第二十五話 檻を降ろす
「ニルス。何を話した」
ダリオは、俺ではなく、隣の青年を見た。
ニルスの肩が少し上がった。
「俺が聞きました」
俺は二人の間へ半歩、出た。
「答えてくれるのは、あなたでしょう」
声が大きくならないように、最後だけゆっくり言った。
大きくしたら、そのまま怒鳴ってしまいそうだった。
鎧鷹の後ろでは、持ち上げかけた網が止まっていた。
鉄の枠を支えている男二人も、こちらを見ている。一人は黄土色の頭巾を被った、四十歳くらいの太い腕の男。もう一人は短髪で、俺と同じくらいの年に見えた。
開けられた床の脇には、外した軸と油布が並んでいた。
ダリオは手袋の指先から手を離した。
「……あの母親は、生きている」
リゼの息が、隣で止まった。
疑っていた。
ほとんど、そうだろうと思っていた。
それでも、本人の口から聞くと、違った。
昨日、この人の話を聞いて頷いた自分の顔まで、思い出した。
「殺してないんですね」
「あの岩場で見失った。死んだとは思っていない」
「それなのに、俺たちには、死んだと?」
「生きていると言えば、預からなかっただろう」
腰の横で、リゼの手が動いた。
袖を揃えようとして、途中で握りしめた。
「当たり前じゃない」
彼女の声は、思っていたより低かった。
「分かってて、言わなかったんだね」
ダリオは顔を逸らさなかった。
「修理が済むまでの二晩だ。子を置いた船の近くに親が来れば、居場所が分かる。こっちは網を直して待てる」
「うちの船へ来るって、分かってたの?」
「そのつもりで、近くの船を選んだ。だが、家の窓を破る前に追い払えると思っていた」
ダリオは、自分の背後の網を指した。
「昨夜は、まだこれを使える状態じゃなかった。明日の朝には鎧鷹を動かせる。子を載せ直し、人のいない所へ連れていって、親を捕らえるつもりだった」
俺は、外した床の周りへ目を向けた。
床を外す必要は、本当だった。
摩耗した部品も、ここにあった。
嘘を一つ入れられただけで、確かめた他のことまで、あの人の都合のいい形になっていた。
「私の声で、カイが食べられてたかもしれないんだよ」
リゼが言った。
俺は彼女を見た。
灰緑の目が、ダリオから動かなかった。
「あなたの道具が直るまで、私たちは何も知らずに寝てればよかったの?」
「窓は直す。寝具も、駄目になった物は払おう」
「それを聞いてるんじゃないよ!」
声が、甲板へ跳ねた。
リゼの肩が上下した。
ダリオは口を閉じた。
俺も何か言いたかった。
昨日、リゼの声で呼ばれた瞬間のこと。窓の向こうで口が開いたこと。今朝になっても、いつもと違う梁を見て身体が強張ったこと。
けれど、どれも、うまく言葉にならなかった。
オルドが、俺たちの横へ来た。
「金の話は後だ。まず、うちに置いた檻を引き取れ」
ダリオが頷いた。
「それと、こいつに当たるなよ」
船長はニルスを見た。
「こいつは、自分が見たことを話しただけだ。責める相手を間違えるなよ」
ニルスが、一度だけ頷いた。
巻布の端を、襟へ押し込んだ。
紺の外套の港係が、手帳を開いた。
「今の説明も、こちらで残します。幼獣の移し先は予定どおり臨時荷場。ただし、そこで親をおびき寄せて捕まえることは認めません」
ダリオが眉を寄せる。
「親が残れば、町へ出るぞ」
「だから、対処を相談するんです。ほかの船に黙って負わせる話ではないですよ」
港係は、網を支えている男たちにも目を向けた。
「檻を置く台と、人を近づけない柵だけ、先に下ろしてください。この網は運ばないで」
作業者の一人が、ダリオを見た。
ダリオは短く顎を引き、男たちは網をゆっくり寝かせた。
鉄が床へ触れる音を聞いて、俺はようやく息を吐いた。
「そこまでして、親も欲しいんですか」
