第十七話 この二隻で、勝ちにいく
四つ目の箱が乗り口へ来た時、俺は思わず地上を見た。
アニカの膝の上で、まだ砂が落ちている。
「持った!」
下ろす役の二人が箱を受け取る。運んできたロクたちは脇へ退き、渡し板への道を空けた。
最後の箱が、板を下りていく。
前の三箱は、エダさんの足元に並んでいた。二人がその隣へ腰を落とし、底を地面につける。
「四つ!」
エダさんが手を上げた。
アニカは砂時計を横に倒し、そのまま頭の上へ掲げた。砂は、まだ全部落ちていなかった。
「五分、かかってない!」
通りの奥から、おおっ、と声が上がった。
俺も上げた。自分で思っていたより大きな声が出た。
ロクはもう、後ろの荷置き場まで取りに戻らない。三組が、それぞれの短い区間だけを往復した。途中で一度、受け取る側が間に合わずに待ったが、それでも四つが出てきた。
やっていることは、持つ、渡す、戻る。それだけだ。
分かってしまえば簡単に見えるのに、昨日まで俺たちは、船の端から端まで同じ箱を抱えて歩いていた。
ロクが赤い頭巾を直しながら、俺の肩を叩く。
「なあ。俺、後ろまで戻らなくていいんだって、二つ目でやっと慣れた」
「俺も途中で、次の箱を取りに行きそうになった」
「行くなよ。合図する奴がいなくなる」
笑われた。言い返せない。
操舵室の扉が開き、リゼが顔を出した。
「本当に、もう終わり?」
地上の四箱を数え、通りを振り返る。その頬が、ゆっくり緩んだ。
「私、何も運んでないのに」
「だから、すぐ出せるだろ」
俺が言うと、リゼは席へ目を戻した。
箱を運んで地上へ降りていたら、渡し板を上って席へ戻る時間がかかる。今は、座り直すだけでいい。
「……うん。出せる」
リゼが笑った。
その顔を見て、俺はもう一回やりたくなった。次はもっと速くなる気がした。
「今日は終わりだ」
船長の声が、通りへ通った。
「谷から帰ったばかりだろう。明日、腕が上がらんと言われても困る」
俺は口を閉じた。肩に手を置くと、そこがまだ熱を持っていた。
地上では、アニカが砂時計を袋へしまっている。
「次は、ヒバリに載せて、縄を締めるところまでね」
「ああ」
まだ半分だ。あの白い船は、そこまでやって五分もかからなかった。
それでも、昨日の十三分を思い出して途方に暮れる必要はなくなった。
俺たちが動かせるものが、一つ見つかった。
*
夕飯の時、アニカは椅子に座ったまま、卓を囲む一人一人へ頭を下げた。
誰が綱を引いたのか、誰が部品を外したのか。俺たちが話すたびに、茶金の目が次の人へ向く。
最後に、左手の布を右手で包んだ。
「私、あそこでヒバリを諦めなくてよかった」
リゼが杯を持ったまま、うつむいた。
「まだ直ってないから。お礼は、走ってからも聞く」
「うん。何回でも言う」
卓の端で、ボルグさんが右の耳たぶを引いた。
「なら、ちゃんと食って寝ろ。明日も見に来るんだろ」
「見に行く」
「作業場をうろうろするなよ」
「そこは、気をつける」
「今、少し迷ったな」
アニカが口元を隠し、皆が笑った。
ロクが鍋を傾けたら、煮汁しか落ちてこなかった。底を覗いた本人が、一番嬉しそうな顔をする。
「もうないよ。明日の分までは食わせないからな」
俺は最後に残していた肉を口へ入れた。
船を直すのは、ボルグさんたちだ。俺が横から急かしても、鉄の穴が早く合うわけじゃない。
明日もできることを聞いて、それをやる。
そう思っていたのに、寝台へ横になってからも、隣の船が歩くところを何度も想像した。
*
翌朝から、港には違う音が混じるようになった。
