第十八話 それでも、あいつに勝ちたい
坂へ入ってすぐ、白い船が遠ざかった。
速い。
見物人の声を背に受け、六本の白い脚が地面を蹴っていく。荷台の四箱は、縄に押さえられたままほとんど跳ねない。
あの速さで、ガラスを積んでいる。
俺はリゼの手元へ目をやりかけて、やめた。もっと出せないのかと、口にする前から顔に出そうだった。
リゼは、前を見ていた。
俺よりも、よほど悔しそうな顔で。
「次、少し揺れる」
言われて手すりを握り直した。
道を横切って、細い水の溝がある。山側の畑からあふれた水を、谷へ落とすためのものらしい。白い船はもう越えていた。
コハクの床下で、歯車の回る音が低くなる。
どん、どん、と続いていた足音の間が、一度だけ延びた。
前の脚が溝をまたぐ。窓の外の地面が近づきかけ、リゼの右手が梃子を引くと、床が水平へ戻った。
足元から、ぎい、と長い音が来た。
家の扉ではない。船体の下で、重さを受けた鉄が鳴っている。
俺の膝が折れたのは一度だけだった。
後ろから、船長の声がした。
「荷は動いてない!」
「聞こえた!」
リゼが答え、両腕を前へ出す。
コハクの歩みが戻った。
それから俺は、ようやく気づいた。
坂の途中にいるのに、俺は手すりを引っ張って踏ん張らずに立てている。
速さだけを見ていたら、今の仕事を見落としていた。
「今の溝、後ろの箱まで揺らさず越えたのか」
「揺れてはいる。落とさないくらいにしてるの」
リゼは前を向いたまま答えた。
「後で、もっと大きいのがある。そっちで慌てないでよ」
「今ので顔に出た?」
「窓に映ってる」
正面の窓の端に、口を結んだ黒髪の男がいた。二十五歳にもなって、操船もしないのに足へ力を込めている。
俺は肩の力を抜いた。
「分かった。こっちは任せる」
「うん。荷を渡す時は、任せるから」
その声を聞いたら、早く青旗へ着きたくなった。
俺にも、待っている仕事があった。
*
港を見下ろす高さまで上がると、谷が開けた。
下には、黄色い布を何十枚も干した染め場がある。布の端が一斉に持ち上がるたび、日を受けた水面が、その向こうに現れた。
水車の音は、ここまでは届かない。
代わりに、道のすぐ上で風車が鳴っていた。白い羽根が頭上を通るたび、ぶおん、と空気を押す音がして、操舵室が一瞬だけ暗くなる。
俺は思わず上を見た。
あれほど大きなもののすぐ下を、家を載せた船で走っている。
ただ通るだけでも、きっと楽しい道だ。
今日は、その先に白い船がいるせいで、景色へ見とれている余裕がなかった。
二つ目の溝を越える時、俺は先に膝を緩めた。
リゼがちらりとこちらを見て、口元だけで笑う。
コハクは、今度も箱を落とさなかった。
曲がり角へ来ると、前を行く白い船の屋根が見えなくなった。その代わり、道の先に青い旗が現れた。
谷壁を削って造った、横に長い平場だった。
山側には、腰より高い石の壁。その前に船を寄せる区画が並んでいる。谷側の端は低い縁石で区切られ、その外を、雨水を集める溝が走っていた。底には白い小石が溜まっている。人が落ちれば、すぐには上がれそうにない深さだ。
広場の奥から、三本の道が出ていた。
風車へ上がる広い坂。岩の門へ向かう細道。その門を通れない船が使う、尾根沿いの遠回り。
俺たちはここで、ガラスをヒバリへ渡す。
「いた」
リゼが言った。
石壁に近い区画で、ヒバリが待っていた。
船首を岩門の方へ向け、後ろの荷台をこちらへ開けている。荷台には何もない。操舵室から出た小さな腕が、大きく振られた。
「染め場、終わった!」
アニカの声が、機関の音を越えてきた。
右手に、紐のついた札を持っている。
「足は?」
リゼが聞く。