俺の問いに、ダリオはすぐ答えた。
「子一頭なら三百枚だ。親と子を、生きたまま揃えて渡せば千五百になる」
銅貨、千五百枚。
競走の優勝賞金より、ずっと多かった。
「誰に渡すんですか」
「北の町を回る獣買いだ。声を覚える獣を集めて、見世物の飼い場へ売る。成獣を扱える狩人は少ない。これを運べば、次の仕事も取れる」
ダリオは、床の軸を見下ろした。
「船は直さなきゃならん。船員の飯も、道具も、金がかかる」
そういう話なら、俺にも分かった。
修理代が勝手に出てくるわけではない。働いた分が全部、自分の懐へ入るわけでもない。
だが、そのための危険まで、黙って俺たちへ渡してよいことにはならなかった。
「千五百枚のために、知らない人が死ぬかもしれなかったんですよ」
「死なせるつもりはなかった」
「昨夜、窓が割れるまで、俺たちはその仕事をしていることさえ知らなかった」
ダリオの手が止まった。
俺は彼を見たまま、続けた。
「次に誰かへ頼む時は、先に全部言ってください。断るのも、その人が決めることです」
ニルスが、俺の隣で顔を上げた。
「船長」
その呼び方で、オルドではなくダリオを見た。
「俺、母親が来るとも知らずに、あの子のそばで寝るのは嫌です」
言った後で、ニルスは唾を呑んだ。
「餌も、水もやります。檻を運ぶ所まではやります。でも、母親を捕まえる時に、あの檻のそばには残りません」
ダリオは、少しの間、彼を見ていた。
「……分かった。世話を済ませて、戻ってこい」
ニルスはすぐには動かなかった。
それから、俺たちへ頭を下げ、渡し板へ向かった。
俺も一緒に戻ろうとした時、オルドが肩を叩いた。
「先に行ってくれ。俺は、引き取りと支払いを決める」
「はい」
船長は港係へ向き直った。
「前金の四十枚は、昨夜一晩の分として受け取る。二晩目の金は取らん。壊した物は、修理する人に見てもらって、別に請求する。それで記録してくれ」
港係が書きつけた。
「出港までに精算してもらいます。修理の確認にも、こちらから人を出します」
ダリオが頷くのを見て、俺たちは先に鎧鷹を下りた。
渡し板の途中で、リゼが振り返りかけた。
俺は、隣で待った。
「……まだ言いたいこと、あるんだけど」
「うん」
「今戻ったら、同じこと怒鳴っちゃいそう」
俺も振り返った。
言いたいことを全部言えば、すっきりするのだろうか。
しない気がした。
少なくとも、あの窓を前と同じに戻してくれる言葉はなかった。
「先に、檻を降ろそう」
「うん。そうしよう」
リゼが歩き出した。
俺は彼女の横へ並んだ。
*
昼が近づく前に、檻を降ろす支度ができた。
港から、昨日使った低い荷車と、手回しの巻き上げ具をもう一度借りた。
臨時荷場には、ダリオの船員が固定台を運んでいる。港係が台と柵を見て戻り、移してよいと言った。
ニルスは先に、水と餌を替えていた。
長い挟み具を使う手は、昨日と同じように落ち着いていた。小さな給餌口を閉め、鍵を確かめてから、彼は檻の布を整えた。
「もう動かせます」
コハクの住民が、家の戸を開けて出てきた。
見物に来たわけではない。通りの物を脇へ寄せ、檻を載せた荷車が前まで通れる道を空けてくれた。
ボルグが、最後の固定金具を外した。
鉄が床から離れた音を聞いて、俺は思わず檻を見た。
この重さが、ようやく船からなくなる。
荷車へ移す間、ダリオは通りの後ろに立っていた。
その指示で、彼の船員二人が梃子を扱う。ボルグはコハクの床を見ながら、角材を差し込む場所を示した。
俺は前へ回り、ロクと一緒に渡し板の下を空けた。
巻き上げの綱が荷車を支え、車輪が板を下りてくる。
ぎ、ぎ、と、止め金が一つずつ歯を送る音がした。
昨日は、これをうちへ上げた。
