↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
23/32

第二十三話 窓の外で、俺を呼ぶ

 リゼの指が、俺の袖をぎゅっと絞った。


「……私、あんな声してる?」


 隣から聞こえた声と、檻の中から聞こえた声。

 違いを探そうとすると、余計に分からなくなった。


「してるよ。後ろから呼ばれたら、振り向くと思う」


 リゼは困った顔で、灰白の獣を見た。


「その呼び方、覚えなくていいのに」


 獣は口を閉じ、丸い耳を動かした。

 返事はしなかった。鉄棒の間から出した鼻で、湿った空気を嗅いでいる。


「言葉が分かるわけじゃないんだ」


 ダリオさんが、折り返していた布を下ろした。

 檻の前面だけが残り、横と後ろが隠れる。


「気に入った音を返す。自分で鳴いた声を覚えて、繰り返すこともある。声を掛けて遊ばないでくれよ。夜中までやるからな」


 それは、ぜひやめてほしかった。

 寝る前に自分を呼ぶリゼの声が、船の後ろから何度も聞こえる。想像しただけで、部屋の窓が気になった。


 船長は笑わず、檻の下を覗いていた。


「こいつが外へ出るのが一番困る。底も見せてもらえるか?」

「ニルス。餌の支度ができてるなら、持ってきてくれ」


 呼ばれた若い男が、船尾の道具箱の陰から出てきた。

 二十代の初めくらいだろう。痩せていて、赤茶色の短い髪の下から、大きめの耳が出ている。灰色の上着の襟へ、首の巻布の端を押し込んだ。


「はい。あの、そこは空けてもらっていいですか」


 俺たちは、示された床の継ぎ目まで下がった。


 ニルスは片手に浅い鉄の皿、もう片方に長い挟み具を持っていた。

 檻の正面には大きな扉があり、その下に、皿が通るだけの細い口がある。ニルスは皿を床へ置き、まず大きい方の扉を引いて、鍵が掛かっていることを確かめた。


「餌と水は、俺がやります。皆さんは、ここも開けないでくださいね」


 小さい口の蓋を上げ、挟み具で皿の縁を掴む。

 獣の鼻が、すぐそこへ来た。


 ニルスは皿を押し込もうとして、一度手を止めた。太い前脚の爪が、皿の縁へ掛かっていたからだ。


「待てよ。足を引かないと、入らないだろ」


 声を荒らげず、挟み具も動かさない。

 獣が前脚を引いた瞬間、皿を奥へ滑らせ、蓋を落とした。


 かちん、と金具が噛み合った。


 獣は皿へ顔を伏せた。肉を噛む音がする。

 リゼの声は、しなくなった。


 俺は、自分がずっと肩を上げていたことに気づいた。


「底は、木だけじゃないよ」


 ダリオさんが、檻の端を靴先で示した。

 削られた板の下から、折り曲げた鉄板の縁が見えている。四隅には、床へ留めるための太い輪があった。


「この檻ごとだ。中身を出して移すわけじゃない。世話もニルスを残す。夜に騒いだら、こいつが見る」

「母親が、子を追ってくることは?」


 船長が聞いた。


 俺も、そこが気になっていた。

 子供が檻から出ないことと、大きい方が船へ来ないことは、別の話だ。


「母親は死んでる。子を捕まえた晩に、俺が確かめた」

「誰か、ほかに見た人はいるんですか」


 口を挟んでから、少し強く聞こえたかもしれないと思った。

 けれど、聞いた方がよかった。ここで遠慮して、後から船長へ不安だけ伝えるのは違う。


 ダリオさんは、俺へ顔を向けた。


「死んだ場所まで下りたのは俺だけだ。岩場の下だったからな。ニルスには、子の入った檻を見させていた」

「この子を探して、母親が来る心配はないんですね」

「あの母親は来ないよ。ただ、森にはほかにもいる。夜の見張りまで要らないとは言わない」


 誰もが見た死体が、どこかにあるわけではない。

 俺たちが頼れるのは、この人が確かめたという話だった。


 船長は顎を撫で、いったん檻から離れた。


