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第三十一話 次の港は、山の上

「俺、鎧鷹を辞めてきました」


 ニルスは、俺たちを見つけるとそう言った。


 コハクは港の敷石の上に、脚を曲げて低く泊まっていた。船首から地面へ掛けた渡し板の脇に、荷待ち用の長椅子がある。

 ニルスはそこへ腰掛け、杖を膝に横たえていた。布を巻いた右足だけ、少し前へ出している。


 俺は板へ掛けかけた足を戻した。

 リゼも隣で立ち止まった。


「今日、話したんですか」

「はい。船長に……ダリオさんに、給金も払ってもらいました」


 呼び方を直した後、ニルスは首の巻布を襟へ押し込んだ。

 上着から小さな銭袋を出し、膝の上で口紐を握った。


 俺は長椅子の空いた端へ座った。

 俺が怒りをぶつけた相手の下で、彼はずっと働いてきた。辞めてよかった、とすぐには言えなかった。俺はこの船で眠れるが、彼は次の仕事を決めなければならない。


「この後は、どうするつもり?」

「足が治るまで、ここにいます。宿の分も払ってもらえたので。その後は、港の飼料倉庫で働けないか聞いてみようかと」

「餌を売ってる所?」

「はい。ヤーナさんが、責任者を紹介できるって。採ってもらえるかは、まだ分からないんですけど」


 リゼが彼の杖を見た。


「急いで運ぶ仕事は、まだ駄目だよ」

「ヤーナさんにも言われました。ちゃんと歩けるようになってから、会いに行きます」


 ニルスが笑った。

 大きな耳の脇の赤茶色の髪は、今日は乾いていた。


「動物の仕事は、嫌いにならなかったんですね」


 俺が言うと、ニルスはしばらく膝を見た。


「……あの子、空の皿を鼻で押してきたことがあるんですよ」

「おかわりが欲しくて?」

「たぶん。こっちを見て、何度も」


 俺も、檻の前で水を飲む姿を見たことを思い出した。

 皿へ当たる舌が、小さな音を立てていた。


「俺、ああいうのは好きなんです」


 ニルスは、小さく息を吐いた。


「でも、あの仕事を続けるのは、もう嫌です」


 俺は頷いた。

 動物が好きだからといって、あの船へ戻る必要はない。それを本人が選んで、ここへ話しに来たのだ。


 彼は今度は俺の額を見た。


「カイさんは、まだ痛みますか」

「笑うと、ちょっと。だから面白いことは言わないで」

「それ、先に言われると、何も話せなくなりますよ」


 横でリゼが吹き出した。

 俺も笑って、顎を押さえた。


「ほら」

「俺のせいですか?」


 ニルスまで笑った。

 痛いのは困るが、三人とも黙っているよりはよかった。


 明日の出港前に、もう一度会おう。

 そう言いかけて、出港日がまだ決まっていないことを思い出した。


「出る時、知らせてもいい? ちゃんと挨拶してから行きたいんだ」

「はい。俺も、そうしたいです」


 宿の名前を聞き、出港が決まったらそちらへ知らせると約束した。

 ニルスは銭袋を上着へしまった。俺たちが板を上がるまで、その手はもう巻布をいじらなかった。


     *


 船長は、乗降台で俺の話を最後まで聞いた。


「帰って、またこっちへ来た本人からか」

「はい。会って、記録を見せてくれるそうです」


 オルドは太い眉を上げた。

 俺が日本語の文面を読み終えると、大きな手で俺の肩を一度叩いた。


「よかったな、カイ」


 その声を聞いて、ようやく、人にそう言ってもらえる返事が来たのだと思った。


 手紙と一緒に開いていた地図を畳んだ。

 すぐ会いたい。今夜にでも、森崎さんの家の戸を叩きたい。

 あの手紙を読んでから、何度もそう思っていた。


「ここからサイハへは、どう進みますか」


 船長は腰の鍵束を握り、鳴る音を止めた。


「次はラウカを考えてる。東の山を越える道の、途中にある港だ。コハクなら四日くらいだな。そこで海沿いへ行く荷を探す」

「仕事の話は来てるんですか」

「ミレナからな。浴場で外した古い弁を、ラウカの鋳場へ運んでほしいそうだ。新しい弁は昨日の夕方、無事に動いたよ」


 俺たちが運んできた三つだ。

 あの時持った箱の重さを思い出した。


「古い方も、三箱?」

「ああ。金属を溶かして使い直すんだと。明日の朝に積める」


 船長は、少し間を置いた。


「お前だけ先に行きたいなら、旅客の便を聞いてやれるぞ。あっちは途中で荷を探さんからな」


 俺は船長を見た。

 船に残るのが当然だとは、今日も言わなかった。


 早く行けば、その分、早く帰り方が分かるかもしれない。

 日本の部屋も、あちらにいる人たちも気になる。誰かに「大丈夫だ」と伝える手段があるなら、今すぐ使いたかった。


 横にいるリゼへ目を向けた。

