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第二十九話 眠るまでの約束

「戻ってきた……」


 ニルスはそれだけ言って、長椅子から立とうとした。

 巻き布をした右足が床へ触れ、顔が歪む。


「座ってて。俺から行くから」


 港の手当て所は、荷揚げ場に面した白い平屋だった。

 戸を入ってすぐの壁沿いに長椅子があり、奥には寝台が二つ並んでいる。寝台の間には布の仕切り。手前の一台に、先に運ばれたガロさんが寝かされていた。


 俺はニルスの隣へ座った。

 彼の大きな耳の脇に、赤茶色の髪が汗で貼りついている。


「ガロさんも、一緒です」


 奥の寝台を示すと、ニルスは何度も頷いた。


「見ました。運ばれてくるの、見たんですけど」


 そこから先が続かない。

 首の巻布を襟へ押し込み、また引っ張り出す。


 俺も、何を言えばいいか分からなかった。

 あの時、船へ乗れてよかった。足は大丈夫か。俺たちを呼んでくれて助かった。

 全部言いたくて、ひとつも順番が決まらない。


 ニルスが、鼻を鳴らした。


「もう、戻ってこないかと……」


 俺は膝に載せた手を見た。

 爪の間に、採石場の白い粉が残っていた。


「俺も、ちょっと思いました」


 そう答えると、彼は顔を上げた。

 俺は頷いた。無理に笑うことはやめた。


「でも、ちゃんと伝えてくれたから。コハクが来てくれたよ」


 ニルスの肩が落ちた。

 しばらく二人で座っていた。奥からガロさんの「痛えって」が聞こえてきて、やっと、少し笑えた。


     *


 額を洗われた時は、笑えなかった。


「動かないで。まだ砂が入ってるよ」


 白い髭の医師が、俺の頭を押さえた。

 六十くらいの男だった。袖を肘まで上げ、骨ばった指で傷の周りを拭いていく。


 俺は長椅子を掴んだ。

 顔をしかめると、向かいに立つリゼも眉を寄せた。


「痛い?」

「けっこう」

「もう少しだって」


 もう少し、が三回くらいあった。


 掌の棘も取ってもらった。顎や腹を触られ、どこが痛むかを一つずつ答える。

 今日は荷物を持つな。痛みが強くなるなら夜でも来い。明日もう一度見せに来い。

 額と掌に布を当ててもらい、最後の言葉まで聞いてから、ようやく肩の力が抜けた。


 リゼが水の杯を渡してくれた。

 両手で持った。飲むと、唇の端が少し痛かった。


 医師は次にダリオを呼び、戸の脇の椅子へ座らせた。両掌に巻いた古い布を外し、傷を洗って巻き直す。

 革の上着は採石場へ置いてきたまま。下に着ていた茶色のシャツの胸が、汗で濃くなっている。


 処置が終わると、彼はオルドと、隣にいる紺の外套の港係へ向き直った。


「窓の修理は、約束どおり払う。手当ての代も、俺が持つ」


 ダリオは腰の袋を開き、俺たち四人の手当て代を医師へ渡した。

 窓の方は、職人の見積りを取ってから。オルドがそう確認し、港係が帳面へ書き込んだ。


 ダリオは頷き、俺とニルスの前へ来た。


「母親が死んだと嘘をついた。ニルスを先に帰すという話も、守らんかった」


 ニルスが巻布から手を離した。


「悪かった」


 ダリオが頭を下げた。

 誰も、いいですよとは言わなかった。


 俺は謝罪を聞いた。

 それでも、昨夜割れた窓や、網に引かれたニルスの顔は忘れられなかった。


 ニルスが膝へ両手を置いた。


「俺、今夜は鎧鷹へ戻りません」


 ダリオが顔を上げた。


「足を休ませろって言われました。それから、明日以降の仕事も、考えたいです」


 灰色の上着の袖が、膝の上で震えていた。

 それでも、言い終わるまで顔を伏せなかった。


 ダリオは一度口を開き、閉じた。


「分かった。宿も、こっちで出す」


「……はい」


 ニルスが息を吐いた。

 港係が宿の手配を引き受け、俺たちへ、まず休むよう言ってくれた。


 奥の寝台でガロさんが片手を上げた。

 左足は板と布で固定され、畳んだ毛布へ載せられていた。今夜はここに泊めてもらうという。


「カイ。お前も飯、食えよ」

「ガロさんもね」

「俺は頼んだ。先にな」


 枕元に空の椀があった。

 あれだけ水を欲しがっていた人が、今は夕飯を待っている。


 俺は立ち上がる前に、もう一度その顔を見た。


     *


 夕方のコハクには、煮込んだ肉の匂いがしていた。