「修理の方も見よう。うちで預かるかどうかは、それからだ」


     *


 鎧鷹の船尾で仕事をしていたのは、短い白髪の女性だった。

 五十代くらい。革の前掛けに油の染みがいくつもあり、床に置いた丸い部品を、布で拭っている。


 港の修理職人だと紹介された。


 船長が尋ねると、職人は、外した部品の内側を指でなぞった。


「ほら、ここ。軸が回るところが削れてるんだよ」


 片側だけ、深く光っていた。

 ただ汚れているのとは違う。それくらいは、俺にも分かった。


「この下を開けて軸を抜く。あの檻のところまで床板を外すから、先に下ろしてもらわないとね」

「二晩で、預けた荷を戻せるかい?」

「替えの軸受けは、もうあるよ。先に床を空けてもらえれば、明日のうちに組める。明後日の朝には、荷を戻すところまで見られるはずさ」


 職人は、布の上に並べた新しい部品を示した。


 修理は本当に必要らしい。

 けれど、それなら檻を港の地面へ下ろしておく方法もあるはずだ。


 俺が地上の保管場所について聞くと、ダリオさんは停泊場の町寄りを示した。


「荷蔵は断られた。食い物を入れる所だからな。露天に置くなら、人を離す囲いと、夜通し見張れる場所が要る」

「そういう場所は、借りられないんですか?」

「その場所も、港に聞いてくれ。俺からだけ聞くよりいいだろう」


 嫌がらずに言われ、少し意外だった。


 船長は、本当に聞きに行った。

 俺とリゼもついていった。


 港の詰所は、町へ上がる坂の脇にあった。屋根の下に長い机があり、今は紺の外套を着た、三十代くらいの男が座っている。髭のない顎を上げ、船長の話を聞いた。


「檻を通路へ出すのは駄目です。人が集まるし、暗くなっても荷車が通りますから」

「通路以外には?」

「今、空いているのは坂の上の臨時荷場です。ただ、あそこは囲いがない。固定できる台と柵を持ち込むなら、場所は貸せますよ」


 男は、坂の向こうを指した。

 地上で預かる方法が、ないわけではなかった。

 ただ檻を下ろせば済む仕事でもないのだ。


「船に置くなら、専任の世話係を置いてください。人の通り道とは離すこと。それから、隣の船にも知らせておいてくださいね」

「鎧鷹の船長は、ここの仕事をよくするのか?」

「獣の運び出しで、何度も入ってますよ。修理も、うちから職人を回しました。ただ、こちらが捕まえた獣ではありません。親が死んだかどうかまでは分かりませんよ」


 夜の見回りは、二人一組で港を回るという。

 何かあったら詰所の鐘で知らせる。自分だけで森まで確かめに行かないよう、念を押された。


 コハクへ戻る道で、船長が足を止めた。

 隣の船は、樽で荷台が埋まっている。その向こうでは、出航前の船員が渡し板を引き上げていた。


「うちは二晩、後ろが空く。留める床もある。引き受けられるか、皆にも聞くよ」


 船長は、俺とリゼを見た。


「嫌だと思うところがあれば、今でも後でも言え。金を決めたら口を閉じろ、って仕事じゃないからな」


 俺は頷いた。

 相手の前では言いにくかったことも、住民の中にはあるかもしれない。俺も自分の部屋へ戻ってから、何か気づくかもしれなかった。

 その時、もう決めたことだからと飲み込まなくていいのは、ありがたかった。


     *


 コハクの後部には、今朝まで三つの箱が並んでいた。

 そこへ戻ると、ボルグさんが空いた床を掃いていた。


 中央の通りは、左右の家が途切れた先で、この荷場へつながる。さらに奥に水槽と洗い場がある。

 檻を置くなら、その行き来まで塞いではいけない。


 話を聞いたボルグさんは、箒を壁へ立て掛けた。

 船長と一緒に鎧鷹へ行き、檻の幅と固定する輪を見て戻ってくる。


「ここなら置ける。通り側に柵を立てて、洗い場へは左から回す。だが、うちの者に世話はさせるなよ。檻を作れることと、獣を扱えることは違うからな」