「大丈夫。こっちを先に心配して」
アニカは札をしまい、窓から顔を出して空の荷台を指した。
頼もしい。つい数日前まで、椅子へ座ったままヒバリを見ていた人と同じとは思えなかった。
いや、あの時もこの人は、走るところを考えていたのだ。
俺が心配して見ていただけで。
コハクがヒバリへ近づくにつれ、もっと奥に白い船が見えた。
ルーガンだ。
山側の硬い地面へ船を低く泊め、荷台で縄を引いている。白い袖の下から、日に焼けた太い腕が伸びていた。
「なんで、まだここにいる?」
俺が言うと、リゼは広場のさらに上を見た。
尾根道の脇に、白い斜面がある。
石を切った跡なのか、角の立った岩と細かな粉が、何段にも分かれて積もっていた。その一番上から、薄い白煙のようなものが流れてくる。
「粉が飛び始めてる。あのまま尾根へ上がる前に、荷を見てるんだと思う」
ルーガンの船員が、箱の上へ厚い布を掛けた。縄をかけ直す二人の横で、本人が空の方を見ている。
出し抜けるかもしれない。
最初にそう思った自分を、俺は責めなかった。
ただ、白い粉が低い畑へ流れていくのを見て、今、急がせる相手はリゼではないと分かった。
平場の谷側では、橙色の布をつけた二隻が荷を渡していた。谷に近い方の船は、外側の脚を縁石のすぐ内へついている。その足元だけは敷石がなく、細かな砕石が敷かれていた。
一隻から下りた若い男が、箱を抱えた相手へ場所を空ける。焦げ茶の髪を後ろで結び、黄土色の短い上着を着ている。二十歳くらいだろうか。
こちらのヒバリを見て、片手を上げた。
俺も上げかけたところで、笛が鳴った。
「風が来る! 荷役を止めろ!」
石壁の前に立つ係が、腕を振っていた。五十代ほどの痩せた男で、灰色の帽子の下から白髪が出ている。
その手に、赤い旗が上がった。
「全船、停止! 板の上に残るな!」
リゼが梃子を引いた。
コハクの歩みが止まる。リゼはその場で脚を畳み、甲板を地面近くまで下ろしてから、梃子を止めた。
ヒバリの後ろへ、あと少しだった。もう一歩寄せれば、昨日と同じ位置で荷を渡せる。
俺は思わずそちらへ目をやった。
「カイ。今は降ろさない」
リゼの声に、足を止めた。
俺は前の乗り口へ身体を向けていた。板を下ろす用意だけでもと、考えかけていた。
「……分かった」
怖いのは、遅れることばかり考えてしまうことだった。
係は俺たちだけを止めたわけではない。白い船でも、橙の船でも、地上の船員が乗り口へ戻り始めていた。
風車の音が、変わった。
羽根が空気を叩く音に、細かいものを板へぶつける音が混じる。
窓に、白い粒が当たった。
ぱち、ぱちぱち。
次の瞬間には、向こうの岩門が消えていた。
リゼが窓を閉めた。
細かな粉が、隙間へ筋になって溜まる。さっきまで窓いっぱいに見えていた風車が、白い向こうにぼんやり揺れていた。
「荷を押さえたら、家へ入れ!」
船長の声がした。
俺は通りへ出た。
頭上を粉が流れていく。家の壁に挟まれた通りの下の方は、まだ人の顔が見えた。後部では、ボルグさんたちが箱の覆いを押さえ、外していなかった縄を一本ずつ確かめている。
エダさんは自分の戸を開け、近くの二人を先に入れていた。
俺も荷置き場へ行こうとした。
その時、外で木が裂けた。
足元に響く音ではなかった。
前の乗り口へ向き直ると、白い風の切れ間に、橙の船が見えた。
谷側の前脚の下から、砕石が溝へ崩れ落ちていた。
強い横風に船体が揺れる。その重さを受けた脚が縁石を押し倒し、先端を溝へ滑らせた。
船の前半分が、斜めになる。乗り口から地面へ下ろしていた板の片端が跳ね、もう片方が地面を叩いた。
さっきの、髪を結んだ若い男が倒れていた。
