第二十三話 窓の外で、俺を呼ぶ
リゼの指が、俺の袖をぎゅっと絞った。
「……私、あんな声してる?」
隣から聞こえた声と、檻の中から聞こえた声。
違いを探そうとすると、余計に分からなくなった。
「してるよ。後ろから呼ばれたら、振り向くと思う」
リゼは困った顔で、灰白の獣を見た。
「その呼び方、覚えなくていいのに」
獣は口を閉じ、丸い耳を動かした。
返事はしなかった。鉄棒の間から出した鼻で、湿った空気を嗅いでいる。
「言葉が分かるわけじゃないんだ」
ダリオさんが、折り返していた布を下ろした。
檻の前面だけが残り、横と後ろが隠れる。
「気に入った音を返す。自分で鳴いた声を覚えて、繰り返すこともある。声を掛けて遊ばないでくれよ。夜中までやるからな」
それは、ぜひやめてほしかった。
寝る前に自分を呼ぶリゼの声が、船の後ろから何度も聞こえる。想像しただけで、部屋の窓が気になった。
船長は笑わず、檻の下を覗いていた。
「こいつが外へ出るのが一番困る。底も見せてもらえるか?」
「ニルス。餌の支度ができてるなら、持ってきてくれ」
呼ばれた若い男が、船尾の道具箱の陰から出てきた。
二十代の初めくらいだろう。痩せていて、赤茶色の短い髪の下から、大きめの耳が出ている。灰色の上着の襟へ、首の巻布の端を押し込んだ。
「はい。あの、そこは空けてもらっていいですか」
俺たちは、示された床の継ぎ目まで下がった。
ニルスは片手に浅い鉄の皿、もう片方に長い挟み具を持っていた。
檻の正面には大きな扉があり、その下に、皿が通るだけの細い口がある。ニルスは皿を床へ置き、まず大きい方の扉を引いて、鍵が掛かっていることを確かめた。
「餌と水は、俺がやります。皆さんは、ここも開けないでくださいね」
小さい口の蓋を上げ、挟み具で皿の縁を掴む。
獣の鼻が、すぐそこへ来た。
ニルスは皿を押し込もうとして、一度手を止めた。太い前脚の爪が、皿の縁へ掛かっていたからだ。
「待てよ。足を引かないと、入らないだろ」
声を荒らげず、挟み具も動かさない。
獣が前脚を引いた瞬間、皿を奥へ滑らせ、蓋を落とした。
かちん、と金具が噛み合った。
獣は皿へ顔を伏せた。肉を噛む音がする。
リゼの声は、しなくなった。
俺は、自分がずっと肩を上げていたことに気づいた。
「底は、木だけじゃないよ」
ダリオさんが、檻の端を靴先で示した。
削られた板の下から、折り曲げた鉄板の縁が見えている。四隅には、床へ留めるための太い輪があった。
「この檻ごとだ。中身を出して移すわけじゃない。世話もニルスを残す。夜に騒いだら、こいつが見る」
「母親が、子を追ってくることは?」
船長が聞いた。
俺も、そこが気になっていた。
子供が檻から出ないことと、大きい方が船へ来ないことは、別の話だ。
「母親は死んでる。子を捕まえた晩に、俺が確かめた」
「誰か、ほかに見た人はいるんですか」
口を挟んでから、少し強く聞こえたかもしれないと思った。
けれど、聞いた方がよかった。ここで遠慮して、後から船長へ不安だけ伝えるのは違う。
ダリオさんは、俺へ顔を向けた。
「死んだ場所まで下りたのは俺だけだ。岩場の下だったからな。ニルスには、子の入った檻を見させていた」
「この子を探して、母親が来る心配はないんですね」
「あの母親は来ないよ。ただ、森にはほかにもいる。夜の見張りまで要らないとは言わない」
誰もが見た死体が、どこかにあるわけではない。
俺たちが頼れるのは、この人が確かめたという話だった。
船長は顎を撫で、いったん檻から離れた。
「修理の方も見よう。うちで預かるかどうかは、それからだ」
*