 短い灰色の髪に雨粒を残したまま、ボルグさんは右耳たぶを引いた。それから床の金具を靴先で押してみる。


 夕方の仕事から戻った住民が、炊事場の前へ集まった。

 船長が依頼を話すと、エダさんは、まず寝る時のことを聞いた。


「あれが夜中に鳴いたら、誰が出るんだい?」

「世話係が残る。夜番も一緒に置くよ。皆は声だけで戸を開けないでくれ」

「ちゃんと、その世話係の顔を見せておくれよ。夜になってから、知らない男が船を歩いてたら困るからね」


 船長が頷いた。


 ロクは、何人分の飯が増えるのかを聞いた。

 洗い場を使っていた男は、檻から離れて桶を運べるか確かめた。ボルグさんが床に縄を置いて、柵を立てる位置を示す。


 リゼも、そこへしゃがんだ。

 縄から檻を置く場所まで、腕を伸ばしてみる。


「この間は、空けたままにするんだよね。後で別の荷を置いたら、近くを通ることになっちゃうよ」

「そうだな。預かってる間は、ほかを積まん」


 船長が答えた。


 俺は、ロクと顔を見合わせた。

 後ろが空いたから、何でも置いてよいわけではない。今日の仕事は、空けておく場所を守ることにもなる。


 船長は最後に、反対する者がいないか、一人ずつ顔を見た。

 俺はリゼと一緒に頷いた。自分たちだけで世話をする話なら、そうはできなかったと思う。


 それを確かめてから、船長はダリオさんを呼び戻した。


「十九日の朝まで、二晩だ。修理が延びても、うちの出航を勝手に延ばすなよ」

「分かった。一晩四十。二晩で八十枚だ。半分を先に払う」

「ニルスの飯も、その中で見る。壊した物の代金は別だ」

「ああ。檻に不具合が出たら、俺が引き取る」

「檻だけじゃない。船の外へ大きいのが来た時もだよ」


 船長が言い直した。

 腰の鍵束を握って、金属の音を止めている。


「その時は、もう預からん」

「……分かった。呼んでくれ」


 紙へ書いた条件を船長が読み上げ、ダリオさんが確かめた。

 前金の銅貨四十枚は、船長の袋に入った。


 俺の給金とは別の、船が受けた仕事の金だ。


     *


 檻は、布を掛けたまま運ばれた。


 港から借りたのは、車輪の低い四輪の荷車だった。

 職人たちが梃子と角材で檻を少しずつ持ち上げ、その下へ荷車を入れる。檻の扉を開ける必要はなかった。


 荷車を鎧鷹の渡し板から地上へ下ろす時には、借り物の手回し巻き上げで綱を張った。

 綱は檻ではなく、荷車の枠につないである。下り坂で勝手に走り出さないよう、船上から少しずつ送り出すのだ。


 かち、かち、かち。


 巻き上げの歯が一つずつ送られ、荷車がゆっくり坂を下りた。

 板の両端で、船員が車輪の向きを見ている。俺たちは下に立たず、地上へ来た荷車を曲げるための場所を空けた。


 布の内側で、板を掻く音がした。

 思わず目を向けると、ニルスが檻の横からこちらを見た。


「出てはいませんよ。音がしても、布を上げないでくださいね」


 地面へ下りた荷車を、今度はコハクの前へ回す。

 船長が乗り口を空け、ボルグさんが船側に巻き上げを据え直した。


 引かれる綱が、濡れた板の上から浮いた。

 車輪が坂を上がる。止め爪が、少し重い音を立てた。


 俺はロクと一緒に中央の通りへ先回りし、戸口の桶や椅子を片づけた。


「通りますよ。しばらく、こっちへ出ないでください」


 返事とともに、窓から顔が出る。

 リゼは自分の家の前にあった靴を中へ入れ、戸口を押さえて待った。


 普段は飯の鍋や洗濯物が通る道を、布に覆われた檻が進んでくる。

 車輪が床の継ぎ目を越えるたび、ごとん、と腹に響いた。


 俺の部屋は、前の乗り口から左へ入った最初の家にある。

 その戸口の前を檻が通った時、布の下から、さっきの声が聞こえた。


 リゼに呼ばれる、俺の名前。