外れた板が、その足へ重なっている。
「人がいる!」
自分の声が大きすぎて、喉が痛んだ。
船長が乗り口へ来た。俺の肩を押さえ、まず足元を見た。
「地面を見てからだ。船の下へ入るな」
近くにいたロクが、赤い頭巾の端を口元へ引き上げた。
船長とロクが、コハクの板を下ろす。
俺はその後ろで、歯を食いしばっていた。
早く、と言いたかった。
でも、板の先はまだ地面へついていない。俺が飛び下りれば、助けに行く人数より、倒れている人数が増える。
板が地面へ着いた。船長が足で押し、揺れないことを確かめる。
「ロクと二人で行け。俺はこっちを空ける」
俺たちは下りた。
粉が口へ入り、舌の上がざらついた。袖で鼻を覆い、石壁に近い側から橙の船の前へ回る。
白い船は、その先にいた。
前の板が、もう下りている。
上にいたルーガンが、船員の肩を押して船内へ戻した。短い茶髪の若い男だった。試走の時、水差しを持っていた、左眉の端が途切れた男だ。
「奥の一人も戻ったか!」
「います!」
「よし。お前はここで受けろ!」
ルーガンが板を下りた。
大きな身体が、風の中をこちらへ来る。先に目が合ったのは俺ではなく、倒れた若者だった。
「足を引くな!」
若者は咳き込みながら、外れた板を押していた。動かそうとするたび、顔が歪む。
板の下に、片方の靴が挟まっている。
そのすぐ向こうで、橙の船の操船士が窓から叫んだ。四十代くらいの、髪を短く刈った男だった。
「脚を戻す! そこを空けてくれ!」
「動かすな!」
ルーガンの声が、風より大きく響いた。
「人が出てからだ! 板はこっちで上げる!」
俺は若者の横へ膝をついた。
乗り降りに使う広い板が、船から外れて斜めに落ちていた。地面に接する厚い縁の下に、靴の爪先が挟まっている。
ルーガンが、その縁を掴んだ。
ロクが隣へしゃがむ。
「俺も持つ!」
「合図で上げる。そっちは足を抜いてやれ」
俺が頷くと、ルーガンは一度だけこちらを見た。
白い上着の胸まで、もう灰色に汚れていた。
「いくぞ」
二人の背が持ち上がった。
板の縁が浮き、押さえられていた靴の上に隙間ができる。
若者が息を吸い、俺の腕を掴んだ。
「抜く。痛かったら言ってくれ」
靴ごと、ゆっくり引いた。
あと少しなのに、靴の踵が地面に引っ掛かる。俺は若者の膝の裏を支え、もう一度引いた。
板を支えるロクの鼻から、頭巾がずれる。
俺は、見えている靴だけを見た。
「抜けた!」
俺たちは後ろへ下がった。
ルーガンとロクが、板を地面へ下ろす。
どすん、と鈍い音がした。
若者は自分の足を抱え込んだ。立とうとして、すぐに座り直す。
「そこの船……荷が、まだ……」
橙色の布が、頭の上で鳴っていた。
あちらの組の箱は、まだ全部渡りきっていない。
俺にも、それは見えた。
見えるから、この人が何を気にしているのかも分かった。自分が倒れたせいで、相棒まで止まっている。
「荷は逃げねえ」
ルーガンがしゃがんだ。
「お前が潰れたら、誰が運ぶんだ。乗れ」
指したのは、自分の白い船だった。
橙の船へ戻る板は、もう使えない。コハクの乗り口は、俺たちが来た道を引き返した先にある。白い船の板なら、目の前だ。
若者はその白い船と、ルーガンの顔を見た。
「でも、あんたの……」
「人ひとり乗せて、負けるかよ」
ルーガンが若者の片腕を自分の肩へ回した。
俺は、もう片方を受けた。
重かった。
足を浮かせてもらうと、相手の体重が肩へずしりと来る。俺が半歩遅れ、若者の身体がこちらへ傾いた。
ルーガンが歩幅を止めた。
「小さく歩け。合わせる」
その声は、さっき操船士を怒鳴った時とは違っていた。
俺は足元を見た。
一歩。
もう一歩。