鎧鷹の船尾で仕事をしていたのは、短い白髪の女性だった。
五十代くらい。革の前掛けに油の染みがいくつもあり、床に置いた丸い部品を、布で拭っている。
港の修理職人だと紹介された。
船長が尋ねると、職人は、外した部品の内側を指でなぞった。
「ほら、ここ。軸が回るところが削れてるんだよ」
片側だけ、深く光っていた。
ただ汚れているのとは違う。それくらいは、俺にも分かった。
「この下を開けて軸を抜く。あの檻のところまで床板を外すから、先に下ろしてもらわないとね」
「二晩で、預けた荷を戻せるかい?」
「替えの軸受けは、もうあるよ。先に床を空けてもらえれば、明日のうちに組める。明後日の朝には、荷を戻すところまで見られるはずさ」
職人は、布の上に並べた新しい部品を示した。
修理は本当に必要らしい。
けれど、それなら檻を港の地面へ下ろしておく方法もあるはずだ。
俺が地上の保管場所について聞くと、ダリオさんは停泊場の町寄りを示した。
「荷蔵は断られた。食い物を入れる所だからな。露天に置くなら、人を離す囲いと、夜通し見張れる場所が要る」
「そういう場所は、借りられないんですか?」
「その場所も、港に聞いてくれ。俺からだけ聞くよりいいだろう」
嫌がらずに言われ、少し意外だった。
船長は、本当に聞きに行った。
俺とリゼもついていった。
港の詰所は、町へ上がる坂の脇にあった。屋根の下に長い机があり、今は紺の外套を着た、三十代くらいの男が座っている。髭のない顎を上げ、船長の話を聞いた。
「檻を通路へ出すのは駄目です。人が集まるし、暗くなっても荷車が通りますから」
「通路以外には?」
「今、空いているのは坂の上の臨時荷場です。ただ、あそこは囲いがない。固定できる台と柵を持ち込むなら、場所は貸せますよ」
男は、坂の向こうを指した。
地上で預かる方法が、ないわけではなかった。
ただ檻を下ろせば済む仕事でもないのだ。
「船に置くなら、専任の世話係を置いてください。人の通り道とは離すこと。それから、隣の船にも知らせておいてくださいね」
「鎧鷹の船長は、ここの仕事をよくするのか?」
「獣の運び出しで、何度も入ってますよ。修理も、うちから職人を回しました。ただ、こちらが捕まえた獣ではありません。親が死んだかどうかまでは分かりませんよ」
夜の見回りは、二人一組で港を回るという。
何かあったら詰所の鐘で知らせる。自分だけで森まで確かめに行かないよう、念を押された。
コハクへ戻る道で、船長が足を止めた。
隣の船は、樽で荷台が埋まっている。その向こうでは、出航前の船員が渡し板を引き上げていた。
「うちは二晩、後ろが空く。留める床もある。引き受けられるか、皆にも聞くよ」
船長は、俺とリゼを見た。
「嫌だと思うところがあれば、今でも後でも言え。金を決めたら口を閉じろ、って仕事じゃないからな」
俺は頷いた。
相手の前では言いにくかったことも、住民の中にはあるかもしれない。俺も自分の部屋へ戻ってから、何か気づくかもしれなかった。
その時、もう決めたことだからと飲み込まなくていいのは、ありがたかった。
*
コハクの後部には、今朝まで三つの箱が並んでいた。
そこへ戻ると、ボルグさんが空いた床を掃いていた。
中央の通りは、左右の家が途切れた先で、この荷場へつながる。さらに奥に水槽と洗い場がある。
檻を置くなら、その行き来まで塞いではいけない。
話を聞いたボルグさんは、箒を壁へ立て掛けた。
船長と一緒に鎧鷹へ行き、檻の幅と固定する輪を見て戻ってくる。
「ここなら置ける。通り側に柵を立てて、洗い場へは左から回す。だが、うちの者に世話はさせるなよ。檻を作れることと、獣を扱えることは違うからな」