今日は、下ろす。
檻の影が、船の床から石畳へ移った。
俺は、綱が緩むまで荷車の枠へ手を添えていた。
荷車が地面へ乗ると、ロクが俺の背を軽く叩いた。
「下りたよ」
「ああ」
言われなくても分かっていた。
でも、誰かにそう言ってほしかった。
坂上までは、港の小さな運搬船を使った。
急な坂を、重い荷車ごと人の手で引き上げずに済む。
六本の短い脚の上に、平たい荷台が載っている。
家はない。船の前に操舵用の小屋が一つあるだけで、その後ろは端まで見渡せた。荷台の脇に、小さな手回しの巻き上げ具が据わっている。
船首に、白い鳥が描かれていた。
「セキレイ号だよ。荷車のまま、こっちへ」
船の上から声を掛けたのは、昨夜、灯りを持ってきたもう一人の見回りだった。
明るい所で見ると、三十代半ばくらいの女の人だった。
短い黒い巻き毛の下で、左耳の小さな銀の輪が揺れている。濃い緑の上着は腰で絞られ、手袋の甲だけが白く擦れていた。
「ヤーナ。ここの荷運びをしてるの。夜は見回りの当番もあるんだけどね」
彼女は、口を少し曲げた。
「昨日、やっと仕事が終わったと思ったら、あれだもの」
「昨夜は、ありがとうございました」
「お互い、無事でよかったよ。さ、そっちは持たなくていい。綱で上げるからね」
俺が差し出しかけた手を見て、ヤーナが荷車の脇を空けさせた。
荷台から下ろした短い板に、車輪を合わせる。
ヤーナの巻き上げ具が綱を引くと、檻は荷車ごとゆっくり載った。車輪へ木の留めを噛ませ、さらに荷車の枠を船へ縛る。
ボルグが、コハクから外した港の巻き上げ具も運んできた。ヤーナはそれを荷台の隅へ縛ってから、前の小屋へ戻った。
操船席の背の角を、指で二度叩く。
「ニルス、前へ。檻には近づかないで乗ってね」
ニルスが小屋の横の細い腰掛けへ座った。
港の見回り一人も乗る。ダリオは船員と一緒に坂へ向かい、オルドと港係がその後を歩いた。
俺とリゼは、コハクに残った。
セキレイが脚を起こした。
家を載せていない小船は、荷台の動きがよく見える。重い檻を後ろへ載せても、前を跳ね上げず、六本でゆっくり荷重を受け直した。
石畳を叩く音が、坂へ遠ざかった。
リゼが、船の後ろへ歩き出した。
俺もついていった。
檻のあった場所には、四つの留め跡が残っていた。
濡れた布の跡と、落ちた毛。ボルグが持ってきた箒で、ロクが床を掃いている。
「そこ、通っていいよ」
ロクが言った。
リゼは腰高の柵の脇を抜け、洗い場まで歩いた。
何も取らず、蛇口にも触らず、そのまま戻ってくる。
「……通れた」
俺は、少しだけ笑った。
「うん」
「分かってるよ。さっきも通れたのは。でも、今、確かめたかったの」
彼女は帽子の鍔へ触れた。
俺にも、なぜそうしたくなったのかは分かった。
あそこへ行ったら危ないと思っていた場所を、ただ歩いて戻ってくる。
それだけのことを、もう一度やってみたくなる。
俺も洗い場へ行き、手を洗った。
水が指の間を通り、桶の底へ落ちた。
昨夜と同じ船なのに、その音を、やっと普通に聞けた。
*
オルドが戻ってきたのは、それからしばらく後だった。
「台へ固定した。港の方にも、引き渡しを見てもらったぞ」
俺たちは洗い場から戻り、前の家並みで船長を迎えた。
「もう、うちの預かりじゃない。見張りも向こうへ移った」
リゼが、長く息を吐いた。
「親の方は、町外れの古い採石場で捕まえるそうだ。運ぶ者を帰してから始める約束で、港も場所を認めた。道には見回りをつける」
あの獣が近くにいる以上、誰かが対処しなければならない。
それは分かっていた。それでも、あの人の言うとおりで本当に大丈夫なのか、すぐには頷けなかった。
カイの部屋は昼のうちに見てもらう、と船長が続けた。
