいて」
まずは一件ずつ聞くしかない。
その時、岸に並ぶ大きな籠が鳴いた。
こけっ。
籠の隙間から、赤い鶏冠がのぞく。
運賃を読む合間に、リゼが「卵屋」と言っていた気がする。
「運ぶのって、卵じゃないんですか?」
籠のそばの丸顔の男が、胸を張った。
「祭りの店で、産みたてを売るんだよ。今回は鶏ごと頼む!」
その籠が一つだけじゃないと気づいて、俺はコハクを振り返った。




