第二十六話 その人を引いてくれ
「靴を脱いで、ニルス!」
彼が足元へ屈むより早く、網が跳ねた。
灰白の背中が膨れ上がる。獣にかぶさった網の縁が石台を滑り、ニルスの右足を引いた。
膝が折れた。
伸ばされた手を、俺は船尾から掴んだ。
肩が抜けるかと思った。
「こっち、掴んで!」
ニルスの指が俺の手首へ食い込んだ。
背後から、短髪の船員が俺の腰を抱えた。腹が船べりへ押しつけられる。息が、一度、全部出た。
船と石台を繋ぐ板の上に、ニルスの左手が載っていた。右足だけが、その先の網に捕まっている。
網の真ん中で、母親が首を振った。
ざりっ。
石を削る音と一緒に、彼の身体が遠ざかった。
俺の膝も、甲板から浮いた。
「船、動かさないで!」
「止めてるよ! 足を踏ん張りな!」
ヤーナの声が前から飛んだ。
腰を抱えた男の靴底が、床を擦った。
ニルスの肩越しに、黒い鼻が見えた。
網を噛んでいる。太い糸が歯の間で鳴り、唾が石へ落ちる。
あれがもう一度跳ねたら、俺も一緒に落ちる。
「ダリオさん、網を止めて! 足を抜くから!」
ダリオが石台の左を走った。
網の縁から延びる別の綱を拾い、岩の鉄輪へ通す。手袋の手が二度動き、綱が結びつけられた。
「今だ!」
獣が身を起こした。
綱が張り、網の縁が持ち上がりかけて止まる。
ニルスの靴が、石に取り残された。
「踵を抜いて!」
「ひもが……締まって!」
俺たちは、綱が張っている間にニルスの胸を板へ引き寄せた。
「両手で板を掴んで。そう、離さないで!」
彼が板の両縁を掴んでから、俺は手首を離した。
身体は支えられた。けれど、右脚は後ろへ伸びたままだ。靴だけが網に残っている。
俺は腰を抱えた男を振り返った。
「俺の帯、掴んでてくれますか」
「掴んでる!」
「板の先まで行きます。絶対、放さないで!」
「おい、待て!」
止める声を背中へ受け、俺はニルスへ覆いかぶさるように、板へ腹を滑らせた。
彼の腰の脇から腕を伸ばす。木の角が肋骨に当たった。もう少し。指が、右の靴へ届いた。
泥のついた靴。
革ひもが、二重に結んである。
なんで今日に限って、こんなにきっちり結んでるんだよ。
結び目へ爪を入れた。
指が震えて、同じところを二度、掻いた。
網が盛り上がった。
俺の顔の横で、重りが石を打った。
「カイさん、もう――」
「脱がすから!」
助けられるとか、大丈夫だとか。
今、そんな嘘を作る余裕はなかった。
ただ、脱がす。
この靴を、ここに置いていく。
ひもの輪へ指が入った。
引いた。ほどけた。
「足、引いて!」
ニルスが膝を曲げた。
踵が抜け、靴下の足が俺の顎を蹴った。
歯が鳴った。
帯を引かれ、俺は板の上を後ずさった。ニルスも左脚で石台を蹴り、腕で這った。
船べりへ届いた彼の手を掴み、最後は勢い任せだった。
短髪の男が尻餅をつき、俺はその膝へ落ち、ニルスが俺の腹へ突っ込んだ。
息ができない。
さっきから、腹ばかりだ。
「乗ったよ!」
ヤーナが叫んだ。
ニルスは俺の上で、まだ手首を握っていた。
「すみません。顎、蹴って」
「いいよ。足がついてきたんだから」
声を出したら、歯が痛んだ。
でも、彼の右足はここにあった。靴下の底に穴があり、親指が少し見えていた。
俺はその足を、馬鹿みたいに何度も見た。
*
「頭を押さえろ! 右からだ!」
ダリオの声で顔を上げた。
母親は石台の上で、低く伏せていた。
網の糸が灰白の毛へ食い込み、開いた口から、短い息が噴き出している。
黄土色の頭巾の男が、長い棒を持って檻の奥から回った。先に綱の輪がついていた。
獣が噛みつこうと首を上げる。その下へ輪を通す。
ダリオが綱を引いた。
頭が、横へ倒れた。
二人の手が速かった。
獣の口がどちらへ向くかを、一度も見失わない。片方が引けば、もう片方が足を移す。
母親の鼻先が、石へ押しつけられた。
「取ったぞ」