短い灰色の髪に雨粒を残したまま、ボルグさんは右耳たぶを引いた。それから床の金具を靴先で押してみる。
夕方の仕事から戻った住民が、炊事場の前へ集まった。
船長が依頼を話すと、エダさんは、まず寝る時のことを聞いた。
「あれが夜中に鳴いたら、誰が出るんだい?」
「世話係が残る。夜番も一緒に置くよ。皆は声だけで戸を開けないでくれ」
「ちゃんと、その世話係の顔を見せておくれよ。夜になってから、知らない男が船を歩いてたら困るからね」
船長が頷いた。
ロクは、何人分の飯が増えるのかを聞いた。
洗い場を使っていた男は、檻から離れて桶を運べるか確かめた。ボルグさんが床に縄を置いて、柵を立てる位置を示す。
リゼも、そこへしゃがんだ。
縄から檻を置く場所まで、腕を伸ばしてみる。
「この間は、空けたままにするんだよね。後で別の荷を置いたら、近くを通ることになっちゃうよ」
「そうだな。預かってる間は、ほかを積まん」
船長が答えた。
俺は、ロクと顔を見合わせた。
後ろが空いたから、何でも置いてよいわけではない。今日の仕事は、空けておく場所を守ることにもなる。
船長は最後に、反対する者がいないか、一人ずつ顔を見た。
俺はリゼと一緒に頷いた。自分たちだけで世話をする話なら、そうはできなかったと思う。
それを確かめてから、船長はダリオさんを呼び戻した。
「十九日の朝まで、二晩だ。修理が延びても、うちの出航を勝手に延ばすなよ」
「分かった。一晩四十。二晩で八十枚だ。半分を先に払う」
「ニルスの飯も、その中で見る。壊した物の代金は別だ」
「ああ。檻に不具合が出たら、俺が引き取る」
「檻だけじゃない。船の外へ大きいのが来た時もだよ」
船長が言い直した。
腰の鍵束を握って、金属の音を止めている。
「その時は、もう預からん」
「……分かった。呼んでくれ」
紙へ書いた条件を船長が読み上げ、ダリオさんが確かめた。
前金の銅貨四十枚は、船長の袋に入った。
俺の給金とは別の、船が受けた仕事の金だ。
*
檻は、布を掛けたまま運ばれた。
港から借りたのは、車輪の低い四輪の荷車だった。
職人たちが梃子と角材で檻を少しずつ持ち上げ、その下へ荷車を入れる。檻の扉を開ける必要はなかった。
荷車を鎧鷹の渡し板から地上へ下ろす時には、借り物の手回し巻き上げで綱を張った。
綱は檻ではなく、荷車の枠につないである。下り坂で勝手に走り出さないよう、船上から少しずつ送り出すのだ。
かち、かち、かち。
巻き上げの歯が一つずつ送られ、荷車がゆっくり坂を下りた。
板の両端で、船員が車輪の向きを見ている。俺たちは下に立たず、地上へ来た荷車を曲げるための場所を空けた。
布の内側で、板を掻く音がした。
思わず目を向けると、ニルスが檻の横からこちらを見た。
「出てはいませんよ。音がしても、布を上げないでくださいね」
地面へ下りた荷車を、今度はコハクの前へ回す。
船長が乗り口を空け、ボルグさんが船側に巻き上げを据え直した。
引かれる綱が、濡れた板の上から浮いた。
車輪が坂を上がる。止め爪が、少し重い音を立てた。
俺はロクと一緒に中央の通りへ先回りし、戸口の桶や椅子を片づけた。
「通りますよ。しばらく、こっちへ出ないでください」
返事とともに、窓から顔が出る。
リゼは自分の家の前にあった靴を中へ入れ、戸口を押さえて待った。
普段は飯の鍋や洗濯物が通る道を、布に覆われた檻が進んでくる。
車輪が床の継ぎ目を越えるたび、ごとん、と腹に響いた。
俺の部屋は、前の乗り口から左へ入った最初の家にある。
その戸口の前を檻が通った時、布の下から、さっきの声が聞こえた。
