第三十五話 黒鯨が振り向く
「三日で、銅貨七百二十枚だ」
ヴァルターが言うと、オルドの腰で鳴っていた鍵束が止まった。
俺は船長を呼んで戻り、まだ上の港の荷場にいた。
すぐ後ろには、脚を曲げて停まったコハク。岸の石段を下りた先の桟橋に、黒い大船がつながれている。
「何を、どこまで運ぶんだい」
「ここの倉庫にある石材と金具を、新運河の工事場まで。一日に二往復。積み下ろしには、うちの者を出す」
ヴァルターは山側へ指を向けた。
果樹の並ぶ斜面の下を、太い車輪の荷車が行き来している。
「あの先に工事用の陸船が通る道がある。片道一時間ほどだ。水を入れる前に、岸を仕上げたい場所が残っていてね」
「道と荷を見てから返事するよ。家を載せた船だ。急がせりゃ何でも運べるってわけじゃねえぞ」
「ああ。明日の朝、案内させよう」
話が早い。
こちらが確認する時間を、当たり前のようにくれる。俺は少しほっとして、聞きたかったことを口にした。
「その運河から、サイハへ行けますか」
「水上船に乗り換えれば、海へ出てから行けるよ。だが、運河はまだ通せない。コハクで行くなら、今ある山越えの陸道だな」
近づいた気がしていた海が、また少し遠くなった。
森崎さんが手紙に添えてくれた、海辺の灯台の絵が頭に浮かぶ。会いに行くためにも、ここで次の道を確かめておきたかった。
「カイ。船長」
コハクから下りてきたリゼが、隣で足を止めた。
帽子の下で、蜂蜜色の三つ編みが胸へ落ちる。
「魚の台を縛ってた綱、全部片づけたよ。次の荷が決まった?」
「まだだよ。明日、運ぶ道を見に行く話をしてた」
俺がヴァルターを紹介すると、彼女は帽子を少し持ち上げ、挨拶をした。
「この子が、さっきの船を歩かせたんだな」
「はい。リゼです」
「自分でも海へ行きたいか」
リゼは、一度だけ俺を見た。
「行きたいです。コハクで」
「なら、あれも見ておくといい」
ヴァルターが、岸の下の黒い船へ顎を向けた。
*
黒鯨には、家が並んでいなかった。
綱を巻く大きな円筒が三つ、広い甲板の真ん中に据えてある。船尾の両脇には、羽根を何枚もつけた車輪が半分ほど水へ沈んでいた。
あれで水をかいて進むのだと、リゼが俺へ教えてくれた。
桟橋から船尾の板を渡って乗ると、足裏に細かな震えが来た。
ごう、と低い響きが、途切れずに床を満たしている。
「重い船を引くのが仕事だ。帆の使えない池でもな」
ヴァルターは船員へ片手を上げ、船首寄りの階段を上がった。
俺たち三人も、その後を追う。
階段の上は、屋根だけを載せた操船場所だった。腰の高さの台に二本の柄があり、前の甲板と池を見渡せる。
柄の前にいた髭の船長が、半歩よけた。ヴァルターはその隣に立ち、左右の柄を順に指した。
「片方ずつ回せる。狭い所で向きを変えるには、これがいい」
「同じ速さで回さなくていいんですね」
リゼが、船尾の車輪へ振り向く。
両方を見たくて、俺の前を半歩だけ横切った。
俺は場所を空けた。
今日のリゼは、まだ一度も、もう十分見たという顔をしていない。
黒鯨は、船尾を桟橋へ向けて停まっていた。船首の先は広い水面で、右手の岸が荷揚げ場になっている。
その向こうの家の窓からは、湯気が流れていた。籠を担ぐ男が、白い果物を売り歩いている。
すぐ右の岸に、平たい荷船が一隻、長い横腹をつけていた。
甲板には角材の束。岸側はもう半分ほど空き、水面側には高く積んだままだ。
岸から伸びた吊り上げ用の腕が、さらに岸側の一束を持ち上げていた。
その束の陰から、額の上で前髪を結んだ若者が見えた。
さっきヴァルターへ、黒鯨へ戻るのかと聞いていた係だ。二十歳くらいに見える。
彼は荷船の端を歩き、次の綱を取りに行った。
ヴァルターが、俺たちから目を外した。
見ているのは、吊られた木ではなかった。
荷船の、岸と反対側の縁だ。
「その束を戻せ!」
俺の肩が跳ねた。
「岸側だけ抜くな。向こうへ傾くぞ!」
吊り上げを動かす男が、慌てて柄を押した。
持ち上がっていた束が、下がり始める。
その前に、荷船の反対側が沈んだ。
ご、と木が鳴った。
残った角材の束がずれ、甲板に転がしてあった細い棒が、若者の足元へ走った。