窓の寸法を測り、新しい枠とガラスを頼む。修理代は、港係がダリオへ請求できるよう残す。
それで、すぐに前と同じ部屋になるわけではなかった。
でも、何をするのかが分かると、昨日のまま部屋を避けていなくてもよい気がした。
リゼが、俺の袖をちょんと引いた。
「上掛け、エダさんが見せてって」
「裂けてるやつ?」
「うん。捨てる前に見せな、って」
彼女が少し声を低くして言ったので、俺は笑った。
すぐ隣の家から、エダの顔が出た。
「聞こえてるよ」
「ごめんなさい」
「よく似てたね」
リゼは口を押さえた。
俺は、昨夜の獣の声を思い出しかけて、それから、目の前の彼女が笑っているのを見た。
こっちなら、何度でも聞きたかった。
俺はボルグに声を掛け、一緒に部屋へ入った。
板で塞いだ窓の前に、昨日のお茶の机が出たままになっている。
ボルグが、寝台の周りに残ったガラスを掃き集めた。上掛けにも破片がないか、明かりへ透かしながら払ってくれる。
受け取って持ち上げると、切れた糸の間から床が見えた。
俺が黙ったので、リゼも戸口で止まった。
「……持つよ」
「ありがとう。端だけ、お願い」
二人で畳んだ。
裂け目を内側へ入れると、いつもの布の大きさになった。それでも、持ち上げる時に、そこだけ指が避けた。
エダは受け取った布を広げ、裂け目へ顔を近づけた。
「これは縫えるよ。端を揃えれば、寝る時に足が引っ掛からないようにできる」
「お願いします」
俺が頭を下げると、彼女は布を膝へ載せた。
「窓の方が直ったら、また使いな」
部屋へ戻る途中、リゼが足を緩めた。
「昨夜、私のお茶、あの部屋で飲まなきゃよかったね」
俺は彼女を見た。
「あれ、窓が開いてた時に、聞いてたんでしょ。私が呼んだの」
「たぶん、そうだと思う」
「だから、私が……」
「お茶、持ってきてくれて嬉しかったよ」
途中で口を挟んだ。
急に言いすぎたかと思ったが、リゼは俺を見た。
「次も来てほしい。窓が直ってからでいいから」
彼女の指が、上着の裾を掴んだ。
「……怖くない?」
「怖いよ。今は、まだ。でも、あの人の嘘のせいで、それまで嫌になりたくないんだ」
あの窓は、しばらく怖いと思う。
でも、お茶を持ってきてくれたことまで、彼女に後悔してほしくなかった。
リゼはしばらく俺を見ていた。
それから、小さく頷いた。
「次は、甘い方のお茶にしようね」
「そうしよう」
彼女は俺より少し先に歩き出した。
揃えたばかりの袖口を、もう一度引っ張っていた。
*
ニルスが、毛布を取りに戻ってきた。
ボルグの作業場に置いていた、自分の荷物だった。
持ってきた時より、巻き方が緩い。彼は一度ほどき、巻き直した。
「今日、出るんですか」
俺が聞くと、ニルスは首を振った。
「鎧鷹は、まだ動きません。俺はこれから、採石場へ行きます」
「君も行くのか」
「はい。最後の世話までしてこいって、船長に」
腹の奥が、重くなった。
檻が船を下りたところだった。
俺はもう、あの親子のことを、少し遠くへ置こうとしていた。
ニルスにとっては、ここで仕事が終わるわけではなかった。
「捕まえる時は、そばに残らないって言ってたよな」
「はい。運んで、固定して、水を入れたら帰ります。見回りが一人、道の方を見ててくれるので」
彼は毛布の端を膝で押さえた。
「餌皿を出す時、あの子、すぐ隙間へ顔を寄せるんです。布の陰から爪も出します。いつもどおりの手順で触ると危ないから、それは伝えておきたくて」
「誰に伝える?」
「黄土色の頭巾の人です。普段は成獣の世話をしてます。今回は俺が子についてたから」
仕事を放り出したくないのは、分かった。
けれど、それだけで引き受け続けたら、いつ帰れるのだろうと思った。
