第十九話 この家が、先頭だ
風車の荷受け口が見えても、リゼはコハクを寄せなかった。
白い塔の壁際に、屋根のついた荷受け台がある。そこから離れた広場の奥へ、船首が向く。
俺は、操舵室の戸口からリゼを見た。
「先に、帰る向きにする」
灰緑の目は、もう出口を捉えていた。
予行で水壺を運んだのと同じ風車だ。
あの時は壁へ近づきすぎて、荷を下ろした後、長い船を後退させなければならなかった。白い二隻が出ていくのを、動けないまま見ていた。
今日は、違う。
コハクは広場を大きく回った。
右の家並みがゆっくり外へ振れる。その向こうで船長が腕を上げ、隣の区画との間を見ていた。
リゼは急がない。
踏み板を押す足が少し戻り、外側の脚の音が、一つずつ離れて聞こえた。
ごん。ごん。ごん。
窓の中を白い塔が横へ流れ、代わりに帰りの坂が正面へ来る。
「そこまで!」
船長の声で、最後の一歩が止まった。
家を載せた床が静かに下がる。
俺は、乗り口から外を見た。
荷受け台は斜め後ろだ。板を下りてから、地上を少し歩くことになる。
でも、帰り道は船首のすぐ先に開いていた。
「後ろへ下がらず、出られるな」
「うん」
リゼが短く頷いた。
帽子の下の額に、汗が浮いていた。青旗からここまで、ガラスを降ろして軽くなったコハクを、ずっと登らせてきた。
今度は俺たちが、二箱を下ろす。
「札をもらってくる」
「待ってる」
俺は通りへ出た。
後ろでは、ボルグさんが鉄の箱を留めた縄へ手を伸ばしている。
ガラスを渡した跡は、広く空いていた。その奥に残った二つの箱は、低く、幅がある。両側の太い持ち手を、二人が一つずつ掴む。持ち上げると、底の木が小さくきしんだ。
乗り口の板が地面につく。
俺は先に下り、荷受け台まで歩いた。
途中で、白い船が見えた。
下の道にいる。
赤い輪の印をつけた、ルーガンの相棒船だった。空になった荷台をこちらへ見せ、段畑の外側を回っていく。もう、ここの配達を終えたのだ。
胸の奥が、少し冷えた。
こちらはまだ、二箱とも船の上にある。
いや。
あちらも、相棒が帰るまで勝ちではない。
ルーガンは岩門を通れない。尾根を回ってガラスを届けている間に、俺たちはこちらを終える。
白い船を追いかけるように目を動かすのをやめた。
荷受け台の向こうで、男が手招きしていた。
短く刈った髪に、日に焼けた太い首。予行で壺の底を確かめてくれた、五十代くらいの係だった。
「今度は本物の荷だな」
「鉄の金具、二箱です」
「そこの台へ。札を渡すのは俺だ」
男の隣に、革の前掛けをつけた女性がいた。三十代くらいで、長い黒髪を一本に編み、袖を肘より上へまくっている。
コハクの乗り口を見て、台から外へ出ようとした。
「船の近くで受け取る?」
「ここまで運びます。その代わり、下ろしたらすぐ、見てもらえますか」
「いいよ。ここなら広げられる」
女性は台の上の道具を端へ寄せた。
検品を急かすのではない。箱を置いた後で、場所を空けるところから始めずに済めばいい。
俺は板の下へ戻った。
通りの中ほどから、ロクたちが一箱目を運んでくる。
赤い頭巾の端が、持ち上がった肩へ触れていた。
「前、空いたぞ!」
声を掛けると、板を下りる担当の二人が、乗り口で箱を受け取った。
受け手が持ったのを確かめて、ロクたちは通りの脇へ退く。箱を持つ二人が、その前を通って板へ足を掛けた。
俺は板の正面から脇へ退き、荷受け台を指した。
「そこまで、まっすぐ。台の右が空いてる」
一箱目が、俺の横を通った。
背後では、もう二箱目が動いていた。
青旗で四つを渡した時と、同じ順番だ。後ろから前まで、同じ二人だけで運び続けない。それぞれの場所で受け取り、渡して、戻る。
