第三十七話 売るのは油だけ
上りの台へ入る直前、油売りの女性が俺たちを振り返った。
「そういや、名乗ってなかったね。あたし、ベルナだよ」
「カイです。こっちはリゼ」
「うん。もう二人の名前は覚えたよ。さっきから、よく呼び合ってるもの」
リゼが俺を見た。
俺も見返してしまい、ベルナに笑われた。
水を張った大きな箱へ、舟が入る。
係が舟をつなぎ、後ろの水門を閉めると、足元から重い振動が伝わってきた。ごとん、ごとんと鎖が動き、岸に立つ人の帽子が、舟の縁より下へ消えていく。
中町で次の台へ乗り継ぎ、上の港へ。
リゼは台の係へ、帰りの便を尋ねた。夕鐘のあとにも下りが一便ある。ただし、それが最後だという。
「話が長くなったら、私が呼ぶね」
彼女はベルナへそう言った。
頼みごとに夢中で、帰る舟まで失わせるところだった。俺も時刻を覚えた。
二軒への配達は、日が傾ききる前に終わった。
一軒目では、女将が戸口に瓶を並べて待っていた。
ベルナは樽から油を量って注ぎ、縁を布で拭いて返す。俺は空いた瓶を寄せ、リゼが蓋を締めた。
二軒目は、港を見下ろす石段の上の小さな飯屋だった。
店主が岸まで油を受け取りに来た。日に焼けた禿頭の、五十くらいの男だ。十歳くらいの娘が、背中から顔を出している。
「ばあちゃんの分も頼むよ。下りの便が減ってから、買いに行きづらくなってさ」
「分かってる。あの人は細口の瓶だろ。持って来てるよ」
ベルナが布袋から一本出すと、娘が駆け寄った。
「今年、あたしが灯りをつけていいんだって」
「じゃ、父ちゃんに芯の切り方を教わりな。長すぎると煙ばっかり出るからね」
娘は瓶を両手で抱えた。
父親が先に石段を上り、手を出して待つ。
決まった量を届けて代金を受け取る、それだけの仕事だと思っていた。
でも、この人は客の祖母の瓶まで覚えている。今日ここへ届かなかったら困るのは、帳面の数字だけじゃない。
ベルナは受け取った銅貨を数え、袋の口を締めた。
「今日の分は間に合った。さて、明日の話をしに行こうか」
*
会社の事務所は、上港の広い桟橋の根元にあった。
一階の窓口には札を持つ船乗りが並び、その横の戸から、机と棚のある部屋へ通された。港側の窓は開いていて、つながれた舟の櫓が見えた。
ヴァルターは机から顔を上げた。
「コハクの青年か。今度はベルナと一緒とはな」
「急にすみません。明日から、この人の舟が台を使えなくなると聞きました」
俺はベルナの話を、先に聞いてもらった。
修理が終わったこと。明日と明後日にも油の注文があること。指定された検査日では、祭りに間に合わないこと。
「今日、見てもらうわけにはいきませんか。舟はすぐ前にあります」
ヴァルターは通知の札を確かめた。
「検査の者は、今夜も大型船を見ている。君たちの知り合いだからと、順番を抜かすことはできないよ」
「市の船大工に見てもらった記録では駄目ですか。ザクさんも、説明すると思います」
「うちの台を使う船は、うちの担当に確認させる。どの職人がどこまで見たかを、その都度調べてはいられん」
「ザクさんに、確認を任せることは?」
「会社の修理場へ来てくれるなら頼みたい。だが、本人が断った」
返事は滞らなかった。
代表が事情を知らず、係が杓子定規に止めただけなら、話は通るかもしれない。
その期待は、もう持てなかった。
ヴァルターは立ち、窓の前へ来た。
ベルナの舟を見下ろす。船尾には、鉄の帯を巻いた櫓の台が見えていた。
「あれが直した所か」
「そうだよ。ザクさんと、この子たちの船の整備屋が」
「悪くない。古い台を残してあるな」
俺は思わず、彼の顔を見た。
「では――」
