第二十一話 相棒の行く先
「その手、いったん離してもらっていいか?」
顔を上げると、ロクが盆を持って立っていた。
木の杯が三つ。中の水が、歩いてきた揺れで縁を叩いている。
「水を渡したいんだけど、誰も受け取ってくれないんだよ」
アニカが、先に手を引いた。
「ごめん。ありがとう」
リゼも手を離し、杯を両手で受け取った。
俺は最後の一つを取る。
一口飲んだら、途中で止められなかった。
鼻が詰まっていて、息が苦しくなる。いったん離して、大きく息を吸うと、横でリゼがまったく同じことをしていた。
目が合った。
「……ゆっくり飲まないとね」
「お互いにな」
リゼの口元が、少しだけ緩んだ。
まだ目は赤い。それでも、笑った顔を見て、俺はもう一口、水を飲めた。
飲み終えると、三人で杯を盆へ戻した。
*
帰着枠を空け、二隻をいつもの停泊区へ移した頃には、腹が鳴り始めていた。
走っている間は、何も欲しくなかったのに。
低く停まったコハクの渡し板で、俺はアニカの杖を預かった。リゼが彼女の右側につき、板をゆっくり上がるのを支える。
アニカは左足へ体重を掛けるたび、少し口を結んだ。競走を走りきったからといって、傷まで治ったわけではない。
炊事場の前へ、長机を二台出した。
普段は壁に畳んである机だ。起こした脚の内側へ留め金を倒すと、かちん、と鳴る。俺が端を押して確かめ、ロクが鍋敷きを置いた。
鍋の中には、芋と豆と、小さく切った塩漬け肉が入っていた。
蓋を開けた途端、炒めた玉ねぎの匂いが通りへ広がる。
「カイ、椀も頼むよ。皆、腹減って待ってるぞ」
ロクに言われ、俺は椀を配り始めた。
船長が座る。
エダさんが椅子を寄せる。
ボルグさんが手を拭い、通りの奥から来た人が匙を並べる。
さっきまで、家の戸も窓も、競走の足音に合わせて鳴っていた。
今は椅子を引く音と、鍋の底をさらうお玉の音がする。
俺の向かいに、リゼとアニカが並んだ。
「いただきます」
匙を入れると、芋が崩れた。
熱い。けれど、腹の底へ入っていく感じがして、もう一口欲しくなる。
リゼは二口ほど食べてから、匙を止めた。
「あの最後のところ、やっぱり——」
「飲み込んでからにしな」
エダさんが、自分の椀を手前へ寄せる。
リゼは口を閉じ、もぐもぐと動かした。
全員が待ってしまったので、耳が赤くなった。
「……もういいよ。思い出すと、また悔しくなるだけだし」
「俺も、何回も思い出してるよ」
言うと、アニカが匙を持ったまま頷いた。
「どこか一か所だけ、もう一回できないかなって」
俺も、同じことを考えていた。
止まる直前。
最後の角。
風車の台へ、箱を置いた時。
頭の中で一つずつやり直して、今度なら間に合うかもしれないと思ってしまう。
前に遊んでいたゲームなら、もう一度挑めた。時間を合わせて、同じ顔ぶれで、次こそはと始められた。
目の前の二人にも、もう一度会って、一緒に走りたい。
そのためには、次も同じ場所にいるだろうと思っているだけでは駄目なのだろう。
「おかわり、ある?」
リゼが空の椀を持ち上げた。
ロクの顔が明るくなった。
「あるよ。今度は話せるくらいずつ食えよな」
「そこまで一杯に入れたの、ロクでしょ」
「減らすか?」
「減らさなくていい」
隣で、アニカも椀を差し出した。
「私も。さっきと同じくらい、お願い」
ロクは二つとも受け取って、鍋へ戻った。
赤い頭巾の端が、肩の上で跳ねていた。
*
食事を終えた頃、荷受け場の男が船へ来た。
平たい帽子と、鼻の脇から顎へ続く赤茶色の短い髭。
ベルカへ着いた日に、俺と一緒に祭りの幕を張った係だった。片脇に帳面を挟み、渡し板の下から船長を呼ぶ。
