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第二十二話 声まで、そっくりだった

「それだと、私の名前じゃないよ」


 リゼが、俺の書いた字を指で押さえた。


 ベルカを出た日の夕方だった。

 今夜の停泊場は、街道沿いの井戸と食堂を囲む、小さな宿場だ。コハクは道の脇へ脚を畳み、動きを止めている。


 炊事場の前に机を一台出して、俺たちは隣り合って座っていた。

 机の上には、リゼの帳面と、小さなインク瓶。後ろの空いたページを使っていいと言われ、俺は借りたペンを握っていた。


「この線、一本多いの。もう一度見て」


 帳面の左に、リゼの見本。

 右に、俺が真似して書いたもの。


 見直した。

 確かに、一本多かった。


「何回か書いたら、分かった気になっちゃったんだよな」

「うん。三回目までは合ってたよ」


 四回目から、俺が勝手に覚えやすい形に変えていたらしい。


 見本を見ずにできるようになりたくて、まだ覚えていないところを、知っている字の形で埋めてしまう。

 仕事でも似たようなことはあった。手順を一度教わっただけで、分かった顔をしたくなる。二度目を聞くのは、少し恥ずかしい。


 けれど、今聞かなければ、リゼの名前を間違えたまま覚える。


「もう一回、書くところから見せてくれる?」

「いいよ。見ててね」


 リゼがペンを取った。

 蜂蜜色の三つ編みが肩から滑り、机へつきそうになったので、空いた手で背中へ払う。


 まず、縦の線。

 次に、その途中から小さく曲がる線。


 口で説明するより、書く手を見た方が分かりやすかった。


「ここで、いったん離すの」

「ああ。つながってると思ってた」

「そう。そこがくっつくと、違う字に見えるから」


 ペンが紙を擦る音がした。

 机の向こうでは、ロクが夕食の鍋に蓋をしている。停まった船では、その小さな音までよく聞こえた。


 俺はペンを返してもらい、ゆっくり書いた。


「……これで、どう?」

「うん」


 リゼが顔を近づけた。

 灰緑の目が、見本と俺の字を行き来する。


「ちゃんと、リゼって読めるよ」


 褒められただけなのに、妙にうれしかった。

 ここへ来てから、読めない字ばかり見ていた。荷の札も、店の看板も、人に確かめてもらわなければ意味が分からなかった。


 その中に、知っている形が一つできた。


「次、カイの名前ね」


 リゼは少し場所を空け、新しい見本を書いた。

 俺は今度こそ勝手に線を足さないよう、一画ずつ真似した。


 できた字を、彼女が指で辿る。


「これも、読めるよ」

「よかった。じゃあ、一つ教え返してもいい?」

「何を?」


 帳面を使ってよいか聞き、端の空いたところへ書いた。


 リゼ。


「俺のいたところの字だと、こうなる」

「これが、私?」


 頷くと、リゼは帳面を自分の正面へ引き寄せた。


「……短いんだね」

「同じ音でも、書き方が違うからな」


 その横へ、カイ、と書いた。


 リゼが俺と紙を見比べ、ペンを取る。

 最初の線で止まった。


「こっちから?」

「うん。それで合ってるよ」


 彼女は唇を少し結び、見本から目を離さず書いた。

 俺がさっきまでしていたのと、同じ顔だった。


「できた」

「うまいな。一回で書けてる」

「ちゃんと見てたもん」


 得意そうに言ってから、リゼは帳面を持ち上げた。

 二つの書き方で並んだ、俺たちの名前を見る。


「このページ、切ってあげようか。部屋で練習できるよ」

「取っておきたい。ありがとう」


 リゼは帳面の綴じ目を押さえ、端からゆっくり紙を切り離した。