「ここから見える修理だけで、船全体を通す判断はしない」
言葉を遮られた。
その理屈には、頷くしかなかった。俺だって、船底まで見たわけじゃない。
でも、それなら。
「祭りの間だけでも、届けられる方法はありませんか」
「油なら、こちらで買おう」
ヴァルターは机へ戻り、帳面を引き寄せた。
「祭りまでの分をまとめて。売値の七割でどうだ。うちの舟で運び、店へ売る。君は上まで来る必要がなくなる」
ベルナが腕を組んだ。
赤い頭布の端が、肩から落ちる。
「明日届ける店へ、あんたの会社が売るのかい」
「注文先を渡してくれ。以後の追加も、こちらで受ける」
「そりゃ、あたしの商売を譲る話だよ」
「油を仕入れる仕事は残る。運ぶ手間も舟の修理代も減るんだ。損ばかりではないだろう」
その通りかもしれない。
毎日櫓を押し、舟を直し、客を待たせる心配をしなくて済む。望む人だっているはずだ。
机へ置かれた厚い手を、俺は見ていた。さっき、ノトを引き起こした手だ。
あの救助への感謝と、今の申し出を受け入れられるかは、別だった。
俺が口を開くより先に、ベルナが机から札を取った。
「売るのは油だけだよ。客まで手放すつもりはないね」
「今の舟では、明日の上りは使えないぞ」
「それを困って、相談に来たんだよ」
声は大きくなかった。
握った札の端だけが曲がっていた。
リゼが袖に触れた。
窓の外で、夕鐘を打つ前の短い笛が鳴っている。
「帰りの便、そろそろだよ」
俺は椅子から立った。
ここで怒鳴っても、ベルナの舟を検査する人は増えない。代表は、この人が自分の客へ売り続けることを、残すべき仕事だと思っていないのだ。
「別の船に運んでもらうなら、この油は明日も上へ届けられるんですね」
「ああ。船の利用を止める話だ。積荷を没収するわけじゃない」
ヴァルターが答えた。
「空いている船を見つけられるならね」
*
舟へ戻る途中で、ベルナは二人の船頭に声を掛けた。
返事は、どちらも似ていた。明朝は祭りの荷で埋まっている。午後なら動けるが、別便を出す運賃では油の儲けがほとんど残らない。
俺は港の端に並ぶ陸船を見た。
その中に、蜂蜜色の壁が見える。
水に浮く船を、もう一隻探すことばかり考えていた。
「ベルナさん。明日の荷は、樽でいくつですか」
「六つ。朝のうちに、上の三軒へ入れたいんだよ」
「下の陸船用の荷場までなら、舟で持って来られますか」
「台の隣の岸だろ。持っていけるよ。陸へ上げる人足もいる」
リゼも、コハクの方を向いた。
俺の言いたいことが分かったらしい。だが、すぐに請け負うとは言わず、こちらを待ってくれた。
「船長に相談してみます。あの船で上げられるか、運賃はいくらか。今、約束できるのはそこまでです」
ベルナの眉が少し上がった。
「あんたの船、明日は仕事があるんじゃないのかい」
「まだ引き受けていません。下見の時刻も、船長に確かめます」
明日の大きな仕事を、俺が勝手に捨てていいわけがない。
七百二十枚は、コハクの住民が暮らす金になる。気持ちのいい返事だけして、その人たちへ後から頼むのは順番が逆だ。
リゼが、ベルナへ手を差し出した。
「樽の大きさ、教えて。船長とボルグに見てもらうから」
ベルナは配達帳を開き、薄い紙を一枚切り取った。
鉛筆を借りたリゼが、聞きながら樽の寸法と本数を書き留める。
「返事はどうする?」
「下りの台の入口で待っててください。最終便が出る前に、必ず戻ります」
そう約束して、俺たちはコハクへ急いだ。
*
渡し板を上がると、船長は右手の炊事場の前にいた。
俺たちの顔を見ると、船長が手招いた。
「ボルグから聞いたぞ。検査は、駄目だったか」
「はい。それで、別の頼みがあります」