船長が乗り口へ迎えに行き、机のところまで案内してきた。
「オルドさん。出る前に、ローネの荷を見てもらえるかね」
「ああ。どんな荷だい」
「湯の管につける弁だよ。木箱で三つ。向こうの共同浴場で取り替えるんだとさ」
船長がボルグさんを見た。
「飯は終わったか?」
「もう少し食わせてくれ。すぐ終わるよ」
ボルグさんは椀へ顔を戻した。
船長は笑って、係に少し待ってもらうよう頼んだ。
「俺も行っていいですか」
「おう。箱の持ち方を見ておくといい」
俺は自分の椀を重ね、立ち上がった。
「ローネへ行くんだね」
アニカが言った。
「うん。便りの返事も、そこへ送ってもらうことにしてるんだ」
「湯の町、だっけ」
リゼの声へ、アニカが頷いた。
「そう。山の中なのに、町のあちこちから湯気が出てるの。入っていく道は白い木の林でね、幹だけ見ると雪が積もってるみたいだよ」
「葉っぱも白いの?」
「そっちは緑。だから近くで見ると、ちょっと変な感じがする」
リゼが、俺を見た。
俺も、見たかった。
白い幹の間を、この家を載せた船が歩くところを。
知らない景色の話を聞くと、行ってみたいと思う。
森崎さんからの返事も、ローネで受け取ることになっている。着いたらまず、便屋へ行ってみようと思った。
「アニカは、次はどこへ行くの?」
リゼが聞いた。
「私は、しばらくここ。まず、いつもの便に戻るよ」
アニカは、机の脇の杖へ目をやった。
「手紙とか、小さい包みからね。積み下ろす人を頼めるか、荷受けで相談するつもり」
「遠くへは、まだ行かない?」
「うん。もう一度足を診てもらってから。ここなら、困った時に手を借りられるし」
リゼは頷いた。
すぐには次の言葉が出なかった。
俺は、炊事場の方を見た。
鍋はほとんど空だ。机の向かいには、客のために一つ多く出した椅子がある。
出航したら、十五人分に戻るのか。
「治ったら、もっと遠くの便も取りたいんだよね」
アニカが言った。
「その時は、今度こそ、荷を積む人も最初から頼んでおくよ。一人で全部やろうとすると、結局遅くなるって分かったから」
リゼの顔が上がった。
「ヒバリなら、行けるよ」
「でしょ」
書類入れの留め金が、ぱちん、と鳴った。
あの船で、仕事を増やしたい。
初めて会った頃から、アニカはそう言っていた。
好きな船で、仕事を続けられる。喜ばしいことだ。
それでも、机の向かいが空くと思うと、もう少しだけここにいられないかと考えてしまった。
「じゃあ、ひとつ頼んでもいい?」
アニカがこちらを向いた。
「どこへ行くか、港に残しておいてほしいんだ。俺たちも残すから。次に会いたい時、探せるように」
「いいよ。ベルカに出した手紙なら、ここの荷受けで預かってもらえるし」
アニカは船長の方を見た。
「出る前に、書くね。次の行き先も教えてよ」
「ああ。ローネで受け取れる店も伝えておくよ」
俺は頷いた。
少なくとも、今ここで頼んでおけた。
ボルグさんが空の椀を置いた。
「よし。待たせたな」
立ったボルグさんが、右の耳たぶを引く。
俺は船長たちと係を追い、渡し板へ向かった。
*
三つの木箱は、荷受け場の奥に並んでいた。
箱を開けたのは、弁を扱う店の人だった。係が紹介してくれた四十歳くらいの女性で、耳の下で切り揃えた黒髪をしている。
藁を詰めた中から、真鍮色の部品を見せてくれた。
太い管の途中へ挟むものらしい。
上についた丸い握りを回すと、管の内側にある板がゆっくり動いた。
「湯を止めたり、通す量を変えたりするの。三つとも大きさが違うから、箱の札は外さないでね」
