↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
28/32

第二十八話 全員、帰るぞ

 甲板を跳ねた鍵を、ロクが靴で止めた。

 かがんで拾い、赤い頭巾の横へ掲げる。


「拾ったぞ!」

 俺は窓の縁を握り、息を吐いた。


 鍵は渡った。

 けれど、檻の前には母親がいる。誰かに降りてもらえば、その人を危険にさらすことになる。


「ダリオさん。あの母親を、少しだけ檻から離せませんか」


 俺の足の下で、彼の肩が動いた。


「子を置いて、遠くまでは追ってこんぞ」

「遠くじゃなくていいです。誰かが鍵を開けられる間だけ」


 戸を叩いていた爪が止まった。

 母親が檻へ戻る。子の細い鳴き声に、低い喉音が返った。


 ダリオが言った。


「下りてくれ。戸を見る」


 肩から降りると、彼は横木を押さえたまま戸の端へ目を寄せた。

 蝶番は部屋の内側についている。横木を外せば、戸はこちらへ開く。


 ダリオが高窓を見上げた。


「ここへ入れる」

「母親を?」

「ああ。俺たちが出てから、船から綱で戸を引いて閉じる。檻を開ける間だけなら、もつかもしれん」


 今まで閉じ込められていた穴を、使う。


 俺は戸と窓を見比べた。

 高窓は、人が横になれば通れる。あの大きな肩は通らないだろう。だが、そこへ上がる前に追いつかれたら終わりだ。


「入れる時、どうするんですか」


「お前が先に船へ行け。俺は窓まで上がってから、横木を抜く」


 ダリオが、戸を支えていた鍬の柄を軽く叩いた。


「綱で抜けるようにする。戸が開けば、こっちへ来るぞ」


 喉が乾いた。

 言っている本人の掌には、まだ血が滲んでいた。


「その手で、窓から船まで登れますか」


 彼は答えず、巻いた布を握った。


 俺は首を振った。


「先に、身体へ綱を掛けてください。登れなかったら、俺たちが引きます」

「時間を食うぞ」

「置いて帰るより、ずっといいです」


 ダリオの目が、俺へ戻った。


「ガロさんにも、明日は帰りたいって言われるんでしょう。帰って、聞いてください」


 彼は鼻から息を吐いた。

 少しだけ、肩が下がった。


「……綱を頼んでくれ」


     *


 もう一度ダリオの肩を借り、窓から説明した。オルドはしばらく母親を見ていた。


「戸の上半分は鉄だな。綱は、そこへ結べ。木の方へは掛けるなよ」


 ボルグが太い綱を持ってきた。

 母親が檻へ戻った間に、船首が近づく。今度は甲板を高く保ったままだ。


「板は下ろさないよ」


 リゼが言った。


「縄梯子で上がってきて。途中で止まっても、船は動かさないから」


 またあの板を渡ることを考えていた俺は、彼女を見た。

 獣が爪を掛けた場所へ、わざわざ足場を戻す必要はない。

 ガロさんと違って、俺たちは段へ足を掛けられる。


「分かった。お願い」


 縄梯子の先が、窓から部屋へ入ってきた。

 続いて渡された綱を、俺は窓の外へ垂らす。ダリオが戸の鉄格子の間から鍬の柄を伸ばし、綱を手前へ寄せた。


 引き入れた短い端を、鉄格子へ結ぶ。

 長い方は戸の外側を通って、船へ続いている。


 船から引けば、戸は岩の枠へ押しつけられる。

 中から母親が押しても、外へは開かない。爪で引かれないよう、綱で押さえるのだ。


 ボルグは船首の太い柱へ綱を回した。人の腕だけで獣と引き合わず、柱で受ける。


「戸を開ける時は緩める。閉める合図をくれな」


 別の綱を二本、部屋へ下ろしてくれた。こちらは俺たちの身体を支えるためのものだった。

 俺は梯子で床へ戻った。


 ダリオが俺の胸と腿へ綱を回した。身体を預けても抜けないことを確かめ、同じように自分にも掛ける。


「身体の綱、掛けたぞ」


 窓へ呼びかけると、ボルグが答えた。


「よし。先にカイだ」


 横木を支えていた鍬を外す音がした。

 ダリオは代わりに細い綱を横木へ結び、端を梯子のそばまで引いてきた。


 登り始めると、掌の棘が食い込んだ。

 顎を上げる。俺の綱を持つロクの、その向こうに船の家々が見えた。


 早く戻りたかった。

 でも、足を一段飛ばしたら落ちそうで、ひとつずつ踏んだ。


 窓へ腹を載せ、外の梯子へ身体を移す。

 下を見なければいい、と思った途端に見てしまった。


 母親がこちらを向いていた。