ダリオが言った。
ニルスが、俺の腕から手を離した。
指の形が、赤く残っていた。
俺は甲板へ座ったまま、呼吸を数えた。
一つ。二つ。
三つ目から、やっと胸の下まで空気が入った。
頭巾の男の向こうに、黒い戸口が見えた。
奥の岩壁へ、四角く穴を掘ってある。
上半分に鉄格子、下半分に鉄板を張った木戸が、開いていた。中には、刃の欠けた鍬が何本も立て掛けてある。昔の道具置き場らしい。
「カイさん、立てますか」
ニルスが聞いた。
「立てる。君は?」
「右足、ちょっと痛いです。でも、乗れました」
笑いかけた顔が、途中で歪んだ。
俺はヤーナの小屋へ向き直った。
「戻りましょう。もう、いいでしょう」
ダリオに許可を求めたかったわけじゃない。
帰るために来たのだ。帰れる時に、帰りたかった。
入口を守っていた見回りが駆けてきた。船の前の縁へ槍と灯りを置き、自分もよじ登った。
ヤーナが操船席から身を乗り出した。
「二人も乗って! いったん引くよ!」
「まだだ。後ろ脚を縛る」
ダリオは母親を見たまま答えた。
「その網だけじゃ、運べん。もう一本回せば――」
ちり、と、石の欠片が落ちた。
俺は音の方を見た。
網を繋いだ鉄の輪。その根元から、白い粉がこぼれていた。
母親が息を吸うたび、肩の毛が膨らむ。
綱がきしむ。
輪の周りのひびへ、粉が吸い込まれた。
「岩が割れてる!」
俺は立った。
「そこ、もう抜けます!」
ダリオも鉄輪を見た。
その目が、すぐに獣へ戻った。
「枠へ取り直す。ガロ、綱をこっちへ!」
頭巾の男が、首を押さえていた棒を持ち替えた。
逃げる用意ではなかった。
まだ、捕まえるために動いていた。
「人を先に戻して!」
俺が叫ぶと、ダリオは歯を剥いた。
「あと一本なんだよ!」
母親の右前脚が、網の目へ入った。
爪が石を掴んだ。
首の綱を引かれたまま、背中が持ち上がっていく。
鉄輪が、岩ごと抜けた。
白い塊が台を跳ねた。
綱の先で振り回され、檻の角へぶつかった。布の中で子が鳴いた。
母親が後ろ脚で立ち上がった。
首に掛けた綱が張り、棒が頭巾の男の手を離れた。
大きかった。
人が二人で地面へ押しつけていたものが、人の背を越えて起き上がった。
引きずった網が、鉄枠の柱へ絡んだ。
「離れろ!」
ダリオの声。
柱が傾いた。
頭巾の男が後ろへ飛んだ。
足だけが、残った。
倒れた鉄の下から、短い悲鳴が上がった。
俺は板を渡っていた。
どうして戻った、と自分で思った。
船へ乗れたのに。帰れたのに。
それでも、今の悲鳴を聞いたまま座り直すことは、できなかった。
檻の左脇に、さっき荷を持ち上げた鉄の梃子が落ちていた。
拾い、柱の下へ差し込んだ。
押した。
びくともしなかった。
手が滑った。
柱の下で、男の顔が白くなった。
ダリオは、網から延びた綱を拾い直していた。
母親が前脚を落とし、石台が鳴った。綱が彼の手から滑っていく。
「網を放して!」
俺は怒鳴った。
「その人を引いてくれ!」
ダリオの顔がこちらを向いた。
男の足を見た。
手から、綱が落ちた。
俺の向かいへ滑り込み、男の両脇へ腕を入れる。
「ガロ、引くぞ!」
それなら、できると思った。
俺は梃子の下へ、散らばった石を一つ蹴り込んだ。
鉄棒の端へ、体重を全部かける。
腕で駄目なら、腹でも、膝でも使う。
格好はもう、どうでもよかった。
柱が、少し浮いた。
「今!」
ダリオが男を引き抜いた。
俺は棒を離し、尻餅をついた。
落ちた柱が、つい今まで男の足があった場所を叩いた。
歯を噛みしめた声が、すぐ横から聞こえた。
助かった。
足は抜けた。
「カイ、そっちからは駄目!」
ヤーナの叫びに、俺は顔を上げた。
板へ戻る道に、灰白の身体があった。
母親は裂けた網を肩へ引っ掛け、俺たちの方を向いていた。
黒い鼻が、ダリオの手の血へ動く。
彼は引いた綱で、手袋ごと掌を擦り切っていた。