俺は箱の端を見た。
木の札が、短い紐で結びつけてある。字は読めない。どの箱をどこへ渡すか、勝手に判断できる印ではなかった。
ボルグさんが部品の縁を確かめ、持ち手に指を掛けて箱の片側を少し浮かせた。重みを確かめ、元へ戻す。
「二人で一箱だな。積む時は、こっちを下にするんだぞ」
指した面を覚え、俺は頷く。
船長は荷主の女性と、運賃、届け先、受け取りの期限を一つずつ確かめていた。
ローネまでは、コハクで順調に行って四日ほど。
納品は今日から六日後の夕方までで、今すぐ走り出す仕事ではない。明日の朝に荷を積み、途中で夜を休んでも間に合うという。
運賃を払うのは、向こうで箱を受け取る共同浴場だ。
荷主が書いた紙を船長が読み、分からないところを聞き直してから、引き受けると答えた。
俺たちは、また荷を運ぶ。
さっきまで札を持っていた右手で、箱の持ち手を確かめた。
今度は誰より早く着くためではなく、待っている人へ、約束した日に渡すためだ。
船へ戻る途中、整備主任のベッケさんに会った。
薄い白髪の上へ銅枠の眼鏡を上げ、手帳をめくっている。
ボルグさんを見つけると、眼鏡を鼻へ戻した。
「午後に二隻とも見よう。あれだけ走ったんだ、出る前に確かめたい」
「頼むよ。こっちも右後ろを見ておきたいんだ」
「ヒバリの方は、あの娘にも声を掛けてくれるかね」
船長が頷いた。
俺は立ち止まり、もう一つ聞いた。
「今日、粉が来たところで足を挟まれた人は、どうなりましたか」
「手当ては済んだよ。今は仲間と宿で休んでる。橙の船も港へ戻す手配をしてるところだ」
まだ仕事へ戻れるという話ではなかった。
それでも、谷の道に置き去りになってはいないと分かり、俺は息を吐いた。
「ありがとうございます」
「礼は手当ての連中に言ってやってくれ。今日は忙しいよ」
ベッケさんは手帳を閉じ、別の船へ歩いていった。
*
午後は、競走の時より細かな仕事が多かった。
コハクの脚を見てもらう。
使った縄をほどき、擦れたところを調べる。
船内へ持ち込んだ粉を掃き、エダさんへ借りた布を返す。
口や鼻を覆った布は、回収すると小さな山になった。
俺とエダさんは前の乗り口の脇へ桶を並べた。エダさんが布を浸すと、水がすぐに白く濁った。
「これだけ吸わずに済んだんだねえ」
「洗う方は、俺もやりますよ」
「じゃあ、すすいだ方を絞っておくれ。そっちの桶だよ」
俺は袖をまくり、濡れた布を取った。
頭の中には、まだ白い船がいた。
気を抜くと、あの船首が窓の横へ出てくる。
それでも、目の前の布を絞って、次を受け取る。
いつまでも悔しがっていていいけれど、今日の仕事がなくなるわけではなかった。
布を干し終える頃、リゼとアニカが戻ってきた。
アニカは右の脇に木の杖を挟んでいる。リゼは半歩横で、歩調を合わせていた。
手当て所へ、二人で行っていたのだ。
リゼが乗り口のそばへ椅子を持ってくる。アニカは腰を下ろし、杖を横へ立て掛けた。
「杖、もう少し借りることになったよ」
アニカが言った。
「あと三日は使って、また足を見せに来てって。近くの便なら続けていいけど、荷物は持たないようにって、念を押された」
「守るんだぞ」
通りを後ろから歩いてきたボルグさんが言った。
今しがた、ベッケさんとの点検を終えたところだった。
「船が直ってても、乗る方が無理しちゃ駄目だ」
「分かってるよ。手紙だって、向こうの人に窓まで持ってきてもらうから」
アニカは椅子に座ったまま、少し胸を張った。
「それで、うちの脚は?」
