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第二十七話 迎えに来た家

「俺が帰るって言った時も、帰してくれよな」


 ガロさんが、壁に頭を預けたまま言った。

 ダリオは返事をしなかった。


 俺は二人の間で、汗の冷えた背中を丸めていた。

 外では、爪が木戸の下を擦っている。鉄板に当たるたび、ぎい、と長く鳴った。


「ニルスだけじゃねえよ。俺も、もう今日は帰りてえんだよ」


「……ああ」


「明日も言うかもしれねえぞ」


 ダリオが俯いた。

 笑っていいか分からなかった。ガロさん自身も笑わず、左足を動かさないよう座り直した。


 港まで、セキレイで三十分。

 戻ってくるだけでも、同じだけかかる。


 それまでは、この戸が俺たちの命だった。


 ダリオが腰の小刀で自分の上着の裾を切り、血の出た掌へ巻いた。俺は端を押さえるのを手伝った。

 結び終わると、彼は余った布を畳み、ガロさんの足首の下へ敷いた。


 布を巻いた手にも、太い首にも汗が光っていた。

 ダリオはそれを拭かず、ガロさんの足をそっと床へ下ろした。


 俺は天井近くを見上げた。

 明かり取りは戸の真上にあった。横に長く、上下は低い。人間が立って通れる窓ではない。


「肩、借りてもいいですか」


 ダリオが俺を見た。


「窓を見ます。ここから出られるかもしれない」


 彼は戸の脇で膝をついた。

 俺は岩へ手をつき、彼の腿、肩の順に足を掛けた。


「重いですか」

「今、言ってどうなる」


 それもそうだ。


 掌の棘が痛んだ。窓の下縁を掴む。

 厚い岩をくり抜いた穴だった。頭を横に倒して外へ出すと、冷たい風が耳を撫でた。


 台の右前に、布を引き剥がされた幼獣の檻が見えた。

 母親が格子を舐めている。子は内側から、鼻を押しつけていた。


 その手前で、鉄枠が斜めに倒れている。

 左側には、さっきセキレイが船尾を寄せていた空間があった。船も、人も、もういない。


 俺は肘を引きつけ、片肩を窓へ入れた。

 胸が下縁に載る。

 反対の肩も通った。


 通れる。


 そう思った途端、下で灰白の耳が動いた。


 俺は頭を引っ込めた。

 母親の身体が戸へぶつかった。ダリオの肩が沈み、俺の額が石を擦った。


「戻れ!」


 肩から滑り降りた。

 戸の横木は残っていた。ただ、左の金具の周りから、木屑が少し出ていた。


 窓は使える。

 けれど、外へ降りれば、あの母親の目の前だ。


「上に、足場が要ります」


 俺は額を押さえて言った。


「船が来れば、届くかもしれない」


 ダリオは窓と、戸の横木を見比べた。


「それまで、もたせるぞ」


     *


 鍬の柄を一本、横木の下へ斜めに差した。

 もう一本を反対へ。ダリオが足で根元を押さえ、俺が壁際の石を噛ませた。

 突かれるたびに、柄が細かく震えた。


 子の鳴き声がすると、戸の前の爪音が遠ざかった。しばらくして、また戻ってくる。

 その静かな間にも、誰も戸を開けなかった。


 ガロさんが水を欲しがった。三人とも水筒を持っていなかった。

 俺は窓から見た、岩壁の細い落水を思い出した。歩いていけばすぐなのに、ここには一滴もなかった。


 光の四角が、壁をゆっくり動いた。


 まだだろうか。

 もう、港へ着いただろうか。


 迎えに来てくれと、頼んだ。

 無茶な頼みだったかもしれない。


 その考えが頭を出すたび、俺は鍬の柄を握り直した。

 頼まなければ、誰も俺たちがここにいると知らないままだった。


 何度も痺れた足を伸ばし直した。

 一時間は待っただろうか。もっと長かった気もした。


 土を踏む音がした。


 胸が跳ねた。

 でも、すぐには立たなかった。


 金属の関節が鳴る。

 次の足が地面を押すまでの、少し長い間。その後から、床下の低い唸りが重なった。


 俺は柄をダリオへ預けた。


「もう一度、肩を」


 窓にしがみつき、外を見た。


 森の出口で、白い枝が大きく揺れていた。

 その間から、反った船首が出てきた。


 コハクだった。


 家の屋根が、森を押し分けてくる。


 いつもは内側から見ている家々の壁。窓辺の鉢は片づけられ、洗濯物もなかった。船首の向こうで、太い脚が一つ、白い石を踏んだ。

 船体がわずかに沈み、次の脚が前へ出る。


 あんなに大きかったのか。


 俺は窓へ額をつけた。

 痛いところへ当たったのに、離すのが惜しかった。


「カイ!」


 操舵室の窓から、薄青の袖が出た。

 その上に、継ぎ当ての帽子。


 リゼがいた。