 すぐ奥の家の戸口で、本物のリゼが、嫌そうに肩をすくめた。

 俺も返事をしなかった。


 荷場へ着くと、檻は荷車から下ろされ、床へ留められた。

 ボルグさんが四隅を順に揺すってみせる。輪も、そこへ掛けた金具も動かなかった。


 通りとの境には、腰までの木の柵が立った。

 柵から檻までは、腕を伸ばしても届かない。左側に残した道を通れば、洗い場へも行ける。


 ニルスはボルグさんの作業場を借り、丸めた毛布を壁際へ置いた。

 作業場は荷場へ出るすぐ手前にある。戸口から、柵と檻の前面が見えた。


「自分の荷物は、ここだけでいいです。道具には触りません」

「分からん物は、触る前に聞いてくれな。使っていい物もあるから」


 ボルグさんは棚の留め革を締め直した。


 ダリオさんは、最後に檻の扉と布を確かめた。

 ニルスへ、夜は布を掛けたままにするよう念を押し、それから船長に向き直る。


「今夜は俺も鎧鷹にいる。修理が始まったら、あっちの道具を動かしておかないといけないからな」

「外の見張りも、そっちで頼むぞ」

「ああ」


 厚い手袋の指先を押し込み、ダリオさんは通りを前へ戻っていった。

 借りた荷車と巻き上げも港へ返し、船長は詰所と隣の船へ、預かりが決まったことを知らせに行った。


 俺は、もう一度柵の前に立った。

 布の下で、幼獣が水を舐めている。皿に当たった舌が、小さな音を繰り返した。


 部屋へ持ち帰れるくらいの、可愛い動物ではない。

 それでも、知らない声を出したものが、喉を渇かせ、水を飲んでいる。


 怖さだけでは見られないのが、少し困った。


     *


 夕飯の前に、ニルスが船の皆へ紹介された。

 彼は首の巻布を襟へ押し込み、ぺこりと頭を下げた。


「十九日の朝まで、お世話になります。名前を呼ばれても、俺が見に行きますから。皆さんは、顔を確かめるまで近づかないでください」


 エダさんが、銀髪をまとめた頭を少し傾け、空の椀を差し出した。


「それなら、まずあんたの顔を覚えないとね。こっちを向いておくれ」

「え、はい」

「痩せてるねえ。飯は食べるんだろう?」

「食べます。かなり」


 ニルスが即答したので、ロクが鍋の蓋を持ったまま笑った。赤い頭巾の下で、細い頬がくしゃっと縮む。


「先に言ってくれて助かったよ。盛ってから増やしてって言われると、俺の分が減るからさ」


 今夜は肉と豆を煮たものに、潰した芋が添えられていた。

 ニルスが座るのは、荷場へ目を向けられる端の席だ。船長もそちらを見ながら食べる。


 十五人の飯に、一人分が加わった。


「いつも、こうやって食べるんですか」

「手の空いてる者はね。走ってる時は、操船する人が後になるけど」


 リゼが答えると、ニルスは芋を掬う手を少し止めた。


「いいなあ。うちは獣の具合で時間がずれるから、鍋が温かいうちに食えると、当たりなんですよ」

「じゃあ、今日は当たりだな」


 ロクが鍋を持ち上げた。


「足りなきゃ言ってくれよ。俺の分を取る前に」


 ニルスは笑い、それから熱い豆を口へ入れて、慌てて息を吐いた。

 さっき檻の前で見た落ち着いた手つきが嘘のようだった。


 檻の方では、布が一度だけ揺れた。

 ニルスが椀を置いて立つ。


 全員の話が止まりかけたが、彼は通りを後ろへ歩き、柵の内側へ入った。水の皿を見てから、同じ道を戻ってくる。


「飲み終わっただけです。食べてて大丈夫ですよ」


 椀を取る前に、手を洗う。

 俺は、彼がそれを済ませて席へ戻るところまで見て、止めていた匙を動かした。


 何かあったら、まずこの人を呼ぼう。

 自分で布をめくって確かめたくなっても、それだけはやめておく。


 食後、船長が今日の給金を渡してくれた。

 銅貨六枚。財布は八十六枚になった。


「今夜、前半は俺が起きてる。後はボルグと交代だよ。カイ、お前は普段どおり休んでいい」