 彼女は口を挟まずに待っていた。袖口を片方だけつまんでいる。


 俺を待たせたくないのだろうと思った。

 だからこそ、彼女に決めてもらうのは違った。


「コハクで行きます」

「いいのか?」

「早く会いたいです。でも、ここからの道も、みんなと行きたいので」


 助けてもらった恩だけで言ったのではなかった。

 この家が動き出す時の音が、もう好きだった。

 リゼが初めての景色を見て、どんな顔をするのかも見たかった。


「ラウカから先の予定が立ったら、また相談させてください」

「もちろんだ。決まったら、森崎さんにも知らせような」


 船長が頷いた。

 リゼは袖から手を離した。


「ラウカ、私も初めてなんだよ」

「どんな所?」

「山の上に、船が浮いてるんだって」


「山の上って、湖?」

「大きな池が何段もあるの。船長から絵を借りたんだ。後で見せるね」


 リゼが言った。

 今度は、隠しきれないくらい楽しそうだった。


     *


 その晩、船長にもらった紙を二枚、自分の机に並べた。

 夕食の席でラウカへの航海が決まり、ニルスの宿への知らせも船長に頼めた。


 森崎さんへは、日本語で書いた。

 返事への礼。明日ローネを出て、ラウカを経由すること。到着日は決まってから知らせること。次の受取先も、船長に聞いて書いた。

 そして、一緒に日本へ行きたがっている人のこと。


 リゼは俺の隣へ立ち、書き終わった紙を覗いていた。


「ここが、私?」

「うん。『コハク号の操船士、リゼ』」

「船を動かすのが上手い、も?」

「書いたよ」

「じゃあ、いいです」


 満足そうに頷く。

 俺は最後の質問も読んだ。


「『二人で日本へ行き、こちらへ戻ることはできますか。会えたら、その相談もさせてください』」


 リゼは紙を見たまま、何度か瞬いた。


「……私、自分で名前を書いてもいい?」

「もちろん」


 ペンを渡し、空いた下の方を示した。

 彼女は机へ屈み、ゆっくり線を引いた。


 リゼ。


 前に俺が書いて見せた、カタカナの二文字だった。

 最後の点を打つと、彼女は顔を紙から離して確かめた。


「合ってる?」

「合ってるよ」


 俺の手紙に、彼女の字があった。


 日本へ帰りたいと、初めて書いた時にはなかった二文字だ。

 俺は乾くまで待ってから、その紙を折った。


 もう一通はアニカ宛てだった。

 こちらの字はまだ書けないので、リゼに頼んだ。船長が分けてくれた二枚目の紙へ、彼女がペンを走らせる。


 ローネへ着いたこと。森崎さんから返事が来たこと。次はラウカへ向かうこと。

 それから、足と手の具合はどうか、と尋ねた。こちらへの返事はラウカの便屋へ、とも添えてもらう。


「夜啼きのこと、どこまで書く?」

「怪我したことは書こう。後から聞いたら、余計に心配するだろうし」


 俺は額の布へ触れかけ、やめた。


「俺は手当てを受けて、船で休んでるって。重い荷物も持ってないよ」

「この手紙を届ける時も、荷物は持っちゃ駄目だからね」

「手紙まで?」


 リゼが俺を見た。それから、机の上の紙を見る。


「……これはいいよ」

「よかった。自分で出したかったんだ」


 リゼは笑い、別の一文を書き足した。


「『また会った時は、元気な足で並んで操船しようね』。ここは、私から」


 書き終えると、彼女は二人の名前を入れた。

 俺も自分の名前の形を確かめた。教わった線が、ちゃんとそこにある。


 借りたペンとインク壺を船長へ返し、その日の給金を受け取った。

 六枚増えて、百四枚。

 明日は、この中から二通分の便賃を払う。


 森崎さんから来た手紙は、久賀さんの紹介文と同じ布袋へしまった。

 今度は、自分から返事を届ける番だった。


     *


 翌朝、俺は出港前に手当て所へ寄った。

 医師に額と掌を見せ、船で旅を続けることを話す。布を替え、数日は重い物を持たず、傷が悪くなるなら次の港でも診せるよう念を押された。


 今日の診察代もダリオの負担だと、医師が帳面へ記した。

 俺は礼を言って椅子を立った。


 奥の寝台には、まだガロさんがいた。

 左足を高くして座り、俺の顔を見ると片手を上げる。


「出るんだってな」

「はい。お世話になりました」

「こっちの台詞だよ。俺まで引っ張り上げてもらったんだからな」


 掌の布を見られて、俺は苦笑した。

 ガロさんの足は、休ませる時間が要るという。鎧鷹は動けるようになったが、彼をすぐ働かせて出港する予定にはしていないそうだ。


「ダリオさんは?」

「買い手に断りを入れて、港と話してるよ。あの檻も、片づけなきゃならんからな」


 母子のいる場所へ、また捕まえに行く話ではなかった。

