第二十話 最後の一歩まで
白い船の脚音が、もう家々の軋む音に混じっていた。
港までは、あと一つ曲がり角がある。
その先は畑の石垣が途切れ、二隻が並んでも余る広い道になっていた。道の両脇に張られた縄の向こうで、見物人がこちらを向いている。
「あそこで、横に来る」
俺が言うと、リゼが頷いた。
「右へ出てきたら、教えてね。今は曲がる方を見てたいから」
「分かった。そっちは俺が見てるよ」
リゼの足が、踏み板から少し戻る。
コハクの前脚が角へ入った。
道の外側へ、長い船体が回り込んでいく。窓から見えていた帰着枠がいったん横へ動き、視界の端で青い布が翻った。
近い。
ヒバリがいる場所まで、もうすぐだ。
後ろから、ルーガンの白い船が迫っていた。こちらの船尻を追い、同じ角へ入ってくる。
前へ出ろ、と喉まで声が上がった。
でも、コハクの後ろには、まだ曲がり角が残っている。
俺は口を閉じた。
船長の声を待った。
「後ろ、抜けたぞ!」
ロクが戸口から伝える。
その声とほとんど同時に、リゼの両腕が動いた。
コハクが前へ出る。
どん、と足元から押し上げられ、俺は手すりを握り直した。
さっきまで長く延びていた脚音が、短い間隔で続き始める。家の戸がかたかた鳴り、床下で鉄の噛み合う音が高くなった。
右の窓へ、白いものが出てきた。
まず、船首。
その下から伸びる前脚。
白い船は角を抜けると、こちらから離れた側へ出た。二隻の脚が重ならない間を空けたまま、広い道を並んでくる。
「右に来たよ。まだ船首は、こっちが前だ!」
「うん!」
リゼは前を見ていた。
真っすぐになった道の先へ、四角い帰着枠が並んでいる。
俺たちの青い枠は、ヒバリのすぐ右に空いていた。その隣が、白い組の残る一隻の枠だ。
二つの枠の奥に、船首を止める目印の杭が一本ずつ立っている。どちらも同じところまで走って、そこで止める。二隻が別々に、真っすぐ入れる配置だった。
あとは、あそこへ、先に止める。
俺はポケットへ手を入れた。
木の札が指へ触れた。
ある。
風車でもらった一枚を取り出す。絡まないよう紐を掌へ収め、札の表を外へ向けた。
「準備できたよ。止まったら、すぐ渡せる」
「お願いね」
返事は短かったが、リゼの目元がわずかに緩んだ。
ロクが、戸口から俺の手を見た。
「落とすなよ。それ、今日いちばん高い木切れだからな」
「言うなって。手に汗かく」
「もうかいてるだろ」
口の端だけが上がった。
ロクも笑っていた。顔は、少しも余裕のある顔ではなかった。
後ろで誰かが、いけ、と叫んだ。
地上の声が重なる。
「青いの、逃げろ!」
「白が来たぞ!」
どちらを応援しているのか分からない声まで、皆、前へ押してくるようだった。
俺は右を見た。
白い船首が、さっきより前にいる。
こちらの前脚が地面を踏む。その脚が次を踏むまでの間に、相手の足が一つ、また一つ、先へ出た。
少しずつだ。
それが、いちばん嫌だった。
何かを失敗したのなら、取り返すことを考えられる。間違えた場所を見つけて、次を変えられる。
リゼは、間違えていない。
皆の声も届いている。札もある。今朝積んだ荷は、どれも壊さず届けた。
それでも、白い船が来る。
「どこまで?」
リゼが聞いた。
「もう、後ろの家を越えた。……前の家の横にいる」
「分かった」
彼女の踵が踏み板へ押しつけられた。
まくった薄青の袖の下で、腕の筋が浮く。
俺には、これ以上何を動かせば船が速くなるのか、分からなかった。代わりに握れる梃子もない。
分からないまま、もっと、とは言えなかった。
「カイ」
俺は顔を向けた。
リゼが、前を見たまま言った。
「こっちは、まだ走れるよ」
息が詰まった。
俺の方が先に、できないことを数えていた。
彼女はまだ、帰着枠を見ている。
「ああ。最後まで、頼むよ」
コハクの足音が続いた。
畑の水を流す樋が、下を横切る。
