第三十六話 まだ捨てるな
「下池をなくしたら、そこに住んでる人はどうなるんですか」
俺は計画図を持って渡し板を下り、オルドに訳を話した。
船長と一緒に荷場へ戻ると、ヴァルターは積み直した角材を確かめているところだった。
「新しい岸へ移ってもらう。家の舟をつなぐ場所も用意するよ」
「店や工房も、そのまま移れるんですか」
「場所と仕事によるな。火を使う作業場を、客の乗り場の隣へ置くわけにはいかん。個別に条件を出している」
俺は図の端を持ち直した。
「下池に水を入れ続けることは、できないんですか」
「あそこへ送る古い水路が漏れている。直しながら使うより、新しい方へまとめた方がいい。海へ抜ける船も通せる」
家を移せば済むのか。それとも、移った先で別の仕事をしろという話なのか。
さっきノトを助けた人だ。住む場所も考えていない、と決めつけたくはなかった。
「いつ閉じるんだい。市も認めた話か」
オルドが尋ねた。
「市の廃止許可はまだだ。閉じる日程も、これから詰める。今夜にも空にする話じゃない。図は完成後の姿だよ」
「なら、明日は工事の中身も聞かせてもらおうか。何に使う荷を運ぶのか、うちの者にも話しておきたいんでね」
「ああ。聞いてくれ」
返事をもらい、俺たちはコハクへ戻った。
船長は今夜の停泊場所を上港の端に確保していた。荷場からそこへ移す操船をリゼが終えた頃、ボルグが工具袋を提げて出てきた。
「下へ行ってくる。木に塗る油を買いたいんだが、船長が船大工を教えてくれてな」
リゼも帽子を手に、操舵室からこちらへ来た。
「下池ですか。俺たちも、一緒に行っていいですか」
何も知らずに廃止へ反対するのも違う。
けれど、条件を出しているという相手が何と答えたのか、聞かずに安心する気にもなれなかった。
*
港の脇の石段を、三人で下った。
中町の食堂や荷場を横に見ながら、さらに一段下へ。壁沿いを降りる水の音が、角を曲がるたびに近づいてくる。
下池は、山裾に開いた大きな半円の池だった。
こちら側に石の岸があり、そこから何本もの桟橋が水面へ伸びている。両側につながれた舟には、小さな家や店が載っていた。
物干しに掛かった赤い敷布。軒先の玉葱。窓から腕を出し、隣の舟へ鍋を返す男。
舟と舟の間を、桶を積んだ小舟がゆっくり通る。
「三番の家、空いた桶を出しとくれ!」
声に応えて、戸口から子供が桶を転がした。
板の上を、ごろん、ごろん。母親らしい人が足で止め、縁まで運んで渡す。
上の港では、大船の帆ばかり見上げていた。
ここでは、開いた窓の向こうに晩飯の支度が見えた。
「あそこじゃないか」
ボルグが指した先に、横長の平たい船があった。
半分は赤茶けた屋根に覆われ、残りは手すりのある広い作業場になっている。岸から板橋一本で渡れる、舟の工房だった。
作業場の水際には、小さな油売りの舟が横付けされていた。丸い蓋の樽が、中央に四つ並んでいる。
板橋を渡った途端、木の匂いが濃くなった。
足元で床がかすかに沈み、つないだ綱がきゅっと鳴る。
「まだ捨てるな、俺が見てない!」
屋根の下から、太い声が飛んできた。
木屑の山の前に、五十代後半くらいの男が立っていた。白い眉が目にかぶさり、短い灰色の髭を一本に編んでいる。革の前掛けから出た腕は、肘の上まで日焼けしていた。
その前では、赤い頭布を巻いた四十歳くらいの女性が、割れた木片を持ち上げている。
「見たって変わらないよ、ザクさん。櫓を押すたび、ここが開くんだもの」
「だから持って来いと言ったんだ」
ザクと呼ばれた男は、木片を取った。
舟の後ろで、長い櫓を支えていた台だという。櫓をこぐ力が一点に掛かり、木の端から深く割れていた。
「新しい台に替える話なら、もう一軒で聞いたよ。でも、取り付ける場所まで削り直すって。祭りに間に合わないじゃないか」
女性は油の樽を振り返った。
「あたしの客、灯りをつける油を待ってるんだよ。今日から三日、店を回る約束なのに」
祭りは明後日の夜だ。
あの大魚だけ立派に上へ届いても、灯りがなければ暗いままなのか。
ザクは木片の割れていない側を、指の節で三度叩いた。
こっ、こっ、こっ。乾いた音がした。
「ここは残る。悪い所だけ落として、木を継ぐ」
「同じ向きに力が掛かれば、また開くぞ」
横からボルグが言った。
ザクの白い眉が上がる。
「誰だ、お前」
「陸船の整備屋だよ。油を買いに来た」
「買い物なら、そこの板に座って待ってろ」
「待つ間くらい、見てもいいだろう」
ボルグは工具袋を下ろした。
もう買い物だけで帰るつもりの顔ではなかった。
*