 そのことを確かめて、俺は頭を下げた。


 湯橋便屋では、サイハ宛てに四枚、ベルカ宛てに三枚を払った。

 リゼに書いてもらった宛名を受付の女性が読み、俺が持ってきた二通を順に預かる。

 ラウカの千段港、その便屋を次の受取先にした。ここへ届くコハク宛ての手紙も回してもらう。


 新しく受け取った札二枚を、財布へしまった。

 財布の中の銅貨は、九十七枚になった。


 扉を出ると、橋の欄干から温かな雫が落ちていた。

 湯の流れる音に、浴場の戸が開く音が重なった。

 今朝も誰かが、あの湯へ入りに行く。


     *


 港へ戻ると、三つの木箱はもうコハクの後部へ積まれていた。

 俺は何も持っていない両手をリゼへ見せた。


「持ってないよ」

「うん。見れば分かる」


 彼女は笑い、操舵室へ入っていった。


 ミレナさんが、渡し板のそばにいた。顎の辺りで切った黒髪を耳へ掛け、褐色の前掛けの上で帳面を閉じて、船長と運賃の支払い先を確かめている。ラウカで受け取る、新しい仕事の分だ。


「今度来る時は、もう少しのんびりしていきな」

「俺も、そのつもりだったんですけど」

「そうだったねえ」


 ミレナさんは、俺の額を見ると笑うのをやめた。


「次は、ちゃんと湯を楽しめる時においで」

「はい。また来ます」


 その隣にはヤーナさんと、杖をついたニルスがいた。

 ヤーナさんの左耳の銀輪が、朝の光を返す。


「港で借りた道具は、返ったからね。石切り場の残りも、こっちとダリオで引き取るよ。あんたらは自分の船を頼みな」


 船長が礼を言った。

 ロクが持っていた檻の鍵も、昨日ダリオへ返したと船長が言った。


 ニルスは杖を左へ持ち替え、右手を出した。

 俺は掌の布を見せた。彼は慌てて手を引こうとする。


「待って。指だけなら」


 俺は、その指先を軽く握った。

 ニルスは力を込めず、握り返してくれた。


「次に会ったら、仕事の話、聞かせてよ」

「まだ、採ってもらえてませんけど」

「うん。採ってもらえたところから聞く」

「落ちてたら?」

「その話も聞くよ」


 ニルスが笑った。

 今度は俺も、顎を押さえずに済んだ。


 手を離し、渡し板を上がる。

 振り返ると、彼はまだそこにいた。杖に身体を預けながら、こちらを見上げていた。


「カイさん!」


「はい!」


「また来てください!」


 顔が見えた。

 声を出している、その口も。


 俺は腕を上げた。


「また来るよ!」


     *


 乗降台の隣の操舵室へ入り、リゼの横の腰掛けへ座った。床の下で低い音が始まった。

 ど、ど、ど、と間を詰め、やがて途切れず続く響きになる。


 窓の向こうで、ロクたちが渡し板を上げた。

 船長が戻り、開けた戸から後ろの通りへ声を掛ける。家の戸や、荷を留める金具が、順に鳴った。


 リゼは両袖の高さを揃えた。

 薄青の袖から出た手が、左右の操縦桿を握る。


「上げるよ」


 床が、ゆっくり持ち上がった。


 窓の下へ港の人々の肩が沈み、頭が沈む。

 膝を折っていた鉄の脚が船体を押し上げている。敷石を踏み締める重い音が、足の裏まで伝わってきた。


 俺は壁の取っ手へ指を掛けた。

 迎えに来たこの船を、下から見上げた時のことを思い出した。今は、その席に座っている。

 ニルスたちがもう一度手を振った。俺も振り返した。


 前へ一歩。


 新しく入った窓枠も、継ぎ当てをした上掛けも、俺の部屋に置いたままだ。

 家ごと、ちゃんとついてくる。


 リゼが船を港の出口へ向けた。

 敷石を離れると、踏む音が鈍くなる。正面に白い森が広がり、船道だけが幹を左右へ分けていた。


 彼女の席の脇には、出港前に見せてもらったラウカの絵が留めてある。

 山の斜面へ段々に並んだ、石で縁を囲った大きな池。その縁に家と倉庫が建ち、白い帆を張った船が浮いている。池と池の間には、船を載せて上下する大きな台が描かれていた。


 水の上を走る船と、地面を歩く船が、同じ山へ集まる港。


「コハクも、あそこまで上がるんだよね」

「うん。コハクは台に乗せてもらって、上の港へ行くんだって。船長は行ったことがあるけど、私は初めて」


 リゼは前を見たまま、口元を緩めた。


「楽しみ?」

「すごく」


 今なら、その返事は迷わずできた。


 彼女は一度だけ俺を見た。灰緑の目が細くなり、笑うと頬に陽が当たった。

 すぐに船道へ目を戻し、踏み板を押し込む。


 六本の脚が交互に地面を踏み、家々を揺らしながら森へ進んでいく。


 海までの道の、次の寄港地。

 俺たちはこの家ごと、山を登る。

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