若者の片足が滑る。
「あっ」
俺の口から出た時には、身体が縁の下へ消えていた。
水が跳ねた。
*
「人が落ちた!」
リゼが柵を握った。
若者は、荷船の外側へ落ちていた。
岸とは荷船を挟んで反対だ。黒鯨から見える水面に、一度だけ頭が出る。腕を振り、口を開いたところへ水を飲んだ。
船腹の金具へ片手が掛かった。
だが、縁まで上がろうとする足が、滑る板を掻くばかりだった。
「俺がやる。綱を離せ! 前へ二人、救い棒と梯子!」
ヴァルターが操船台へ入った。
髭の船長は二本の柄から手を離し、船首の船員へ声を飛ばす。
岸では、鋭い笛が鳴った。
「作業場への船は止まれ! 波を入れるな!」
荷揚げ場へ入る水路の口で、白い上着の男が岸から腕を広げていた。
袖だけが青い。背が高く、低い位置で結んだ黒髪が、振り向くたびに肩を叩く。
その声に、こちらへ来かけていた荷船が、入口の外で速度を落とした。
「板、上げた! 綱も離した!」
黒鯨の船員が叫んだ。
ヴァルターが両方の柄を押した。
船が進み、桟橋から離れる。それから片方を手前へ引いた。
後ろで、水を叩く音が二つに割れた。
ざあっ。
だ、だ、だ、と、重い羽根が水をつかむ。
足の下で、大きな船が回った。
右手にあった荷船が、船首の向こうへ来た。
振り返ると、左右の車輪が反対向きに水をかいていた。
こんな小さく曲がれるのか。
動き始める前は、荷船の脇へ入る場所などないと思っていた。黒鯨の船首は、もうその隙間へ向いている。
「いた! あそこ、船の陰!」
リゼが指した。
荷船が少し向きを変え、しがみついている若者が、その陰へ隠れかけていた。
俺たちの高い足場からは見える。けれど、下の甲板にいる船員は、まだ棒の先を迷わせている。
俺は階段を下りた。
船首では、船員が先に輪のついた長い棒を構えている。もう一人は、柵の外へ縄梯子を下ろすところだった。
「もう少し右です! 荷船の端、そこにいます!」
俺が言うと、棒を持つ男が目を向けた。
黒鯨が進む。
大きな船首が、若者の方へ近づいていく。
あのまま当たったら。
喉が固まった。
手すりを握りたくなったが、掌の布を思い出し、肘を当てて踏ん張る。
「止めるぞ。棒を出せ!」
背後の高い所から、ヴァルターの声がした。
後ろで水をかく音が変わった。
船首が進む速さが落ち、若者の手前で、ゆっくり止まる。
棒の先が、水へ届いた。
「輪をつかめ!」
若者は、つかんだ金具を放そうとしなかった。
今の手を離したら、沈む。そんな顔をしていた。輪のついた棒は、彼の手のすぐ右まで来ているのに。
俺は、前へ顔を出した。
「こっちを見て! さっき代表に声を掛けてた人!」
若者の顔が上がった。
「棒が来てる! 手の右! そう、その輪!」
指が、輪へ入った。
一度外れかけて、もう片方の手も重なる。
船員が棒を引き寄せた。
若者の身体が、黒鯨の船首へ近づく。俺は邪魔にならないよう後ろへ下がった。
「梯子へ足を掛けろ。急がなくていいぞ」
梯子が黒い船腹を擦った。
若者が一段を踏み、船員が上から脇へ腕を入れる。
ずぶ濡れの身体が、柵の内側へ転がってきた。
四つん這いになった若者が、激しく咳き込む。
俺は隣に膝をついた。背へ手を伸ばしかけて、何をすればいいか分からず、引っ込める。
「布を、もらえますか」
近くの船員へ頼むと、すぐに大きな布が来た。
俺が肩へ掛けた時、ようやく若者の目が合った。
「……すみません」
「謝るのは、息が戻ってからでいいよ」
彼はもう一度、深く咳をした。
顔を上げると、荷船の傾きも小さくなっていた。
吊った束は元の場所へ戻され、岸の男たちが、残りの角材を動かないように縛っている。
水面には、若者と一緒に落ちた細い棒が浮いていた。
*
黒鯨が岸へ戻るまで、ヴァルターは操船台を離れなかった。
板が掛かり、白い上着の男が乗ってきた。近くで見ると三十代半ばくらいだ。胸元へ笛を押し込み、若者の前へしゃがんだ。
「頭は打ったか。胸は痛む?」
若者が首を横へ振ると、男は岸の者を呼び、付き添って手当て所へ行くように言った。
続いて、荷船を指す。
「あれは積み直すまで動かすな。下ろす順も見直せ」