 俺は受け取った紙へ、インクを擦らないよう息を吹きかける。


「明日、見ないで書いてもらうからね」

「急に試験が来たな」

「覚えたいって言ったの、カイでしょ」


 リゼは笑い、ペン先を布で拭った。


 今度は、忘れたくなかった。

 文字だけでなく、こうして二人で机に向かった時間も。


     *


 翌日から、道の色が変わっていった。


 乾いた土の中に、緑が増える。

 土の多い街道が、平たい石を敷き詰めた道へ変わった。

 鉄の脚が石を踏むたびに、こつん、どん、と、少し硬い音が床へ伝わる。


 谷沿いの道には、流れの速い小川があった。

 岩を越えた水が白く泡立ち、道の下に口を開けた、石造りの小さなアーチへ流れ込んでいく。


 俺は荷の縄を確かめた後、後部の柵から川を眺めた。


 魚が跳ねた。

 一度だけだったが、見間違いではなかった。


 砂漠で助けられたばかりの頃には、同じ旅の先で、こんな場所へ来るとは思っていなかった。


 ロクが通りから出てきた。


「何かいたか?」

「魚が跳ねたよ」

「どの辺?」

「あの大きい石の横」


 二人で待った。

 今度は跳ねなかった。


「俺が見てる時にも、やってくれりゃいいのになあ」


 ロクが柵へ肘を載せる。

 もう少し待っても跳ねなかったので、俺たちは諦めて仕事へ戻った。


 その晩も、次の晩も、紙の空いているところに名前を書いた。

 初めは見本を見て、次は腕で隠す。忘れたところは、また見る。


 リゼが操船をしている時は邪魔をせず、夕食の後で見てもらった。

 二日目には、名前を間違えずに書けた。別の字は、まだ一つも読めない。


 ベルカを出て三日目の夕方、船長が三日分の給金をまとめて渡してくれた。

 十八枚。財布の中は、八十二枚になった。


 アニカの宛先と、リゼからもらった紙を、部屋の棚で並べてみる。

 宛先は相変わらず、どこからどこまでが地名なのかも分からない。


 それでも、いずれ読めるようになりたかった。

 手紙を出す時、ただ渡すだけでなく、自分でも宛先を確かめられるように。


 練習の紙とアニカの宛先を、紹介文の袋へ一緒にしまった。


     *


 出航して四日目の朝、船の左右が白い木でいっぱいになった。


 雪ではなかった。

 白い幹の上に、緑の葉が細かく揺れている。枝の間から落ちる光が、濡れた石道へ丸く散っていた。


 霧かと思ったものが、林の低いところを流れていく。

 けれど、風が吹いても同じ場所から湧き続けた。

 道の左脇に浅い水路があり、その水面から、白い湯気が上がっているのだ。


「カイ、前、見てみろよ」


 荷の覆いを確かめていたロクが、顎で船首を示した。


 俺は通りを前へ抜け、操舵室の扉から中を覗いた。

 リゼが前窓へ顔を向けたまま、口を少し開けている。


 見えた。


 林の先で谷が広がり、段々に並んだ石造りの屋根があった。

 屋根と屋根の間から、白い湯気が上がっている。


 町の中央には幅のある水路が通り、幾つもの橋が架かっていた。

 その両側へ、低い庇のついた板道が続く。籠を持った人が歩き、窓から竿へ掛けられた布を取り込む人がいる。


 遠くで、からん、と鐘が鳴った。


「ローネだよ」


 操船席の後ろにいた船長が言った。


 リゼがゆっくり踏み板を戻す。

 脚が地面を踏む間隔が長くなり、船はゆっくり町へ近づいていった。


「……あの白いの、全部、お湯?」

「煙のところもあるだろうが、だいたいはな」

「すごい。家の横を流れてるよ」


 リゼの声が弾んだ。

 俺も、窓の先から目を離せなかった。


 画面の向こうなら、知らない町へ着くたび、どこを歩こうかと考えていた。

