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第三十話 日本へ帰った男の返事

「開けてみろ。今度は引っ掛からんはずだ」


 ボルグさんが、窓の前を空けてくれた。


 十九日の昼過ぎ。俺は、修理の終わった自分の部屋にいた。

 通りに面した戸から入ると、奥が寝台。その脇の、港へ向いた壁に窓がある。昨日まで打ちつけてあった板は外され、新しいガラスが午後の光を通していた。


 机は畳んで壁へ寄せ、作業する場所を空けてある。

 俺は窓へ近づき、上と下の留め金を外した。


 押すと、木枠が滑らかに開いた。


 港の荷車が敷石を踏む音が、急にはっきりした。

 向かいの船では、男が屋根へ干した布を取り込んでいる。風が入り、削ったばかりの木の匂いがした。


 窓の下を見た。

 何もいなかった。


 見ずに済ませられると思っていたのに、確かめていた。


「閉める方もな」


 ボルグさんは、急かさずに待っていた。

 短い灰色の髪に木屑が一つついている。俺は頷き、窓を戻した。


 こつん。

 留め金を下ろすと、かちり、と鳴った。


「大丈夫です」

「ならよし。ガラスは港の職人の仕事だ。枠と壁は、俺も見てある」


 新しい木枠は、周りの壁より明るい色をしていた。

 あの爪が食い込んだ木は、もうここにはなかった。

 俺は留め金を指で押した。きちんと掛かっている。


 ボルグさんは右の耳たぶを引き、道具を袋へ収めた。

 俺がその袋へ手を出すと、先に持ち上げられた。


「診てもらったばかりだろ。お前は戸を開けてくれりゃいい」


 午前に手当て所へ行って、今日も重い物は持つなと言われていた。

 額と掌の布は替えてもらった。顎は昨日よりましだが、大きく口を開くとまだ痛い。


「はい。そっちは任せてください」


 俺は戸へ回った。

 ボルグさんが袋を持って通りへ出る。その向こうから、エダさんが畳んだ上掛けを抱えてきた。


「場所、空いたかい」

「どうぞ」


 銀髪をまとめた頭が、部屋の中を覗いた。

 エダさんは寝台へ上掛けを置き、俺に端を持たせて広げた。


 裂け目を覆う、生成りの布。

 指で触ると、縫い目のところだけ少し厚かった。


「ここ、頬に当たると嫌だろ。足の方へ向けて使いな」

「ありがとうございます。捨てずに済みました」

「まだ使えるからね」


 彼女は布の端を三つ折りにし、寝台の足元へ揃えた。

 俺は、その手が離れてから座った。


 いつもの寝台だった。

 背中を倒したくなる柔らかさがあった。


 昨夜はリゼが眠った後、船長の家へ戻り、借りた寝台で眠った。よく眠れたし、助かった。

 それでも、ここに座れるのは嬉しかった。


 戸口へ来た船長が、俺の顔を見て笑う。


「今夜は自分の所で寝られるな」

「はい。二晩、ありがとうございました」

「どういたしまして。修理の払いも済んだぞ。ダリオから預かった金でな」


 見積りを確かめて、職人に払ったという。

 手当て代とは別だ。今日の再診の分もダリオが払い、エダさんの針仕事の分は船長に預けたという。

 エダさんが受け取るところを見て、俺も頭を下げた。


 謝罪を聞いただけの時より、肩の力が抜けた。

 怒った相手が約束を守ったことは、ちゃんと覚えておこうと思った。


 船長は窓を一度見てから、通りへ戻った。

 俺も立ち、畳まれた机を下ろして、裏の脚を固定した。


 空いた机の上へ、棚の杯を二つ並べる。

 片方には、青い魚が描いてある。


 今夜なら、約束のお茶が飲める。


     *


「その機械、飛ぶ時に羽ばたくの?」


「羽ばたかないよ」


 リゼは杯を持ったまま、しばらく俺を見た。


 夕方、彼女は炊事場の椅子を一脚借りて来た。窓横の机の前に二脚を寄せ、隣り合って座っている。

 机の上の小鍋には、ロクが分けてくれた果実の茶が入っていた。


 リゼの手元で、青い魚がこちらを向いている。


「じゃあ、羽は何をするの?」

「飛ぶために必要なんだけど……そこをちゃんと説明しようとすると、俺も怪しい」


 彼女が笑った。


「カイの国のことでも?」

「乗るたびに試験があったら、俺は乗れない」

「それ、嫌だね」


 リゼは真面目に頷いてから、また笑った。

 蜂蜜色の三つ編みが、肩から胸へ滑った。


 俺は机の何も載っていない所へ指を置き、飛行機が走ってから浮くところを見せた。

 リゼの目が、俺の指を追う。


「降りる時も走るんだ」