白い船の板へ、靴が載った。
板の中ほどまで下りてきた船員が、若者の腕を俺の肩から受け取る。俺は板を一歩下りて地面へ退き、三人が上がってから後に続いた。
船内に座らせたところで、俺は手すりを掴んだ。
息を吸うと、咳が出た。
助けられた。
そのことにほっとした後で、よりによって、と思ってしまった。
若者を助け、俺の歩幅にまで合わせたのは、あの男だった。
目の前にある厚い背中へ、まだ文句を言いたいことが山ほどある。
それと今、礼を言わないことは、別だった。
「ありがとう。助かった」
ルーガンは若者の足を見ていた。
「礼なら、あとでこいつから聞く」
若者のすねには、赤い擦り傷ができていた。立って歩けるかどうかを、ここで俺が決められるはずもない。
ルーガンは、自分の船員へ水を持ってくるよう言った。
それから、俺の向こうを見た。
「もう一人は?」
俺は振り返った。
ロクが、橙の船の前で手を振っていた。
外れて倒れた板の向こうから、もう一人出てくる。荷役をしていた、灰色の頭巾の中年の女だった。両手を空け、石壁の方へ歩いている。
「こっちは歩ける!」
ロクが叫んだ。
俺は船を下り、石壁の前まで戻った。
エダさんが、コハクの板の下に立っていた。
布を胸へ抱え、下りてきた二人の住民へ手渡している。一人は口へ当て、もう一人はそれを持って、こちらへ来た。
「これ、使いな!」
エダさんが俺にも差し出した。
俺は受け取り、鼻と口を覆った。
「向こうに一人、足を痛めてます。白い船です。係の人を呼んでもらえますか」
「聞いたよ。そっちは何人、外にいた?」
俺は橙の船へ顔を向けた。
操船士が窓から、三本の指を出していた。
三人。
俺は、白い船にいる若者と、ロクに付き添われた女を数えた。
一人足りない。
さっきは、見えている一人しか考えていなかった。
「あと一人います!」
俺が叫ぶと、橙の相棒船から声が返った。
「俺はこっちだ! 先に上がった!」
窓の中で、黒い袖の若い男が手を振った。
俺は手を上げて返した。
コハクの住民二人が、灰頭巾の女を石壁の前へ迎える。その向こうでは船長が係へ状況を伝え、係が笛を短く二度吹いた。
少しして、救護用の袋を持った係が来た。三十代ほどの女性で、短い黒髪にも白い粉がついていた。
俺は白い船まで案内し、若者を指した。
自分がそこにいなくても、もう見てもらえる。
それを確かめて、ようやく肩が下がった。
*
風は、強くなったり弱くなったりしながら、しばらく続いた。
コハクへ戻る途中、ロクが自分の頭巾を引っ張った。
赤かった布に、白い筋が何本もついている。
「口の中、石だらけだ」
「俺も」
「飯の味、分かるかな」
そんな心配ができるくらいには、二人とも息が戻っていた。
板を上がると、リゼが操舵室の入口に立っていた。船長が前の窓から外を見ている。その間だけ、席を替わってもらったらしい。
リゼの手が、俺の袖を掴んだ。
「怪我は?」
「してない。ロクも」
リゼは俺の手を裏返して見て、それから顔を見た。
灰緑の目が、怒っているように細くなった。
「二人とも帰ってくるまで、怖かった。ここからじゃ、手も出せないんだもん」
うまい返事は出なかった。
俺のことを、こんな顔で待っていた。無事だと伝えるまで、彼女にはまだ終わっていなかったのだ。
「心配かけた。二人とも、大丈夫だ」
俺が言うと、リゼは頷き、袖から手を離した。
指が離れてからも、手の甲に冷たさが残った。
リゼが席へ戻るのを見届け、俺は後ろの荷置き場へ向かった。
布を外すと、ガラスの箱は四つとも、元の位置にあった。
ボルグさんが太い指で縄の張りを確かめる。床へ当ててある木も動いていない。
「中は?」