家の間には、何も引っ掛からなかった。
前まで箱が来た時、最後の二人はまだ荷受け台にいた。
「そこで待ってくれ!」
俺の声でロクたちが止まる。
下ろした二人が空手で引き返し、板を上がる。その足が前まで揃ってから、二箱目を受け取った。
待っている間にも、荷受けの女性が一箱目の縄をほどいている。
前の箱が、次の箱の邪魔をしない。運ぶ人も、受け取る人も、自分の手を動かしていた。
二箱目が台の前へ来た時、一箱目の蓋はもう開いていた。
中には、曲がった鉄板や、穴の並んだ金具が、木の仕切りで分けて収まっていた。女性が一つを取り出すと、下から薄い布が現れる。
見た目以上に、詰まっている。
二箱目を持つ二人は、腕を伸ばして重さを支えていた。
女性が台を指す。
「置いて。箱ごと受け取るよ」
木が台を叩いた。
ずしん、という重い音の後で、風車の中から、もっと低い響きが来た。
ぐうん、がたん。ぐうん、がたん。
俺は開いた扉へ目をやった。
塔の中を太い縦軸が通っている。その下で大きな歯車が回り、つながった棒が、床に開いた穴へ繰り返し沈んでいた。
男が、俺の視線に気づいた。
「床下の水槽から汲み上げてる。あの樋から、段々に畑へ回すんだ」
扉の横には、幅広い木の樋があった。
棒の上下に合わせて水があふれ、樋の中を、下の段畑へ走っていく。さっき白い船を見た道の下にも、同じ樋が延びていた。
この音で、畑の水が動いているのか。
頭上では羽根が風を受け、俺の手元には、それを直すために運んできた鉄がある。
さっきまでは、羽根の大きさにばかり目を奪われていた。
この塔が止まれば、下で見た何段もの畑へ、水が行かなくなるのだ。
「金具に割れなし。こっちも揃ってるよ」
女性が二箱目の中を示した。
男は蓋と箱の側面も見て、腰の袋から札を出した。
「受け取った。帰りは広い坂の方だぞ」
「はい」
札が、掌へ落ちた。
紐の先に、風車の形を焼きつけた小さな木片がついている。細かな字は読めないが、どこでもらった札かは、俺にも分かった。
俺は紐を右手首へ通し、札を握った。
終わった。
俺たちがコハクで運ぶ荷は、全部、届けた。
顔を上げたら、二人の住民がもう板を上がっていた。
俺も走り出す。
「ありがとうございました!」
「札、落とすなよ!」
背中へ声が飛んできた。
落とすものか。
こんなに何度も箱を運んで、ようやく、本番でもらったのだ。
板を上がると、ロクが二本の指を額から払った。
「後ろも、もう片づいた」
通りの先で、船長がこちらへ手を上げている。空の荷置き場に、ほどいた縄が散ったままにはなっていなかった。
俺が上がると、二人が板を引き上げる。
その固定まで待ってから、操舵室へ入った。
「全員、戻った。鉄も受け取ってもらえた」
札を見せる。
リゼの目が、初めてこちらへ向いた。
ほんの一瞬だ。
でも、その時だけ、口元が大きく緩んだ。
「じゃ、帰ろう!」
梃子が押し出された。
コハクが立ち、最初の一歩を踏み出す。
窓の前には、ずっと帰り道があった。
後ろへ下がらない。切り返さない。
家並みを一度揺らしただけで、コハクは風車の広場から出た。
俺は手すりを握り、思わず笑ってしまった。
あの時、白い船を見送っていた場所を。
今日は、止まらずに抜けていく。
*
帰り道は、段畑の外側を大きく回っていた。
山側には、積み上げた石の壁。谷側には低い柵。その向こうで、広い葉の畑が階段のように下まで続く。
上り道から見えなかった家もあった。
畑に挟まれた小さな石の家だ。屋根から短い橋を渡すと、すぐ上の畑へ出られる。庭に干された赤い上着が、船の高さで揺れた。
