第二十四話 死んだはずの母親
窓の下の金具が、壁から浮いた。
釘が抜ける音がした。
俺は戸の取っ手を掴んだ。回すつもりなのに、指が滑る。
「私が開ける。カイ、窓を見てて」
リゼが俺の手の下から取っ手を握った。
目だけを戸の小窓へ向ける。
「船長、そこにいる?」
「いるぞ。向かいへ入れ!」
小窓に、白いものの交じった短い髪と、オルドの顔が見えた。
俺は窓へ顔を戻した。
灰白の頭が、いったん下がる。
次の瞬間、ガラスが割れた。
床へ散った破片が、細かく跳ねる。
長い前脚が窓の中へ入り、寝台の縁を掻いた。布の裂ける音がした。
リゼが戸を開ける。
俺たちは通りへ飛び出した。
「そのまま、炊事場だ!」
正面には、いつもロクが飯を作っている家がある。
開いていた戸から、赤い頭巾が覗いた。
リゼを追って、そこへ入った。
オルドが俺の部屋の戸を閉めた。隙間から見えていた灯りが消え、鍵束から抜いた鍵が、戸の錠に差し込まれる。
通りを挟んだ、ほんの数歩だった。
なのに、炊事場へ入った後も、足が走ろうとしていた。
鍋の置かれた台へ腰が当たる。金物が鳴って、俺は自分の身体をようやく止めた。
「二人とも、怪我は?」
ロクが俺の肩を掴んだ。
「俺は、ない。リゼは?」
「大丈夫。どこも切ってないよ」
彼女は両手を見せてから、俺の腕を見た。
俺も顔を見た。頬にも首にも血はない。
よかった、と言おうとして、息だけが出た。
戸口にニルスがいた。
前の渡し板を上げて戻る途中だったらしい。痩せた顔を後ろへ向け、檻のある方を見ていた。
「幼獣は、まだ檻の中です!」
船の後ろで、短い鳴き声が上がった。
人の声ではなかった。喉の奥を擦るような、細く高い音だった。
向かいの家の中で、木がもう一度軋んだ。
それから、外壁を引っ掻く音が遠ざかっていく。
獣が、窓から離れた。
俺の部屋へ入ったのか、外を回ったのか。
ここからは見えない。
ニルスが戸口から一歩、出かけた。
「行かないでくれ」
俺は彼の灰色の袖を掴んだ。
「檻は閉まってるんだよな」
「はい。でも、あんな声で鳴くの、初めてで……」
「大きい方は、今どこにいる?」
ニルスの足が止まった。
檻までの通りに、獣の姿はない。
けれど、家の外側を通ってきたものが、いつ後ろへ回り込むか分からない。
檻を確かめている彼の、その背中へ来るかもしれない。
ニルスは唇を噛んで、一歩戻った。
「……そうですね。ここから見ます」
「ありがとう。船長が戻るまで、一緒にいよう」
知らないからこそ、今は一人で行かせたくなかった。
通りではオルドが、家々へ声を掛けていた。
「戸と窓を閉めろ! 外へ出るな。困ったことがあったら、戸の内から知らせてくれ!」
返事がいくつも上がった。
どれが誰のものなのか、いつもならすぐ分かったはずだ。
今日は、それだけでは安心できなかった。
リゼが炊事台に置かれたランプを持ち上げた。
ロクが片手で制する。
「外へ持っていくなよ」
「うん。出入りする所、暗いから」
彼女は、戸の隣にある窓の縁へランプを置いた。
通りに面した小さな窓だ。ガラスに火が映ると、顔を傾け、映り込みの少ない所を探した。
「カイ、ここなら見えるよ」
俺も横へ寄った。
後ろの家並みが途切れる所に、腰の高さの柵がある。
ボルグの作業場の軒に吊った灯りが、その向こうを照らしていた。幼獣の檻に掛けた布が揺れている。
鉄が、低く鳴った。
檻の横に、灰白の背中が現れた。
船の外を回り、洗い場のある船尾から上がってきたらしい。
獣は檻へ鼻を押しつけている。布の端を咥え、首を振った。
布が落ちた。
中の幼獣が、前脚を鉄の棒へ掛けた。
ガン、と鳴った。
大きい方が檻を押したのだ。鉄の棒が揺れ、床へ留めた四隅の金具が、硬い音を返す。