ヒバリの左後ろで、鋸が板を引く、ざっ、ざっ、という音。金具を削る、乾いた細い音。その間に、ボルグさんの短い呼び声が入る。
俺は頼まれた古い板を運び、新しい床板を押さえた。
船の後ろ半分は低い荷台だ。その左端に、折れた枠を取り替えた明るい木肌が見える。さらに下では、谷から揚げてきた受け金が、元の受け金のあった場所へ収まりつつあった。
ベッケさんは銅枠の眼鏡を拭き、軸を通す前に、穴の内側をもう一度指で確かめた。
「いったん通した軸も、また外すんですか」
言ってから、俺は余計なことを聞いたかと思った。
「入ることと、動かしてよいことは別です」
怒った声ではなかった。ベッケさんは軸を少し抜き、横から見せてくれた。
「ここだけ当たれば、その分だけ削れて、またがたつく。今、合わせます」
俺には見分けがつかないほどの差だった。
足元の箱へ、外した小さな金具が順番に並んでいる。飛ばしてよい仕事は、そこには一つもなさそうだった。
俺は新しい板を取りに戻った。
アニカは、その日の再診を終えてから来た。
昨日より腫れが引き、支えてもらいながら短く歩く許可が出たという。ただし、船へ上がる階段も、荷運びもまだだ。港で借りた脇に挟む木の杖を椅子の横へ置き、左足は低い台へ載せた。
見に来ただけで終わる気は、本人にはなかった。
「リゼ。配達の地図、持ってきて」
昼食後、俺たちはコハクの前へ小さな卓を出した。
リゼが紙を広げ、アニカが飛ばないように砂時計を端へ置く。読めない文字の間を、青や茶色の線が走っていた。
「ここが港。まず、今いる場所」
リゼが一番下を指してくれた。
アニカは、港から右へ下る線を爪でたどる。
「私は、谷の下の染め場へ行く。届けるのは、染め紐の包み一つ。これだけなら、ヒバリで充分」
港の向こうを見ると、段々畑の下に水車が見えた。水樋から落ちた水が羽根を叩くたび、白いしぶきが日に光る。その近くに、黄色や藍色の布を長く干した一角があった。
あそこへ行くのか。
紙の印が、目で見える場所になった。
「コハクは、こっちの広い道を上がる」
リゼの指は、港から左へ延びた線を進んだ。
「風車の補修に使う鉄の金具が二箱。それと、温室へ届けるガラスが四箱。最初は両方、うちに積む」
広い道の先には、青い旗の絵がある。
「ここが、積み替えていい停船場。私は染め場の配達を終えたら、先に来て待ってる」
アニカが、二本の道の合わさる場所を叩いた。
ここで、四箱のガラスをヒバリへ渡す。
荷が軽くなったコハクは、鉄の二箱を載せたまま、さらに上の風車へ。ヒバリは、停船場から横へ折れる細道を通って温室へ向かう。
「温室で下ろす時は、一人で大丈夫か?」
「届け先では、荷受けが二人ついてくれる決まり。私は箱を持たなくていい」
それなら、足をかばいながら重い荷を抱えることはない。俺は頷いた。
「なんで最初からガラスもヒバリに?」
言いかけて、俺は紙の右下を見た。
染め場への道は、細く曲がりながら下っている。
「載らないことはないよ。でも、あそこを四箱積んで走ったら、そんなに飛ばせない。空に近い荷台で染め場を回ってから、ガラスだけ受け取りたい」
アニカは右手を横へ滑らせた。
「その先は、私の方がずっと早い」
青い旗と温室の絵の間には、岩をくり抜いた門が描かれていた。
岩門の幅では、コハクも白い二隻も通れないという。大きい船は、温室の裏の尾根をぐるりと回らなくてはならない。
ヒバリなら、岩門を抜けてほとんどまっすぐ行ける。
地図を挟んで、二人の顔が上がった。
「だから、待たせないでね」