船首が港の平場へ入ると、空気が変わった。谷を吹き上げる風が止み、代わりに人の熱気と声が、開いた窓から入ってきた。
ヒバリの窓から、アニカが身体を起こしていた。
赤銅色の髪が跳ねる。
「リゼ、こっち! 待ってるから!」
リゼの口元が動いた。
返事をしたのかもしれない。声は、俺にも聞こえなかった。
白い船首が、並んだ。
すぐ右に、赤い輪の印があった。
俺は思わず、その船体を睨んだ。
下り坂であれほど遠くに見えていた船が、同じ地面を踏んでいる。
向こうの操舵室も見えた。
ルーガンの広い肩。
粉の残った白い襟。
あの男は、こちらを見て笑ってなどいなかった。正面を向き、梃子を握る腕を止めずにいる。
自分の船員が出す声へ、一度、大きく頷いた。
俺たちを、抜くつもりだ。
当たり前のことなのに、ひどく腹が立った。
あいつだって勝ちたい。それだけで、こちらの頑張りが全部足りなくなることがある。
分かった。
分かったから、今だけは、少し遅れてくれ。
「前へ出られた!」
自分の声が裏返った。
白い船首が、窓の前へずれた。
リゼの両手が、梃子を引いた。
俺は一瞬、声を出しかけた。
減速するのか。
今、ここで。
前を見て、分かった。
青い帰着枠の手前の線が、もう足元へ近づいている。
走り抜けてしまえば、終わりではない。
この長い船を、枠の中で止めなければならないのだ。
俺は札を握ったまま、操舵室の戸口へ出た。
すぐ隣が、前の乗り口だ。柵へ左手を掛け、右手の札を見える高さへ上げる。
地上で、眼鏡の女性がこちらを見ていた。
受付と予行で会った係だ。高く巻いた黒髪が、風で少し緩んでいる。
「札、こちらで受け取ります! 止まってからですよ!」
「分かってます!」
コハクの床が沈み始めた。
脚を曲げ、船を低くしながら、最後の歩幅を詰めている。
俺は柵を握った。
右の白い船も、下がっていた。
前へ出た差は、わずかだ。
帰着枠の中へ、相手の最後の脚が入る。
こっちも、あと一歩。
後ろから船長の声が来た。
「枠に入ったぞ!」
ロクの声が重なった。
リゼが梃子を戻す。
右で、脚音が途切れた。
白い船が止まっていた。
その乗り口から、船員の手が伸びる。係へ札が渡るのが見えた。
俺の足元には、まだ一つ、地面を踏む響きが残っていた。
止まれ。
頼む。
止まってくれ。
最後の足音が、腹の下を通った。
床の動きが収まる。
俺はすぐ、札を差し出した。
女性の指が受け取り、風車の印を返して見る。
隣で、笛が鳴った。
「白、三札確認! 二隻帰着!」
女性がこちらの札を、手元の二枚へ重ねた。
「青も、三札確認! 帰着しました!」
もう一つ、笛。
俺は、開いた右手を見ていた。
札は、もうない。
やることは、全部、終わった。
全部、終わったのに。
広場の高い台から、声が降ってきた。
「優勝、白のルーガン組! 青のコハク・ヒバリ組は、二位!」
拍手がした。
白い船の二人が、両手を上げた。
あちらの相棒船からも、人が駆けてくる。
俺は柵を掴んでいた。
ほんの少しだった。
まだ、右の船を指で示せるほど近い。
あの船の最後の脚が下りた時、コハクには、あと一歩だけ残っていた。
負けたのだ。
俺たちは、本当に勝つつもりで走って。
負けた。
*
「札は、これで全部お預かりしましたよ」
係の女性が、俺を見上げていた。
眼鏡の奥の目が、さっきより柔らかかった。
「もう下りて大丈夫です。皆さん、お疲れさまでした」
「……ありがとうございます」
声は、普通に出た。
それが、自分でも妙だった。
ついさっきまで、あれだけ勝ちたかったのに。負けた途端に地面が消えるわけでも、声が出なくなるわけでもない。
俺は、ちゃんと人へ礼を言えてしまう。
ロクと、そばにいた住民が、渡し板へ手を掛けた。
いつもと同じように下ろす。
板の先が地面へついて、鈍い音を立てた。
「カイ、そこで突っ立ってると、踏むぞ」
「悪い」
俺が脇へ退くと、ロクは板を押さえ、地面への座りを確かめた。