外れなかった。
だが、もう一度押された時、俺は息を止めた。
あそこは、今朝まで荷箱を置いていた場所だ。
ロクと俺が縄を片づけ、ボルグに足元を注意されていた、いつもの船の後ろだった。
今は、その先へ誰も行けない。
「ボルグさんは?」
俺が聞くと、ニルスが檻の手前、右側の家を指した。
「さっき、あの戸から顔を出してました。俺に、こっちへ戻れって」
ボルグの作業場の戸は、閉じていた。
檻と、その戸の間には、何歩も距離がない。
後ろへ行ってはいけない。
けれど、ボルグをあそこへ残しておくのも怖かった。
俺は窓へ手をつきかけ、途中で止めた。
押したところで、何も助けられない。
「ニルス。あの檻、大きい方にも耐えるのか?」
「押されるだけなら。でも、船に留めてる所は、俺には……」
言い終わる前に、檻がまた鳴った。
オルドが戸口へ戻った。
「どの家も戸を閉めた。ボルグも出ない。こっちの戸も閉めるぞ」
船長が入ると、ロクが戸を引いた。
留め金が落ちる音を、俺は肩を固くして聞いた。
船の前から、男の声がした。
「オルド! ダリオだ。板を下ろしてくれ!」
オルドが、通り側の小窓へ顔を近づけた。
俺たちのいる家から、前の乗り口は近い。
上げた渡し板の向こうで、灯りが二つ動いていた。
「顔を上げろ!」
船長が言った。
片方の灯りが持ち上がる。
硬い革の襟と、黒髪の前にある白い一筋が照らされた。
ダリオだった。
木の銃の先に、短い弓を横向きにつけたような道具を、肩に担いでいた。
その隣に、紺の外套を着た男がいた。
昼間、預かりの相談に来た港の係だ。もう一人、灯りを持った見回りが後ろに立っている。
「船の後ろにいる!」
オルドが答えた。
「分かってる。家の中から誰も出すな。俺が通る」
檻が、また鳴った。
オルドがロクを連れ、前へ出た。
二人が渡し板の留め棒を抜くと、地上の男たちが板を受けた。ゆっくり下がる木の向こうから、ダリオが上がってくる。
船長は乗り口に残り、港の男へ何かを伝えた。
ロクが先に戻ってきて、炊事場の戸を閉めた。
「船長は、前を見てる。人が上がってこないようにするって」
ダリオは通りへ入ると、すぐに壁際へ寄った。
背中の道具を下ろし、短い矢を載せる。
弩、という名前が頭に浮かんだ。
ゲームの中では何度も見た。けれど、これには派手な飾りも光る部分もない。握りの木は黒く擦れ、引き絞られた弦が雨粒を震わせていた。
矢の先は、尖っていなかった。
太い革で包んだ、丸い塊がついている。
ダリオは俺たちの窓を見た。
「その灯りを、こっちへ向けるな。奥の獣が見えなくなる」
「分かりました」
俺はランプを窓から下げ、炊事台へ移した。
リゼが台の端にあった皿を寄せ、置く場所を空ける。
窓ガラスから、火の映り込みが消えた。
後部では、作業場の軒に吊った灯りが、檻と獣の片側を照らしていた。
大きい方が檻へ前脚を掛ける。押すのをやめ、鉄の隙間へ鼻を入れようとしている。
ダリオが、ゆっくりと通りを進んだ。
家々の戸は閉まっている。
戸の内側には、人がいる。
ダリオと俺たちの間に、一軒、また一軒と家が増える。
あの獣がこちらへ走り出したら、狩人は間に合うのか。途中の戸は、みんな閉まっている。
「ロク。この戸、すぐ開けられるようにしておいてくれる?」
「うん」
ロクは留め金へ手を掛けた。
俺は戸の内側に置かれた水桶を、足で炊事台の下へ押し込んだ。逃げ込んできた人が、ぶつからないように。
向こうへ出て何をすればいいのか、俺には分からない。
けれど、逃げて戻る先が閉じていることだけは、なくしたかった。
ダリオが止まった。
檻の前の柵までは、まだ離れている。
弩を肩へ当てた。
獣の耳が動いた。
顔が、こちらを向く。
「カイ、開けてよ」