 喉から変な音が出た。

 脚が止まった。


「カイ、次は右足!」


 リゼの声。

 俺は右の膝を上げた。


「そう。その上!」


 段を踏めた。

 身体の綱が張り、ロクとオルドが引いた。肩が船の縁を越える。


 甲板へ転がり込んだ俺は、四つん這いのまま咳き込んだ。


「よし、戻ったな」


 オルドが背中へ手を当てた。

 俺は頷き、すぐ窓の方を見た。


 まだ一人いる。


     *


 ダリオは梯子を上がり、高窓へ片肩を入れていた。

 脱いだ革の上着を、片手に持っている。


「血の匂いがついとる。奥へ投げるぞ」


 俺たちへ言ってから、彼は窓の中を見た。

 顔の半分に、岩の影がかかっていた。


 俺もダリオを引く綱を握った。

 掌が痛んだ。持つ所をずらす。


 船の床から、細かい振動が膝へ伝わっていた。

 リゼが六本の脚で、家の高さを保っている。


 誰も、早くしろとは言わなかった。


 ダリオが細い綱を引いた。

 中で横木の落ちる音がした。


 ボルグが戸の綱を緩めた。

 母親が押すと、戸が奥へ跳ねた。


 灰白の身体が穴へ突っ込んだ。

 母親の後ろ脚が石を蹴る。肩に残っていた裂けた網が戸口へ引っかかり、ばりばりと裂けた。


 ダリオの腕が動いた。

 革の上着が、部屋の奥へ消えた。

 獣が向きを変える足音。その間に、ダリオが両肘を外へ出した。


「引け!」


 ロクが踏ん張った。

 俺は彼の後ろで、綱を腹へ引きつけた。


 ダリオの胸が窓を擦る。

 踵が引っかかった。自分で膝を曲げ、足先を外へ抜く。


 窓の中に、黒い鼻が見えた。


 次の瞬間、爪が出た。


「引けえっ!」


 ロクの声が割れた。

 ダリオの身体が外へ出た。窓のすぐ下を靴底が擦り、綱へ重さがかかる。

 俺の足が前へ滑った。後ろからオルドの腕が伸び、腰を支えた。


 持て。

 今だけでいい。


 ダリオが梯子へ片足を掛けた。

 綱で吊られた身体が止まり、もう片方の足も段に載る。


「戸、閉めろ!」


 彼が叫んだ。


 ボルグとヤーナが、柱に回した方の綱を引いた。

 開いていた戸が、外へ戻ってくる。


 鉄板が枠を叩いた。


 どん、と内側からぶつかる音。

 太い綱が一本の線になった。柱の根元で、床板が低く鳴った。


 ダリオの肘が、甲板へ届いた。

 ロクが綱を放して腕を掴む。俺は肩の下へ手を入れた。

 二人で引きずり上げると、彼の膝が床へ落ちた。


 黒い髪が石の粉で白くなり、元からある白い一筋も分からなくなっていた。

 口を開けて息をし、何か言おうとして、咳になった。


 オルドが俺たちの身体の綱を外し、ダリオの背へ掌を置いた。


「座っとけ。次は、あっちだ」


 子の檻を指した。


 俺は、握りしめたままの手を開いた。

 母親が戸を引っ掻いていた。細い高窓には鼻先が見えたが、大きな頭は抜けてこない。


 俺たちは、外へ出た。


     *


 ロクが鍵の紐を手首へ巻き、ヤーナを振り返った。


「俺が降りるよ。戻ったら、水、頼むな」

「今、持ってきます」


 俺が言うと、ロクの眉が上がった。


「お前は座ってろって」


 肩を押され、俺は甲板へ座った。

 膝を曲げて初めて、立っていたつもりの脚が震えていると分かった。


 リゼが船首を少し右へ振った。

 ボルグが戸の綱の張りを調整し、ヤーナが縄梯子を右へ移した。その先が、檻の扉の前の石台へ届く。


 動きが止まってから、ロクが降りた。

 腰の綱は、オルドが持っている。


 幼獣が奥へ下がった。

 ロクは扉の正面を避け、横から鍵を入れた。


 かち、と小さく鳴った。


 何度も破れそうになった戸に比べ、ひどく軽い音だった。


 ロクはまだ扉を開けなかった。

 格子へ細い綱を結び、上へ戻ってくる。


 あと三段。

 二段。


 道具小屋の戸が鳴った。

 戸の下へ木屑が落ちたが、鉄格子に結んだ綱は残った。


 ロクの両足が甲板へ載った。

 梯子を上げる。オルドがリゼへ手を見せてから、檻へ結んだ綱を引いた。


 小さな扉が開いた。


 幼獣は動かなかった。

 奥へ身体を寄せ、大きな前脚を突っ張っている。


 出てこい。

 今なら出られるんだ。


 喉まで出た声を、俺は飲み込んだ。

 人間が騒いで、余計に怯えさせたくなかった。