赤い頭巾の下に、細かな汗が光っていた。
「……惜しかったなあ」
それだけ言って、口を結ぶ。
俺は頷いた。
惜しかった。
こんなに腹の立つ言葉だとは、知らなかった。
操舵室へ戻ると、リゼがまだ座っていた。
両手は梃子から離れている。
膝の上に載せたまま、指を曲げたり、伸ばしたりしていた。
「手、痛めた?」
俺が聞くと、リゼは首を振った。
「力、入れすぎちゃっただけ。すぐ戻るよ」
言って、もう一度手を開く。
俺は横の腰掛けに座った。
窓の向こうで、白い船の前に人が集まっていた。ルーガンが船員に肩を叩かれている。
見たくなくて、顔を戻す。
リゼも同じ方を見て、それから膝へ目を落とした。
「あそこで、抜かれたね」
「うん」
「見えてたの。枠も、アニカも。もう、すぐそこだったのに」
帽子の鍔へ、指が掛かった。
引っ張ろうとして、手が止まる。
エダさんが直してくれたところだった。
リゼは帽子を脱ぎ、膝へ置いた。
蜂蜜色の髪が頬に貼りついている。いつもなら邪魔そうに払うのに、そのままだった。
俺は、何か言おうとした。
最後の角は、うまく曲がれた。
荷下ろしも早かった。
すごくいい走りだった。
どれも、本当だ。
それなのに今言ったら、勝てなくても十分だったと、俺の方から終わらせてしまう気がした。
俺はそんなに、聞き分けのいい気持ちになれていない。
「……俺、今、すごく悔しいよ」
リゼが顔を上げた。
「うん」
「途中、勝った後のことまで考えてた。あいつがどんな顔するかって」
「私も」
唇の端が動いた。
笑おうとしたのかもしれない。うまく形にならず、リゼは下を向いた。
「皆に、あの人から謝ってもらうつもりだったんだよ」
俺は、返事を探した。
勝ったら取り消させる。
そう言って、リゼはここまで来た。
負けたのだから仕方がない、とは思えなかった。でも、今の俺たちに、その約束を守れと迫ることもできない。
膝の上で、帽子の鍔が少しだけ曲がった。
「……私が、もうちょっと早く戻れてたら」
「リゼ」
呼んでから、言い方を考えた。
一人のせいにするな、と強く遮ればいいわけではない。あの一歩がどれほど悔しかったか、俺も見ていた。
「最後だけ、一人で負けたみたいに言わないでくれよ。俺も、一緒に走ったんだからさ」
帽子を見ていたリゼが、こちらを向いた。
目の縁が赤くなっていた。
「カイも、こんなに悔しい?」
「さっき、白い船を睨んでたよ。目だけで遅くできないかと思って」
リゼが、短く息を漏らした。
笑ったのか、泣くのをこらえたのか、分からなかった。
「……それ、効いてほしかったな」
「ほんとにな」
窓の外から、俺たちの名前を呼ぶ声がした。
アニカだった。
ヒバリの操舵室を出て、船首の短い段に座っていた。右手には木の杖がある。
いつの間にか、ヒバリの機関の音まで静かになっている。
「行こうか。アニカ、待ってるよ」
俺が立つと、リゼは帽子を被り直した。
「うん。私から、話したい」
*
渡し板を下りると、脚が少しふらついた。
船が揺れていないのに、膝だけが歩いているつもりで動く。
俺は板の脇へ寄り、下りてくるリゼへ手を出した。
彼女は何も言わず、俺の手を取った。
足が地面へついてからも、すぐには離れなかった。
隣のヒバリまで、一緒に歩く。
アニカが立ちかけた。
「そこにいて。私たちが行くから」
リゼが言うと、アニカは杖へ置いた手を緩めた。
近くまで来て、ようやく顔が見えた。
頬は赤く、短い髪の端が汗で首へついている。茶金の目が俺たちの間を動いて、止まった。
「ごめんね。待たせた」
リゼの声に、アニカが眉を寄せた。
「それ、謝ることじゃないよ」
「でも、先に帰ってたのに」
「そりゃ、早く来てって思ってたよ。ずっと窓から叫んでたし」
アニカが、コハクを見た。
「最後のところ、こっちから全部見えてた。リゼが枠へ入ってくるのも、白い船が止まったところも」