 今日は、あの橋へ自分の足で行ける。

 湯気の向こうで何を売っているのか、覗けるのだ。


 リゼが一度だけ、こちらを見た。


「後で、行こうね」

「うん。荷を下ろしたら」


 俺は船長に断って、通りへ戻った。

 後ろの三箱を下ろせるよう、まずは仕事を終わらせようと思った。


     *


 停泊場は、町の下手にあった。

 広い石畳の背後を白い林が囲み、町へは、緩い坂を一本上がっていく。


 その坂の下で、褐色の前掛けをした女性が待っていた。


 四十代半ばくらい。黒い髪を顎の辺りで短く切り、丸い頬をしている。片腕に帳面を抱えたまま、大きく手を振った。


「コハク号かい。弁の荷を待ってたんだよ」


 低く停まった船から板を下ろすと、女性がその手前まで来た。

 船長が下りて、運送の紙を見せる。


「ミレナさんだな」

「そう。共同浴場と、その隣の宿を任されてるよ。三つとも来てるかい?」

「ああ。確かめてくれ」


 ミレナさんが、横にいた男へ声を掛けた。

 五十歳くらいの、鼻の下に灰色の髭を残した人だ。浴場の管を直す職人だと紹介された。箱を三つ並べられる長い台を、ミレナさんと二人で渡し板のそばへ寄せてくれる。


 俺とロクは、後部の荷置き場へ戻った。

 ボルグさんが縄を外し、一箱ずつ下ろせるようにする。


 二人で持ち手を掴み、通りを前へ歩いた。

 板を下りる時は、前にいるロクが一度止まる。


「足元、いいか?」

「大丈夫。ゆっくりで頼むよ」


 地面へ下り、台へ置く。

 手を抜いてから、二人とも空手で船へ戻った。


 三箱目を持ってきた時、ミレナさんはもう最初の箱の前へしゃがんでいた。

 職人が丸い握りを回し、内側の板が動くところを見せている。


「これで、奥の湯をいちいち全部止めずに済むね」

「取り替わってから言ってくれよ。今日はまだ、古い方だ」

「分かってるって。先に喜ぶくらい、いいじゃないか」


 ミレナさんが笑った。


 使う人の顔を見ると、四日間、縄の緩みばかり気にしていた箱の中身が、ようやく誰かの暮らしにつながった気がした。

 これを待っていた人が、本当にいた。


 三つとも、札と品を確かめてもらった。

 船長が受取の紙をしまい、運賃を数える。ミレナさんが支払いを終えると、職人は町から来た荷車に箱を積む段取りを始めた。


 俺たちの納品は、これで終わりだった。


「うちはここで二、三日、次の荷を探すつもりだよ。サイハ方面の話があったら教えてくれ」


 船長が頼むと、ミレナさんは帳面へ書きつけた。


「分かった。便屋にも聞いてみるよ。それより、風呂は入っていくかい?」


 ミレナさんが立ち上がり、前掛けで掌を拭いた。


「旅の人は、一人二枚。布は貸すよ。今なら、まだ空いてる」

「行きます」


 ロクが、俺より先に答えた。


「船長、入ってきていい?」

「交代でな。全員いっぺんには行くなよ」


 俺は自分の袖を嗅ぎかけて、やめた。

 体は拭いているし、洗濯もしている。それでも、たっぷりのお湯へ肩まで浸かれると聞いたら、急に全身がそれを待ち始めた。


     *


 船で昼飯を食べてから、俺とリゼは町へ上がった。

 風呂の前に、便屋へ寄ることにしたのだ。


 坂を上がり、湯の流れる水路に架かった木の橋を渡る。

 橋の下では、側溝から合流した水が小さく渦を巻いていた。手すりを持つと、下から上がってくる湿った空気が指へ触れる。


 湯橋便屋は、橋のたもとの小さな店だった。


 入口の上に、封筒を描いた板がある。

 その下の文字は、やはり読めなかった。


 受付にいた六十歳くらいの女性が、細い鎖の眼鏡を掛け直した。

 俺の出した受領札を見て、棚の帳面を取る。耳の後ろまで白い髪を撫でつけた人だった。


