第三十三話 昼飯をつかまえろ
納品が終わるまでに、昼飯は三度、居場所を変えた。
最初は港の正面。次は対岸の赤い屋根の前。
三度目には、大きな鍋の看板が、ほかの船の帆に隠れてしまった。
「……見失った」
「カイ、帳面を渡してくれ」
船長に呼ばれ、俺は抱えていた帳面を差し出した。
「はい。すみません」
「飯屋は逃げても、町の外までは出ねえよ」
オルドは笑って帳面を受け取った。
コハクは、千段港の岸道へ出ていた。
少し前にリゼが機関を動かし、上段の係に誘導されて、船台と岸をつなぐ鉄板を渡ったのだ。
池に沿って陸船の通れる石の道があり、その山側に、煙突の並ぶ鋳場がある。通りかかった子供が六本の脚を指し、隣の子も立ち止まって見上げていた。
俺たちは鋳場の前で、ローネから運んだ古い弁を引き渡している。
ロクと鋳場の男たちが三つの木箱を荷車へ載せた。車輪が石の継ぎ目を越えるたび、箱の中で、がたん、と鉄が鳴った。
作業場の奥からは、槌が金属を打つ高い音が返ってくる。
俺が持ったのは、船長の帳面だけだった。
掌の布が取れないうちは、まだ荷役には戻れない。空の荷台を見ると手持ち無沙汰にもなるが、今日は仕事の後に楽しみがあった。痛い手で無理をして、それを潰したくない。
三十代ほどの、短い黒髭の男が箱を確かめ、船長へ運賃を渡した。
船長は枚数を数えて腰の大きな袋へ収めると、別の小袋から銅貨を取り出し、俺へ渡した。
「お前のはこっちだ。道中の四日分、二十四枚な」
「ありがとうございます」
「昼飯、ちゃんと食ってこいよ。店を眺めてるだけじゃ腹は膨れんぞ」
ローネを出た時に九十七枚だった財布へ、銅貨を足した。
道中は船で食べて寝て、金を使う場所もなかった。合計、百二十一枚。
知らない町で飯を選べる。
財布が少し重くなっただけで、その自由まで大きくなった気がした。
*
コハクを鋳場の先の広場へ移し、脚を曲げて停泊させると、リゼも仕事を終えた。
俺たちは渡し板を下り、水辺へ続く石段へ向かった。
「あった!」
先に見つけたのはリゼだった。
鍋の看板が、池に突き出した木の桟橋の向こうへ動いている。丸窓から、椀を持った客の腕が見えた。
俺たちは岸の道を早足で進んだ。
ところが、店が並ぶ一角へ来たところで、足を止めることになった。
道の先が水だった。
池から細い水路が陸へ入り込み、何隻もの店の船が、その両側へ綱で留めてある。向こう岸へ回るには、山側の橋までかなり戻らなくてはならない。
食堂船は、その水路の口を横切ろうとしていた。
「そこの、お鍋の船!」
リゼが手を振る。
丸窓の客がこちらを見て、自分の椀を持ち上げた。俺たちも食べていけ、と誘っているようだった。
行きたい。行けるなら、そうしている。
「乗るなら、こっち!」
すぐ下から声がした。
石段のいちばん下に、細長い小舟がついていた。
真ん中に二列の腰掛けがあり、後ろに立った女の人が、岸の杭へ結んだ綱をほどきかけている。船首には青い花が描かれていた。
二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。
明るい青色の短い髪が頬に張りつき、日に焼けた鼻の上へ、そばかすが散っている。濃紺の短い上着の袖口から、綱を引くたびに筋の浮く腕が伸びていた。
「渡し舟だよ。あの食堂まで行く?」
「お願いします。二人です。おいくらですか」
「一人一枚。急がなくていいから、まず、乗って」
彼女はほどきかけた綱を結び直した。