「新しく入れたところは、緩んでない。床も大丈夫だよ。次の点検の日は、ベッケから紙でもらっときな」
「うん」
アニカが頷いた。
ボルグさんは、前へ来た船長に向けて付け加えた。
「こっちの右後脚も変わりなしだ。明日は出せるよ」
アニカはヒバリを見た。
小屋根の一部は、新しい木の色をしている。
傷がなかった頃の姿に、そっくり戻ったわけではない。
でも、あの脚で走って戻ってきた。
アニカの右の親指が、書類入れの留め金を軽く弾いた。
「明日から、一日一便だけ取ることにしたよ。さっき、荷受けで話してきた」
「決まったんだ」
「うん。荷物を持ってきてもらう分は、運賃から引いてもらうの。遠いのは、足が治ってから」
リゼが、ヒバリとアニカを交互に見た。
「また、速達屋さんだね」
「ずっと速達屋だよ。休んでただけ」
アニカは笑った。
俺も笑って、頷いた。
エダさんが家へ入り、小さな袋を持ってきた。
中には、五分の砂時計が入っていた。
「借りっぱなしだったね。ありがとうよ」
「ううん。役に立ったなら、よかった」
アニカは袋を膝へ置き、右手で砂時計を取り出して光へかざした。
少し傾けると、細い砂の筋が落ちる。
「また練習する時は、貸すからね」
「その時は、あんたも横で見てな」
エダさんに言われ、アニカは口元を緩めた。
「うん。ちゃんと計るよ」
*
夕方、船長から今日の給金を受け取った。
銅貨六枚。
財布へ入れると、全部で六十四枚になった。
船の賞金は取れなかった。
俺の働いた一日まで、なくなったわけではなかった。
窓の外では、港の人が競走の縄を外している。
広場を大きく空けていた目印が、一本ずつ束になっていった。
祭りの赤い幕は、まだ残っていた。
俺は部屋の棚へ目を向けた。
青い魚を描いた杯。その横に、前から使っている杯がある。
二つを横に寝かせ、棚の前の棒を下ろした。船が揺れても、杯が滑り落ちないようにする棒だ。
戸を叩く音がした。
「カイ、起きてる?」
「起きてるよ」
リゼだった。
帽子を脱ぎ、ほどきかけた蜂蜜色の三つ編みを片手で押さえている。
「アニカがね。手紙を送るところ、書いてくれたよ」
俺は棚の前を離れ、リゼと通りへ出た。戸を閉め、鍵を掛ける。
向かいの炊事場には、洗った鍋が伏せてある。
エダさんの窓には、昼に買ってきたという白い薄布が広がっていた。
リゼの家は、前の乗り口から見て左の二軒目だ。
開いた戸の向こうで、アニカが寝台に腰掛けていた。机の上に紙、床には畳みかけの毛布がある。
「入って。そこ、毛布を踏まないでね」
リゼが先に毛布を持ち上げた。
俺は戸のすぐ内側で立ち止まった。
寝台は、一人が横になればいっぱいだ。
その脇へ毛布を敷くと、机の前の足場も狭くなる。
「ずっと、ここで寝てたんだよな」
俺が床を見て言うと、リゼは毛布を胸へ抱えた。
「うん。今夜までね」
「ごめんね。明日から、ちゃんと伸びて寝ていいから」
アニカが言った。
「足、曲げてた?」
俺が聞くと、リゼは頷いた。
「うん。カイが思ってるより、私、脚が長いんだよ」
リゼが真面目な顔をしたので、俺は下へ目を向けかけ、やめた。
アニカが先に吹き出した。
「何で、今、見ようとするの」
「いや、言われたから」
「そういう時は、見なくていいの」
リゼも笑っていた。
畳んだ毛布を脇の椅子へ置き、それから、寝台の端に手をつく。
「自分の寝台に戻れるのは、うれしいよ。でも、起きた時に話す人がいないのは、ちょっと寂しいかも」
アニカは紙を机へ置いた。
「私も。つい、朝ご飯ができるのを待っちゃいそう」
「明日は、食べてから下りてよ」
「うん。最後まで、お世話になります」