 戸の向こうから、短い鳴き声がした。


 子の耳が動いた。


 片足が、檻の外へ出た。

 鼻を低くして匂いを嗅ぎ、もう片方も下ろす。

 母親のいる戸へ、よろけるように走った。


「ボルグ、放せ!」


 船長の声で、太い綱が柱から外された。

 端が甲板を走り、船の外へ落ちていく。


 鉄格子を掴んだ爪が引かれ、道具小屋の戸が内側へ開いた。


 灰白の頭が出た。

 母親はまず船を見上げ、歯を剥いた。俺は反射で後ずさった。


 その鼻の下へ、子が潜り込んだ。


 母親の顎が下がる。

 丸い耳の後ろへ鼻を押しつけ、背中を嗅いだ。

 子が、腹の下へ身体を押し込んだ。


 船の上では、誰も動かなかった。


 ダリオが柱へ背を預けたまま、その二頭を見ていた。

 膝に載せた手の布が、赤く濡れていた。


 母親が顔を上げた。

 子の首の後ろを咥え、持ち上げる。短い脚が宙へ丸まった。


 右の低い岩壁へ向かう。

 根の出た所へ前脚を掛け、大きな身体を引き上げた。背に残った網が根へ引っかかる。母親が身をよじると、裂けた網が毛を滑り、岩へ残った。


 白い幹の間へ、灰白の背中が消えた。


 枝が揺れていた。

 その揺れも、少しずつ止まった。


 俺は耳を澄ました。

 子の声は、もう聞こえなかった。


 岩を伝う水が、石台の下へ落ちていた。

 ずっと鳴っていたはずの音が、ようやく耳へ入ってきた。


     *


「全員、帰るぞ」


 オルドが言った。


 誰も大きな声は出さなかった。

 ロクが顔を両手で擦り、ヤーナは長く息を吐いた。


 ダリオが立ちかけた。


「道具が――」

「あとで港と取りに来い。今は怪我人を帰す」


 船長が言った。

 ダリオは空の檻を見て、座り直した。


「……分かった」


 ボルグが綱と梯子を片づけた。

 檻の扉を引いていた細綱も、船から放して地面へ落とす。船と繋がるものがないと確かめてから、船長へ頷いた。


 コハクが、ゆっくり後退した。

 鉄の膝が伸びる。石台が遠ざかり、前脚が白い地面から上がった。


 俺は船首の柵を握っていた。

 知っている床なのに、立つとまだ揺れる気がした。


「カイ。こっちに座りなよ」


 操舵室から、リゼの声がした。開いた戸の向こうで、脇の席を顎で示している。

 ヤーナは乗降台へ出て、帰りの道を確かめていた。俺は戸口をくぐった。


 席へ腰を下ろし、取っ手を握った。

 リゼがちらりと見る。目が合う前に、俺の額へ視線が止まった。


「あとで、ちゃんと診てもらってね」

「うん。ガロさんを先に」

「カイも、だよ」


 俺は頷いた。


 白い枝が、窓の外を流れ始めた。

 関節が鳴るたび、椅子の下から振動が上がってくる。


 リゼの袖は、左右で高さが違った。

 気づいて片方を引こうとして、途中でやめる。操縦桿へ手を戻した。


「迎えに来てくれて、ありがとう」


 言うと、彼女は前を向いたまま頷いた。


「ヤーナさんが戻ってきた時、カイが乗ってなくて」


 彼女の指が、操縦桿を握り直した。


「三人がどこにいるか聞いてる間、早く、早くって。そればっかり考えてた」

「……ごめん」

「今、ちゃんと乗ってるから。もう謝らなくていいよ」


 この顔を、もう見られなかったかもしれない。


 そう考えたら、軽い返事が出てこなかった。

 俺は取っ手から片手を離し、自分の膝へ置いた。


「リゼ」

「ん?」

「戻れて、よかった」


 彼女の唇が、きゅっと結ばれた。


 しばらく、脚の音だけが続いた。

 窓から見える道が広くなり、ヤーナが前へ手を振った。


 リゼが息を吸った。


「帰ったら、お願いがあるんだけど」


「うん」


「今夜、眠るまで一緒にいてくれる?」


 俺は彼女を見た。

 灰緑の目は、道へ向いたままだった。


「また何か聞こえたら、今度はすぐ、カイの顔を見たい」


 鼻の奥が熱くなった。

 俺は一度、息を吐いてから答えた。


「いいよ。そばにいる」


 リゼは一度、鼻をすすった。

 操縦桿を握る指がほどけ、持ち直される。


「……じゃあ、先に手当てね」


 俺が頷くと、リゼはやっとこちらを見て、小さく笑った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。