俺も、これが終われば帰れるというところで、もう一つ頼まれたことは何度もある。
断るほどのことでもない、と受けているうちに、帰ると言い出した自分の方が悪いような気になった。
相手がずっと一緒に働いてきた船長なら、なおさらだろう。
「帰りは、どうする?」
「運んでくれる、ヤーナさんの船で」
「その人には、もう頼んだ?」
「……まだです」
俺は、毛布の反対の端を持った。
「先に頼もう。帰る船が決まってれば、言いやすいから」
ニルスは、俺の手と毛布を見比べた。
「いいんですか。俺、あの人の船の者なのに」
「嘘をついたのは、君じゃないだろ」
彼は何か言いかけ、口を閉じた。
俺は毛布を押さえたまま待った。
ニルスが巻き終え、紐を掛ける。結び目が締まってから、顔を上げた。
「じゃあ……一緒に聞いてもらえますか」
「うん」
前の乗り口へ行くと、オルドがヤーナと話していた。ヤーナは自船の操船小屋の戸口に立ち、地上の船長へ返事をしている。
セキレイは一度、採石場へ荷を運び、戻ってきたところだった。荷台は空いている。
「網の枠と台、港の巻き上げ、それから人を先に運んだんだよ。子の檻は二度目」
ヤーナが説明した。
「一度に運べって言われたけど、重さだけの話じゃないからね。乗る人の足を置く場所まで埋めちゃ、運べないよ」
彼女は、操船席の背の角を二度叩いた。
「二度でいいの。ちゃんと帰ってくれば」
ニルスが、巻いた毛布を抱え直した。
「俺、檻の世話を引き継いだら、一緒に帰りたいです。乗せてもらえますか」
「もちろん。捕まえる方の仕事までは、私も頼まれてないもの」
ヤーナはオルドへ顔を戻した。
「帰りに、港の荷車と巻き上げ具を返すの。そっちは手が一人あると助かるんだけど、誰か借りられる?」
「俺、行きます」
言ってから、船長を見た。
「道具を持って帰ります。ニルスも一緒に、戻ってきていいですか」
オルドは俺の顔を見て、それからニルスへ目を移した。
「帰ってきて、どうする?」
「仕事の話を、港でし直したいです。次に何を頼まれるのか、先に聞いてから決めます」
船長は頷いた。
「なら、乗せて帰ってこい。飯を一人分残しておく」
ニルスの口が、少し開いた。
「ありがとうございます」
「礼は帰ってからでいい。カイ、獣が見えたら荷役はやめろ。捕まえる仕事には手を出すなよ」
「はい。運んだ物を下ろしたら、戻ります」
俺には、親を捕まえる腕も、捕まえ方を指図できる知識もない。
ただ、帰ると決めた人が、本当に帰ってこられるように、隣にいることはできると思った。
リゼが、俺の後ろから降りてきた。
「場所、聞いておこうよ」
彼女はヤーナへ顔を向けた。
「どっちの道?」
「坂を上がって、町へ入る手前で森の方へ。古い石運びの道だよ。白い幹に赤い帯が三本塗ってある所で右へ入ると、切り崩した崖が見える。うちの船で、三十分くらい」
「コハクも通れる?」
「石を積んだ大船が通ってた道だから、幅はあるよ。枝は張り出してるけどね」
リゼが頷いた。
俺を見て、袖へついた小さな糸を摘まんだ。さっき、上掛けを畳んだ時のものだった。
「荷物を下ろしたら、ちゃんと帰ってきてよ」
「うん」
「ニルスも、一緒だよ」
ニルスが、俺の隣で深く頷いた。
リゼは二人を見てから、ようやく袖を離した。
「帰ってきたら、ご飯にしようね」
俺は頷いた。
その約束は、守りたかった。
*
臨時荷場は、坂を上がり切った所にあった。
ここから先、広い道は町の屋根の間へ入る。
その手前で左へ分かれた道が、白い森へ続いていた。荷場は二つの道の間の、石を敷いた空き地だった。
柵の向こうで、幼獣の檻が台へ固定されていた。
ダリオの船員と見回りが一人ずつ、離れて立っている。