 船の前から中央の通りへ入ると、右手が炊事場だ。その戸の前に長い卓が出され、ロクが鍋を置いている。

 俺とニルスは並んで座った。向かいにはリゼ。ニルスが手当て所で借りた杖は、席の脇へ立てた。


「二人とも、椀を寄こして」


 ロクが言った。

 湯気の中へ大きな匙が沈み、芋と、細かくほぐした肉が盛られる。


「ニルスの分、残してあるって船長が言ってたぞ」

「はい。聞きました」

「遅いから、俺が食いそうだった」


 ニルスが鍋を見る。

 まだ、たっぷりあった。


「まだこんなに」

「腹は減るんだよ」


 ロクは真面目な顔で、自分の椀にもよそった。


 匙で芋を割ると、黄いろい中身から湯気が上がった。

 口に運ぶ。塩と肉の脂が舌へ広がる。


 うまかった。

 二口目で、急に腹が減っていることが分かった。


 俺が黙って食べ始めると、ニルスも椀を持ち直した。

 誰かが感想を聞いてくることもなかった。

 ロクの匙が鍋を擦る音と、通りの奥で水桶を下ろす音がした。


 向かいで、リゼが大きく欠伸をした。

 慌てて口を隠し、目元を指で拭く。


「ごめん」

「俺も眠いよ」

「カイ、匙が止まってないけど」

「腹も減ってる」


 言ったら、彼女が笑った。

 俺は肉を一切れ、口へ入れた。

 両方本当なので仕方がない。


 食べ終えて椀を重ねかけたら、ロクに一つ取られた。


「今日は持つなって言われたんだろ」

「椀くらいは」

「それ、医者に言ってくれ」


 俺は手を引っ込めた。

 働かなくていいと言われると、何をすればいいのか分からなくなる。

 いつもなら、そういう時こそ何か頼まれそうな所へ顔を出していた。


 でも今日は、ニルスの空いた椀もロクへ渡した。


「お願いします」

「おう。おかわりか?」

「片づけです」


 リゼが口元を押さえた。

 ニルスも、隣で笑っていた。


     *


 食後、ニルスは迎えに来た港係と宿へ向かった。

 ダリオも港で話を続けると、船長から聞いた。


 オルドは今日の給金、銅貨六枚を俺に渡した。

 それから、今夜も自分の家の予備寝台を使えと言ってくれた。俺の部屋の窓は、まだ板で塞がれている。


 俺は礼を言い、リゼが眠るまでそばにいる約束をしたと伝えた。


「分かった。自分も寝ろよ。椅子で朝を迎えるな」

「はい」


 そう答えた時は、椅子に座るだけなら簡単だと思っていた。


 リゼの家は、俺の部屋のすぐ隣だ。

 船の前から歩くと左の二軒目。灯りのついた戸を叩くと、彼女自身が開けてくれた。


「入って」


 小さな一部屋だった。

 左の壁沿いに一人用の寝台、右に小さな机と椅子。間の床は、一人が通れるくらいしかない。突き当たりの壁には小窓があった。

 今は窓の内側の鎧戸が閉じられ、机の灯りが部屋を照らしていた。


 アニカが泊まっていた時には、床に毛布が敷いてあった。今夜はそれも畳まれ、俺が椅子を引けるだけの場所が空いている。


 机の上には、紐で綴じた紙束が二つ。

 片方には道の線らしいものが引いてあり、小さな船の絵が端に描かれていた。


「それ、何?」

「通った道の覚え書き。船長に聞いた所も書いてるよ」


 リゼは船の絵を指で隠した。


「これは、落書き」

「脚が六本ある」

「そこは間違えないもん」


 笑いながら、俺は椅子を寝台の脇へ寄せた。

 リゼは上着を壁の鉤へ掛けていた。薄い生成りの袖から、日に焼けた腕が出ている。

 ほどいた蜂蜜色の髪が、肩の前へ落ちた。


 彼女が靴を脱ぎ、寝台へ上がる。

 俺は戸を閉め、椅子へ座った。横を向けば、枕に頬を載せたリゼの顔が見える。


 そこまできて、落ち着かなくなった。


 二人で茶を飲んだことはある。

 アニカが泊まっていた時にも、この部屋へ入った。

 けれど、寝ようとしているリゼのそばに、一人で座っているのは初めてだった。


「緊張してる?」


 布団から目だけ出して、本人が聞いた。


「少し」

「私も、ちょっとしてる」


 だったらなぜ、と口にする前に、彼女が布団を顎まで下げた。


「でも、来てくれてうれしいよ」


 俺は膝の上で、手の置き方を変えた。


 これは困る。

 喜ばせたいのに、いちばんうれしくなっているのは俺かもしれない。


「何か、話そうか」

「うん。怖くないのがいい」

「分かった」


 面白い話、と言われるより難しかった。