通りの奥から、リゼの声がした。
リゼの指が、俺の手首へ触れた。
俺は彼女の顔を見ずに、その手を握った。今どこにいるかは、分かっていた。
ダリオが、短く舌を鳴らした。
獣は腰を落とした。
檻から離れ、前脚を柵へ掛ける。
弦が鳴った。
硬く短い音だった。
続いて、肉を打つ、鈍い音がした。
獣の鼻先が横へ振れた。
俺はリゼの手を離して、戸へ向いた。
ロクも留め金を上げかけた。
だが、ダリオは戻ってこなかった。
肩の弩を下ろし、脇についている短い梃子を引く。
弦が戻る。腰の筒から次の矢を抜く。
柵の向こうから、片方の前脚がこちら側へ下りた。
「来るなよ……」
誰の声だったか分からなかった。
自分だったかもしれない。
ダリオが、もう一度弩を上げた。
獣の口が開いた。
今度は人の声ではなかった。腹の底まで響くような、低い唸りだった。
ダリオは動かなかった。
俺なら、とっくに後ろへ走っていた。
それができる場所を空けてもらっているのに、あの男は足を引かない。
獣の頭が、わずかに下がった。
次に動いたのは、後ろ脚だった。
檻の脇へ身を返し、灰白の背が船尾の縁を越えた。
地面で水が跳ねる。何か重いものが、石畳を走っていった。
ダリオは弩を構えたまま、しばらく待った。
船の後ろには、檻だけが残っていた。
幼獣が、鉄の棒へ爪を掛けたまま鳴いている。
「追うな!」
ダリオが港の男たちへ叫んだ。
「灯りを外へ出せ。船の下を見ろ。一人では行くなよ!」
俺は戸の前に立ったまま、動けなかった。
終わったのか。
それとも、次は炊事場の外窓なのか。
リゼが俺の背中へ触れた。
「カイ。ランプ、取ってきてもいい?」
見下ろすと、彼女の袖を握っていた。
いつ掴み直したのか、覚えていなかった。
「ごめん」
「すぐそこだよ。持ってくるね」
俺は指を開いた。
握っていた形のまま、少しの間、指が伸びなかった。
*
船の周囲を見回った港の男たちは、森の縁へ向かう足跡を見つけた。
獣そのものは、見つからなかった。
ダリオと港の係が一緒に見て戻り、オルドへそう報告した。
コハクの下にも、外壁沿いの足場にも、姿はなかったという。
俺たちが炊事場から出られたのは、その後だった。
オルドが各家の戸を叩き、顔を見ながら人数を確かめていく。
眠っていた人も、寝台から起こされた人もいた。エダは肩へ厚い布を掛け、銀の髪を片手で押さえて出てきた。
「怪我をした人は?」
「今のところ、いない。あんたの所は?」
「私も平気だよ。……あんな声がするんだねえ」
彼女は俺とリゼを見て、言葉を切った。
俺は頷くだけになった。
十五人と、ニルス。
全員の顔を確かめ終えた時、オルドはようやく鍵束を腰へ戻した。
ボルグが檻の四隅を調べていた。
しゃがんで金具へ灯りを寄せ、一つずつ床を押す。
「留めは抜けてねえ。板も割れてないぞ」
ニルスは、長い挟み具で落ちた布を拾い上げた。
俺は昼よりずっと遠く、柵のこちら側にいた。
幼獣が、布を追って顔を動かす。
かわいい、と思った昼の気持ちまで嘘になったわけではなかった。
けれど、あの窓を見た後では、近づく足が出なかった。
ダリオが自分の矢を拾った。
丸い先の革が裂け、その下から鈍い色の金属が見えた。
「刃は、ついてないんですね」
俺が聞くと、彼は矢を腰の筒へ戻した。
「打って怯ませる方だ。鼻へ当たれば、嫌でも下がる」
「普通の矢も、あるんですか?」
「ある。だが、一発で死ななきゃ、この上で暴れるぞ」
言いながら、手袋の指先を押し込んだ。
俺には、どちらが正しいか分からなかった。
あの場に立って追い払ったのは、この人だ。
そのことには、助けられた。
だが、それで終わりにはできなかった。
オルドも同じだった。
「預かりは、ここまでだ。回収してくれ」