アニカは杖を右膝に立て掛け、空いた手の親指を書類入れの留め金へ当てた。
鳴らそうとして、押さえたままになる。
「私ね。あの笛、うちの組のだと思ったの」
俺は、白い船の前で鳴った最初の音を思い出した。
あれを、ここで待って聞いたのか。
「だから、一回、立ち上がっちゃった」
アニカは、困ったように笑った。
「恥ずかしいでしょ」
「恥ずかしくないよ」
リゼがすぐに言った。
「私も、最後まで勝つつもりだったから」
「うん」
アニカが頷いた。
何か言おうとして、口を閉じる。
リゼは俺の手を離し、彼女の隣の段へ腰を下ろした。
俺は二人の前へしゃがんだ。
帰着した時には、あれほど大きかった拍手が、少し遠くなっていた。
広場の向こうで、次の船を迎える声がする。
まだ競走は続いている。
俺たちの二隻は、ここで終わった。
「ガラスは、大丈夫だった?」
リゼが聞いた。
「四箱ともね。受け取った人が、包み方がいいって褒めてくれたよ」
アニカはコハクの方を見た。
「エダさんに伝えないと。布、ずれなかったんだって」
「うん」
「それと、ボルグさんにも。脚、ちゃんと最後まで動いたよ」
俺は頷いた。
よかった、と胸の中で思った。
負けたのに、よかったことが、確かに残っている。
でも、その一つずつを数えて、悔しさが減るわけではなかった。
同じ胸の中に、両方があった。
アニカが、息を吐いた。
「優勝、したかったなあ」
それには、誰もすぐに返事をしなかった。
*
白い上着が、見えた。
俺は立ち上がった。
ルーガンが、こちらへ歩いてくる。
袖にはまだ灰色の粉が残っていた。短い口髭を左右から撫で、手を下ろす。
その向こうで、コハクの板から船長が下りてきた。
エダさんも、ボルグさんも、前の乗り口まで来ている。ロクがその横へ立った。
俺は、一歩だけ二人の前へ出た。
これで分かったか。
また、そう言われるかもしれないと思った。
言われたら、今度こそ、黙ってはいられそうになかった。
ルーガンは俺を見た。それから、段に座る二人と、コハクの乗り口を順に見た。
「少し、話を聞いてくれ」
船長が足を止めた。
ルーガンは、そこから先へ近づかなかった。
「家と住人を下ろしてこいと、俺は言ったな」
リゼが立った。
俺は、彼女を止めなかった。
「……言ったよ」
「余計な荷だとも言った」
ルーガンが、コハクの家並みへ目を上げた。
エダさんの手が、柵の上で止まっている。
俺は息を吸った。
次の言葉を、聞き逃したくなかった。
「あれは、俺の間違いだった。取り消させてくれ」
誰も、すぐには答えなかった。
リゼの指が、俺の袖へ触れた。
掴むか迷うように、一度離れて、また触れる。
俺はルーガンを見ていた。
「……勝ったのは、そっちですよ」
「勝ちゃあ、言ったことまで全部正しくなるわけじゃねえだろ」
太い声だった。
けれど、前のように鼻で笑う声ではなかった。
ルーガンは、乗り口へ顔を向けた。
「粉が来た時、あんたが布を配ってたな」
エダさんが顎を引いた。
「持ってたからね」
「そっちじゃ四箱を守ってた。道を片づけてるやつもいた。風が収まったら、もう荷を渡す支度ができてた」
ボルグさんが柵へ置いた指を、ゆっくり曲げた。
ルーガンは船長を見た。
「さっき追ってる時も見えたよ。あんたが後ろを見て、赤い頭巾の兄ちゃんが前へ声をつないでた。操船してる娘は、後ろを振り返らずに済んでたな」
ロクが、赤い布の端へ触れた。
いつもの二本指の挨拶には、ならなかった。
「遊びで人を載せてるように言った。仕事も見ずにな」
ルーガンは、一度、口を結んだ。
「悪かった」
頭が下がった。
白い襟の後ろに、日に焼けた首が見えた。
あの男の頭が下がるところを、何度も想像していた。
勝った俺たちが、どんな顔でそれを見るかも。
なのに、実際に目の前へ来たら、俺は何も言えなかった。
リゼの手が、今度はちゃんと袖を掴んだ。