「いた! 船長、上の窓!」


 彼女がこちらを指した。

 俺は手を振った。指先だけしか出せなかったが、何度も振った。


 船首へ出たオルドが、腕を上げた。


「三人ともいるか!」


「います! ガロさんが歩けません!」


「聞いた! そこにいろよ!」


 母親が檻の前で唸った。

 コハクの大きな影が、石台へかかっていく。


 家が、俺を迎えに来た。


     *


 ヤーナが操舵室の横の窓から顔を出した。


「ニルスは港で足を診てもらってるよ! あんたらの場所、ちゃんと教えてくれたからね!」


 俺は頷いた。

 よかった、と言おうとして、声が出なかった。


 リゼがもう一度こちらを見た。灰緑の目が、額から顎へ動いた。


「血、出てるよ」

「擦っただけ。動けるよ」


 彼女は唇を噛み、視線を下へ戻した。

 窓の外の俺から、船と岩の間へ。


「船首を左に寄せるね。檻と倒れた枠には近づけない」


 コハクがゆっくり向きを変えた。

 石台の右にいる母親を避け、左の空いた所へ船首が入ってくる。


 どん、と前脚が台の手前の地面を踏んだ。

 鉄の膝が曲がり、家々の屋根が少しずつ下がった。


 俺の目の高さに、乗降台の床が来た。


 ロクが赤い頭巾の端を結び直していた。

 ボルグは渡し板の横に膝をつき、二本の綱を確かめている。


「怪我人を先に寄越せ。毛布を渡すぞ」


 ボルグが言った。


「こっちから引く。中で身体を支えてくれな」


「分かりました!」


「窓に腹を載せるまでだ。無理に外へ押し出すなよ」


 オルドが船の縁から下を覗き、手を上げた。

 リゼが操縦桿を止めた。


 家の揺れが収まった。


 ロクとボルグが綱を送り、船首の渡し板を下ろした。

 板の先が窓の下縁へ載る。両端に岩を擦った白い跡がついたが、横長の穴へ収まった。


 船まで、板一枚だった。


 その下を見上げていた母親が、子の鳴き声に耳を動かした。

 檻へ戻っていく。

 オルドがその背中を目で追い、俺たちへ頷いた。


「見てて、カイ」


 リゼが言った。


「渡ってる間は動かさない。足を置く所、ちゃんと見て」


 俺は一度、深く頷いた。

 言葉より先に、息が吐けた。


 ロクが船に結んだ縄梯子を渡し板の上へ伸ばし、その先を窓から部屋へ垂らした。

 毛布と、輪にした綱が二本、後に続いた。綱のもう片方の端は、船でボルグが握っている。

 俺は梯子を使って床へ戻った。段を踏むたび、腿が震えた。


「ガロさん。迎えが来ました」


「聞こえてるよ。でけえ迎えだな」


 ガロさんは戸の向こうを見上げた。

 船体の影が格子を塞ぎ、さっきより部屋は暗くなっていた。


 俺たちは毛布を広げ、彼を横に寝かせた。

 綱を身体の下へ回すところは、ダリオがやった。毛布ごと肩側と腿を支えられるようにする。

 合図をすると、上で綱のたるみが取られた。


「先に肩を上げるぞ」


 ダリオが言った。


 俺はガロさんの両脚を抱えた。

 傷めた方は靴をぶつけないよう、脛の下から。


「痛かったら言ってください」


「もう痛えよ」


「ですよね」


 返事をしてから、こんな時に何を言ってるんだと思った。

 でも、ガロさんは少し笑った。


「頼むわ」


 上で綱が張った。

 ダリオが背を押し、俺が脚を持ち上げる。


 重かった。

 さっきから自分の腕ばかり、頼りなく思えた。


 俺は頭の中で、帰り道を切り分けた。

 まず窓。次に板。その先には、ロクがいる。


 全部を一度にやらなくていい。

 今は、この足を落とさなければいい。


「肩、通った!」


 外からロクの声がした。


 ガロさんの上半身が、窓の向こうへ消えた。

 腹が窓の縁へ載ったところで、いったん綱を止めてもらう。

 足をダリオへ預け、俺は脇の縄梯子を二段上がった。それから、もう一度両脚を受け取った。

 下からダリオが俺の腰を支えてくれた。

 これなら、窓まで持ち上げられる。


 窓の外で、子が鳴いた。


 母親の爪が、石を掻いた。


「来るよ!」


 ヤーナの声だった。


 綱が速く動いた。

 俺はガロさんの両脚を窓へ上げた。


 左の靴先が引っかかった。


「待って、足!」


 綱が止まった。


 俺は右手を靴底へ当て、左手で脛を支えた。横へ向ける。通った。


「いいです、引いて!」


 毛布の端が、指から離れた。

 外の板で何かが擦れ、ロクが歯を食いしばる声がした。


「もうちょい……よし!」


 獣の唸りが、それを掻き消した。


 俺は梯子から飛び下りた。腹に痛みが走った。