ダリオが顔を上げた。
「大きいのが船へ来たら終わり。そういう約束だったな」
「……ああ」
「このまま二晩は置かない。俺たちの家だぞ、ここは」
船長は声を張らなかった。
だからこそ、話し合って値段を上げる余地もないのだと分かった。
ダリオは檻を見た。
「鎧鷹の床は、まだ開いている。今戻しても固定できない」
「なら、港と別の場所を決めろ。ここへ残す理由にはならん」
紺の外套の男が近づいた。
短く刈った髪が雨で額へ張りついている。昼の相談でも、できないことはできないと言った人だった。
「坂上の臨時荷場を使います。明るくなったら固定台と柵を運んで、こちらで確認する。ダリオさん、手配はあなたがしてください」
ダリオが、地面へ目をやった。
「今、動かすのは?」
「暗い所で檻を転がして、あれを町へ連れていく方がまずいですよ。ここには見回りを残します。今夜のうちに台を準備して、朝には移せるようにしましょう」
オルドはしばらく黙っていた。
俺も、今すぐ檻を下ろしてほしかった。
あれを積んでいるから、大きい方が来たのかもしれない。窓に爪が掛かる音を、もう聞きたくなかった。
でも、町へ上がる道には、宿も浴場もある。
檻の後を獣がついていったら、今度は誰の窓に来るのか。
「朝、固定が済み次第だ。期限を修理の終わりへ戻すなよ」
船長が言った。
「それと、窓が一枚やられた。中を確かめて、直す費用は別に出してもらう」
「分かった」
「港の方にも、今の話を残してくれ」
紺の外套の男が頷いた。
「見回りは交代で二人、檻を移し終えるまでここにつけます。船の下も、隣の船も見ますから」
オルドは前の操舵室を見た。
「リゼ。今夜は船体を上げておく。動かせるか?」
「うん。私がやるよ」
彼女は袖口を揃えた。
片方だけ引きすぎて、少し戻す。
ボルグが機関を確かめに行く間に、オルドとロクが渡し板を上げた。港の二人は地上へ残る。
俺はリゼと操舵室へ入った。いつもの横の腰掛けへ座ると、足元から低い振動が伝わってきた。
ボルグの合図を、前で待つ船長が取り次いだ。
リゼが桿を倒す。
窓の下で前脚の関節が開き、家々を載せた床が、ゆっくり持ち上がった。左右で金具の噛み合う音がして、窓の向こうの港が低くなる。
歩き出しはしなかった。
普段、道を歩く時の高さまで、身体を起こしただけだ。
地面から窓下の足場へは、簡単には届かなくなった。
それでも、脚を伝って登ってくるかもしれない。下で見張る灯りが二つあることを、俺は何度も確かめた。
リゼが桿から手を離した。
「ここなら、上がってくる前に見えるよね」
「うん。さっきより、ずっと」
眠れるかどうかは、まだ分からなかった。
けれど、自分たちでできることが一つ増えた。
通りへ戻ると、ダリオが檻を見ていた。板を上げる前に下船せず、布の掛け直しをニルスへ指示していたらしい。
金の話をしても、怖かったことがなくなるわけではない。
それでも、ここを直すのは俺たちの財布ではないと、船長がはっきり言ってくれたことはありがたかった。
俺は、ダリオへ向き直った。
「あれが、あの子の母親じゃないんですか」
彼は俺を見た。
左頬の古傷に、雨水が溜まっていた。
「似た獣は何頭もいる。子の声や匂いへ寄ることもある」
「でも、母親は死んだと、言いましたよね」
「俺が見た。あの晩、岩場の下でな」
昼と同じ答えだった。
俺は檻を振り返った。
大きい方は、布を外して中へ鼻を寄せていた。幼獣も逃げずに、鉄の棒へ身体を押しつけていた。
だから親子だ、と決めてよいのかは分からない。
俺は、昨日までこの獣の名前すら知らなかった。
けれど、確かめなくてよいとは思えなかった。
ダリオは前の乗り口から縄梯子で下り、自分の船へ戻っていった。
