第三十二話 山を登る船
山の斜面を、白い帆が登っていた。
俺は操舵室の窓へ顔を近づけた。
コハクが進んでいるのは、山裾を回る広い土の道だ。左手には低くなっていく森。右手には、段々に石を積んだ山の町が見える。
その石壁の前を、一隻の船が真上へ動いていた。
「リゼ。あれ、帆を張ったまま上がってるよ」
「見えてる。……ちょっと、窓の真ん中を空けて」
「あ、ごめん」
俺が横へずれると、彼女は前の道を確かめ、それからもう一度だけ山を見た。
操縦桿を握った指が、落ち着かない様子で一本ずつ伸びる。
「あれに乗るんだよね」
「船長が言ってた台?」
「うん。絵より、ずっと大きい」
ローネを出て、四日が過ぎた。
白い幹の森は昨日の昼に途切れ、今朝は窓から入る風に、湿った土と草の匂いが混じっている。道の脇には、丸い黄色の実をつけた木が何列も植わっていた。
砂の上を歩いていた頃は、これほど緑のある場所へ、この家のまま来られるとは思っていなかった。
道中、俺に任されたのは食器を並べたり、エダの売り物を組にしたりする軽い仕事だった。掌には、まだ布を巻いている。
顎は大きく口を開けなければ痛まなくなったが、夕食の芋が大きいと、ロクがこちらを見て笑う。小さく切ってくれと頼んだら、翌日は俺の分だけ子供の一口ほどになっていた。
ありがたい。ありがたいが、そこまで小さくなくても食える。
今日は、荷を持たずに入港を迎える。
だからせめて、行き先くらいはよく見ておきたかった。
コハクが道の曲がり角を抜けた。
俺は、口を開けたままになった。
山の斜面に、白い帆が何段も並んでいた。
いちばん下には広い池があり、その向こうに高い石壁が立っている。壁の上にも家と船の帆が見え、さらに上でも同じ景色が繰り返されていた。
赤茶色の屋根の間を細い階段がつなぎ、石の樋からは水が滝のように落ちている。
船長の絵で見た、水をためた巨大な階段。その実物が目の前にあった。
これがラウカだった。
さっき見えた船は、幅の広い二本の柱の間を上がっている。
船腹を囲んでいるのは、縁の高い大きな箱だった。縁からこぼれた水が、光りながら落ちてくる。
船は箱の中の水に浮いたまま、水ごと持ち上げられているのだ。
柱の横では、家の屋根より大きな水車が回っていた。
羽根が水を受けるたび、ざあっ、と白い飛沫が散る。その奥から、ごろごろと低い響きが続いてくる。
「すげえ……」
それしか出てこなかった。
元の世界で遊んでいたゲームにも、山の途中に町があった。
見晴らしのいい所へ着くと、先に来ていた仲間を待たせて、しばらく景色を眺めたものだ。
今は、その画面の中にいたかった時の俺へ、見せてやりたい。
水の冷たさを含んだ風が、窓から頬に当たった。
「カイ、座って。少し下るよ」
「うん」
腰掛けへ戻ると、リゼがゆっくり踏み板を押した。
彼女は仕事中だ。俺だけ好きなだけ見ているのが、少し申し訳なくなった。
*
道は、いちばん下の池に沿う石畳へつながっていた。
水辺には荷物を積んだ船が並び、岸の男が長い棒で隣の船を押し離している。濡れた板を歩く音と、籠を置く音が、開いた窓へ入ってきた。
「魚! 朝の魚、まだあるよ!」
声がしたのは、岸の店からではなかった。
屋根を掛けた平たい船の上で、前掛けの女が手を振っている。四十代くらいの丸顔で、客に向けて声を張っていた。棚には銀色の腹を見せた魚が並んでいた。船尾の男が櫂を動かすと、店ごと岸を離れていく。
俺は窓からその船を目で追った。
離れていく店と岸の間に、細い水の道が開いた。
「売りに来るんだ」
「岸の場所を替えるんだろうな」
後ろで船長が言った。
大きな身体を戸口へ寄せ、リゼへ進む先を示す。
「そこの白い柱の手前で止めよう。台の係が来る」
水上の船が乗る箱の隣に、もう一組、太い柱が立っていた。
こちらには水のない、平らな床がある。コハクが丸ごと乗っても、左右にまだ人の歩く場所が残りそうな広さだった。