舟を岸へ引き寄せ、足で踏ん張って押さえてくれる。
水面が近かった。
コハクから降りたばかりだと、腰掛けより下にはほとんど何もないように見える。一歩乗せただけで舟が傾き、俺は反射的に後ろ足へ体重を戻した。
「真ん中を踏んで。腰を下ろせば、揺れても平気だよ」
リゼが先に腰掛けへ座った。
俺も後へ続き、濡れていない板を選んで腰を下ろす。舟の縁のすぐ外で、水がちゃぷ、と鳴った。
「コハクより揺れるね」
「カイが片側へ寄るからだよ。もうちょっと、こっち」
隣のリゼが腰をずらし、空けた場所を手で叩いた。
近づくと、帽子のつばが肩へ触れた。
彼女まで怖がっていたら困ると思ったのに、見慣れない舟に乗っている時も、俺の方が世話を焼かれている。
俺が二枚を出して、リゼの分も払うと言うと、リゼは俺の袖を引いた。
「じゃあ、お昼のお茶は私ね」
「うん。それでお願いします」
船頭の女の人は、俺から受け取った一枚を指の間でくるりと回した。それから二枚とも腰の袋へ落とし、綱を外す。
「あたしはティア。この舟はツユクサ。帰りも乗りたくなったら、青い花を探して」
「俺はカイです。こっちはリゼ」
「よろしく。……二人とも、あの大きい脚の船から来たの?」
ティアが広場の方へ顎を向けた。
「うん。私が動かしてるよ」
「えっ、あんたが? 後で、動かしてるとこを見に行っていい?」
「いいよ。近くに来たら、声を掛けて」
リゼは少しだけ胸を張った。
ティアが笑って櫂を動かすと、舟の後ろで、水を押す音がした。
石段が離れた。
足をつく場所がなくなったと思うと、もう腰を浮かせる気にはなれなかった。
*
ツユクサは水路を横切り、向こう岸に並ぶ店の舟の裏へ回った。
店の列と石の岸の間に、小舟だけが通れる細い隙間があるのだ。
ティアは船尾に立ち、長い櫂を左右へ動かしている。
ぎい、ちゃっ。ぎい、ちゃっ。
舟の縁に取りつけた支えが鳴り、その後を、水を押す音が追いかける。
食堂船は、もっと沖にいる。
俺は屋根の鍋を目で追った。
「こっちから追いつけるんですか」
「向こうは店の列を大回りして、次の桟橋に寄るからね。こっちは岸沿いを通れば、先に出られるよ」
右には、布の反物を並べた舟。
左には、岸の家の裏口。戸を開けた六十くらいの白髪の女の人が、籠を胸に抱えてこちらを見ていた。
「ティア! 卵、届いたよ。向こうの食堂へ持ってってくれるかい」
「今そっちへ行くとこ。いいよ!」
ティアの返事は早かった。
その後で俺たちを見て、口をすぼめる。
「あ。ちょっとだけ、寄ってもいい?」
「同じ食堂なら、ぜひ。昼飯の材料が届かない方が困ります」
「そうなんだけどさ。先に聞けばよかったね」
彼女は櫂を止め、舟の脇を戸口の石段へ寄せた。
岸に手を掛けて止まると、女の人が蓋つきの籠を渡す。俺が受け取ろうとする前に、リゼが両手で受け、足元へ置いた。
「運び賃は、あっちで二枚もらっとくれ。話してあるから」
「助かる。あたし、また値段を聞かずに返事してたね」
ティアは、ようやく満足そうに笑った。
女の人が戸へ戻ると、ティアが舟を押し離した。
今度は布の店から、四十代くらいの痩せた男に呼び止められる。
「上の仕立て屋へ、これを一本!」
「食堂に寄った後ならね」
「すぐ戻るだけだろ」
「ご飯も食べるよ!」
声が思ったより大きくて、ティア自身が口を押さえた。
男は笑い、反物を置いた。
「分かったよ。食ったら声を掛けてくれ」
舟が進みだしてから、ティアが小さく息を吐いた。