ザクは俺たちを、工具棚の前から作業台の端へ追いやった。
そこなら手元を邪魔せずに見られる。
台の上に木片を固定し、割れた部分を切り落とす。
鋸が引かれるたび、ざっ、ざっ、と歯の音が揃った。切り口が見えると、ザクは刃を置き、そばに積んだ古材を一本ずつ返し始めた。
「それは?」
リゼが一本を指した。
「硬すぎるな。周りの古い木を割っちまう」
「じゃ、こっちは」
「節がある。力を受ける所には使えん」
三本目を持ち上げた時、ザクが止まった。
「それだ。よく乾いてる」
リゼは両手で台へ運び、こちらを見た。
口元が、ちょっとだけ得意そうだ。
「当てた」
「三回目でね」
「最初の二回は忘れて」
蜂蜜色の三つ編みが肩から落ちてきた。彼女はそれを背へ払い、また手元を覗く。
知らないことを教わる時にも、こんな顔をするんだな。
見ている俺まで、もう一本選ばせてほしくなる。
ボルグは継ぐ木の脇へ、指を立てた。
「外から鉄の帯を巻こう。舟の元の穴は、そのまま使えるな」
「でかい帯を巻けばいいってもんじゃねえぞ。櫓が当たる」
「当たる所までは上げねえよ。余った帯はあるか」
「柱の脇だ。薄いのを取るんじゃねえ」
二人とも、もう相手を帰そうとはしていなかった。
油売りの女性が、樽の蓋を指で叩く。
止めて、また叩く。
「終わるの、夕鐘までに間に合うかね」
「誰かと約束してるんですか」
「上町で二軒。舟の台の最終便に乗れなきゃ、今日は行けないんだよ」
ここにいる間、ずっと客を待たせている。
仕事を頼んだ側として急かしたくなる気持ちは分かる。俺だって、出来上がる時間が分からない時は、何度も時計を見ていた。
だが今、ザクに繰り返し尋ねても、鋸の手が止まるだけだ。
「上のお客さんに、先に知らせる手はありますか。近くに頼める人がいるなら、呼んできますよ」
「いつもの渡しなら……ああ、あの子だよ。青い髪!」
女性が岸の方へ腕を上げた。
桟橋の入口へ、ツユクサが客を下ろしたところだった。
ティアがこちらへ顔を向ける。明るい青色の短髪を耳へ押し込み、舟を工房の外側へ回してきた。
「なに、今度は何を運ぶの?」
「伝言を一件、頼めますか」
俺は女性に宛先を聞いてから、修理中で遅れると伝えたい旨を話した。
ティアは鼻のそばかすを寄せるように笑った。
「お使いなら、本人も一緒に乗ってよ。上へ荷を持ってく人が、今ちょうど待ってるから」
伝言の中継を頼める相手がいるらしい。
女性はティアと料金を決め、俺に礼を言って小舟へ乗った。
頼み方を考えた俺より、話が早かった。
少し可笑しくなった。ここで働いている人には、ここで使える方法がいくつもある。
女性を工房へ送り届けたティアは、次の客へ舟を向けていった。
工房では、その間に鉋の音が始まっていた。
しゅっ、と木肌を薄く削る。刃先から出た木屑が、くるくると巻いて台へ落ちる。
ボルグが万力で鉄の帯を曲げる音は、それより低かった。きぃ、と軋み、叩けば、かん、と工房の屋根へ響く。
俺は台から離れた床の木屑を、足で箒の先へ寄せた。
持ち手を軽く握って掃くくらいなら、掌も痛まない。力が要る物には触らず、二人が歩く所だけ空けていく。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
刃を止め、木を合わせているザクへ声を掛けた。
持って来た計画図をリゼに広げてもらい、ヴァルターから聞いた移転の話を伝える。
「工房も移すつもりなんですか」
「断ったよ。家を泊める場所と、働く場所は別なんだ」
ザクは合わせ目を目の高さへ上げた。
「上じゃ、この船で他人の舟を直す許可は出さねえってさ。会社の修理場に勤めりゃ、仕事はあると言うがな」
「道具は持っていけても、店を続けられないってことですか」
「誰の舟を、いつ直すかまで、向こうが決める。あの油売りの舟みたいな古いやつは、買い替えろで終わりだよ」
さっき聞いた「場所と仕事による」が、ようやく人の顔と結びついた。
ヴァルターは、あの人なりに次の暮らしを用意している。
その暮らしを望んでいるかどうかは、別だった。
「漏れてる水路は、本当に直せないんですか」
「俺は船大工だ。山の水路まで、見もしねえで直せるとは言えねえよ」
ザクは継ぎ木を押し込み、合わせ目を指でなぞった。
「こいつは見た。だから直す。それだけだ」
*
「降ろすぞ。そっち持ってくれ」
ボルグの声で、俺は作業台から退いた。
二人は直した台を油売りの舟へ運び、船尾の元の位置に据えた。
ザクが木の収まりを確かめ、ボルグが鉄の帯を締めていく。