乾いた床と石畳の間には、厚い鉄板が渡してある。
コハクが止まると、青い上着の男が近づいてきた。五十くらいだろうか。短い口髭に水の粒がつき、腰から大きな笛を下げている。
男は足元を見てから、操舵室へ顔を上げた。
「コハク号か。上は鋳場でいいんだね?」
「ああ。古い弁を三箱だ」
船長が、開いた窓から答えた。
「鋳場なら、一段上の千段港だね。こっちの台で上がってもらうよ。水の船は隣、脚のある船はこっちだ」
男は乾いた床を指した。
「乗ったら、いつもの停泊と同じように脚を曲げて。止めた後は、台の上で歩かせないでくれ。上げるのはこっちでやるから」
「分かったよ」
リゼが頷いた。
係の男は台へ戻り、鉄板の先で片手を上げた。
「入っていいよ。ゆっくりな!」
リゼが両袖を同じ高さへまくり直した。
「乗せるよ」
鉄板を踏む、重い一歩。
かん、と硬い響きが床を通ってきた。二歩目には、操舵室の窓の外で太い柱が後ろへ流れた。
俺は座ったまま、係の男の手を見る。男は左右を確かめながら後ずさりし、最後に両手を上げた。
コハクが止まった。
リゼが操縦桿を引くと、床が静かに下がった。ずっと下に見えていた係の顔が、窓の少し下まで近づいてくる。
脚の先で台を押していた響きが収まった。
「いいよ。そのまま止めて」
リゼが機関へ合図を送り、やがて足元の震えが止まった。
静かになった途端、港の音が近くなった。
水車からあふれる水。隣の船の綱がきしむ音。どこかで鍋の蓋を叩きながら、朝飯が終わると知らせている声。
船長はロクに渡し板を掛けてもらい、船台へ下りて係と一回りした。
俺も立ちかけたが、ちょうど窓の外で太い綱を引いているロクを見て、腰を戻した。あれを手伝って、また傷を開いたら本当に邪魔になる。
その代わり、開いた戸から通りへ出た。
右側の二軒目で、エダが自分の家の窓を開けていた。
「エダさん、何かしまう物ありますか」
「その白い布だけ取っとくれ。柱へ引っ掛けたくないからね」
軒先まで歩いていくと、仕立てた袋を包む布が干してあった。
留め具を外し、端が通りへ落ちないよう抱える。重くはない。俺が持っていくと、エダは節の太い指で受け取り、手早く畳んだ。
「初めてかい、上がるのは」
「こんなのは、初めてです」
「じゃあ、ちゃんと見ておいで。あとで話を聞かせな」
「エダさんは?」
「ここから見えるよ。自分の家の前が、一番いい席さ」
銀髪をまとめた頭の横で、窓が開いていた。
なるほど、椅子もお茶も持ってこなくていい。いつもの窓の外を、町の方が動いていくのだ。
俺は操舵室へ戻った。
リゼは止まった桿に手を置いたまま、前の柱を見上げていた。
「まだ、操作することある?」
「着いたら台から降ろす。それまでは、待ってていいんだって」
「外で見ない? ここより上が見えそうだよ」
リゼが戸口へ目を向けた。行きたいのはすぐ分かったが、桿から手は離さなかった。
そこへ船長が戻ってきた。
「船長。上に着くまで、リゼも前で見てて大丈夫ですか」
「ああ。こいつを動かさなきゃいい。降りる前に俺が呼ぶから、二人で見てこい」
リゼはようやく手を膝へ下ろした。
その指を一度握ってから、勢いよく立つ。
「帽子、取ってくる」
「急がなくても大丈夫だよ」
「もう上がるかもしれないでしょ」
席の脇から帽子を取り、三つ編みを背へ払う。
彼女は俺より先に戸口を抜けた。
*
操舵室の隣の乗降台へ出ると、空が広く見えた。
俺たちは船首の柵の内側に並んだ。ロクも綱の確認を終えてコハクへ戻り、渡し板を上げていた。
係は船台から石畳へ下り、地面側から入口の鉄の柵を閉めた。もう、来た道へは出られない。
笛が一度、長く鳴った。
水車の方で、がこん、と大きな音がした。
続いて、低く唸る音が太くなる。
足元が動いた。