リゼに呼ばれる、俺の名前。
すぐ奥の家の戸口で、本物のリゼが、嫌そうに肩をすくめた。
俺も返事をしなかった。
荷場へ着くと、檻は荷車から下ろされ、床へ留められた。
ボルグさんが四隅を順に揺すってみせる。輪も、そこへ掛けた金具も動かなかった。
通りとの境には、腰までの木の柵が立った。
柵から檻までは、腕を伸ばしても届かない。左側に残した道を通れば、洗い場へも行ける。
ニルスはボルグさんの作業場を借り、丸めた毛布を壁際へ置いた。
作業場は荷場へ出るすぐ手前にある。戸口から、柵と檻の前面が見えた。
「自分の荷物は、ここだけでいいです。道具には触りません」
「分からん物は、触る前に聞いてくれな。使っていい物もあるから」
ボルグさんは棚の留め革を締め直した。
ダリオさんは、最後に檻の扉と布を確かめた。
ニルスへ、夜は布を掛けたままにするよう念を押し、それから船長に向き直る。
「今夜は俺も鎧鷹にいる。修理が始まったら、あっちの道具を動かしておかないといけないからな」
「外の見張りも、そっちで頼むぞ」
「ああ」
厚い手袋の指先を押し込み、ダリオさんは通りを前へ戻っていった。
借りた荷車と巻き上げも港へ返し、船長は詰所と隣の船へ、預かりが決まったことを知らせに行った。
俺は、もう一度柵の前に立った。
布の下で、幼獣が水を舐めている。皿に当たった舌が、小さな音を繰り返した。
部屋へ持ち帰れるくらいの、可愛い動物ではない。
それでも、知らない声を出したものが、喉を渇かせ、水を飲んでいる。
怖さだけでは見られないのが、少し困った。
*
夕飯の前に、ニルスが船の皆へ紹介された。
彼は首の巻布を襟へ押し込み、ぺこりと頭を下げた。
「十九日の朝まで、お世話になります。名前を呼ばれても、俺が見に行きますから。皆さんは、顔を確かめるまで近づかないでください」
エダさんが、銀髪をまとめた頭を少し傾け、空の椀を差し出した。
「それなら、まずあんたの顔を覚えないとね。こっちを向いておくれ」
「え、はい」
「痩せてるねえ。飯は食べるんだろう?」
「食べます。かなり」
ニルスが即答したので、ロクが鍋の蓋を持ったまま笑った。赤い頭巾の下で、細い頬がくしゃっと縮む。
「先に言ってくれて助かったよ。盛ってから増やしてって言われると、俺の分が減るからさ」
今夜は肉と豆を煮たものに、潰した芋が添えられていた。
ニルスが座るのは、荷場へ目を向けられる端の席だ。船長もそちらを見ながら食べる。
十五人の飯に、一人分が加わった。
「いつも、こうやって食べるんですか」
「手の空いてる者はね。走ってる時は、操船する人が後になるけど」
リゼが答えると、ニルスは芋を掬う手を少し止めた。
「いいなあ。うちは獣の具合で時間がずれるから、鍋が温かいうちに食えると、当たりなんですよ」
「じゃあ、今日は当たりだな」
ロクが鍋を持ち上げた。
「足りなきゃ言ってくれよ。俺の分を取る前に」
ニルスは笑い、それから熱い豆を口へ入れて、慌てて息を吐いた。
さっき檻の前で見た落ち着いた手つきが嘘のようだった。
檻の方では、布が一度だけ揺れた。
ニルスが椀を置いて立つ。
全員の話が止まりかけたが、彼は通りを後ろへ歩き、柵の内側へ入った。水の皿を見てから、同じ道を戻ってくる。
「飲み終わっただけです。食べてて大丈夫ですよ」
椀を取る前に、手を洗う。
俺は、彼がそれを済ませて席へ戻るところまで見て、止めていた匙を動かした。
何かあったら、まずこの人を呼ぼう。
自分で布をめくって確かめたくなっても、それだけはやめておく。
食後、船長が今日の給金を渡してくれた。