俺はニルスに聞いた。
「君も、母親を見た?」
「捕まえる前なら。子を檻へ入れた時、近くに来たので」
「死んだ所は?」
「見てません。俺は子の檻についてましたから」
ニルスは、掛け直した布の端を柵から離した。
「船長が戻ってきて、もう追ってこないって。それで、引き上げたんです」
肩まで湿った灰色の上着が、ひどく薄く見えた。
さっきまで同じ炊事場で息を潜めていた人間へ、俺は詰め寄ろうとしている。
俺は、少し声を落とした。
「いつ捕まえたかも、教えてもらえる?」
「十三日です。その晩にあそこで休んで、次の日、港へ来ました」
「ありがとう。君を責めたいわけじゃないんだ。分かったことがあったら、教えてほしい」
ニルスが、ようやく俺の顔を見た。
「俺も、今のがあの母親かどうか、見たいです。こっちからじゃ、脚が隠れてたから」
脚。
俺が聞き返すと、ニルスは自分の左手を開いた。
「母親は左の前脚に、指が一本なかったんです。内側の。古い傷みたいに塞がってました。子を捕まえた時、檻にその脚を掛けたので、覚えてます」
今の獣の足先を、思い出そうとした。
窓へ入ったのは長い腕と爪だった。
そこから離れることに必死で、指の数なんて見ていない。檻の所でも、布や柵が邪魔になっていた。
「分かる跡が残ってたら、呼んでくれる?」
「はい」
彼が、首の巻布の端を襟へ押し込んだ。
指が一度、布を取り損ねた。
*
俺の部屋へは、ボルグと一緒に入った。
窓は、下の金具が木から抜けていた。
枠が内へ曲がり、床にガラスが散っている。寝台の上掛けには、長い裂け目があった。
大きなガラス片を箒で壁際へ寄せてから、ボルグが窓へ板を当てた。
部屋の中から塞ぐ。その間、俺は部屋のランプを手に持ち、彼の手元と床を照らしていた。
釘を打つ音が、狭い部屋で何度も跳ね返った。
さっきの爪の音に似ていて、一度、肘が勝手に上がった。
ボルグは手を止めなかった。最後の釘を打ってから、板を掌で押した。
「今夜はここで寝るなよ。細けえガラスが、まだ残ってる」
「はい」
反対したい気持ちは、少しもなかった。
ランプを机へ置き、リゼの帽子を取った。
継ぎ当てにガラスは乗っていない。杯二つも、盆の上に残っていた。縁へ灯りを当てて、割れていないことを確かめた。
寝台のすぐ横だった。
窓の向こうで、あれが待っていた。
俺たちはここで、茶を飲んでいた。
その二つが頭の中で重なって、急に胸が気持ち悪くなった。
盆へ伸ばしかけた手を引き、帽子だけを持って外へ出た。
リゼが炊事場の戸口で待っていた。
「それ……」
「取ってきたよ。破れてないみたいでよかった」
渡すと、彼女は両手で受け取った。
継ぎ当てを親指で撫で、俺の方を見た。
「ありがとう。置いてきちゃったって、ずっと気になってた」
「俺も、見えたら気になった」
いったん助かれば、そういうことを考えられる。
帽子も、借りた杯も、寝台に置いたままの物も。
逃げた時には頭から抜けていたのに、なくしたくはなかった。
「カイ、今夜は?」
「船長の所の、前に借りた寝台を使わせてもらう。リゼは?」
彼女は、自分の家へ目を向けた。
俺の部屋の、すぐ後ろだ。同じ側に、外へ向いた窓がある。
帰りたくなさそうだ、と思った。
違うかもしれない。でも、聞くのをやめる理由にはならなかった。
「一人になるの、嫌だったら……」
「うん。嫌」
返事がすぐに来た。
彼女は帽子を胸へ抱え直した。
自分でも早すぎたと思ったのか、口を結び、それから小さく息を吐いた。
「今夜だけ。誰かいる所がいい」
向こうから、エダが手を振った。
「私の所へおいで。床へ布団を敷くくらい、できるよ」
「いいの?」
「いびきがうるさかったら、揺すっておくれ。起きるかどうかは分からないけどね」
