第三十四話 魚が通ります
魚の口の中は、思ったより涼しかった。
俺の頭のすぐ上に、白い歯が並んでいる。
奥は板の壁ではなく、何本もの細い木を組んだ骨組みだった。その向こうへ風が抜け、外側を覆う赤い布が、ぱた、ぱた、と小さく鳴る。
「カイ、ちょっと、そのまま」
口の外で、リゼが笑いをこらえていた。
「何?」
「顔だけ見えてる」
「食われてるみたい?」
「うん。エダに話そう」
俺は歯の間から顔を引っ込めた。
俺が船へ帰るより先に、そんな話が広まるのは困る。
食堂を出た後、俺たちは岸沿いを水路の奥まで歩き、小さな石橋を渡って、この作業場へ来ていた。
屋根を柱で支えた、壁のない建物だ。魚の頭のほかには、木の切れ端と布、色のついた桶が並ぶ。正面の広い荷場は、コハクの通ってきた岸道につながっていた。
作業をしていた若者は、食堂の女将の息子だった。
二十歳くらいで、癖のある黒髪が額へ落ちている。白い塗料のついた袖でそれを払おうとして、途中で手を止めた。
「母ちゃんに、船の人が来るって言われたけど……本当に運べそう?」
「それを確かめに来たんです」
俺が答えると、彼は魚の裏へ案内してくれた。
頭の後ろは大きく開いていて、組んだ木の内側へ入れる。底には四角い木枠があり、その下に四つの小さな車輪がついていた。
「重そうに見えるけど、中は空っぽなんだ。動かす時は、この下の枠を押してくれればいいよ。布は引っ張らないでね」
彼は魚の頬へ手を添えた。
そこから張り出した赤いひれが、俺の腕より長い。話している間も、指先は布の皺を伸ばしていた。
リゼは口の前まで戻り、横幅を見た。それから、後ろの木枠と、左右の頬を順に指す。
「ここは外れる?」
「外れるよ。上の船で、最後に取りつけるつもりだったから」
「じゃあ、ひれを外した幅を測らせて。コハクの通りを抜けられれば、後ろに置けると思う」
若者は頬の付け根の留め具を抜き、左右のひれを一本ずつ外した。それから、柱の釘に掛けてあった紐を取る。
リゼが端を持ち、彼が反対側へ回った。
俺は少し離れて、魚を見上げた。
目は大きく、黒い瞳が、少し下を向いている。
「こっちを見てるみたいだ」
「上から下りてくる船に載せるからね。子供は下の岸で待ってるでしょ。そっちを見てる顔にしたかったんだ」
若者が言った。
なるほど。
自分の頭よりずっと大きい魚に目を合わせられたら、俺だって手を振りたくなる。
「この辺の店、八軒で金を出したんだよ。母ちゃんの食堂も。だから、なんとか間に合わせたいんだけどさ」
頼んでいた運び船は、今朝、船底の水漏れが見つかったらしい。
修理が明後日までかかると連絡が来た。祭りの荷で大きい船は埋まり、空いている小舟には、ひれを外しても載らない。
外したひれは、柱に立てかけてある。
積めたら、あの二本も忘れずに運ばなければならない。
リゼが紐をたぐった。
「見せに行こう。船長と、ボルグにも」
*
「魚の頭?」
オルドが、片方の眉を上げた。
「丸ごとです。中は空洞で、木と布でできてます」
「そりゃ、丸ごとでも食えねえな」
船長は腰の鍵束を手で押さえ、リゼが持ってきた紐を見た。
その場にいたボルグが片端を取り、通りの両側へ広げる。
家と家の間に、紐の幅が収まった。
左右に少しずつ、人の手が入るくらいの隙間が残る。
「荷場までは通るな。高さと重さ、それに下の枠を見てくるぞ」
ボルグは右の耳たぶを引いてから、道具袋を取った。
俺は、船長にもう一つ頼んだ。
「船長。積む時も、魚を作った人に見ててもらっていいですか。動かす前には、必ず声を掛けるようにして」
「何か心配してたのか?」
「俺たちに運べるか尋ねた時、ずっと布を触ってたんです」
大きな物を作ったことはない。
けれど、苦労して仕上げたものを、初めて会った相手へ渡す時の心細さなら分かる。俺たちには幅の広い荷物でも、向こうは歯を一本ずつ塗っていた。
「途中で触っちゃいけない所も、本人が一番分かるでしょうし」
「いいよ。先にそう言ってやれ」
オルドは、俺の掌へ目を落とした。
「お前は押すなよ。今日も声と目を貸してくれ」
「はい」
ボルグが作業場で底の枠と車輪を確かめ、必要な人数で動かせることも確認した。その間に、船長が食堂の女将と話をつけた。
運賃は銅貨八十枚。船を上げる台の料金は、祭りの側で別に持つ。明日の昼までに上の港へ届け、受取の担当から運賃をもらう。