 コハク号。

 カイ。

 森崎さんと、アニカの名前。


 一つずつ伝えて調べてもらったが、まだ届いていなかった。


「来たら預かっておくよ。船は下の港だね?」

「はい。何日かは、いる予定です」

「じゃあ、届いた時に使いが出せるよう書いておくね」


 森崎さんへの便りは、順調なら、もう向こうへ着いた頃だ。

 けれど、そこから返事が戻るまで、また日がかかる。すぐに書いてもらえるとも限らない。


 頭では分かっていた。

 けれど、棚から俺宛ての紙が出てこないのを見て、少しだけ肩が落ちた。


 礼を言って、札を財布へ戻した。


 外で待っていたリゼが、庇の下で俺を見た。


「まだだった?」

「うん。船が着いたことだけ、先に伝えておいたよ」


 そう言ってから、店の看板をもう一度見上げた。

 今は、この店を覚えておけばいい。


 リゼが、俺の袖を軽く引いた。


「じゃあ、お風呂に行こう。待つにしても、さっぱりして待った方がいいよ」

「それは、そうだな」


 橋を戻る途中、雨が降り始めた。

 細かい雨粒が、水路の縁へ当たる。板の庇に入ると、頭の上の音だけ急に大きくなった。


 リゼが肩をすぼめ、濡れた帽子の鍔を払う。


「間に合った」

「あと少し遅かったら、びしょ濡れだったな」

「帰りは、止んでてほしいねえ」


 そう言いながら、彼女は少し笑っていた。

 俺も、庇を叩く雨を聞きながら歩いた。


 湯気が出る町で、雨宿りをしている。

 アニカへ送る手紙に、書きたいことがもう一つ増えた。


     *


 浴場の中は、石の床が温かかった。


 入口で二枚を払い、乾いた布を受け取る。

 財布には八十枚が残った。リゼも自分の分を払い、左右に分かれた入口の前で手を上げた。


「後でね」

「うん。急がなくていいよ」


 男湯へ入ると、ロクが洗い場の腰掛けに座っていた。

 先に来ていたらしい。赤い頭巾がなくなると、いつもの顔が少し違って見えた。


 桶の水で体を流し、低い石の縁をまたぐ。

 湯は、思っていたより熱かった。


「っ……」


 足首まで入れたところで止まる。

 俺が体を洗っている間に湯へ移っていたロクが、こちらを見た。


「隣、ぬるいぞ」

「先に言ってくれよ」

「俺も、そっちから入ったんだよ」


 端の浅い浴槽へ移ると、今度は膝まで入れた。

 腰を下ろし、肩を沈める。


 息が勝手に出た。


 天井の細い隙間から、湯気が抜けていく。

 壁の口から新しい湯が流れ、浴槽の縁を越えた分が溝へ落ちる。ちゃぷ、ちゃぷという近い水音の向こうで、雨が屋根を打ち続けていた。


 このまま、何も持たずに座っていていい。


 そのことが、こんなにうれしいとは思わなかった。


 ロクが、隣の浴槽からこちらへ移ってきた。


「やっぱ、こっちの方が長く入れるな」

「なんで我慢してたんだよ」

「あっちの方が、早く疲れが取れそうだったから」

「取れた?」

「先に、のぼせそうになった」


 俺は笑った。

 ロクも笑って、濡れた顔を掌で拭った。


     *


 風呂から出ると、ミレナさんが休み場の机を拭いていた。


 俺は借りた布を籠へ返した。

 ここは浴場と隣の宿をつなぐ部屋で、湯上がりの客と宿の客が、一緒に机を使っている。


 ミレナさんは俺の顔を見ると、口の端を上げた。


「いきなり熱い方へ入ったね」

「……分かります?」

「旅の人は、大抵そうするからね。次はぬるい方からだよ。順番を守りな」


 戸が開き、リゼが女湯の側から出てきた。


 ほどいた蜂蜜色の髪を、片手で肩の前へ集めている。

