第三十八話 魚の腹に灯がともる
俺の部屋が、灯籠の倉庫になっていた。
寝台に二箱、床に二箱。木の枠で囲った箱の中に、薄い紙を張った丸い灯籠が五つずつ収まっている。
寝台の箱と壁の隙間には、俺の枕まで詰められていた。
「枕、あとで返してもらえますか?」
「もちろんだよ。よだれも垂らさないし、いい客だろ」
厚い眼鏡の男は、真顔でそう答える。
俺の横で、リゼが吹き出した。
昨夜、船長が大きさと届け先を聞き、追加の荷を引き受けた。
灯籠を作って売るこの人も、舟の検査待ちで上りを使えない。二十個を今日の午前中に届ければ、魚の灯りを試すのに間に合うという。
運賃は銅貨六枚。台の往復代はベルナと半分ずつにして、二人とも頷いてくれた。
そして今朝、空のコハクで下まで降りてきたところだ。
窓の外は下池。
岸に並ぶ屋根付きの舟へ、細い板橋が一本ずつ渡されている。顔を洗った水を舟から捨てる人がいて、その隣では煙突から朝飯の煙が上がっていた。
コハクは池の縁の、陸船用の荷場に脚を畳んでいる。
油の六樽は、船の後ろの荷場へ。
軽くてかさばる灯籠は、風の当たらない俺の部屋へ。
ボルグに置き方を見てもらってから、男たちが箱を運び込んだ。箱の底には畳んだ布を敷き、隙間も布で埋めてある。
自分から部屋を使ってほしいと言ったのだ。
夜まで占領されるわけじゃないし、俺の寝床で誰かの祭りが間に合うなら、安いものだと思う。
部屋を貸すと聞いたエダは、わざわざ見物に来た。
「ちょっと留守にすると、お店になっちゃうんだね」
「昼には出ていきますよ」
「家賃もらいなよ。枕代は別で」
戸口から覗いたエダの後ろで、ベルナまで笑っている。
家を貸しただけで、大家の心得まで教わってしまった。
*
積み込みが済む頃には、ロクの鍋も空になりかけていた。
炊事場の前に並べた椀から、刻んだ葉と卵の入った粥が湯気を上げている。乗ってきた二人にも、ロクが一杯ずつ渡した。
「熱いよ。揺れねえうちに食っちまいな」
赤い頭巾の下で、目尻が寄る。
ベルナは樽の数をもう一度確かめてから、椀を受け取った。
岸につないだ油舟は荷場の係に預けてある。ここからは、ベルナもコハクに乗る客だ。
「人の船で朝飯食うの、何年ぶりだろうね」
「いつもは、どこで食べるんですか?」
「自分の舟。櫓を持つと片手が空かないから、岸で立って食べることも多いよ」
俺は空いた手を丸椅子の座面に掛け、少し手前へ寄せた。
ベルナが腰を下ろすと、向かいの家から出てきた男が、隣の椅子にも腰掛ける。
「おはようさん」と声を掛けて、そのまま朝飯を食い始めた。
ベルナは少しだけ背筋を伸ばしていたが、すぐに椀へ顔を寄せた。
俺も粥を少しずつ口へ運ぶ。
この船に拾われた時、飯と寝床があることがどれほど嬉しかったか。今はそれを、こちら側から差し出している。
もっとも、飯を作ったのはロクで、家を貸してくれているのは船長だ。俺の手柄みたいな顔をすると、罰が当たるな。
リゼが、空の椀を重ねて戻ってきた。
「灯籠、気になる?」
「かなり。紙を破ったら、祭りで魚の腹が一か所だけ暗くなる」
「じゃあ、部屋で見てて。上がる間は私がなるべく揺らさないから」
彼女は左右の袖口をそろえ、操船席へ向かった。
蜂蜜色の三つ編みが、薄青い背中で跳ねる。
俺は灯籠の男と自室へ戻った。
外でオルドが人数を数えている。いつもの十五人と、荷主二人。
人足が板を下り、ロクが椀と鍋を片づける。渡し板が引き上げられると、船底で機関の音が太くなった。
ぐっ、と床が持ち上がる。