「うん。だから、広くて長い場所が要る」

「止めるまで、前が空いてないと駄目なんだね」


 そこに納得するのは、やっぱり操船をする人だ。


 茶を飲みながら、俺は飛行機の窓から見た雲の話をした。

 白い雲の下を飛ぶのではなく、上へ出ることもある。地面が見えなくなって、雲ばかりが広がることもある。


 リゼは窓の外の空を見上げた。

 低い雲の切れ間に、夕方の青が残っていた。


「あそこを、上から見るんだ」


 声が少し小さくなった。

 俺も同じ空を見た。ここへ来てからは、雲はいつも頭の上にあった。


「いつか見せたいよ」

「私も、見たい」


 彼女はすぐに答えた。

 それから杯へ口をつけ、熱かったのか、少しだけ離した。


「今夜は最後まで聞けるからね」

「昨日も、けっこう聞いてたよ」

「途中から覚えてないんだもん」


 俺は笑った。

 リゼは片方の袖を引き、もう片方と高さを揃えた。


「……ちゃんと眠れたよ。ありがとう」

「俺も、船長の所で寝た」

「椅子で寝なかった?」

「約束してたから」


 彼女は安心したように頷いた。


 外を荷車が通った。

 ガラスが小さく震え、俺は一度そちらを見た。窓の向こうでは車輪が回り、荷台の上の桶が揺れている。


 リゼも見ていた。

 桶が遠ざかると、彼女は杯を机へ戻した。


「次にお茶を淹れる時、私も呼んでね」


 声は、すぐ隣からした。


「うん。呼ぶよ」


 俺は残った茶を彼女の杯へ注いだ。

 今度は最後まで、熱いうちに飲めた。


     *


 借りた椅子と小鍋を炊事場へ返し、洗った杯を棚へ戻した。

 船長から受け取った十九日分の給金、銅貨六枚を財布へ足し、窓の留め金を確かめてから灯りを消した。

 その夜は自分の寝台で眠った。


 便りが届いたのは、翌二十日の午後だった。


 俺は通りで、エダさんが縫い上げた手袋を左右に揃えていた。

 針仕事の邪魔にならず、重い物も持たずに済む手伝いだった。


「カイ。湯橋便屋から知らせだ」


 船の前から来たオルドが言った。


「サイハから、お前宛てに一通。札を持って来てくれってよ」


 手袋を一組、逆に重ねた。

 やり直そうとして、エダさんの指が先に直してくれた。


「行っておいで。ここは逃げないから」


 俺は礼を言い、部屋の財布を取りに戻った。

 札はあった。何度も確かめた場所に、今日も入っていた。


 隣の戸が開いた。

 出てきたリゼが、俺の持つ札を見る。


「届いた?」

「うん。サイハから」

「一緒に行っていい?」

「来てほしい」


 そう答えると、リゼは帽子を被り直し、俺の隣へ来た。


     *


 坂の上で、湯気が横へ流れた。

 温かな水路に架かった木の橋を渡ると、たもとに封筒の絵の看板が見える。


 湯橋便屋。

 十七日に、まだ届いていないと言われた店だった。


 戸を入ってすぐの受付に、白髪の女性がいた。

 耳の後ろへ髪を撫でつけ、細い鎖のついた眼鏡を掛けている。彼女は俺の札を見て、机の引出しから封書を出した。


「コハク号のカイさんだね。サイハの北の灯台から」

「はい」


 外側の宛名は、こっちの字だった。

 女性が船の名前と俺の名前を指で示した。俺が頷くと、封書をこちらへ押してくれた。

 札も受け取り、財布へ戻す。


「便賃は先方で済んでるよ」

「ありがとうございます」


 受け取った紙は、思っていたより軽かった。


 店を出て、庇の脇の腰掛けへ座った。

 目の前が橋で、その下を湯の水路が通っている。リゼは俺の右へ座り、膝に帽子を置いた。


 俺は封の端を開いた。

 中には折り畳まれた紙が二枚あった。


 一枚を開く。


『カイさんへ。』


 読めた。


 当たり前のことを、わざわざ確かめていた。

 カイさんへ。その下の挨拶も、何も教わらずに読めた。


 久賀さんに見せてもらったものとは違う。

 これは、俺に返ってきた手紙だった。


「読んでもらっていい?」


 リゼが、俺の手元を見ながら言った。

 俺は頷いた。


 いつもなら、逆だ。

 店の看板も、仕事の札も、リゼに読んでもらっていた。


「うん。読むよ」


 声にすると、少し喉が詰まった。

 俺は咳払いを一つして、初めから読んだ。


『カイさんへ。


 手紙をありがとう。久賀さんから私のことを聞いたそうですね。

 日本の字で、私を訪ねたいと書いてくれる人がいる。嬉しくて、返事を急いでいます。


 先に、いちばん知りたいことへ答えます。