「ガラスは割らないでね」
「もちろん」
昨日まで台へ載せた足を気にしていたアニカが、今は温室の先にある帰り道を指している。
俺は、その指が嬉しかった。
心配だから何もするなと言っていたら、こんな顔も見られない。任せていいことを、勝手に減らさないようにしようと思った。
「ガラスを渡すところ、ヒバリ側の積み方も教えてくれるか」
「いいよ。奥から詰めると、最後の縄が掛けにくいの。先に、そこを決めたい」
卓の上に四つの小石が並んだ。
俺たちは昼の皿を端へ寄せ、箱に見立てた石を何度も動かした。
*
ヒバリの支えを外せたのは、その翌日の昼前だった。
本番まで、あと二日。
修理していた一角が、綱で囲まれていた。ヒバリを置いたまま、前の平らな道まで空け、試験場にしたのだ。
その中で、ヒバリは腹を低くしていた。
左後ろの荷台には新しい板が張られ、屋根の枠も真っすぐになっている。まだ塗り直していない木だけ、薄い色をしていた。
アニカは試験場の端の椅子に座っていた。隣にリゼ、少し後ろに俺とエダさんがいる。
ヒバリの操舵室へ入ったのは、ベッケさんだった。
先に整備側で動きを調べる。そのための試験だ。
船体の下から全員が離れ、ボルグさんが手を上げた。
機関の音がした。
低い、こもった響き。そこへ、脚の継ぎ目が動く金属の音が重なった。
ヒバリの六本脚が、少しずつ伸びる。
腹を受けていた木の支えとの間に、隙間ができた。
左後ろの脚にも重さが掛かる。谷から持ってきた受け金は、もうほとんど見えない。周りの鉄に包まれ、長い脚の付け根になっていた。
動け。
心の中で言ってから、今は動かずに立つ試験なのだと思い出した。
ベッケさんがいったん機関を緩める。
船は傾かなかった。
ボルグさんが側面から金具を見て、声を掛けた。港の作業員二人が、長い柄の道具で木の支えを外へ引き出す。
ヒバリの腹の下が、空いた。
アニカの右手が、腰の書類入れを握った。
かち、と留め金が鳴る。
左前の脚が、上がった。
その向こうで別の脚が地面を押す。荷台がすっと前へ運ばれ、新しく張った床板が、かすかに鳴った。
一歩。
後ろの左脚が地面を離れ、前へ出る。
どん、と踏み下ろした音は、コハクよりも軽かった。
その音を聞いた瞬間、アニカが顔を伏せた。
リゼが隣でしゃがみ、膝に置かれた彼女の右手を掴んだ。
「歩いてる」
アニカは頷いた。
俺はヒバリを見ていた。目を離すと、自分まで泣きそうだった。
あの夜は、まだ軋んでいた。潰れた屋根の下から、アニカの声が聞こえていた。
今は、その船が、自分の脚でこちらから離れていく。
十歩ほど進み、止まる。向きを変える。また戻る。
ボルグさんは笑わなかった。停止するたびに左後脚へ寄り、軸の位置を見て、手を離してから次の合図を出す。
俺には、今その顔をしてくれることが、たまらなくありがたかった。
空荷の試験を終え、港の重りを載せてもう一度歩かせる。荷台へ縄を掛ける間、アニカは何度も目元を拭いた。
最後の点検が終わると、ベッケさんが操舵室から下りた。
「船は、動かせます」
アニカが顔を上げた。
「次は、あなたの番です」
その言葉で、俺は急に緊張した。
船が動いても、アニカの足はまだ治りきっていない。
今朝の再診では、整備の人の立ち会いで操船の動きを試してよいと言われていた。港の手当て役だという、五十代くらいの女性も来ていた。白髪交じりの長い髪を背中へ払い、アニカの椅子の横にしゃがむ。
「さっき約束したことは?」
「痛くなったら止める。隠さない。荷物は持たない」