セキレイが低く止まる。
ニルスが短髪の船員へ声を掛け、鍵と獣の様子を確かめた。
俺は檻の方へ勝手に手を出さず、車輪留めの木を、台の上の空の荷車まで運んだ。
固定を外した檻を、船員とニルスが梃子で少し浮かせる。空いた底の隙間へ低い荷車を差し込み、そっと重さを移した。
台の端から船へ、板を渡す。
ヤーナが船の巻き上げを回すと、綱に引かれた荷車が、板の上をゆっくり進んだ。
重さを受けるたびに、歯車の音が低くなる。
ヤーナは途中で一度止め、車輪が板から外れていないかを見てから、再び手を動かした。
待っている間、俺は町の方を見た。
屋根の下の板道を、人が歩いている。
桶を二つ下げた女の人が、小さな橋を渡った。湯の流れる音が、ここまで届いていた。
あの人たちのすぐ近くを、昨夜はあれが歩いていた。
動き出したセキレイは、町へは入らず、左の道へ曲がった。
石畳は、すぐに古い敷石へ変わった。
継ぎ目の間から、濃い緑の草が伸びている。左右の白い幹が近づき、頭の上で葉が擦れ合った。
ニルスは毛布の包みを操船席の後ろへ置き、前の腰掛けに座った。俺は反対側だった。
背中の向こうでは、檻の布が風を受けて膨らんでいた。船員と見回りは荷台の前寄りに乗り、檻との間を空けている。
「今なら、ちゃんと話せますかね」
ニルスが、小さく聞いた。
「船長と?」
「はい。俺、急に怒って、辞めたいって言ってるみたいに見えたかなって」
俺は、少し考えた。
「嫌だって言ったことは、ちゃんと伝わってたと思うよ」
「それで、飯まで食べに戻るのも、変かなって」
「飯は、うちの船長が誘ったんだ。食べていいと思う」
ニルスが、ようやく少し笑った。
「昨日、おかわりまでしてましたしね」
「今日も足りなくなる前に言ってくれよ」
彼は頷いて、前を向いた。
俺も、木々の先へ目を戻した。
白い森は、昼なのに遠くまで見通せなかった。葉は上で重なり、地面の低い所へ湯気が溜まっている。
水の匂いに、石の匂いが混じった。
幹に赤い線が三本ある木の所で、ヤーナが右へ曲がった。
枝の間から、明るい岩肌が見えた。
*
採石場は、森の中を四角く切り取ったような場所だった。
奥と左右に、削られた岩の壁が立っている。右手の壁だけは低く、その上から木の根が何本も垂れていた。
入ってきた道の方だけが開き、石を運び出した跡が、床のように平らな地面へ続いている。
奥の壁際に、幅の広い石台が残っていた。
地面から人の腰ほどの高さで、上は平らだ。そこへ船を寄せれば、荷台とほぼ同じ高さになる。
石台の奥半分には、檻を留める木の台。
手前半分の上には、大きな網が広げて吊ってあった。
檻を運ぶ俺たちも、まず、その下を通ることになる。
「あれ、どうやって落とすんだ?」
ニルスに小声で聞いた。
「台の左に、綱を留めてる棒があるでしょう。あれを抜くんです。今は抜きませんよ」
網を吊る鉄の枠から、太い綱が左へ伸びている。
岩へ打ち込まれた古い鉄の輪を通り、その先が留め棒へ掛かっていた。棒を抜くと綱が外れ、鉄の重りを縁へつけた網が落ちる仕組みらしい。
ダリオは、その棒のそばにいた。
こちらに気づくと、手を上げる。
「石台へ船尾を寄せてくれ。檻を下ろしたら、そのまま出られる向きで」
ヤーナは、先に周囲を見た。
「戻る道は、空けたままにしてね。船の脚を通す所へ綱を張らないでよ」
「ああ。入口には掛けていない」
俺は後ろを見た。
森へ戻る道は、一つだけだ。今は、何も置かれていない。
見回りが船を下り、入口の脇へ立った。
三十歳くらいの、日に焼けた男だった。長い柄のついた槍と、灯りを持っている。昼の灯りは昨夜より弱く見えた。
ヤーナは船を回し、石台へゆっくり下がった。
甲板と台の高さを合わせ、止める。