 私は本当に日本へ帰りました。そして、こちらへ戻ってきました。


 サイハの北、崖下の古い船溜まりに、石の柱が二本あります。海の水が低くなり、濃い霧がかかった時、その間から小舟で入りました。

 霧を抜けた先は、日本の海辺にある、使われなくなった船着場でした。

 その小舟は今も、灯台の下の舟小屋に置いてあります。


 生きた身体のままです。日本へ行く時も、こちらへ戻る時も、命を落としたり、大きな怪我をしたりはしていません。』


 そこで、一度止まった。


 リゼが顔を上げた。


「カイ?」


 俺は、紙を持つ手を見た。

 掌の布が、折り目に触れている。


 迫ってくる白い車体と、身体が浮いた瞬間を思い出した。

 この世界へ来る前、最後に覚えているものだった。


 帰れる人がいると聞いても、自分がどうやって来たのかは分からなかった。

 考えようとすると、あの瞬間へ戻ってしまう。


 でも、この人は舟で帰った。

 舟に乗って、またこっちへ来た。


「……生きて、行って帰ってるんだ」


 自分で読み上げたことを、もう一度だけ言った。

 リゼは俺の顔を見て、静かに頷いた。


 俺は紙を少し持ち直した。

 続きがあった。


『ただし、霧があれば日本へ行ける、ということではありません。

 同じ船溜まりでも、見える先が違うことがあります。霧が晴れるまでの長さも一定ではなく、次にいつ渡れるかを今から約束することはできません。


 こちらで確かめたことと、まだ分からないことを、会って話しましょう。記録は残しています。灯台から船溜まりまで、私が案内します。


 港から灯台への道を、別の紙に描きました。船溜まりへ直接下りず、まず家へ来てください。

 遠回りになっても構いません。来る日が決まったら、もう一度知らせてもらえると助かります。


 泊まる部屋はあります。妻も、久賀さんの知り合いならご飯を多めに炊こうと言っています。

 日本の話も聞かせてください。こちらへ持ち帰った新聞は、もうすっかり古くなりました。


 サイハ、北の灯台にて。

 森崎誠』


 最後まで読み、二枚目を広げた。


 海岸の線と、港から北へ続く道。

 道の先には、背の高い塔の絵があった。その根元に、小さな家が描かれている。


 灯台から崖下へ延びた細い線。

 下には、二本の柱と、水際の小屋の絵があった。小屋の脇に、小舟の印が添えてある。


 字は全部、日本語だった。


「これが灯台。こっちは森崎さんの家だって」


 俺が指すと、リゼが覗き込んだ。


「船で行ける所は、ここまで?」

「待って。横に書いてある」


 図の横の小さな文字を読んだ。


「『陸上船は港へ。北の道は歩きで』だって」

「じゃあ、コハクは港で待っててもらうんだね」


 彼女の指が、小舟の絵の手前で止まった。


 俺たちの歩く道があった。

 家へ着いたら戸を叩き、この人に会って、一緒に海へ下りる。

 帰る方法を聞くという話が、初めて、自分の足で行ける一日の形になっていた。


 けれど、俺が渡れるとも、リゼも渡れるとも書かれていない。


「もう一度、手紙を書きたい」


 俺は言った。


「来る日のお知らせ?」

「それも。船長に相談してからだけど……先に、聞いておきたいことがある」


 リゼが俺を見た。


「二人で行けるか?」

「うん」


 声に出すと、彼女の口元が緩んだ。


「私のことも、書いてくれる?」

「もちろん。海を見たがってる、船を動かすのが上手い人だって」

「そこは、ちゃんと書いてね」


 リゼは帽子を膝から取り、立ち上がった。

 俺へ手を差し出しかけ、掌の布を見て、肘の辺りへそっと手を添えてくれた。


 立つと、橋の向こうに白い森が見えた。

 その下には湯気が流れ、荷を背負った人が板道を歩いている。


 地図を畳む前に、小舟の印をもう一度見た。


 日本まで行って、こちらへ戻ってきた舟だ。

 十八年前の話の中だけにあるのではない。今も、森崎さんの家の下に残っている。


「その舟、見せてもらいたいな」


 俺が言うと、リゼが頷いた。


「私も。どんな舟なのか、気になる」


 俺は二枚の紙を封へ戻した。

 船長に手紙を見せよう。海までの道を相談して、森崎さんへ、もう一度返事を書こう。


 今度の手紙には、リゼの名前も書く。


 俺の他に、もう一人。日本へ行きたい人がいます。

 二人で行って、コハクへ戻ることはできますか。

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