「割れた音は聞いてない。渡す前に、箱の外も見る」
俺は膝をつき、箱の角を見た。
走っている間、止まっている間、俺が外にいた間も、誰かがこの四つを見ていた。
俺が人を助けに行けたのも、皆が荷を守っていてくれたからだ。
戻ってきたら、今度は俺が合図を出す。もう一度、昨日のように四箱をつなげばいい。
急に、指先まで力が戻ってきた。
*
石壁の向こうの風車が、はっきり見えるようになった。
まだ粉は流れていたが、人の膝より下にまとまっている。係が道の先まで歩き、曲がり角の別の係へ腕を上げた。
橙の船は、谷側へ傾いたまま残っていた。
脚の周囲を綱で囲み、誰も近づけないようにしている。移動できるかどうかは、整備の人が来てからだという。
若者は白い船から、係二人に支えられて石壁沿いの待避小屋へ移った。足を上げて座り、相棒船の女と話している。
競走へ戻れるかは、まだ分からない。
それでも、誰かが足りないまま風の中を捜す時間は、終わっていた。
俺はコハクの板を下り、白い船の乗り口へ歩いた。
ルーガンが板の上から下を見ていた。さっきと同じ場所だ。
「あの人、係のところへ移りました」
「見てた」
太い指が、口髭を左右から撫でた。
白い粉が落ちる。
相変わらず、愛想のない顔だった。
俺は言っておこうと思った。
「助けてもらったけど、勝ちは譲りません」
言ってから、ずいぶん生意気だったかとも思った。
まだ一度も勝っていないのは、こっちだ。
ルーガンの口髭の端が上がった。
「譲れるところまで来てから言え」
腹が立った。
そして、さっきよりも、この男に勝ちたくなった。
救助がなければもっと早かったとか、手を貸したから仕方がなかったとか。そんなことを、この人は言わないだろう。
なら、こっちも言いたくなかった。
ルーガンの視線が、俺の肩越しに動いた。
コハクの前に、エダさんがいた。貸した布を数え、灰頭巾の女から返ってきた一枚を、汚れた側を内にして畳んでいる。
ロクたちは、通り道へ飛んできた薄い板切れを壁へ寄せていた。
ボルグさんが通りを前まで歩いてきて、乗り口から四本の指を上げる。
四箱、渡せる。
俺が手を上げて答えると、ルーガンはもう一度、船上の家並みを見た。
何も言わなかった。
謝ってもいない。
だから、俺もその目つきの意味を、勝手に決めるのはやめた。
係が笛を吹いた。
「先の道、確認した! 出る船は、出口を空けながら順に出ろ!」
赤い旗が下りた。
緑の旗が、風の中へ上がる。
ルーガンが背を向けた。
「二人とも、乗ったな!」
「はい!」
「尾根へ出るぞ!」
白い船の板が上がる。
俺はコハクへ走った。
こちらには、まだ四箱ある。
染め場側の入口で待っていた、もう一隻の白い船も動き出した。荷台には二つの箱が見える。赤い輪の印をこちらへ見せ、相棒船は風車への坂を上がっていった。
*
地上にいた仲間をいったん乗せ、板を上げる。俺の合図を待って、リゼがコハクをほんの少し前へ進めた。
ヒバリの低い荷台へ、乗り口が向く。
止まる。
昨日、何度も確かめた位置だった。
板を下ろした二人が先に地上へ出る。船長とボルグさんは、その脇を通ってヒバリへ上がった。
俺はコハクの乗り口に残った。
エダさんも地上へ下りた。出走前にアニカから預かっていた砂時計を袋から出し、上下をひっくり返す。
「始めるよ!」
後ろで、四人の住民が縄を解いた。
ガラスの箱は重い。
最初の一つを持ち上げた二人の肩が、同時に沈む。
白い船の足音が、広場の奥へ遠ざかっていった。
俺はそちらを見なかった。
今、見るのは、こっちだ。
「持った!」
ロクの声。