橋に立っていた、短い髪の男の子が両腕を振った。十歳くらいだろうか。柵の上へ出た顔が、こちらの家並みを見上げている。
俺は手を上げかけて、手すりを掴み直した。
床が、前へ滑るように動いた。
坂を下り始めたのだ。
前の窓の下へ、道が落ちていく。
俺の身体は前へ引かれたが、足元は思ったほど傾かなかった。代わりに、床下の鉄が、重く長く鳴っている。
リゼの足が踏み板を押し、右手の梃子が少し手前へ戻る。
家々の窓が、同じ高さのまま坂を進んだ。
「速いな」
「まだ直線だから。次は曲がる」
言い終わる前に、リゼは歩みを緩めていた。
道の先で、柵が山側へ回り込んでいる。
船首が曲がり始めても、後ろの家はまだ直線に残っていた。その長い身体が角を抜けるまで、リゼは次の一歩を急がせなかった。
外から、船長の声がした。
「後ろ、抜けた!」
梃子が動く。
足音が、また揃った。
速くして、遅くして、また速くする。
俺には坂へ入った時の勢いを、そのまま使えばいいように思えていた。でも、コハクは俺の立っている部屋だけで曲がるわけではない。
後ろには、ずっと家が続いている。
その最後が通ったことを、リゼは確かめているのだ。
俺は、手首の札を握り直した。
もし、あの白い船だったら。
ここでも、もっと早く曲がれるのだろう。
それを今、隣で言って、何になる。
リゼの口は、さっき笑った形ではなくなっていた。唇を結び、次の角を見ている。
俺も前を向いた。
山の斜面から突き出した岩へ近づくたび、その向こうから白い船が飛び出してくる気がした。
前にいる相棒船のことまで、ルーガン本人の船と取り違えそうになる。
早く。
もう少しだけ。
言わないために握った札の角が、掌へ食い込んだ。
「カイ」
リゼが呼んだ。
「後ろに回れる? 保守坂が見えるところまで来たら、教えてほしい」
「あいつが下りてくる道か」
「うん。そっちまで見てたら、曲がり損ねる」
俺は頷いた。
リゼは前を向いたまま、続けた。
「でも、追いつかれそうでも、ずっと急げって言わないでね」
ばれていた。
声に出してはいなくても、隣でこんな顔をしていれば、十分、うるさかったのだろう。
「場所だけ、ちゃんと伝える」
「お願い」
札の紐を手首から外し、ズボンのポケットへ、札ごと深く入れた。
戸口で振り返った。
「リゼ」
「ん?」
「勝ちたいから、任せる」
彼女が一度、こちらを見た。
窓の光で、灰緑の目が明るくなった。
「うん。私も、勝つつもりで走ってる」
その言い方が嬉しかった。
手すりを握って、隣でそわそわしているだけではなくなった。頼まれたことなら、俺にもできる。
俺は外へ出た。
通りの両側で、家が細かく震えていた。
扉の留め金が、かたかた、と鳴る。よく見れば、畳んで壁へ留めた店の台も、小さく震えている。
通りには、誰も物を出していなかった。
あんなに皆で急いでいたのに、荷を下ろした跡の縄も、足の下へ転がる道具もない。
エダさんが自分の戸口に座っていた。
片手で戸の取っ手を持ち、もう片方には、畳んだ布を置いている。首の巻き尺は、上着の中へしまってあった。
「札、もらえたかい?」
「はい。今度は、白い船が来てないか見てきます」
「あと、どれくらい?」
「まだ、坂の途中です」
「そうかい」
エダさんは、少し身を乗り出して、前の屋根の上を見た。
「終わるまで座ってろって言われると、長いもんだねえ」
俺も笑った。
今日ずっと動いていた人に、それを言うのは酷だった。
通りの後ろで、ボルグさんがしゃがんでいた。
灰色の短い髪を傾け、もう荷のない床へ片手をついている。
後ろの機関室からは、さっきより細かな音が来ていた。歯が噛み合う音の間へ、脚が地面を打つ低い響きが重なる。