「何か手伝えることは?」

「寝る前に、部屋の窓を確かめといてくれ。上下の留めを、両方な」


 俺は頷いた。


 それくらいなら、今すぐできる。


     *


 夕方の雨は、また少し強くなっていた。


 部屋へ戻り、外向きの窓を開けた。

 閉める前に、下の溝へ溜まった水を布で拭こうと思ったのだ。


 俺の部屋の戸は、家々の間の通りへ開く。

 窓は、その反対側、船の外を向いていた。


 窓の下には、壁と船べりの間を通る細い足場がある。人が横向きになって、外壁の手入れをするための場所だ。

 その向こうに、濡れた港の石畳が見える。今は脚を曲げて低く泊まっているので、地面も近かった。


 港の灯りが、一つずつ点いた。

 見回りの二人が、船の間を町の方へ歩いていく。外套の裾から、雫が落ちた。


 白い森の下半分は、湯気で見えなくなっていた。


 俺は布を絞り、窓の縁をもう一度拭った。


「カイ、開けてよ」


 戸の方から、リゼが呼んだ。


 窓ではない。

 通りに面した、いつもの入口だ。


 戸の上半分には、来客の顔が見える小窓がある。

 そこから覗いて、リゼだと確かめた。


 戸を開けると、彼女は小さな盆を両手で持っていた。

 上には、炊事場から借りた、湯気の上がる杯が二つ載っている。


「ロクが、果実のお茶を作ったんだって。飲む?」

「ありがとう。持つよ」


 盆をいったん寝台へ置き、窓横の折畳み机を下ろした。

 裏の脚を起こして固定し、机の端を押してから盆を移す。


 リゼは戸口に立ったまま、部屋の中を見ていた。


「少し、ここで飲んでいってもいい?」

「もちろん。椅子、使って」


 窓下の椅子の脚を留めていた革の輪を外し、机へ寄せる。

 俺は寝台の端へ座った。


 リゼは帽子を取り、膝に置いた。

 風呂の後にまとめ直した髪が、首の横へ少しこぼれている。昼間より頬の赤みが薄くなり、杯を持つ指だけが、湯気を避けて動いていた。


 甘酸っぱい匂いがした。

 ひと口飲むと、舌の横が少しきゅっとする。その後から、柔らかな甘さが来た。


「おいしいね」

「うん。もう少し冷めると、甘くなるって」


 リゼは、杯を両手で包んだ。

 肩が下がるのを見て、俺も息をついた。


 荷がなくなったと思ったら、今度は生きた獣が来た。

 初めての町で風呂に入っただけの一日には、ならなかった。


 窓を閉め、上と下の金具を掛ける。

 雨の音が、少し遠くなった。


「さっき、檻が家の前を通った時さ」


 リゼが、膝の帽子の継ぎ当てを見ながら言った。


「自分の声って、あんなに変な感じがするんだね。聞こえるたびに、私、何も言ってないよって、言いたくなっちゃう」

「うん。最初、隣を見直したよ」

「見てたね」


 彼女が少し笑った。


「明日には、ロクの声も覚えてるかも」

「飯の催促だったら、本人かどうか分からないな」

「顔を見れば、分かるでしょ」


 その通りだった。

 二人で笑い、俺は杯を持ち直した。


 向こうの世界で遊んでいた時は、声だけ知っている相手が何人もいた。

 画面を見ていなくても、通話に入ってきた挨拶で誰だか分かる。顔を知らないまま、一緒に難しい場所へ何度も挑んだ相手もいた。


 声を覚えると、そこに人がいる気がする。

 今日の獣が気味悪かったのは、聞き間違えたからではない。知っている声なのに、知っている相手がいなかったからだ。


 リゼは俺の顔を見て、杯を机へ置いた。


「……カイも、ちょっと怖い?」

「怖いよ。あんなふうに呼ばれたら、身体の方が先に動きそうで」

「うん」


 彼女は、自分の袖口を二つ揃えた。

 いつもより、丁寧に引っ張っている。


「私だけじゃなくてよかった」


 軽く言ってから、少し恥ずかしそうに目を伏せた。


 俺は、怖くないふりをしなくてよかったと思った。