リゼが、ようやく笑った。
その笑い方を見て、俺も肩を下ろした。
今夜寝る場所が決まっただけで、これほどほっとするとは思わなかった。
リゼはエダへ礼を言ってから、俺へ顔を戻した。
「明日の朝、一緒にご飯食べようね」
「うん。起きたら、炊事場で待ってるよ」
「寝坊したら、呼びに行くから」
言った後で、彼女が止まった。
俺も気づいた。
あの声を聞いた瞬間、返事をしかけたことを思い出した。
「顔、見てからね」
リゼが言った。
「ちゃんと、私を見て」
「分かった。ちゃんと見るよ」
彼女は頷いた。
帽子を抱えてエダの後を歩き出し、戸口へ入る前に、一度こちらを見た。
俺は手を上げた。
今夜、知らない声に怯えたわけではない。
知っている声だから、怖かった。
それで、明日から彼女に呼ばれるたびにびくびくするのは嫌だった。
先に顔を見よう。そこにいる相手と、ちゃんと話そう。
俺は炊事場へ戻り、ロクと一緒に杯と盆を取りにいった。
借りた物を炊事台へ返すと、ロクが洗い直してくれた。俺は部屋のランプの火も消してから、船長の家へ向かった。
*
朝、目が覚めた時、何が起きたのか分からなかった。
見覚えのある梁。
船長の家の、予備の寝台だった。
窓を塞いだ板も、裂けた上掛けも、ここにはない。
そこまで思い出してから、昨夜の声が戻ってきた。
隣の寝台で、オルドはまだ靴も脱がずに座っていた。
俺が起き上がると、片手を上げる。
「明るくなったぞ。外には、見回りがいる」
「船長、寝てないんですか」
「少し寝た。お前、寝言で謝ってたな」
「……何か、迷惑かけました?」
「いや。寝てる時まで、人に気を遣わんでいいぞ」
笑われて、俺は顔を手で覆った。
何に謝ったのか、全然覚えていなかった。
外は、薄い霧だった。
港の見回りが周囲を確かめ、リゼが船を低い姿勢へ戻すのを、俺は前の乗り口で待った。檻の移し替えに備えるのだ。渡し板が地面へ下りるまで見てから、炊事場へ行った。
雨はやんでいる。
家々の屋根から落ちる雫が、甲板へ一つずつ音を立てていた。濡れた木の匂いに、炊事場の煮炊きの匂いが混じる。
リゼは、操舵室から俺を追い越して来ていた。
帽子を被り、昨日よりきちんと髪を編んでいる。炊事場の前には長机が出され、彼女は俺を見つけると、隣の席を叩いた。
「おはよう。ここ、空いてるよ」
返事をする前に、顔を見た。
灰緑の目が、少しだけ細くなった。
「おはよう」
俺は隣へ座った。
昨夜より薄い豆の煮込みを、ロクが深皿へよそってくれた。
芋が多く入っている。匙を差し込むと、角から崩れた。
「温かいうちに食っといて。後でばたばたするからさ」
俺は匙を口へ運んだ。
熱かった。吹くのを忘れていた。
隣で、リゼが同じように口を押さえた。
目が合って、二人とも少し笑った。
全部が元へ戻ったわけではない。
でも、飯が食べられた。昨日の続きを、普通に話せる相手が隣にいた。
腹へ温かいものが入ると、夜中には出てこなかった怒りが、少しずつ出てきた。
母親が生きているなら、そう言ってほしかった。
子を追ってくると知っていたら、家の並ぶ船に檻を載せたか。
窓を開けて、のんびり茶を飲んだか。
俺は、たぶん、どちらもしなかった。
危険を承知で引き受けるかどうかは、俺たちが決めることだったはずだ。
母親は死んだという説明が違っていたなら、俺たちは、決めるための肝心なことを知らされていなかった。
「カイさん」
食べ終わりかけた時、ニルスが前の乗り口から上がってきた。
港の男が、すぐ後ろにいる。
ニルスの上着は昨夜と同じだった。
袖口だけが濡れて、色が濃くなっている。
「脚の跡がありました。見てもらえますか」
俺は匙を置いた。
*
港の男が先に立ち、俺とリゼは地面へ下りた。