通りの中ほどで、箱が次の二人へ渡る。最初の二人は家の戸口へ寄って道を空け、空いた通りを後ろへ戻った。
ロクたちが、俺の前まで来た。
板の下から、受け取る二人が上がってくる。
四人の手が、箱の持ち手へ掛かった。
「こっち、持った」
ロクが手を離す。
箱は板を下り、そのままヒバリへ運ばれていった。
船長とボルグさんが、荷台の縁で受け取る。底に敷いた布の上へ載せ、決めてあった位置へ寄せる。
一箱。
俺が顔を戻した時には、二箱目が通りの中ほどにいた。
早い。
思っても、声には出さなかった。
褒められて顔を上げる暇があるなら、今は前を見ていてほしい。終わった後で、いくらでも言う。
三箱目で、ロクが止まった。
下ろす二人が、まだ帰ってこない。
片方が空手で板を上がり、もう片方が続く。二人の足が乗り口へ揃ってから、俺は手を上げた。
「いいぞ!」
待ったのは、ほんのわずかだった。
後ろから押して来る人はいない。
四つ目が板を下りかけた時、アニカの声がした。
「待って! 右の縄、箱の下に入る!」
ヒバリの荷台を見る。
先に並べた三箱の脇で、縄の端が床へ落ちていた。次の箱をそのまま載せると、下へ挟んでしまう位置だ。
「そこで待ってくれ!」
俺が言うと、下ろす二人は板の途中で足を止めた。
ボルグさんが縄の端を拾い、外側へ掛け直す。指を上げるのが見えてから、俺は二人へ頷いた。
アニカは、もう荷台へ目を戻していた。
走り出す前から、自分の船の荷を見ている。
最後の箱が、板を下りた。
船長の腕へ渡り、三つの箱の隣へ入る。
ボルグさんが、あらかじめ間へ通していた縄を引いた。箱をもう一度持ち上げる必要はない。布を挟み、二本目を締め、残りの端を足に掛からない位置へ収める。
終わった、と拳を握りかけて、開いた。
まだ、終わりの声を出してはいけない。
ボルグさんが箱の角を押す。
船長も反対側を確かめる。
二人が、ヒバリから地上へ下りた。
「四つ、固定した!」
俺はアニカを見た。
彼女は振り返り、荷台と地面を確かめている。
船の横から全員が離れると、茶金の目がこちらを向いた。
「受け取った!」
エダさんが砂時計を横に倒した。
途中で一度ひっくり返していたから、二回目だ。五分では終わらなかった。
でも、二回目の砂は、まだ上の膨らみにたっぷり残っていた。
「昨日より早い!」
エダさんの声で、やっと笑えた。
アニカの右の親指が、窓の中で動いた。
腰の書類入れが、かち、と鳴った。
「温室は、任せて!」
ヒバリの脚が伸びる。
新しい板を張った荷台が、ガラス四箱を載せて持ち上がった。直した左後脚も、しっかり地面を押している。
低い機関の唸りが、すぐに軽い足音へ変わる。
ヒバリは広場を横切り、岩門への細道へ入った。
船長たちがコハクへ戻る。俺は板の横で一人ずつ迎え、エダさんが最後に上がったのを見届けた。板を片づけた二人にも頷き、操舵室へ顔を出す。
「全員戻った。ガラスは渡した。次は、俺たちの鉄だ」
リゼが左右の袖を揃えた。
「見てて」
コハクの脚が動き、風車への坂へ向き直った。
俺は、白い船を探した。
尾根の上にいた。
岩門の向こうへ回り込むため、まだ山の斜面を上がっている。その下を、青い布をつけた小さな船が走っていく。
上と下。同じ温室へ向かう二隻だった。
白い船の操舵室から、腕が出た。
こちらへではない。
真下の細道を駆けるヒバリを、指している。
気づいた。
あいつも、気づいた。
俺たちが広場で荷を渡している間に開いた差を、アニカが今、削っている。
岩門の手前で、ヒバリがほんの少し歩幅を緩めた。
石の両脇すれすれを、緑の船体が通る。
青い布が、岩の向こうへ消えた。
白い船は、まだ尾根のこちら側にいた。