 いつもの三つ編みより、ずっと量があるように見えた。濡れた毛先が薄青の上着へ触れないよう、借りた布で包んでいる。


 俺を見ると、足を止めた。


「どうしたの?」

「いや。髪、ほどいてるの、珍しいなと思って」

「ああ。乾いてから結びたくて」


 リゼは髪を見下ろし、それから机の前へ来た。


「……変じゃない?」

「似合ってるよ」


 思ったまま言うと、リゼは布の端を握り直した。


「そっか」


 椅子へ座る前に、両方の袖を揃えようとする。

 片手が髪で塞がっていたので、一度諦め、先に腰を下ろした。


 俺は隣の椅子を引いた。

 今言った言葉を、もう少し気の利いた言い方にできなかったか考えたが、後から足す方が変になりそうだった。


 ロクは水差しと杯を三つ持ってきて、向かいへ座った。

 俺たちは水を飲みながら、しばらく窓の外を眺めた。


 窓の外では、雨に濡れた板道を人が行き来している。

 窓辺に吊られた小さな鐘が風で揺れ、ちりん、と鳴った。


 ミレナさんがその鐘を外した。

 紐を巻き、棚の中へ入れる。


「もう、店じまいですか?」


 俺が聞くと、彼女は首を振った。


「風呂はまだやってるよ。日が落ちる前に、外で鳴るものを片づけるだけ」

「雨が強くなるから?」

「森にいる獣が、音へ寄ってくるからさ。夜啼きって、聞いたことはあるかい?」


 俺は首を振った。

 リゼも、膝の髪から顔を上げる。


「名前だけ。声を真似するって」

「そう。人の声でも、鐘でも、聞いた音をそっくり返すんだよ。知らないで林へ呼ばれたら、危ない」


 ミレナさんは窓の掛け金に手を置いた。


「大きいのは、四つ足で立ったまま、この窓を覗けるくらいある。人だって襲うよ」


 窓の下は、板道だった。

 腰より高い窓を、地面に立った獣が覗く。


 俺は、湯気の向こうの白い林を見た。


「……町まで来るんですか?」

「普段は、森の中さ。けど、この四日ほど、町外れで声を聞いたって人がいる。港の方も見回りを増やしてるよ」


 ミレナさんが、俺とリゼを順に見た。


「暗くなったら、声だけで外へ出ちゃいけない。誰かが呼んだら、まず窓から顔を見ること。知ってる人の声でもね」

「分かりました」

「船の皆にも、港から注意が行ってるはずだよ。面倒でも、確かめておくれ」


 怖がらせて楽しんでいる声ではなかった。


 俺は頷き、もう一度窓の外を見た。

 少し前まで歩いてみたかった林の奥が、急に遠く感じられた。


 リゼが髪の先をもう一度拭き、肩の後ろへ払った。

 それから、使った布を畳み始める。


「日があるうちに戻ろうか」

「うん」


 ミレナさんはリゼの返した布を受け取り、空いた水の杯を重ねた。


「湯は明日もあるよ。今夜、慣れない道へ出ることはないからね」


     *


 坂を下ってコハクへ戻ると、船長が渡し板の下で見知らぬ男と話していた。

 リゼは途中で髪を緩く一本にまとめ、雨のために帽子を被り直していた。


 船長の相手は、四十歳前後の男だった。

 短い黒髪の前の方に、一筋だけ白いものが混じる。左の頬に古い傷があり、首のまわりを硬そうな革の襟で覆っていた。


 男がこちらへ目を向けた。

 厚い手袋の指先を、反対の手で一本ずつ押し込んでいる。


「風呂はよかったか?」


 船長に聞かれ、俺は頷いた。


「はい。あの、夜啼きのことを聞いたんですけど」

「今、俺もその話をしてたところだよ」


 船長が、男を示した。


「ダリオさんだ。森の獣を捕まえて、生きたまま運ぶ仕事をしてる。向こうの鎧鷹号の船長だよ」

「よろしく」


 ダリオさんは短く頷いた。

 低い、落ち着いた声だった。


「この船は、二晩くらいここにいると聞いた。少し、荷を預かってもらえないか相談していたところだ」