 彼女が安心できるような顔をしたくなる。けれど、それで一人で怖がらせてしまうなら、役に立っていない。


「ここにいてくれると、俺も助かるよ」

「……じゃあ、もう少しいるね」


 リゼが椅子をほんの少し、寝台の方へ寄せた。


 通りで足音がした。

 俺たちは同時に戸を見て、それから顔を見合わせた。


「確認しよう」


 立って戸口へ行き、内側から声を掛けた。


「誰ですか?」

「ニルスです。前の板を上げるって、船長が」


 俺は戸を閉めたまま、上半分の小窓から通りを見た。

 灰色の上着、首の巻布。灯りの下に顔が見える。


 戸を開けると、ニルスが、少し照れたように頷いた。


「そうしてくれると助かります。俺の声だって、覚えますからね」

「幼獣は?」

「食べて寝てます。檻も閉まってますよ。今はオルドさんが、あそこで見てます」


 彼が通りの奥を指した。


「ここの方にも、先に伝えておこうと思って。俺も板を上げてから戻ります」

「ありがとう。上げる時、手は足りてる?」

「はい。ロクさんが前にいます」


 ニルスは頭を下げ、前の乗り口へ歩いていった。


 渡し板を引き上げる音がした。

 木が金具へ収まる、こつん、という音。その後、留め棒を通す硬い響きが続く。


 俺は戸を閉めた。

 部屋へ戻ると、リゼが杯を持って待っていた。


「これなら、間違えないね」

「うん。面倒でも、顔を見た方がいい」


 俺は座り直した。


 声がするたびに、何もかも怖がっているわけにはいかない。

 相手がそこにいると分かれば、こうして普通に話せる。俺は少し落ち着いて、ぬるくなった茶を飲んだ。


     *


 雨が屋根を叩いていた。


 空になった杯を盆へ戻すと、リゼが膝の帽子を手に取り、机へ置きかけた。


「そろそろ、これ返しに……」


 その時だった。


「カイ、開けてよ」


 リゼが、動きを止めた。


 俺も立ちかけた姿勢のまま、止まった。


 彼女の口は、閉じている。


 戸を見た。

 違った。


 声は、寝台の横の窓から聞こえた。


 リゼが置きかけた帽子を、膝の上へ引き戻した。

 灰緑の目が、俺ではなく、俺の後ろを見ている。


 振り向いた。


 窓ガラスに、ランプの火が映っていた。

 外は暗い。雨粒が幾筋も流れ、その向こうにあるはずの港の灯りが、よく見えない。


 俺は返事をしかけて、歯を閉じた。


 幼獣は、船の後ろだ。

 ついさっき、檻は閉まっていて、獣は寝ていると聞いた。俺の部屋までは、何軒もの家を通り過ぎなければ来られない。


 何かが、窓のすぐ下を擦った。


 木を引っ掻く、ゆっくりした音だった。

 雨とは違う。硬いものが、同じ所を押しながら動いている。


 リゼは帽子を机へ置き、椅子を両手で押さえて立った。

 そっと手を離し、戸口へ下がる。


「カイ。こっちへ」


 今度の声は、部屋の中から聞こえた。


 俺は窓から離れ、彼女のいる戸口へ動いた。

 戸を開けて、船長に知らせる。頭ではそう考えていた。


 けれど、戸の横へ手を伸ばした時、窓の外で、何かが持ち上がった。


 灰白の毛。


 窓の下半分が、ゆっくり塞がった。

 黒い鼻が、ガラスへ触れる。


 俺たちが覗き込んだ檻の中のものより、ずっと大きかった。


 リゼが俺の腕を掴む。


 俺はリゼと戸口の壁へ身を寄せ、通りへ向かって叫んだ。


「船長! 夜啼きが、窓に!」


 通りの奥で、椅子が倒れる音がした。


 窓枠が、みし、と鳴った。


 外から掛かった爪が、木へ食い込んでいた。


 ガラスの向こうで、大きな口が開く。


「カイ、開けてよ」


 それはさっき、俺が戸を開けた時と、まったく同じ声だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。