長い櫓が戻ると、女性は待ちかねたように舟へ渡った。
「まだだ。空の樽をどかしてから、工房につないだまま押してみろ」
ザクに止められ、女性が頬を膨らませる。
リゼは工房側で、受け取った空樽を転がして邪魔にならない場所へ寄せた。
女性が櫓に体重を預けた。
舟をつなぐ綱が張る。直した台は、櫓を受け止めたまま動かない。
ザクが合わせ目を覗き、ボルグが鉄の帯に触れた。
「よし。少し回ってこい」
「言われなくても!」
綱が解かれる。
櫓が大きく振られ、水面に白い筋が走った。油売りの舟は工房を離れ、桟橋の先で、くるりと向きを変えた。
女性は笑っていた。
片手を上げたいらしく、いったん離しかけて、慌てて櫓を握り直す。
「こら、両手でやれ!」
ザクが怒鳴ると、さらに大きな笑い声が返った。
ボルグは右の耳たぶを引いていた。
「いい木だったな」
「帯も邪魔にはなってねえよ」
ザクはそう言って、端材を捨てる箱から一本拾い直した。
ボルグまで覗き込む。
この二人、次の修理も始める気じゃないだろうな。
俺は笑いながら工房の縁へ寄った。
近くの水は、驚くほど澄んでいた。下の方に、幅の広い石畳が見える。岸から沈んでいく坂とつながり、舟の下へまっすぐ続いていた。
「道がある」
「池を造った時の作業道だよ」
油の舟が戻るのを待っていたザクが教えてくれた。
「水を抜いて底を直す時には、あそこから荷車を下ろす。泥へ入れたら動かねえからな」
リゼが俺の隣にしゃがんだ。
水に映る帽子へ、屋根の影が重なる。
「祭りの舟も、ここへ来るんだよね」
「そうだって」
「あの魚、ちゃんと光ってる所、見たいな」
「一緒に見よう。夜の仕事が入らなければ、船長に聞いてさ」
「うん。私も、操船を誰がするか聞いとく」
彼女は立ち上がり、膝を払った。
「修理、面白かったね。魚の仕事も、やってよかったけど」
俺の方へ顔を寄せ、声を小さくする。
「祭りの時は、途中で仕事を増やさないでね」
「それ、俺が言おうと思ってた」
「じゃあ、お互いに。絶対だよ」
決めたように言って、リゼは笑った。
夕方の光が、灰緑の目に入っていた。
もう一度ここへ来たい。
さっきまで、知らない人の移転の話を聞きに来たつもりだったのに。
油売りの舟が戻ってきた。
女性は櫓を収め、修理代の銅貨を作業台へ並べる。ザクはそこから幾枚かをボルグへ押した。
「帯を巻いた分だ」
「材料はそっちのだろ。油でくれよ」
「欲のねえやつだな。樽ごとはやらんぞ」
ザクは棚から油の小壺を下ろし、ボルグへ渡した。
女性が声を上げて笑った、その時だった。
「油売りの舟はこちらですか」
板橋の向こうに、紺の制服を着た若い男が立っていた。会社の印を付けた鞄から、細長い札を出す。
女性が片手を上げた。
「何だい。ちょうど直った所だよ」
「明日から、水船台のご利用を一旦停止します。こちらを」
男は板橋を渡ってきて、女性へ札を差し出した。
受け取った手が、そこで止まった。
「どういうこと。直ったって言ってるだろ」
「会社の指定修理場で検査を受けていただきます。登録のない工房の修理では、更新の確認が取れません」
ザクが一歩前へ出た。
「市の船大工の札なら、そこに掛かってるぞ」
「当社の登録とは別です」
男はそう答え、鞄へ手を戻した。
俺はリゼへ顔を向けた。
彼女が女性の手元を覗き、札の小さな字を読んだ。
「……検査の順番は、祭りの翌日以降だって」
修理は、間に合った。
舟も動いた。いま俺たち全員の前で、あんなに軽く曲がった。
それでも明日から、この舟は上へ行けない。
「待ってください」
板橋へ向き直った男を、俺は呼び止めた。
「今日の札は、まだ使えるんですよね」
「はい。切り替わるのは明日からです」
「代表は、まだ上の港に?」
「事務所に戻られたはずですが」
なら、明日の朝まで待っている必要はない。
俺は油売りの女性を見た。
「俺たち、さっき代表に会ったんです。配達の後、一緒に話をしに行きませんか。今日、検査してもらえないか頼みたいんです」
女性は札を二つに折り、懐へ入れた。
「行くよ。あんた、舟の真ん中に座っとくれ」
ボルグには船長への伝言を頼んだ。俺とリゼは、この舟で上へ戻る。会社の検査について、代表へ聞いてから帰ると。
リゼが空樽を舟へ戻し、俺の乗る場所を空けてくれた。
「祭りの日の約束は、守ってよ」
「うん。だから、今日のうちに話してくる」
リゼが俺の隣へ腰掛けると、ザクが工房につないだ綱を外した。
直したばかりの櫓が、水を押す。
油売りの舟は、ヴァルターのいる上の港へ向かって動き出した。