窓から見えていた岸が、足元へ遠ざかる。
コハクが立ち上がり、一歩を踏み出す。
箱の縁へ添えた男の指が、白くなる。
俺も息を止めていた。
かさっ。
床の箱の中で、一つの灯籠が布へ触れた。
それだけだ。
次の一歩が来る。
男は箱の中を覗き、俺を見る。俺も見返した。
「……朝飯、先に食っといてよかったよ」
「落ち着いて食べられませんね、これを見ながらじゃ」
男は頷き、ようやく指の力を抜いた。
*
陸船の台へ乗ると、コハクは脚を畳んだ。
歩く振動が止まり、代わりに台の鎖が、ごと、ごと、と床の奥で鳴る。
窓の外を、石壁がゆっくり下がっていく。
灰色の壁が途切れたところで、中町の水面が現れた。
鍋を叩く音がする。
朝の売り声と、小舟の縁が岸へ触れる軽い音。
窓一枚の向こうを、店ごとの朝が通り過ぎる。
「いつもは、あっちから見るんだけどな」
男が、水を張った隣の台を指した。
小舟が何隻も並び、船頭たちが櫓を寝かせて待っている。こっちは家の中で、枕に挟まれた荷箱を見張っている。
俺は窓枠へ肘を置いた。
「舟からだと、うちの屋根ばっかり見えませんか?」
「うん。まさか、ここに寝床が並んでるとは思わなかったよ」
「住んでると、家が歩いてるのも忘れますよ」
男がもう一度、俺の寝台を見た。
「忘れるかあ」
中町で台を降り、岸沿いの道を進んで、次の台へ乗り継ぐ。
船がまた上がり始めたところで、俺は一度だけ通りへ出た。
船首の操船席を覗くと、リゼがこちらを見る。
「大丈夫?」
「一つも潰れてない。お客さん、窓を見て楽しんでるよ」
彼女の口元がほどけた。
「よかった。降りる時も、見ててね」
もう一段、台が上がる。
屋根の間から朝日が差し、通りの戸口が順に明るくなった。
上港の岸で、係の旗が振られる。
リゼが二本の操船桿へ手を置き直し、足元の踏み板をゆっくり押す。
機関が低く唸った。
コハクの前が上がり、後ろも追いつく。
船体が高くなりきる前に、ひと呼吸、動きが緩んだ。
いつもなら頭が少し振られるところで、俺の視界はほとんど揺れなかった。
上港の石畳へ、一歩。
荷場の端まで進んで、コハクが止まった。
俺は部屋へ戻った。
四つの箱は、さっきと同じ場所にある。男は灯籠を一つずつ見てから、戸口の俺へ親指を立てた。
前の世界のゲームなら、こんな時には通話が歓声で埋まった。
俺も今、声を出したい。二十個、一つも欠けていないのだ。
「リゼ、全部無事だよ!」
通りの向こうで、操船席を出た彼女が片手を高く上げた。
*
上の荷場では、ベルナの客が待っていた。
前もって知らせた三軒の人たちが、空の荷車を引いてきている。
祭り船へ油を持っていく店の荷車も、その中にあった。
「本当に来た!」
白い前掛けをつけた四十くらいの女が、渡し板を下りるベルナへ駆け寄った。
「来たよ。六樽、頼まれた分ぜんぶ。ほら、受け取る場所を空けて」
ベルナは赤い頭布を締め直した。
人足に樽を下ろす場所を指し、帳面を開く。椅子でゆっくりしていた人が、俺たちまで働かせる勢いだ。
俺は岸で待つ人を、樽の転がる道から脇へ案内した。
ここから先は、ベルナの仕事だ。
彼女が客の顔を見て値段を話し、客が財布を開く。昨日の事務所で譲らなかったものが、目の前でちゃんと続いている。
灯籠の箱も、待っていた祭り船の人たちへ渡った。
灯籠の男は箱ごとに蓋を開き、二十個を一緒に確認する。
船長が二人から運賃を受け取った。
十八枚と六枚。立て替えた台料も、半分ずつ二人に払ってもらう。