船まで、ほんの数歩だった。
その数歩を、あれが塞いでいた。
「奥へ!」
ダリオが男を抱え直した。
俺は反対側の肩を担いだ。
二人で後ろへ下がる。
檻の奥。岩壁の戸口へ。
母親が前脚を出した。
引きずる鉄が、石を掻いた。
戸口の前で、俺の足がもつれた。
男の重さが、丸ごと肩へ載る。腰が折れそうになった。
ダリオが俺の背を押した。
「入れ!」
三人で、暗い穴へ転がり込んだ。
鉄板を張った木戸を、ダリオが引き閉めた。
俺は床の太い角材を拾い、戸の内側にある二つの金具へ落とした。
がんっ。
獣が戸へぶつかった。
角材が跳ね、俺の掌を打った。
落とすまいと押さえた手に、木の棘が刺さった。
もう一度。
戸の上半分に嵌まった鉄格子が、暗くなった。
黒い鼻が、棒と棒の間へ入ってきた。
ダリオが俺の肩を引いた。
爪が格子の内側を掻いた。
さっき立っていたところを、三本の線が通った。
*
俺たちは、戸から奥へ退いた。
道具置き場は、岩を掘り抜いた細長い穴だった。
大人が三人、並んで座れるくらいの幅。奥は行き止まりで、天井近くの小さな明かり取りだけが、外の白い空を切り抜いていた。
俺が両手を伸ばしても、窓へは届かなかった。
頭巾の男が壁へ背をつけた。
左の足首を浮かせ、荒く息をしている。
「ガロさん、でいいですか」
男が、歯を食いしばったまま頷いた。
「ほかにも、どこか痛いですか」
「……足だけだ。ニルスは」
「船へ戻れました」
「そうかよ」
男は目を閉じた。
少しだけ、眉間の皺が緩んだ。
外で、セキレイの脚が鳴った。
船の音が、少し遠ざかった。
俺は戸へ寄りかけ、途中で止まった。
格子の向こうに、母親の肩が見えた。
獣は船を追わず、子の檻と、俺たちの戸口の間に立っていた。
「ヤーナさん!」
声だけを外へ出した。
「行ってください! ニルスを港へ!」
「カイは!」
「ここから出られない! コハクを呼んできて!」
船の音が止まった。
ダリオが俺を見た。
俺は顔を向けなかった。
「岩壁の道具置き場に三人! 一人は足を怪我してる!」
言葉を切り、一つずつ叫んだ。
場所。人数。怪我人。
会社では、頼みたいことを先に伝えて、それから事情を話していた。
今も、それだけだ。口を動かしていれば、泣かずに済む。
「リゼに伝えて! 俺、迎えに来てほしい!」
言ってから、息を吸った。
「船ごと!」
外で、少しの間、返事がなかった。
遠くへ行ってしまったのか。
聞こえなかったのか。
戸の向こうで、母親が息を吐いた。
「分かった!」
ヤーナの声がした。
「今度は全員乗せるからね! そこで待ってな!」
六本の脚が、走り出した。
ニルスの声も聞こえた。俺を呼んでいた。
何と返せばよいか、分からなかった。
「先に飯、食ってろ!」
やっと、それだけ叫んだ。
船の音が、森へ遠ざかっていった。
ダリオが、血の滲んだ手袋を外した。
手が震えていた。
昨夜、弩を構えた時には、少しも震えていなかった手だった。
「……俺のこと、怒ってないのか」
低い声で聞かれた。
俺は壁際の男を見た。
その足。それから、ダリオの手を見た。
「怒ってますよ」
答えると、ダリオの目が伏せられた。
「でも、ガロさんは一人じゃ運べません。あなたに手伝ってもらわないと困ります」
ダリオは一度、深く頷いた。
言いたいことは、山ほどあった。
でも、今それを全部言ったら、残った息までなくなる気がした。
「手、巻いてください。まだ、力を貸してもらいますよ」
俺は男の隣へ座り込んだ。
膝が勝手に震えた。両手で押さえても止まらなかった。
帰ったら、お茶を飲みたい。
熱いやつじゃなくていい。
さっきリゼが言った、甘い方を、ゆっくり飲みたい。
がり、と、鉄が鳴った。
格子の向こうで、黒い鼻が動いていた。
俺たち三人の匂いを、確かめるように。
檻の外にいるのは、獣の方だった。