銅貨六枚。財布は八十六枚になった。
「今夜、前半は俺が起きてる。後はボルグと交代だよ。カイ、お前は普段どおり休んでいい」
「何か手伝えることは?」
「寝る前に、部屋の窓を確かめといてくれ。上下の留めを、両方な」
俺は頷いた。
それくらいなら、今すぐできる。
*
夕方の雨は、また少し強くなっていた。
部屋へ戻り、外向きの窓を開けた。
閉める前に、下の溝へ溜まった水を布で拭こうと思ったのだ。
俺の部屋の戸は、家々の間の通りへ開く。
窓は、その反対側、船の外を向いていた。
窓の下には、壁と船べりの間を通る細い足場がある。人が横向きになって、外壁の手入れをするための場所だ。
その向こうに、濡れた港の石畳が見える。今は脚を曲げて低く泊まっているので、地面も近かった。
港の灯りが、一つずつ点いた。
見回りの二人が、船の間を町の方へ歩いていく。外套の裾から、雫が落ちた。
白い森の下半分は、湯気で見えなくなっていた。
俺は布を絞り、窓の縁をもう一度拭った。
「カイ、開けてよ」
戸の方から、リゼが呼んだ。
窓ではない。
通りに面した、いつもの入口だ。
戸の上半分には、来客の顔が見える小窓がある。
そこから覗いて、リゼだと確かめた。
戸を開けると、彼女は小さな盆を両手で持っていた。
上には、炊事場から借りた、湯気の上がる杯が二つ載っている。
「ロクが、果実のお茶を作ったんだって。飲む?」
「ありがとう。持つよ」
盆をいったん寝台へ置き、窓横の折畳み机を下ろした。
裏の脚を起こして固定し、机の端を押してから盆を移す。
リゼは戸口に立ったまま、部屋の中を見ていた。
「少し、ここで飲んでいってもいい?」
「もちろん。椅子、使って」
窓下の椅子の脚を留めていた革の輪を外し、机へ寄せる。
俺は寝台の端へ座った。
リゼは帽子を取り、膝に置いた。
風呂の後にまとめ直した髪が、首の横へ少しこぼれている。昼間より頬の赤みが薄くなり、杯を持つ指だけが、湯気を避けて動いていた。
甘酸っぱい匂いがした。
ひと口飲むと、舌の横が少しきゅっとする。その後から、柔らかな甘さが来た。
「おいしいね」
「うん。もう少し冷めると、甘くなるって」
リゼは、杯を両手で包んだ。
肩が下がるのを見て、俺も息をついた。
荷がなくなったと思ったら、今度は生きた獣が来た。
初めての町で風呂に入っただけの一日には、ならなかった。
窓を閉め、上と下の金具を掛ける。
雨の音が、少し遠くなった。
「さっき、檻が家の前を通った時さ」
リゼが、膝の帽子の継ぎ当てを見ながら言った。
「自分の声って、あんなに変な感じがするんだね。聞こえるたびに、私、何も言ってないよって、言いたくなっちゃう」
「うん。最初、隣を見直したよ」
「見てたね」
彼女が少し笑った。
「明日には、ロクの声も覚えてるかも」
「飯の催促だったら、本人かどうか分からないな」
「顔を見れば、分かるでしょ」
その通りだった。
二人で笑い、俺は杯を持ち直した。
向こうの世界で遊んでいた時は、声だけ知っている相手が何人もいた。
画面を見ていなくても、通話に入ってきた挨拶で誰だか分かる。顔を知らないまま、一緒に難しい場所へ何度も挑んだ相手もいた。
声を覚えると、そこに人がいる気がする。
今日の獣が気味悪かったのは、聞き間違えたからではない。知っている声なのに、知っている相手がいなかったからだ。
リゼは俺の顔を見て、杯を机へ置いた。
「……カイも、ちょっと怖い?」
「怖いよ。あんなふうに呼ばれたら、身体の方が先に動きそうで」
「うん」
彼女は、自分の袖口を二つ揃えた。
いつもより、丁寧に引っ張っている。