 今日の出来事はどこから話しても、途中で誰かが死にそうになる。


 俺は机の小さな船を見た。

 紙束の端で、六本の脚が少しずつ違う方へ向いていた。


「前に、遊びの中で遠くの人と話してたって言っただろ」


 リゼが頷く。


「その遊びの話なら、してもいい?」

「聞きたい」


 俺は、仕事から帰って、仲間と同じ時刻に集まっていた話をした。

 本人はそれぞれの家にいる。画面の中では同じ場所に立ち、声だけが聞こえる。

 大きな怪物を倒す日もあれば、誰かの家に集まって家具の置き方で揉める日もあった。


「椅子が邪魔で、入口から入れなかったこともある」

「それ、置いた人はどうやって入ったの?」

「置く前に、中にいた」

「出られないじゃない」


 リゼが枕へ顔を押しつけた。

 肩が小さく揺れる。


「その人、途中で気づいてたんだよ。でも、皆が来るまで黙ってた」


 俺も笑った。

 覚えている声があった。大丈夫だから来い、と言っていた奴の声だった。


 笑い終わった後、少しだけ間が空いた。


 今も、集まっているだろうか。


 俺がいなくなって何日なのか、向こうで同じだけ時が経ったのかも分からない。

 考えても分からないから、仕事がある間は考えずにいられた。


 リゼが、寝台の上で指を動かした。


「会いたい?」

「うん」


 否定する理由はなかった。


「連絡だけでもしたいよ。急に来なくなって、何も言わないままだから」


 彼女は頷いた。

 俺の返事を聞いて寂しそうにするのが怖くて、顔を見るのが少し遅れた。

 でも、リゼは俺を見ていた。


「森崎さんに、早く話を聞けるといいね」


 俺は頷き返した。


 リゼの前で、日本の話をするのを避けたくない。

 今ここにいることが嬉しいのも、元の暮らしが大切なのも、どちらも本当だった。


「その遊び、船もあるの?」


 リゼが聞いた。

 俺は机の絵へ目をやった。


「あるよ。海を走るのも、空を飛ぶのも」

「空?」


 布団の中から、頭が上がった。


「船が?」

「遊びの中の話だよ」

「本当の方には、ないの?」

「船とは違うけど、人を乗せて空を飛ぶ機械ならある」


 リゼは肘をつき、完全に起き上がった。


 しまった。


「大きいの?」

「コハクより長いのもある」

「そんなのが、どうやって――」


 そこで、彼女は俺の顔を見た。


「カイ、私を寝かせる気ある?」

「今、間違えたと思ってる」

「明日、続きね。絶対だよ」


 人差し指を立ててから、リゼは枕へ戻った。

 頬が少し赤かった。さっきより、目が明るい。


「見てみたいな」


 小さく言った。


「空を飛ぶところ。カイの暮らしてた町も」


 俺はその顔を見た。

 彼女の見たい景色を、俺なら案内できる。


「案内したいよ」


 言ってから、腹の底が少し熱くなった。

 口から出た言葉を、実際にやってみたくなった。


「俺の国なら、看板の字も読めるし。乗り物の乗り方も分かる」


「じゃあ、その時は頼んでいい?」


「うん。ただ……リゼも行けるのか、まだ分からないんだ」


 彼女はすぐ頷いた。


「それも、聞いてみようよ」


 リゼが船を離れるなら、船長への相談も要る。渡れる方法も、戻る方法も、まだ知らない。

 それでも、俺はまず、この話を森崎さんにしてみたかった。


 リゼが欠伸をした。

 言いかけたことを飲み込み、目を擦る。


「眠かったら、寝ていいよ」

「分かってる。でも、話したかったんだもん」


 声が少し小さくなった。


 俺は椅子の背へ寄りかかった。

 通りを誰かが歩いていく。靴音が戸の前を通り過ぎ、隣の家へ入った。

 遠くでは、港の荷車が敷石の継ぎ目を鳴らしていた。


 リゼの目が閉じた。

 一度だけ開き、俺を確かめる。それから、ゆっくり閉じ直した。


 俺は、話の続きを明日まで取っておいた。


 呼吸が深くなるのを待ち、小さく「おやすみ」と言った。

 返事はなかった。


 すぐには椅子を引かなかった。

 灯りに照らされた髪を見ながら、サイハで聞くことを考えていた。


 日本へ帰る方法は知りたい。

 でも、それだけでは足りなくなっていた。


 リゼを案内して、一緒にコハクへ戻ってこられるか。


 森崎さんには、そこまで聞こう。

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