「朝から、あと一軒だけって思ってたらさ。何も食べてなくて」
「それは、もう休みましょう」
「休む。絶対に。あんたたちをあの店へ下ろしたら」
分かる気がした。
会社でも、出る前に一件だけ返事をしようとして、昼休みが半分になったことがある。
隣で弁当を開ける音まで、腹に響くのだ。
ただ、あの人たちは、ティアが通るのを当たり前のように待っていた。
この舟が来なければ、卵を抱えて橋を回り、食堂船の居場所をまた探すことになる。
目の前の小舟は、俺たちの足になるだけではないらしい。
買い物も、店の仕入れも、こうやって人の家の戸口まで運ぶ。さっきの二枚は、悪くない使い道だった。
店の列の端へ近づくと、水を打つ音が急に太くなった。
すぐ先を、魚を並べた別の店の舟が横切っている。
銀色の尾が、こちらの目の高さに揺れていた。
ティアは櫂を返した。ツユクサがぴたりと遅くなる。
リゼが身を乗り出した。
「さっきまで漕いでたのに、もう止まれるんだ」
「一番速く漕ぐより、こっちの方が大事。止まれないと、魚まで買うことになるからね」
魚の舟が過ぎると、ティアはその後ろへ出た。
広い水面を風が渡ってくる。
すぐ右の石壁から水が注ぎ込み、白い泡が帯になって沖へ伸びていた。
ツユクサの船首が、その帯へ向いた。
「少し速くなるよ。座っててね」
櫂が水に深く入った。
舟が横へ振られるかと思ったが、先に鼻先が沖へ向き、後ろから泡に押された。
腰掛けを通じて、身体がすっと運ばれる。
岸に並ぶ窓が、さっきより早く後ろへ流れた。
「あっ」
リゼが声を上げた。
蜂蜜色の三つ編みが、薄青い肩の上で跳ねている。
鍋の看板が、目の前へ現れた。
食堂船は、次の桟橋へ向けてゆっくり曲がっている。こっちは、ちょうどその内側へ出てきたのだ。
「追いついた!」
「まだ立たないで。もう少し、座っててね」
ティアは俺へ笑い、食堂船の横についた。
舟の外側へ結んだ古い綱の束が、丸窓の下へ押しつけられた。木と木のぶつかる音はせず、きゅっ、と濡れた綱が鳴る。
「おばちゃん、二人と卵!」
「卵からおくれ!」
横の戸が開き、白い前掛けの女の人が顔を出した。五十くらいの、腕の太い人だ。
戸の下には、水面近くまで下がる二段の踏み板があった。
女の人は先に綱を下ろし、ティアが小舟を食堂船へ結びつけるのを見てから、卵へ手を伸ばす。
「こっちは腹を空かせて来たんですよ」
「だから、卵を先に焼くんだよ」
言い返せなかった。
リゼが籠を渡すと、女の人は戸の内側へ置き、今度は俺へ腕を差し出してくれた。
その腕へ指を掛けて踏み板を上がる。リゼも俺の後から入ってきた。
*
食堂船の戸の向こうには、細い通路と、窓に沿った小さな卓が並んでいた。
奥のかまどで鍋が煮え、熱い鉄板へ油を引く音がする。
俺たちが入ったのを見た客が、椀を持って少し腰を寄せてくれた。
ティアは食堂船が桟橋へ着くのを待ち、ツユクサをその後ろへつないでから入ってきた。
渡してきた卵の運び賃を受け取り、俺たちの隣の卓へ座る。
「おばちゃん、いつもの。大盛り」
「朝飯は?」
「だから、大盛り!」
俺とリゼは、魚と卵の焼き飯を頼んだ。一皿三枚。
俺は銅貨三枚を出した。リゼは自分の皿代と、二人分のお茶代一枚をまとめて払った。
深い皿へ、皮つきで大きくほぐした白身魚と、黄色い卵の混じった飯が盛られる。
刻んだ青い葉の上から、女将が小さな黄色い実を搾った。熱い飯の匂いに、鼻の奥がすっとする香りが混じる。