 俺は船長を見た。


「荷って?」

「夜啼きの子だよ」


 答えたのは、ダリオさんだった。

 思わずリゼと顔を見合わせた。


「生きてるんですか?」

「ああ。檻に入ってる。うちの船を修理する間だけ、置ける船を探してるんだ」


 ダリオさんは、停泊場の端を指した。


 コハクの斜め後ろ、石畳を挟んで黒い船が一隻いる。

 コハクより短く、家の代わりに大きな荷台が載っていた。四方の鉄柱の間へ網が巻かれ、船尾には横に長い腕を持つ巻き上げ具が見える。


「まだ引き受けてはいないよ」


 船長が言った。


「まずは現物と、預かる条件を見せてもらう。カイ、リゼ、お前たちも見るか?」

「……はい」


 よく分からないまま船へ来る方が怖かった。

 置くとしたら俺たちが働く荷場で、すぐそばには人の家がある。子供だというだけで、安心できるわけではなかった。


 リゼも頷いた。


 ロクは渡し板を上がってコハクへ戻り、俺たち三人がダリオさんについていった。

 雨は細くなっていたが、石の継ぎ目には水が溜まっている。


 鎧鷹号の渡し板を上がると、厚い板を張った荷台が広がっていた。


 奥の巻き上げ具は、片側の歯車を外してある。

 その脇へ工具が並び、取り外した部品が油布の上に置かれていた。


「修理は、あれですか」

「ああ。軸受けを替える。檻の下も開けるから、獣を載せたままじゃできない」


 ダリオさんは、荷台の真ん中へ向かった。

 腰くらいの高さの檻があり、雨除けの布が掛かっている。


 近づくと、布の下で何かが動いた。


 ごと、と、床を擦る音。


 ダリオさんが足を止め、俺たちにも止まるよう手を出した。


「ここから見るだけにしてくれ。触らないでくれよ。小さくても、噛めば指を持っていく」


 俺は足を止めた。

 檻までは、大人が両腕を広げたくらいの間がある。


 船長が、檻の四隅と、床へ留めた金具を見ていた。

 リゼは俺の横で、手を背中側へ回している。


 ダリオさんが、檻の横へ立った。

 布の端をゆっくり上げる。


 丸い耳が見えた。


 灰白の毛に埋もれた頭。

 犬の子供よりは大きい。けれど、顔と前脚に比べて胴が短く、まだ体の釣り合いが取れていないように見えた。


 黒い鼻が動く。

 太い前脚の先には、毛の間から曲がった爪が出ていた。


 可愛い、と、最初に思ってしまった。


 それから、檻の下板に何本もの溝があるのを見つけた。

 爪で削った跡だった。さっきの注意が、急に具体的なものになった。


「親は、どこにいるんだい?」


 船長が聞いた。


「母親は、俺が仕留めた。子だけ残すわけにはいかなくてな」


 ダリオさんは答え、布を檻の上へ折り返した。


 幼い獣が、耳を起こす。

 鼻先を床へ下げ、また持ち上げた。


 俺は、檻の向こうの巻き上げ具へ目をやった。

 外された歯車の大きさを、コハクで見たものと比べていた。


「カイ、こっちだよ」


 リゼに呼ばれ、顔を戻した。


 獣が、こちらを見ていた。

 丸い耳をこちらへ向け、鼻を鉄の棒の間へ寄せている。


 俺が顔を近づけないよう、その場で膝を少し曲げると、獣も頭を傾けた。


 喉の奥で、空気が擦れるような音がした。


 く、と短く鳴く。

 口を開き、閉じる。


「カイ、こっちだよ」


 リゼの声だった。


 俺は、隣を見た。

 リゼの口は、閉じていた。


 彼女の右手が、俺の袖を掴む。


 もう一度、同じ声がした。


 俺たちの目の前で、灰白の獣が口を動かしていた。

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