頭を下げるアニカの肩を、リゼが軽く叩いた。
「また来たらいいんだよ」
「次は私が床で寝るよ。足をちゃんと治してくるから」
アニカは左足の巻き布へ目を落とした。
俺は、何か気の利いたことを言おうとして、やめた。
二人はちゃんと、自分たちの言葉で話している。
その横にいさせてもらえるだけで、今は十分だった。
アニカが、紙を差し出した。
「ベルカの荷受け。そこへ私の名前で送ってくれたらいいよ。しばらく町を出る時も、次の港を残しておくから」
俺が受け取ると、リゼが隣から読み上げてくれた。
地名の後に、アニカの名があった。
「こっちは船長が書いてくれたよ」
リゼも一枚、渡した。
「ローネの湯橋便屋。コハク宛てにしてくれれば、私たちの分も一緒に受け取れるって」
「分かった。海まで行っちゃう前に、一回書くよ」
アニカが書類入れを開ける。
紙の角を揃え、中へ収めて留め金を閉じた。
俺も、受け取った紙を折らないよう持ち直した。
「俺からも書くよ。……今は、誰かに頼んで書いてもらうことになるけど」
「いいよ。誰の字でも、カイが何してるか分かれば」
その言い方が、うれしかった。
森崎さんへ出した便りも、人の手を借りて書いた。
頼める人がいることは、ありがたい。
けれど、いつか自分でも書きたかった。
短くてもいい。誰かに見せる前に、自分の言葉で一枚、書けるようになりたい。
*
部屋へ戻ろうとすると、リゼも通りへ出てきた。
アニカは寝る前に、明日持って下りる荷物をまとめると言っていた。
家の窓から、小さな灯りがいくつもこぼれている。
昼に干した布が、頭の上で静かに揺れた。
「字、教えようか」
リゼが言った。
「毎日、少しずつでよければ。船を停めてる時とか、私が操船してない時なら」
「助かるよ。ちゃんと覚えたい」
「じゃあ、最初は私の名前からね」
即答だった。
「自分の名前じゃなくて?」
「カイは、その次。教える人の名前が先でしょ」
リゼはそう言って、両方の袖を同じ高さへ折り直した。
少し、耳が赤かった。
「分かりました。お願いします、リゼ先生」
「……それ、皆の前で呼ばないでね」
小さな声だった。
俺が頷くと、安心したように息を吐いた。
まだ教わってもいないのに、字を覚えるのが少し楽しみになっていた。
宛先の紙は、部屋へ戻ってから、棚の紹介文と同じ布袋へしまった。
*
翌朝、三つの箱を積んだ。
俺とロクで、一つの箱の両側を持った。向きをボルグさんに確かめ、渡し板から通りを抜け、後ろの荷置き場へ運ぶ。
当て木の間へ置き、空手で前へ戻る。それを三箱分、繰り返した。箱についた札は、そのまま残した。
荷を縛り終わると、ボルグさんが結びと箱の揺れを調べた。
「よし。これで出せるぞ」
朝食の机は畳まれ、壁へ戻っている。
通りには、いつもの幅が戻っていた。
リゼの家から、アニカが出てきた。
右の脇に杖。小さな身の回りの袋は、リゼが持っている。
アニカは戸口を振り返り、一度、手を置いた。
「ありがとう。ちゃんと寝られたよ」
「知ってる。すぐ寝てたもん」
「言わなくていいでしょ」
笑いながら、二人が前へ歩いてくる。
俺は渡し板の下へ先に下りた。
リゼが右側を支え、アニカが一歩ずつ下りてくる。地面へ着いたところで俺が代わり、リゼは袋を持ったまま隣のヒバリまでついてきた。
小さな緑の船は、コハクの前寄りに並んでいる。
アニカが操舵室の席へ座るのを手伝い、リゼが袋を渡した。
彼女が袋を足元の邪魔にならない場所へ置くのを見て、俺たちは前窓の下の短い段へ戻った。
アニカは杖を座席脇へ収め、開いた窓の縁を撫でた。