「大丈夫ですか」
俺が聞くと、ボルグさんは顔を上げた。
「今はな。変わったら、俺が船長に言う」
首の手拭いで、口の周りを拭う。
「お前は、外を見てろ」
「はい」
俺は空の荷置き場を横切り、右側の縁へ出た。
ここまで来ると家並みが切れ、腰ほどの手すり越しに、谷が見えた。斜め後ろには通ってきた道もある。曲がる向きによって岩陰へ入るので、ずっと見続けられるわけではない。
船長も、同じ縁に立っていた。
灰色の上着の下で、太い腕が柵を掴んでいる。
「リゼに、保守坂を見てきてくれと言われました」
「ああ。こっちは船尻を見る。お前は谷の向こうを頼む」
俺は隣へ立った。
風車が、遠くに見えた。
その右手へ、白っぽい岩の尾根が長く延びている。尾根の裏へ隠れていた温室が、道を下ったおかげで、ようやく見えた。
緑の斜面に、透明な屋根が何列も並んでいた。
陽が当たるたび、白く光る。
あそこへ、アニカが行ったのだ。
だが、青い布は見つからなかった。
ガラスを下ろしているのか。もう帰っているのか。
遠すぎて分からない。
今朝、何度も一緒に荷を確かめた人の仕事が、ここからでは見えなかった。
俺は、あの留め金が鳴る音を思い出した。
温室は任せて、と言っていた。
何かあれば、できるだけ早く知らせてくれる人だ。それもできないほど離れたなら、今は、向こうも走っていると思うしかない。
船長が腕を上げた。
「次の曲がり、後ろ空いてるぞ!」
通りの前で、ロクが同じ言葉を届けた。
俺も振り返る。
赤い頭巾が、操舵室の入口から出ていた。俺がここまで来ている間に、合図を中継する場所へ移ってくれたらしい。
俺が一人ずつ頼まなくても、必要な場所へ人が動いている。
後ろで分かったことが、前まで届く。リゼがそれを受けて操る。いつもの運搬の仕事で、皆が続けてきたことなのだろう。
ゲームで何度も同じ相手と組んでいると、短い声だけで次の動きが伝わるようになった。ようやく、この船でも、俺に向かってそんな声が飛んでくる。
今はそれが、たまらなく楽しかった。
それからも、コハクは斜面を何度か大きく折り返した。
上から見ていた畑の石垣が、いつしか窓より高くなる。水の流れる樋を一つ越え、船がまた谷側を向いた時、家の屋根の向こうへ、港が現れた。
*
はじめは、色のついた屋根が重なっているだけに見えた。
もう少し下ると、屋根の間に広い平場が開き、並んだ帰着枠が見えてくる。出走を待っていた時と、同じ場所だ。
そこへ、小さな緑の船が入っていた。
俺は手すりから身を乗り出しかけて、足を止めた。
「ヒバリだ!」
青い布がついている。
そのすぐ横には、赤い輪を描いた白い船もいた。
先に戻った二隻が、それぞれの枠で脚を畳んでいた。
俺は緑の船の前を探した。
人が一人、窓から腕を出している。
顔までは見えない。
でも、振っている方向は、こちらだった。
「アニカ、戻ってる!」
俺が叫ぶと、ロクが前へ身を引っ込めた。
すぐに操舵室の窓から、リゼの腕が出た。
一度だけ、大きく振って、戻る。
俺の口元が、勝手に上がった。
帰ってきた。
直した脚で、あの岩門を越えて。
船長の手が、俺の肩へ軽く触れた。
「札は、まだ分からんぞ」
「……はい」
戻っているのは見えた。でも、受領札が揃ったかどうかまで、俺には分からない。
浮かれすぎていた。
俺はポケットへ手を入れ、自分の札の硬さを確かめた。
下の広場から、声が上がった。
低い鐘が二つ鳴り、その後に、人の声が長く続く。
今はコハクの脚音と風に混じって、言葉まで拾えなかった。
俺たちの道は、港をそのまま目指してはいなかった。