ひと口すくった。
焼けた魚の皮がぱりっとして、その下の身は柔らかい。
酸味の後から塩気と油がきて、空っぽだった腹が、ようやく飯に気づいた。
「うまい」
「卵、間に合ってよかったね」
リゼが、向かいの席で笑った。
俺は二口目を口へ入れる。あまり大きく頬張れないのが惜しかった。
窓の外では、さっき俺たちが乗っていた高さに、別の客の頭が通っていく。
舟の船首が桟橋へ当たる音。注文を呼ぶ声。かまどの鉄板へ、次の卵を落とす音。
外から眺めていた丸窓の内側に、今は俺たちが座っている。
リゼが茶をひと口飲み、両手で杯を包んだ。
「ちゃんと、来られたね」
「次に店を決める時は、動かない所も候補に入れよう」
「ええ。舟、楽しかったのに」
「楽しかったよ。飯に逃げられるのは、初めてだったけど」
リゼは笑いながら、自分の皿を少し回した。
よく焼けた魚の皮を最後に残してある。俺がそれを見ているのに気づくと、匙で端へ寄せた。
「これ、あげないよ」
「取らないって」
「見てたでしょ」
さっきの舟では、頼もしく隣を空けてくれた人が、今は魚の皮を守っている。
俺は茶を飲んで、笑いを隠した。
ティアの皿は、もう半分になっていた。
こちらへ顔を向け、飲み込んでから口を開く。
「ねえ、いつまで町にいる?」
「船長が次の荷を探してるんだ。まだ決まってないよ」
「じゃあ、舟祭りを見ていきなよ。明後日の夜、灯りをつけた船が、上から順に下りてくるの。ここも出るよ」
ティアが卓を指で叩いた。
「この食堂も?」
「食べながら乗れるよ。昼間とは全然違うから」
リゼと目が合った。
あの昇降台から、夜の町を見下ろす。
それも、今度は灯りをつけた店と一緒に。
帰りに船長へ、日程だけでも聞いてみたくなった。
「次の荷を探してるんだって?」
かまどの前から、女将が声を掛けてきた。
「鋳場の先に停まった、家が並んでる船かい」
「はい。俺たちは、その船員です」
「ちょっと、見てくれないかね。祭りの荷物で、困ってるんだよ」
女将は、俺たちの卓とは反対側の窓を押し開けた。
向かいの岸に、屋根だけを掛けた広い作業場があった。
その中で、大きな魚が口を開けている。
人が、口の中に立っていた。
俺は匙を置いた。
魚は木の枠へ赤い布を張った飾りだった。だが、頭だけで小屋ほどもある。開いた口の奥で、俺より若そうな男が、大きな歯を一本ずつ白く塗っているのだ。まくった袖にも、白い塗料がこびりついていた。
あれが、船に載るのか。
「祭りの先頭を行く船につけるんだけどね。作ったのはここ、船が待ってるのは上の港なのさ」
女将が魚と、その向こうの高い石壁を順に指した。
「今日になって、運び手から断られちまって。空いてる船はどれも小さいし、明日の昼には上へ届けないと、組み立てが間に合わないんだよ」
リゼが椅子を引き、窓のそばへ立った。
視線が魚の頭から、岸の道へ移る。さっきまで飯を食べていた時と、目つきが違っていた。
「後ろも、見ていい?」
「もちろん。船長さんにも頼めるか、聞いてきてくれるかい」
リゼが振り返った。
俺は、彼女が口を開く前に頷いた。
「食べ終えたら、大きさを確かめよう。船長には、その後で相談しようよ」
リゼは席へ戻り、残していた魚の皮を口へ入れた。飲み込むと、帽子を被り直す。
「カイの家より、大きいかも」
「屋根には載せないでくれよ」
彼女が笑った。
窓の向こうでは、魚の口から、刷毛を持った腕が俺たちを呼んでいた。