「私だけじゃなくてよかった」
軽く言ってから、少し恥ずかしそうに目を伏せた。
俺は、怖くないふりをしなくてよかったと思った。
彼女が安心できるような顔をしたくなる。けれど、それで一人で怖がらせてしまうなら、役に立っていない。
「ここにいてくれると、俺も助かるよ」
「……じゃあ、もう少しいるね」
リゼが椅子をほんの少し、寝台の方へ寄せた。
通りで足音がした。
俺たちは同時に戸を見て、それから顔を見合わせた。
「確認しよう」
立って戸口へ行き、内側から声を掛けた。
「誰ですか?」
「ニルスです。前の板を上げるって、船長が」
俺は戸を閉めたまま、上半分の小窓から通りを見た。
灰色の上着、首の巻布。灯りの下に顔が見える。
戸を開けると、ニルスが、少し照れたように頷いた。
「そうしてくれると助かります。俺の声だって、覚えますからね」
「幼獣は?」
「食べて寝てます。檻も閉まってますよ。今はオルドさんが、あそこで見てます」
彼が通りの奥を指した。
「ここの方にも、先に伝えておこうと思って。俺も板を上げてから戻ります」
「ありがとう。上げる時、手は足りてる?」
「はい。ロクさんが前にいます」
ニルスは頭を下げ、前の乗り口へ歩いていった。
渡し板を引き上げる音がした。
木が金具へ収まる、こつん、という音。その後、留め棒を通す硬い響きが続く。
俺は戸を閉めた。
部屋へ戻ると、リゼが杯を持って待っていた。
「これなら、間違えないね」
「うん。面倒でも、顔を見た方がいい」
俺は座り直した。
声がするたびに、何もかも怖がっているわけにはいかない。
相手がそこにいると分かれば、こうして普通に話せる。俺は少し落ち着いて、ぬるくなった茶を飲んだ。
*
雨が屋根を叩いていた。
空になった杯を盆へ戻すと、リゼが膝の帽子を手に取り、机へ置きかけた。
「そろそろ、これ返しに……」
その時だった。
「カイ、開けてよ」
リゼが、動きを止めた。
俺も立ちかけた姿勢のまま、止まった。
彼女の口は、閉じている。
戸を見た。
違った。
声は、寝台の横の窓から聞こえた。
リゼが置きかけた帽子を、膝の上へ引き戻した。
灰緑の目が、俺ではなく、俺の後ろを見ている。
振り向いた。
窓ガラスに、ランプの火が映っていた。
外は暗い。雨粒が幾筋も流れ、その向こうにあるはずの港の灯りが、よく見えない。
俺は返事をしかけて、歯を閉じた。
幼獣は、船の後ろだ。
ついさっき、檻は閉まっていて、獣は寝ていると聞いた。俺の部屋までは、何軒もの家を通り過ぎなければ来られない。
何かが、窓のすぐ下を擦った。
木を引っ掻く、ゆっくりした音だった。
雨とは違う。硬いものが、同じ所を押しながら動いている。
リゼは帽子を机へ置き、椅子を両手で押さえて立った。
そっと手を離し、戸口へ下がる。
「カイ。こっちへ」
今度の声は、部屋の中から聞こえた。
俺は窓から離れ、彼女のいる戸口へ動いた。
戸を開けて、船長に知らせる。頭ではそう考えていた。
けれど、戸の横へ手を伸ばした時、窓の外で、何かが持ち上がった。
灰白の毛。
窓の下半分が、ゆっくり塞がった。
黒い鼻が、ガラスへ触れる。
俺たちが覗き込んだ檻の中のものより、ずっと大きかった。
リゼが俺の腕を掴む。
俺はリゼと戸口の壁へ身を寄せ、通りへ向かって叫んだ。
「船長! 夜啼きが、窓に!」
通りの奥で、椅子が倒れる音がした。
窓枠が、みし、と鳴った。
外から掛かった爪が、木へ食い込んでいた。
ガラスの向こうで、大きな口が開く。
「カイ、開けてよ」
それはさっき、俺が戸を開けた時と、まったく同じ声だった。