部屋から箱がなくなり、寝台と枕はまた俺だけのものになった。
「二人とも、ちょっと来ない?」
呼んだのは、魚の頭を作っていた若者だった。
黒い癖髪の先に、白い塗料がついている。
「灯りを入れるんだ。運んだ人に、一番に見せたい」
オルドへ顔を向けると、船長は会社の事務所を指した。
「下見の迎えが来るまでだぞ。俺はここにいるから」
俺たちは若者について岸を歩き、祭り船の板を渡った。
魚の頭は、もう胴につながっていた。
岸に沿って留めた長い船の上で、赤い魚が口を開けている。頭から後ろの胴は、作業用の厚い布で覆われていた。
脇の小さな戸から入ると、細い木を曲げた骨が、天井まで丸く続いていた。床には人が並んで座れる板が渡され、左右の骨から灯籠を掛ける鉤が出ている。
若者が戸を閉めた。昼間なのに、中は薄暗い。
俺はリゼと並んで、床の板へ腰を下ろした。
「頭から、順に頼むよ」
灯籠の男が、小さな油壺へ芯を入れる。
ベルナが届けた油だと聞いて、俺はリゼを見た。彼女も、もう気づいた顔をしている。
一つ目に、火が移った。
丸い紙が、蜜柑みたいに色づく。
次の一つ。その次の一つ。
男が灯りを掛けて奥へ進むたび、魚の肋骨が、尾へ向かって浮かび上がっていく。
最後の灯りがつくと、赤い紙の胴全体が、内側から明るくなった。
俺たちは魚の腹の中にいる。
昨日は頭だけだった魚に、今は灯りが尾まで続いている。
外の水が船腹を叩く。とぷん、とぷんと、暗い床の下でゆっくり鳴る。
座っているだけなのに、どこか深い海へ連れていかれそうだった。
「すごい」
リゼが、声を落とした。
帽子のつばの下まで橙色に染まっている。灯りを追う灰緑の目が、最後に俺へ戻ってきた。
「これ、私たちが運んだんだよ」
「うん。でも、いいのかな。魚の腹で喜んでて」
リゼは口元を押さえた。
笑い声を小さくしようとしているのに、肩が揺れる。
「今さら? もう食べられちゃってるよ」
俺まで笑ってしまった。
その横で、作り手の若者が得意そうに腰へ手を当てる。
「明日の夜は、この魚で下まで行くんだ。岸から見たら、もっとすごいよ」
見たい。
丸い窓からこぼれるこの灯りを、明日は岸から見上げたい。
*
魚の外へ出ると、見慣れた青い髪が、岸の人混みから現れた。
ティアだ。
肩に掛けた鞄を押さえ、小走りでこちらへ来る。少し離れた桟橋には、ツユクサがつないであった。
「灯り、間に合ったんだね」
「全部ついたよ。中、見せてもらった」
リゼが言うと、ティアも魚へ目をやった。
笑いかけて、それを途中でやめる。
「コハクの船長、今いる?」
俺は、船のそばに立つオルドを指した。
「いるよ。どうしたの?」
「今朝、下の台にこれが出たんだ」
鞄から出したのは、係にもらったという通知の写しだった。会社の印がある。
リゼが受け取り、目を落とす。
「明日から、下池の上り……朝の一便だけ?」
「うん。水が足りないから、下池から中町へ上げる水船の台を減らすって。係にも聞いたよ。祭りの下りは別だって言うんだけど」
俺は、さっき窓から見た小舟の列を思い出した。
あの時点で、台はいっぱいだった。
ティアの指が、鞄の紐を握り直す。
「今の便でも、祭り前はぎりぎりなんだよ。明日、運びきれない店が何軒も出る」
俺は、コハクへ向かって歩きだした。
灯籠を運べたと喜んでいる場合じゃない――いや、喜んでいい。あの二十個は、ちゃんと届けたのだから。
でも、次は俺の寝台一つじゃ足りない。
「船長。明日の荷は、今日みたいに一往復じゃ運びきれません」