リゼが、書き留めた紙を船長へ渡した。
六樽を、下の陸船用荷場から上港へ運ぶ。一便で届ければ、ベルナが自分で三軒へ売れる。注文先を会社へ渡さずに済む。
話している間に、通りの奥からボルグも来た。
首の手拭いで指を拭き、オルドから紙を受け取った。
「積めるな。台の昇降が空いてりゃ、重さは問題ねえよ」
「分かった。だが、うちが運ぶなら、荷役と台の代も要るぞ」
オルドが俺を見る。
俺は頷いた。無料でやってほしい、と頼みに来たんじゃない。
「先に金額を出してください。あの人が払えるかどうか、俺が聞いてきます。無理なら、無理だと伝えます」
「会社の下見は?」
「俺が連絡して、時刻をずらせないか頼みます」
船長はボルグの手元の紙を覗き、しばらく考えていた。
リゼが、横から口を開く。
「船長。私、運びたい。ザクさんたちが直した舟、ちゃんと動いてたんだよ。それでも駄目なら、荷物はコハクで上げられると思う」
灰緑の目は、まっすぐだった。
魚を運んだ時と同じ、仕事を待っている顔だった。
オルドは腰の鍵束を握った。
「よし。朝一便だけ、段取りを見よう。今夜のうちに係へ空きを聞く。住んでる皆にも話す。それで引き受けられるなら、値段を出すよ」
「ありがとうございます」
「返事をするまで、荷を運ぶと約束するなよ」
「はい」
俺たちは船を下りた。
途中で会社の窓口にも寄り、下見を朝の一便の後へずらせるか尋ねた。係が担当者へ確認し、それでいいとの返事を持って戻ってきた。
待ち合わせの台へ着くと、ベルナはもう舟をつないでいた。
俺は手すり越しに屈み、まだ決まっていないことも、船長が何を確かめているかも話した。
「じゃあ、あたしもここで待ってる。係が呼ぶまでね」
ベルナは櫓を片づけ、腰掛けた。
俺たちも岸に座った。
夕鐘が鳴り終わり、下りの最後の舟が岸へ集まり始めた。
リゼは帽子を取って膝へ置き、コハクへ続く道を見ていた。
あの道から、オルドが来た。
鍵束を鳴らし、大股でこちらへ歩いてくる。ロクも後ろにいる。
「明朝の陸船台、下りと上りを一便ずつ押さえたぞ。皆にも話した。朝飯は下の荷場で食うよ」
「下見の時刻も、ずらしてもらえました」
俺が伝えると、オルドは頷いた。
船長はベルナの前で止まった。
「六樽で銅貨十八枚。それと往復の台料だ。荷役の手配は、あんたに頼む」
ベルナが帳面へ数字を書き、口の中で計算する。
「それなら、払える。頼むよ」
「あんたも乗ってくれ。上の荷場から先は、自分で客と話してほしいんだ。樽は油が漏れねえやつでな」
「分かってるよ。誰の商売だと思ってるの」
ようやく、ベルナが笑った。
下りの笛が鳴った。
係の手で綱が解かれ、油舟が水の箱へ進んでいく。
俺は岸の手すりまで歩いた。
ベルナが顔を上げたので、手を振った。
「明日の朝、六樽。下で待っててください」
「寝坊すんじゃないよ!」
水門が閉まり、鎖が動き始めた。
赤い頭布が、ゆっくり岸の下へ沈んでいく。
オルドがリゼへ顔を向けた。
「明日は、大船の列が動く前に上がるぞ」
リゼは帽子を被り直した。
「任せて。最初の荷物は、私たちが届けよう」
「その船、まだ荷を積めるかい」
声の方を見ると、分厚い眼鏡を掛けた四十くらいの男が立っていた。会社の窓口に並んでいた船乗りの一人だ。
こちらの話を聞いていたらしく、ベルナと同じ細長い札を手にしている。
「何を運びたいんだい」
オルドが尋ねた。
男は肩の袋を開き、薄い紙を張った丸い灯籠を取り出した。
「こいつを二十。上の祭り船へ。大魚の腹につるす分なんだ」
俺とリゼは、同時に顔を上げた。
今度は、俺たちが運んだ魚の灯りだった。