船長は、引き受けた。
「海へ行く荷は、まだ見つかってねえんだ。上の港へ出られる仕事なら、ちょうどいい」
俺もリゼも顔を上げた。
自分たちが見たい祭りのためだけに、船を止めてほしいと頼むつもりではなかった。海へ近づく仕事にもなるのなら、遠慮せず喜べる。
「さて、お前らの家の前を、でっかい魚が通るぞ」
船長が通りへ向けて声を張った。
*
魚より先に、家の前の椅子と桶が動いた。
エダは窓を開け、俺が近づくと、軒下の小さな丸椅子を指した。
「それ、家へ入れとくれ」
「はい」
「大きいのかい」
「俺の部屋より、広そうでした」
「じゃあ、お前が魚に住めば、一部屋空くね」
エダは真顔だった。
俺が返事を考えていると、銀色の髪の下で目尻が緩んだ。
「冗談だよ。その手で、また引っ越しをしなくていい」
椅子は脚をつまめる軽い物だった。戸の内側へ置き、俺は通りへ戻った。
ロクが向かいの戸の前から水桶を運んでいる。赤い頭巾の端が、歩くたびに背へ跳ねた。
「カイ、歯の間から顔を出したんだって?」
「もう聞いたの?」
「リゼが、さっき」
操舵室へ向かう薄青い背中が、少し速くなった。
荷を迎える準備ができると、コハクは広場を出て、作業場の荷場へ歩いていった。
リゼが脚を曲げ、船首の乗り口を、地面に近い高さへ下げる。
ロクたちが掛けた幅広い渡し板の先に、魚の開いた口があった。
ひれを外しても、大きい。
作り手の若者が、魚の口へ顔を近づけた。歯の乾き具合を指先で確かめ、下の枠を手で叩く。
「ここなら大丈夫。頭のてっぺんは持たないで」
「分かった。お前は後ろからついてきてくれ。止めたい時は言えよ」
ボルグが、魚を載せた木枠の左右へ綱を掛けた。
その先を船側でオルドたちが持ち、地上ではロクと作業場の男二人が押す。坂を戻らないよう、車輪の後ろに差す木片も用意されていた。
俺は先に渡し板を上がり、通りの入口へ立った。
「こっち、空いてます」
最初の車輪が板へ乗った。
ごと、と低い音がして、白い歯がこちらへ近づく。
魚は、口を船の奥へ向けていた。
俺は魚より先に通りを進み、ときどき足を止めて振り返った。
「魚が通ります。窓の外の物、引っ込めておいてください」
大きな黒い目が、俺の部屋の戸口へ近づいてきた。
朝、戸を開けた途端、あれと目が合ったらどうだろう。
「……これ、朝だったら怖いな」
「夜に置いとけばよかったね」
向かいの炊事場から、リゼが顔を出した。
船を低く停め、機関を止めてから、ここへ来ていたのだ。
「それは勘弁してよ」
俺はもう少し先へ進み、振り返った。
魚の頬と家の壁の間は、人が通れないほど狭い。中へ入った時は広かったのに、住んでいる家の間を進んでくると、ずいぶん窮屈そうだった。
エダが、窓の外へ出していた物差しを引っ込めた。
「あら、いい顔じゃないか」
魚の後ろについてきた若者が、顔を上げた。
「……そう思います?」
「思うよ。子供が喜ぶねえ」
彼は口を結び、それからもう一度、エダの窓を見た。
「ありがとうございます!」
今度は、押している男たちの声にも負けない返事だった。
車輪が石ではなく、コハクの床を転がっている。
ごろ、ごろ、と続く音に、戸口から顔が増えていった。誰かが笑い、別の家からは、もう一度顔を見せてくれと声がした。
俺は、後ろの荷置き場へ出た。
家の列が途切れ、洗い場へ抜ける道の右に、空いた床が広がっている。
「ここで止めてください」
ボルグが車輪の前後へ木をかませた。
魚は口を船尾へ向けたまま、ようやく止まった。
左右のひれは別に積み、頭の下の木枠を床の金具へ縛る。洗い場へ行く道は、左側に残してある。
押すのを手伝った男二人が、空いた通りを戻って下船した。
若者は、頭を一回りした。
塗った歯にも、目にも手を当て、最後に口の前で足を止めた。
「載った」
それだけ言って、長く息を吐いた。
俺も息を吐いた。
物が入るだけなら、測った紐で分かっていたはずだ。それでも、何軒もの家の前を無事に抜けてきた魚を見ると、肩が軽くなった。
「上で組むところまで、お願いします」
俺が言うと、彼は頷いた。
今度は、口の中へ戻らなかった。ボルグに言われた通り、荷から離れた通りの端へ腰を下ろす。
*
出る前に、岸へつけたツユクサから、ティアが手を振った。
短い青髪が、水面の照り返しに光っていた。