「久しぶりに、一人だなあ」
「困ったら、荷受けの人を呼ぶんだよ」
「うん。もう頼んであるよ。今日の一便は、昼から」
リゼは頷いた。
何か忘れていないか確かめるように、狭い操舵室を見回す。
「リゼ」
アニカが呼んだ。
「大丈夫。私の船だよ」
リゼの視線が、彼女へ戻った。
茶金の目が、まっすぐこちらを見ている。
俺はリゼの後ろで、口を閉じていた。
手伝うことはあっても、いつまでも全部こちらで確かめるわけにはいかない。
この船を走らせてきたのは、アニカなのだ。
「……うん。またね」
リゼが言った。
アニカは窓から右手を出した。
リゼがそれを握る。
「次は、勝とうね」
「うん」
すぐには、手が離れなかった。
「私、コハクと組んでよかったよ」
リゼの口元が震えた。
「私も。ヒバリが相棒で、よかった」
アニカが俺を見た。
「カイもね」
「次に会うまで、練習しとくよ」
「手紙も書いてよ。『忙しくて』って、なしだからね」
図星を突かれた気がして、俺は笑った。
元の世界でも、返そうと思ったまま日を空けた連絡はいくつもあった。
「分かった。短くても書くよ」
アニカは満足そうに頷いた。
リゼの手を、一度だけ強く握ってから離す。
「行っておいで。海、見に行くんでしょ」
*
コハクへ戻ると、船長が乗り口で待っていた。
腰の鍵束を握り、俺たちが上がるのを見てから、手を離す。
金属が小さく鳴った。
「忘れ物はないか?」
「大丈夫です」
「よし。十五人、揃ったな。ロク、板を頼む」
俺もロクの横についた。
二人で渡し板を上げ、留め具を掛ける。
その向こうに、ヒバリの窓が見えた。
アニカが右手を振っている。
エダさんは前の柵から大きく手を振り返した。首の巻き尺が、胸で揺れていた。
ボルグさんも、短く片手を上げる。
リゼは操舵室へ入った。
俺は前の乗り口の柵へ手を置いた。
「周り、空いたぞ。出していい」
船長の声へ、リゼが頷く。
床の下で、鉄が低く噛み合った。
まず船体が上がる。地面が遠ざかり、ヒバリの窓を少し見下ろす高さになった。
六本の脚が、いつもの順に動き始める。
どん。
一歩目の響きが、足の裏から上がってきた。
前の家で重ねた器がかすかに鳴り、戸が揺れる。
昨日は、誰より先へ行きたくて仕方がなかった。
今は、この一歩で隣の窓が遠ざかるのが、少し惜しかった。
「リゼ!」
アニカの声が来た。
操舵室の横窓から、リゼが顔を向ける。
「また一緒に走ろうね!」
「うん! 今度は、あいつより先に帰ろう!」
窓の中で、アニカが笑った。
言い返す声は、次の脚が地面を踏む音に重なって聞き取れなかった。
けれど、右手がもう一度、大きく上がった。
コハクは港の出口へ向かって曲がる。
家の壁が、ヒバリとの間へ入ってきた。
見えなくなる。
俺は柵から手を離し、通りを後ろへ走った。
窓から出ていた住民の手が引っ込み、誰かが少し脇へ寄ってくれた。
最後の家を抜けると、荷置き場が開ける。
三つの箱の右側を通り、船尾の柵へ辿り着いた。
いた。
緑の船は、もう少し小さくなっていた。
その窓から、赤銅色の髪と、振り続ける腕が見える。
俺も手を上げた。
「アニカ! また、組もうな!」
彼女の腕が、いっそう大きく動いた。
背中側から、ロクの声がした。彼も荷置き場まで来ていた。
「見えたか?」
「うん。まだ、手を振ってるよ」
「リゼに言ってくる」
赤い頭巾が、家の間へ戻っていく。
俺は手を下ろさず、緑の船を見ていた。
港の人が、俺たちの張った赤い幕の下を歩いている。
アニカの窓が見えなくなるまで、俺はそこにいた。