船長が、腰の鍵束を握った。
かすかに鳴っていた金属の音が止まる。
「皆の前で言い直してくれたんだな。分かったよ」
その声を聞いて、ルーガンが顔を上げた。
エダさんは、少し顎を上げたまま言った。
「あの時は、腹が立ったよ。あたしたちだって、ここで働いてるんだからね」
「ああ。見落としてた」
「分かったなら、いいさ」
エダさんはそこで口を閉じた。
機嫌よく笑ったわけではなかった。それでも、家へ引っ込まずに、その場にいた。
リゼが、袖を離した。
「あの言い方、すごく嫌だったよ」
「……ああ」
「皆の前で取り消してくれたのは、うれしい」
声が、少し掠れた。
「でも、負けたのは、まだ悔しいから」
ルーガンの口元が動いた。
今度は、俺にも分かる笑い方だった。
「ああ。俺だって、負けたくなかったからな。最後は必死だったよ」
リゼは、目の下を手の甲で拭いた。
俺は、あの短い間隔の脚音を思い出した。窓のすぐ横で、梃子を握っていた腕も。
こいつが手を抜かなかったことだけは、腹を立てる理由にできない。
俺は一度、息を吐いた。
「……優勝、おめでとうございます」
思っていたより、言うのがきつかった。
「次は、俺たちが勝ちますよ」
ルーガンが、俺を見た。
「ああ。待ってるぞ」
それを聞いたら、また腹が立った。
今よりもっと早く荷を渡せるようになって、もう一度、この男の前を走ってやりたくなった。
白い船の方から、呼ぶ声がした。
ルーガンは片手を上げて答えた。
「戻るわ。相棒まで待たせてるからな」
俺たちへ背を向け、歩いていく。
勝った人の背中だった。
あの賞金も、整備台も、俺たちのものにはならない。
それは、変わらなかった。
*
リゼが、また段へ座った。
今度は帽子を脱がず、鍔を少しだけ下へ向けた。
アニカが隣から、その顔を覗く。
「リゼ?」
「……ちょっと、待って」
声が、細くなっていた。
リゼは、帽子の鍔を持ち上げた。
涙が落ちた。
一つだけではなかった。
「私、勝ってから聞きたかったんだよ」
アニカの口元が歪んだ。
「うん」
「皆のこと、間違ってたって。私たちが一番に戻って、それで、言ってほしかったの」
俺はしゃがんだ。
今なら、うまくいったことをいくつでも言える。
二位でもすごい。壊れた船を直して、ここまで走った。あの男だって考えを変えた。
でも、そのどれも、欲しかった一位の代わりではない。
「……俺も、勝ちたかったよ」
声にしたら、喉が痛くなった。
リゼが頷いた。
アニカも下を向いていた。左手で、目の下をそっと押さえる。掌の当て布の端が、頬に触れた。
俺は、自分の顔を手で拭った。
泣くつもりは、なかった。
この世界へ来てから、まだ二週間も経っていない。
それなのに、今、こんなに悔しい。
毎朝声を掛けてくれる人がいて、箱を一緒に持つ人がいて、俺が前に立つと合図を待ってくれる。
その人たちと勝つつもりだったから、こんなに悔しいのだ。
コハクの方から、船長の声がした。
「三人とも。落ち着いたら、飯にしような」
俺が顔を上げると、船長はコハクの板の下からこちらを見ていた。
急げとは言わなかった。
ロクも乗り口から顔を出した。
「先に水、持ってくるよ。三つでいいな?」
「ありがとう。頼むよ」
俺が答えると、赤い頭巾が通りへ引っ込んだ。
リゼが、隣のアニカの右腕へ額を寄せた。
「もう一回、走りたいなあ」
「うん。私も」
「今度こそ、あの白いのより先に着きたい」
アニカは膝に預けていた杖を右手で取り、段の脇へ立て掛けた。
空いた手で、リゼの肩へ触れる。
「じゃあ、次の相棒も決まりだね」
リゼが顔を上げた。
濡れた目で頷き、それから、俺の方を見る。
俺は二人の間へ、手を差し出した。
「次は勝とう。俺も、もっと早く運べるようになるよ」
アニカの右手が重なり、リゼもそこへ手を置いた。
「……うん」
リゼの指に、力が入った。
「次は、三人で笑って帰ろうね」