「分かってるよ、ローヴェ。半日空ける」
階段を下りてきたヴァルターが答えた。
「半日で済むかは、確認してからです。順番を守れ。まず人、その次に荷です」
男は言い切ってから、俺たちを見た。
「市の保安船長、ローヴェです。手伝いに礼を言います」
俺が会釈すると、ヴァルターが、横から小さく付け足した。
「市の人間だ。うちの都合じゃ、動いてくれんよ」
「人が落ちた時くらい、都合をつけてください」
二人の口調には、初めて言い合う相手の遠慮がなかった。
だが、どちらも若者を急かしはしなかった。
「ノト。立てるか」
ヴァルターが、大きな手を差し出した。
若者は布を肩へ押さえ、その手を取って立ち上がる。
「代表……ありがとうございます」
「今日は上がれ。家へも知らせる。家の舟は、下池だったな」
「はい。母と弟が」
「迎えの舟を出させよう。先に診てもらえ」
ノトは何度も頭を下げ、付き添いの男と板を渡った。
渡り終えると、こちらを向いて、俺にも頭を下げる。
俺は手を上げて返した。
名前を聞くより先に、水へ落ちるところを見てしまった。
次に会うなら、普通に挨拶から始めたい。
リゼが俺の隣へ来た。
指先で、袖を少し引く。
「手、大丈夫?」
「使ってないよ。声だけ」
「うん。聞こえた」
彼女は俺の掌を見てから、操船場所を振り返った。
「すごかったね、あの止め方。人のそばで、あんな大きな船を……」
最後まで言わず、自分の両手を動かす。
さっきの柄を思い出しているらしい。片方だけ速く引いて、首を傾げた。
「真似するなら、水の上でな」
オルドが言った。
「分かってるよ。コハクをくるくる回したりしないって」
リゼが腕を下ろす。
俺は少し笑ったが、もう一度あの黒い船首を見た。
仕事の話をしていた人が、目の前で人を救った。
条件のいい相手だと思った時より、今の方が、あの人の話を聞いてみたくなっていた。
*
ヴァルターは髭の船長へ後を頼み、俺たちと板を渡った。
岸では、会社の者が畳んだ図を差し出した。
彼はそれを受け取り、荷箱の上へ広げた。
青い線が山を回り、向こう側へ抜けていた。
線の脇には、小さな船の絵がいくつも並んでいる。
「新しい港の計画図だ。大船の列を、店の渡し舟が横切らずに済むようになる」
太い指が、別の細い線をなぞった。
「小さな便は、ここへまとめる。船の大きさも、出る時刻も、そろえたい」
「同じ場所へ行く客を、一緒に運ぶんですか」
「そうだ。途中で一人の頼みを聞くたびに曲がっていたら、後ろの船まで待つことになるだろう」
俺は、昼の卵籠を思い出した。
ティアが一度岸へ寄り、リゼが受け取った。俺たちは、そのまま食堂へ追いついた。
あの寄り道が、この人には遅れに見えるのか。
「その小さい便をやりたい船頭は、誰でも船を出せるんですか」
「会社と契約して、船を検査してもらう。乗せる客も荷も、決めた場所で受け渡す。荷場から店までの人足も、こちらで用意するよ」
答えは具体的だった。
今日ここで人が落ちたばかりだ。安全に運べると言われて、すぐに否定できるはずもない。
ヴァルターは図を畳み、オルドへ渡した。
「そちらの仕事は明日から三日。昼のうちだけでいい。祭りを見る時間まで取るつもりはないよ」
「明朝、道を見てからだ」
「もちろんだ。今夜の泊まり場は、係に聞いてくれ」
彼は荷船の積み直しを見るため、岸の作業者たちへ向かった。
オルドは図を俺へ預け、泊まり場の話をしに行った。
俺とリゼはコハクの渡し板を上がり、乗降台の柵の内側で紙を開いた。
「明後日の夜は、空けられそうだね」
リゼが言った。
「食堂の船、乗りたい?」
「うん。でも、あの魚も見たい。どこで見るのが一番いいんだろ」
彼女は図を押さえ、池を探した。
山の上に大きな水面。その下に、今いる上の港。さらに下へ、千段港。
その先で、指が止まった。
「カイ。ここ……」
一番下の池だけ、青く塗られていなかった。
白い場所に、俺には読めない字がある。
「何て書いてあるの?」
リゼが顔を近づけた。
「下池、廃止予定」
俺は、黒鯨の方を見た。
さっき助けられたノトの家は、その池に浮いている。