いつもの、脚で踏み出す揺れではない。身体全体を下から押されるように、コハクがまっすぐ持ち上がっていく。
すぐ前の係の男が、俺たちより下になった。石畳に置かれた荷車の、積荷の上まで見える。
「上がった」
「うん」
リゼの声が近かった。
彼女も俺も、柵に指を掛けて下を見ていた。
ごとん、ごとん、と同じ間を置いて音が続く。
横の柱に沿って、何本もの太い鎖が動いている。石の重りが、囲いの中を俺たちと反対に下りてきた。
「水車で、これ全部を上げてるのかな」
「重りにも助けてもらってるんだろうね。……ボルグなら分かるかな」
リゼは、下りていく石の塊を目で追い、帽子のつばを押し上げた。水車の見える方へ半歩寄る。
俺は、足の裏から伝わる震えを感じていた。
同じ機械の音でも、コハクが歩く時とは違う。急に途切れたら嫌だな、と考えたところで、下の人がずいぶん小さくなっているのに気づいた。
思わず一歩引いた。
「高い?」
「高いね。今、よく分かった」
「さっきはあんなに覗いてたのに」
リゼが笑った。
彼女は柵から離れない。継ぎ当ての帽子の下で、灰緑の目が俺を見ていた。
「リゼは平気?」
「ちょっと変な感じ。私、動かしてないんだよ」
「うん」
「家が動いてるのに、見てるだけでいいの。落ち着かない」
彼女が背後へ目を向けた。
いつもの通りも、屋根も、洗濯物をしまった軒も、そのままそこにあった。
俺は指先を柵へ掛け直した。
「せっかくだから、今日は乗ってるだけを楽しもうよ」
「カイも、ちゃんと楽しんでね。指が白くなってる」
見られていた。
俺は柵を握る力を少し緩めた。
台はまだ上がっていく。
さっき見上げた石壁の上端が近づき、その向こうから家の窓が現れた。窓辺の女の子がこちらへ手を振ったので、俺も片手を上げる。
隣の家では、男が歯を磨きながら俺たちを見ていた。
向こうにとっては、朝の便なのだ。
「次、どこ見る?」
リゼが言った。
「着いたら、まず荷を届けるよね」
「その後。船長、荷を探す間は町を見てていいって」
「じゃあ、さっきの魚の店。あれ、歩いて追いかけられるのかな」
「追いつかなかったら、舟に乗ろうよ」
彼女の返事は早かった。
日本へ帰るための手紙は出した。今は、森崎さんが返してくれる言葉を待つしかない。
待っている間に、こんな相談をしていてもいいのだと思った。
帰りたい気持ちが薄れたのではない。ここで一緒に見たいものが、また増えてしまった。
石壁の上へ、俺たちの目線が出た。
水が、光った。
広い池の両岸に家が並んでいた。
その家の幾つかが、ゆっくり動いている。
いや、船だ。
屋根と窓がついていて、軒には籠や鍋が下がっている。岸に板を渡して客を迎えている店もあれば、板を上げて沖へ出ていく店もあった。
小さな舟がその間を抜け、客らしい人を一人ずつ降ろしている。
最初に見た魚屋だけではなかった。
この町では、店を探して歩く時、さっきと同じ場所にあるとは限らない。
近くで、別の笛が鳴った。
台の動きが遅くなり、やがて、大きな一度の響きを残して止まった。
山の途中の岸と、俺たちを載せた床が並んでいた。
「リゼ、台から降ろすぞ!」
船長の声に、リゼが顔を上げた。
「はーい!」
戸口へ向かいかけた彼女が、俺の袖を一度つまんだ。池の向こうを指す。
丸い窓のある船が、湯気を上げながら水面を横切っていた。
屋根の上に、大きな鍋の形をした看板が載っている。並んだ窓の中で、人が椀を持っていた。
「あれ、食堂だよね」
「たぶん。もう客が入ってる」
「お昼、あそこにしようよ」
船が向きを変え、鍋の看板もゆっくり回った。
窓の中の客は、慣れた様子で椀を口へ運んでいる。
「……俺たちが仕事を終えるまで、いるかな」
「探そう。私も探すから」
リゼはそう言って、操舵室へ戻った。
俺は、目印の大きな鍋をもう一度見た。
昼飯を食べるには、まず、あの食堂船を見つけなくてはならない。