彼女は布屋の反物を上の仕立て屋へ届け、戻ってきたところだという。
「間に合った! もう動く?」
「動くよ。そこから見てて」
操舵室の窓から、リゼが顔を出した。
「舟、そこの脚の近くは避けてね。少し離れてくれる?」
「分かった!」
ティアはツユクサを押し離した。
ロクが渡し板をしまい、船長が人数を確かめる。いつもの十五人と、魚の作り手が一人。
俺は船尾の柵へ立った。
魚の口も同じ方を向いているので、その横から、離れていく荷場を見られる。
足元で、機関の響きが太くなった。
船体が上がる。
岸にいた人の顔が、一段低く見えるようになった。
ごん、と最初の脚が地面を踏んだ。
「あっ。歩いた!」
小舟から声が飛んできた。
ティアは櫂を止めて、コハクを見上げていた。
彼女は、今度は船首の方へ、大きく手を振った。
コハクの次の一歩が、足元へ伝わってくる。
岸の道で、人々が立ち止まった。
見上げる先には、俺の隣で口を開けた赤い魚がいる。
「魚!」
「下りてくるやつだ!」
子供が、道を並んで走りだした。
俺は船尾から手を上げた。少し離れてくれ、と言うつもりだった。
だが、柵まで来た若者が、俺より先に声を張った。
「そこ、脚が通るよ! 岸の階段から見て!」
子供たちは走るのをやめ、後ろの石段へ駆け上がった。
そこから、今度は両手を振ってくる。
魚の大きな目が、その方を向いていた。
「明後日、上から来るからね!」
若者が両手を口へ添えた。
さっきまで、塗りむらを気にしていた声とは思えなかった。
下の岸で待つ子供に見てほしい。そのための顔を、自分の目で確かめているのだ。
俺は、彼へ場所を譲った。
知らない町の仕事を一つ引き受けたつもりだったのに、もう、祭りの夜にこの顔を見落としたくなくなっていた。
*
上の港へ着いた頃も、日はまだ高かった。
途中の船台では、魚の頭を載せたコハクが、家ごともう一段持ち上がった。
頭が揺れないか見ていた若者も、上に水面が現れた時には、しばらく声を失っていた。
千段港より、船の間が広い。
白い帆の大型船が何隻も並び、岸の荷場では、樽を積んだ台車が途切れず動いていた。山側には、同じ高さへそろえた果樹の列が続く。
祭りの先頭船は、その荷場の端に留めてあった。
長い船体に、魚の胴と尾の骨組みが載っている。頭を取りつける先端だけが、ぽっかり空いていた。
俺たちは岸へコハクを低く停め、来た時と逆に、頭を通りから乗り口へ戻した。
板を下ろして木枠を荷場へ送り、待っていた男たちへ渡す。
船長が受取を確かめた。運賃の銅貨八十枚に加え、立て替えた船台の料金も、その場で戻ってきた。
魚の作り手は、荷と一緒に岸へ残った。
今は相手の船の男を呼び集め、どちらのひれを先につけるか話している。
俺も渡し板を下り、船長の用事が終わるのを待った。
「ずいぶんと、目立つ荷を運んできたな」
すぐ後ろで、低い声がした。
振り向くと、深緑の長い上着を着た男が立っていた。
四十代半ばくらい。黒い髪を後ろへ撫でつけ、こめかみだけが白くなっている。俺の顔を見た後、その目がコハクへ戻った。
「驚かせましたか」
「楽しませてもらったよ。うちも、あんな荷ばかりならな」
男は口元だけで笑った。
後ろの水面に、黒い船がいた。
幅のある船体の上に、太い綱を巻き取る大きな円筒が並んでいる。白い帆の列の中で、その船だけが、重そうな黒い壁に見えた。
男に気づいた荷役係が、近くから駆け寄ってきた。
「代表、黒鯨の方へ?」
「少し遅れるよ。向こうの船長に、そう伝えておいてくれ」
荷役係が頷いて戻る。
俺は、目の前の男を見直した。
「港の船を動かす会社をやっている。ヴァルターだ」
差し出された手は、厚い指に節が張っていた。
俺が掌の布を見せると、彼は手を引き、代わりに小さく頷く。
「うちの船長に、ご用ですか」
「ああ。海へ抜ける、新しい運河を造っている」
ヴァルターはコハクの脚へ目をやった。
「水がまだ通っていない岸にも、資材を入れたい。この船を使う仕事だ。船長と話せるか」
海。
俺は、船長を呼ぶ前に、もう一度だけ男の後ろの黒い船を見た。
この山から海へ、道を造っているという。
運河の行き先には、サイハも含まれるのだろうか。
明後日の祭りを見たい気持ちと、その先へ行きたい気持ちが、一緒に動いた。
「呼んできます。俺にも、その行き先を聞かせてください」