自分の部屋がある小さな家を、船の外から見た。
薄い色の壁の下に細い足場が走り、その下に、太い脚の関節が畳まれていた。
低く泊まった船の縁まで、地面からそれほど高さはない。
獣なら、脚の金具へ前足を掛けて上がれそうだった。
壁には、泥の線が残っていた。
窓へ近づくにつれ、それが高くなる。
割れた窓を見て、リゼが俺の袖へ触れた。
窓の下の木には、指が入りそうな深い傷がついていた。
寝台との間に、こんな薄い壁があったのだと、初めて知った気がした。
港の男が周囲を見張る間に、ニルスが足場へ上がった。
彼は窓の真下にしゃがみ、灯りを低く置いた。朝の光は、まだ家の陰まで届いていない。
「屋根の下だったから、雨で流れなかったみたいです」
細い足場には、茶色い泥の跡が続いていた。
港の石畳の外側は、雨でぬかるんだ土になっている。そこを歩き、その足で船へ上がったのだろうと、港の男が教えてくれた。
俺は地面から、船べりへ手を掛けて覗いた。
リゼも隣から見ていた。
窓の下の足場には、大きさの違う跡が幾つも続いていた。
ニルスが、幅の広い二つを指した。
「こっちが前脚です。後ろの脚より、大きくつくんです」
片方には、太い指の丸い跡が四つあった。
もう片方には、三つしかなかった。
俺は、昨夜開かれたニルスの左手を思い出した。
「これが、左?」
「はい。こっちへ歩いてます」
ニルスが、壁に沿って船の後ろを指した。
続く跡を順に辿り、少し離れた同じ形のものを示す。
「ここも。内側だけ、ついてないでしょう」
一度、泥が薄かっただけではない。
続く二つの跡でも、同じ所が欠けていた。
俺は彼の顔を見た。
ニルスは足場に膝をついたまま、しばらく口を開かなかった。
首の巻布へ手をやり、触る前に下ろした。
「子を捕まえた時、あの母親、檻を掴んだんです。俺の目の前で」
昨日の説明より、声が低かった。
「子が叫ぶたびに、戻ってきたんです。船長が追っても。また声がすると、戻ってきて……」
指先が、足跡の手前で止まった。
「死んだって言われて、信じてました。生きてたら、あの母親が子を置いていくわけないって」
彼は、窓枠の傷を見上げた。
「昨夜のも、あの母親だと思います」
隣で、リゼの手が俺の袖を離れた。
怖くなくなったのではない。指を握りしめている。
俺は、港の男へ向き直った。
「ダリオさんは、今どこにいますか」
「自分の船で、固定台を出してます。オルドさんも、向こうですよ」
鎧鷹号は、コハクの斜め後ろにいた。
黒い船の上で、男たちが大きな鉄の枠を起こしている。
昨日まで丸めてあった網も、二本の柱の間へ広げられていた。
あれは、幼獣の檻を留める台なのか。
ずいぶん大きい。
俺が見ていると、ニルスが足場から下りてきた。
同じ方を見て、足を止めた。
「あれ……母親用の、落とし網です」
俺は彼を見た。
「捕まえる前に組んだやつです。母親が死んだって聞いて、一度、片づけたんですけど」
鎧鷹の乗り口に、オルドが立っていた。
腕を組み、起こされていく鉄の枠を見ている。
昨夜、俺たちが戸の内側で震えていた間に、ダリオには、次に捕まえる獣が見えていたのか。
俺はリゼとニルスを見た。
「一緒に聞いてくれる?」
二人が頷いた。
港の男も、一緒に来てくれた。
鎧鷹の渡し板を上がると、ダリオがこちらを向いた。
手袋を押し込んでいた手が止まる。
昨日は、この人の話を聞いて、俺たちは自分の船へ戻った。
リゼがお茶を持ってきてくれて、明日も同じような夜があると思っていた。
割れた窓と、裂けた寝台が頭に浮かんだ。
「母親は、生きてますよね」
ダリオの目が、俺からニルスへ動いた。
俺は彼の顔を見たまま、続けた。
「あれをおびき寄せるために、うちの船へ預けたんですか」