 窓の光が、灰白の毛で塞がった。


 母親が跳んでいた。


 前脚が渡し板の縁を叩いた。

 爪が食い込み、窓の下縁で木がばちんと鳴った。


「カイ、窓から離れて! 船を上げるよ!」


 リゼの叫び。

 ダリオが俺の腕を掴み、二人で部屋の奥へ下がった。


「離れた!」


 俺が叫ぶと、まず空の縄梯子が窓の外へ引き戻された。


「ガロ、乗った! 板に人はいねえ!」


 ロクの声がした。


 船の低い唸りが、太くなった。


 渡し板が窓から抜けた。

 窓に掛かった爪が、板と一緒に上へ消えた。木を削る音がして、灰白の前脚が窓の下へ落ちた。


 重いものが石へ落ちた。


 俺は耳を塞ぎかけた手を止めた。

 人まで落ちたんじゃないか。


「船長!」


「こっちは全員無事だ! ガロもいる!」


 返事と一緒に、引き上げた板の先が窓の外を上へ通った。


 俺は戸から距離を取り、鉄格子の向こうを見た。

 コハクは一歩、後ろへ下がっていた。高くなった船首の厚い外板と、その上で振られるロクの手が見えた。


 右手に、母親の背中があった。石台へ着地していた。

 落ちた網の切れ端を踏み、もう一度船へ唸った。


 俺は、やっと手を下ろした。


 一人、渡せた。


     *


「カイ! 二人とも無事なの!」


「無事! ここにいる!」


「顔を見せて。声だけじゃ、分からないよ」


 俺はダリオを見た。

 彼がまた、膝をついた。


 今度は肩へ上がるのに、少し時間がかかった。

 窓から顔を出すと、リゼが大きく息を吐いた。操縦桿を握り直す前に、片方だけ上がった袖を引いた。


「いた……」


 声が小さくなった。


 俺も、その顔を見たかった。

 たった今叫び合っていたのに、それだけでは足りなかった。


「ガロさんは?」


「エダさんが見てる。船長もそばにいるよ」


 よかった。

 言えた。今度は、ちゃんと声になった。


 母親が、戸の前を横切った。

 乗降台を見上げ、それから幼獣の檻へ戻る。格子へ鼻を押しつけた子に、喉の奥で短く鳴いた。


「もう一度、板を掛けられる?」


 俺は聞いた。


 リゼが唇を結んだ。


「掛けられる。でも、また飛びついてくるよ。今度は、カイが板にいる時かもしれない」


 否定できなかった。

 彼女は出来ないことを隠していない。俺を安心させるための嘘もつかなかった。


 下から、ダリオの声がした。


「子を連れて出られん限り、離れんぞ」


 俺は窓の下を見た。

 檻の扉は、人が船を寄せていた手前側にある。

 母親が立つ、そのすぐ脇だった。


 昨夜は、俺の窓だった。

 今は、この戸だ。


 場所を変えても、あいつは子がいる所まで来る。


「リゼ。少し、待ってて」


 俺は床へ降りた。

 ダリオは肩を回し、巻いた掌を握り直していた。


「檻の鍵、持ってますか」


 彼の手が止まった。


「ありますよね」


 革の上着の内側へ、その手が入った。

 出てきたのは、紐のついた小さな鍵だった。


 血の滲んだ指が、鍵を覆っていた。


「開けて、返しましょう」


 ダリオは黙っていた。

 戸の外で、格子を舐める音がした。


 俺は彼の目を見た。


「ガロさんは帰れました。次は、俺たちです。あの子を売るために、ここに残りたくありません」


「……逃がしても、襲わん保証はない」


「分かってます。だから、親子を人から離す方法を考えたいんです」


 俺は窓を指した。


「このまま、リゼたちに何度も危ないことをさせたくないんです」


 ダリオが掌を開いた。

 鍵の角へ、血がついていた。


「買い手には、俺から断る」


 掠れた声だった。


「子は返す。もう捕らえん」


 鍵が俺の手へ落ちた。


 俺は窓を見上げた。

 暗い戸に背を向け、ダリオへ手を差し出した。


「じゃあ、もう一度、肩を貸してください」


 彼は頷いて、膝をついた。


 窓へ上がり、俺は鍵を掲げた。


「船長! 子を返します! あの檻を開けるのを手伝ってください!」


 オルドが乗降台へ戻ってきた。

 俺の手と、母親の足元にある檻を見た。

 母親が檻から戸の前へ戻った。爪が鉄板を掻き、下で横木が軋んだ。

 ダリオが肩を踏ん張り直した。


 船の下で、低い唸りが続いていた。


「よし。船の奥へ投げろ。こっちで拾う」


 俺は紐を指から外した。


 小さな鉄が、陽を受けて光った。

 血のついた鍵が、コハクの甲板を跳ねた。

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