広場を横へ見下ろしながら、一度、山側へ大きく回る。急な斜面を大型の船でも下りられるよう、道が何度も折れているのだ。
港が近づいたと思うたび、船首は横を向く。
もどかしかった。
見える近さと、実際に走る道の長さが違う。
待っている小さな船は、あんなに近いのに。
手すりの向こうで、谷を渡る風が弱くなった。
声が、今度は聞こえた。
「青の組、二か所受領済み! 白の組も二か所!」
港の端に、台が立っていた。
赤い胴着の男が、その上から筒を口へ当てている。顔を上げ、坂の方へ声を張っていた。
「二隻揃った組は、まだないぞ!」
俺は船長を見た。
船長も、聞こえたようだった。
「あと、お前の札だ」
掌で、俺の肩を叩く。
その一発が、ひどく嬉しかった。
染め紐と、ガラス。
アニカが、両方、届けた。
このポケットにある一枚を渡せば、俺たちは三つとも揃う。
相手の二札は、染め場と風車だろう。あの白い相棒船が運んでいた荷を思い出す。
あとは、温室から戻るルーガン。
俺たちは、あいつより先に帰ればいい。
怖かったものが、一つの船になった。
どこで何が遅れているか分からない、ぼんやりした不安ではない。
後ろを見る。
道は空いていた。
俺は谷の向こうへ顔を向けた。
温室の下から、一本の細い坂が斜めに下りている。上の半分は岩に隠れ、下の折り返しだけが見えた。その先は、俺たちが今から通る広い曲がり角へつながっている。
「あれが保守坂ですか」
「ああ。上は岩に隠れてる。下の出口を見てろ」
船長が指した。
合流する場所に、短い石の柱が立っていた。広い道と細い坂の間に残った三角の地面へ、草がまとまって生えている。
この角を、先に通れる。
ルーガンの白い船は、まだ見えなかった。
「ロク! 保守坂が、次の角で合流する! まだ白い船はいない!」
赤い頭巾が動いた。
リゼへ伝わる。
コハクは速さを落とした。
俺の胸が、一瞬だけ詰まる。
それでも、声を重ねなかった。
船首が角へ入り、谷側の家並みがゆっくり向きを変える。後ろの脚が、三角の草地の前を越えた。
船長が前へ声を送る。
コハクの足音が、また速くなった。
保守坂の出口が、後ろへ遠ざかる。
俺たちが、先だ。
コハクも、ルーガンの船も、ここから港までは同じ道を走る。
その先に、競走の船はいない。
下の台から、声が飛んだ。
「帰りの坂は、青のコハクが先頭だ!」
白い相棒船とヒバリは、もう港にいる。
いま、勝負を終えられる場所へ、一番近いのは。
この家を載せた船だった。
「船長。俺、前へ伝えてきます」
「行け。後ろは見てる」
俺は通りへ戻った。
走りたい。
いっそ叫びながら行きたい。
だが、揺れる通りを、手の届く壁沿いに歩いた。
エダさんが顔を上げる。俺は頷いた。
「ガラスも届いてます。あとは、こっちです」
エダさんの手が、膝の布をぎゅっと握った。
ロクが乗り口の脇を空けてくれた。
操舵室へ入ると、リゼが待ちきれないように言った。
「本当に、二枚?」
「ああ。係の人が言ってた。白い組も二枚。まだ二隻とも戻った組はいない」
俺は札を出した。
「それで、帰り道は、俺たちが前だ」
リゼは、前を向いていた。
何も言わなかった。
梃子を握る指が、少しずつ強くなっていくのが見えた。
「……この船で」
小さな声がした。
帽子の鍔の下で、唇が震えていた。
「皆、乗ってる。家も、全部そのままなのに」
俺は後ろの通りを見た。
エダさんの家。ロクが皆の飯を作る場所。俺が借りた、小さな部屋。
重くて遅いと言われたものを、一つも置いてこなかった。
あの時、窓辺で動きを止めたエダさんも、今日は俺と同じ船で、前を気にしている。
余計な荷だと言った相手へ、今の顔を見せてやりたかった。