六本の脚の音が消えた。
耳の奥へ、水の流れる細い音が入ってきた。奥の岩壁の端から、透明な水が糸のように落ちている。
近くで見れば、白い石は一色ではない。
薄い青と緑が、縞になって走っている。誰かが切り出しかけてやめた大きな石には、平たい鉄の刃が残っていた。
別の日に来ていたら、もう少し見てみたかった。
黄土色の頭巾の男が、石台の上で待っていた。
借りた巻き上げ具は、すでに台の奥へ固定してある。男はその綱を引き出し、船の荷車へ掛けに来た。
俺もヤーナに呼ばれ、荷車の車輪留めへ回った。
ニルスは先に布の裾を直していた。檻の隙間から、爪が届かないようにするためだ。
船尾と石台の間に、短い板が渡された。
荷車の枠を持ち、俺と短髪の船員が脇につく。
台の奥で、頭巾の男が巻き上げを回した。
綱が張った。
車輪が、板をゆっくり渡っていく。
石台へ乗り移る時に、がたん、と車体が揺れた。
ニルスが手を上げたので、巻き上げが止まる。俺たちが荷車を真っすぐに向け直してから、また綱が引かれた。
網の下へ入ると、影が顔へ落ちた。
頭の上で、縁の鉄が小さく触れ合った。
母親はここへ来る。
俺が今、歩いている所へ。
奥の木の台まで行き、檻を梃子で持ち上げるのを手伝った。
荷車を抜き、檻を置くと、頭巾の男が四隅を留めていった。
「これで固定は終わりだ。ニルス、水を頼む」
ダリオが、台の左脇から言った。
ニルスは給餌口のある左側へ回り、頭巾の男へ皿の出し方を教え始めた。
俺と短髪の船員は、港の巻き上げ具を外した。
空の荷車へ載せて縛り、板を渡ってセキレイへ戻す。最後はヤーナが自船の巻き上げで引き込み、車輪を留めた。
これで、帰れる。
振り向くと、ニルスはまだ相手へ説明していた。
待とうと思った。
必要な説明を、俺の都合で急がせたくはなかった。
ダリオが、吊った網を見上げた。
手袋へ指を押し込み、留め棒のそばで足を止める。
「水が済んだら、布を全部外してくれ」
ニルスが顔を上げた。
「俺たちが帰ってからでいいですよね」
「ああ。子が見えるようにしておけば、あとは待つだけだ」
ダリオは森へ目を向けた。
俺も、同じ方を見た。
来るとしても、また夜なのだろうか。
そう思いかけて、やめた。夜しか出ないとは、誰にも聞いていない。
昨夜、あれは子の檻を掴んでいた。
今日、その檻が動いた。
母親は、今もどこかで、追っているのかもしれない。
ヤーナが、操船席から声を掛けた。
「カイ、ニルスを呼んで。そろそろ出るよ」
俺は片手を上げ、ニルスを見た。
彼も頷いた。
長い挟み具を頭巾の男へ渡し、檻の左脇を通って、こちらへ歩き出す。
右手の岩壁で、小石が跳ねた。
「右だ!」
入口の見回りが叫んだ。
岩の上に、灰白の頭があった。
丸い耳。
黒い鼻。
その下に、太い前脚が一本ずつ掛かった。
左の足先の、内側の指が欠けていた。
昨夜、窓越しに見た時より大きく感じた。
あの肩が、引っ掛からずに俺の窓へ入るはずがなかった。だから、壊したのだ。
「船へ戻れ!」
ダリオが叫んだ。
ニルスが駆け出した。
俺は船尾で片膝をつき、渡した板の端を押さえた。
母親が、岩の縁から跳んだ。
石台の右端へ、四本の足が下りた。
重い音が響く。布の中で、子が甲高く鳴いた。
母親がその声へ顔を向けた。
吊った網の下へ入り、奥の檻へ向かってくる。
ニルスは、まだその手前にいた。
板まで、あと数歩。
ダリオが留め棒へ手を掛けた。
「待って! ニルスがまだ!」
俺が叫ぶのと、棒が抜けるのは、同時だった。
綱が鉄の輪を走った。
網の重りが、ニルスのすぐ横へ落ちた。
彼は板へ手を伸ばしたが、足が出なかった。
落ちた網が、片方の靴に絡んでいた。