リゼが息を吸った。
「……今、前を見てないと駄目なのに」
片手を頬へ持っていきかけて、やめる。
俺は何も言わずに待った。
彼女は一度だけ、強く瞬きをした。
それから、梃子を握り直した。
「まだ、終わってない」
声が戻っていた。
「ちゃんと、先に着く」
札をポケットへ戻し、俺は隣の手すりを掴んだ。
頭上で、青い布が鳴った。
*
船の後ろで、船長の声が上がった。
「白い船が来た!」
ロクが戸口へ顔を出した。
「保守坂! もう下の段にいる!」
俺は窓の外へ目を走らせた。
リゼは前を向いたままだ。
後ろを見たいだろうに、一度も振り返らない。
俺は戸口を出て、乗り口の柵へ寄った。
道が曲がったおかげで、さっき通った合流点が、家並みの横から見えた。
細い坂を、白い船が下ってくる。
空の荷台。
白い船腹の赤い輪。
ルーガンだ。
あいつも、届け終えた。
荷台が空なのを見た瞬間、分かった。もう、あの船にガラスの心配はない。
坂は、俺たちが走る道より、ずっと急だった。
白い船は、その急な地面へ、細かく脚をついていた。
一歩で大きく跳ぶのではない。
足を置き、次を置き、その次の脚が伸びる。坂の途中に出た岩を避けて、右へほんの少し寄り、すぐに戻る。
止まらない。
白い船体は揺れている。それでも前へつんのめらず、六本の脚の上を、低く滑るように降りてきた。
俺の背中に、汗が浮いた。
あれは速い。
上りで見た時よりも、ずっと。
「カイ、どこ?」
リゼの声がした。
俺は見たままを言った。
「合流点の、一つ上の曲がり角。まだ後ろだ」
白い船が、角へ入る。
俺は、そこで一度、緩むと思った。
実際、外側の脚が短く地面を叩いた。
けれど、長いコハクならまだ後ろの家が残っているところで、白い船の最後の脚は、もう向きを変えていた。
次の瞬間、歩幅が開いた。
速くなる。
それを見て、胸の中が熱くなった。
腹立たしいくらい、上手い。
俺たちが練習している間、この男だって、ただ待っていたわけじゃない。何度も同じ道を走り、荷を持ち、相棒と組んでいたのだ。
試走で負け、荷役の練習も見た。
それでも、勝とうとして追ってくるこの男の速さを、俺はまだ知らなかった。
「次は!」
リゼが聞いた。
「石の柱まで来た。広い道へ入る!」
白い船が保守坂を抜けた。
山側へ寄せて曲がり、コハクが通った道を追ってくる。荷台の船員二人は手すりを掴み、前を向いていた。
もう一度、家並みに隠れる。
次に見えた時、近くなっていた。
俺は目印を探した。
道の脇に、先の欠けた石柱が一本ある。俺たちの船首が通ってから、船尻が抜けるまでにも、ずいぶん長く思えた場所だ。
その柱を、白い船はあっという間に越えた。
見間違いではない。
差が、縮んでいる。
俺は操舵室へ戻った。
リゼが、左右の袖を揃えようとして、片方だけつまんだ。その手をすぐに梃子へ戻す。
「どれくらい?」
「見えるたび、近くなってる」
嘘はつけなかった。
「でも、まだ俺たちが前だ」
リゼが頷いた。
口元が、少しだけ上がる。
さっきの泣きそうな顔ではなかった。
蜂蜜色の三つ編みが、肩から前へ滑った。リゼはそれを払う暇も惜しむように、両足で踏み板を押した。
「見てて、アニカ」
隣の俺に、やっと聞こえるくらいの声だった。
コハクの脚音が、船の底から突き上がった。
港の屋根が、正面へ戻ってくる。
その奥に、帰着枠があった。
待っている緑の船も。
リゼはそこを見ていた。
俺は手すりを握り、横の窓へ顔を向けた。
後ろの角から、白い船首が出た。
さっきまで聞こえなかった、相手の脚音がした。
俺たちの音より、明らかに速い間隔で。