「帰ってきてから、もう一度足を見るからね」
アニカは頷いた。
荷台の重りをいったん下ろし、船を低くする。俺は杖を預かり、リゼがアニカの右側を支えた。前の乗り口にある短い段を、一段ずつ上がって操舵室へ向かう。
途中で左足をつく時、アニカの口が結ばれた。
「休むか」
「ここで、一回だけ」
足を止めて待った。
俺は空いている手を差し出し、彼女が息を整えるまで待った。
出られると言ってほしい。
ずっとそう思っていた。だから、痛くても言えなくなる顔を、俺がするわけにはいかなかった。
座席へ着くと、アニカは大きく息を吐いた。
狭い操舵室には、座席の左右に一本ずつ梃子があり、床へ伸びた二本の踏み板が足元に並んでいる。座席のすぐ後ろが入口で、人が並んで立てる余地はない。
ベッケさんに入口を譲り、俺とリゼは地上へ下りた。
窓越しに、アニカが握りを確かめる姿が見えた。左掌の薄い当て布が、柄を包む。
足元で、踏み板が戻る、かたんという音がした。何度か確かめてから、アニカが座席の下を指した。
「もう少し、前に戻して」
ベッケさんが試験のために下げていた座席を、彼女の位置へ戻す。足を伸ばしきらなくても、踏み板の奥まで押せるようになった。
もう一度。
今度は、アニカが頷いた。
ベッケさんが地上へ下り、船から離れて手を上げる。
前の脚が動いた。
ほんのゆっくり、ヒバリが進む。
俺は手を握った。あの小柄な身体で、あの船を毎日走らせていたのだ。動き出してからのアニカの目は、卓で地図を指していた時とも違っていた。
前を見る。横を見る。
船の歩みを止める。曲がる。また止める。
少しずつ速さを上げた最後の一回で、試験場の端から、ベッケさんが停止の合図を出した。
窓の中で、アニカの両腕が動く。
ヒバリは、引いてあった白線より手前で、ぴたりと止まった。
俺は息を吐いた。
リゼはいつの間にか、俺の袖を掴んでいた。俺がそちらを見ると、慌てて手を離す。
「今の、いい止まり方」
「ああ」
「すごく、よかった」
窓からアニカが顔を出した。
「リゼ!」
声が大きかった。彼女自身も驚いたように、一度口を閉じる。
それから、顔いっぱいに笑った。
「もう一回、組んでくれる?」
リゼは、今度は笑わなかった。
両手を口の横へ添え、ヒバリへ向かって叫んだ。
「替えてない! あんたと出るって、言ったでしょ!」
*
翌朝、アニカの足は、試験前より腫れてはいなかった。
再診を終えて戻った彼女は、杖をつきながらも自分で歩いてきた。操船は続けてよい。ただし、途中で痛みが増せば中止し、走り回らず、荷役は俺たちへ任せる。その条件を聞いてから、船長も頷いた。
今日は、本番の前日だ。
昼には相棒の変更が締め切られる。
俺たちは受付へ変更を出す代わりに、修理後の点検を終えたヒバリを、最後の検査へ運んだ。
係が新しい床と左後脚を見て、載せられる重さを確かめる。アニカと船長が、昨日の試験の記録をベッケさんから受け取って渡した。
札へ印が押された。
コハク。ヒバリ。
リゼが読んだ二つの名前を聞き、俺はようやく、明日の朝を信じられた。
午後、港の練習場へ二隻を並べた。
コハクの前の乗り口に、ヒバリの後ろの荷台を寄せる。間には人が歩ける地面を残し、コハクから下ろした渡し板の先を、その荷台へ向けた。
ヒバリも脚を畳んで低くなる。地上から見て腰より低い荷台へ、箱を持ち上げられる高さだ。
今度の四箱には、ガラスの代わりに砂袋を入れた。大会の箱と大きさも重さも合わせてある。
空箱のようにはいかない。持ち上げると、肘の内側にずしりと来た。
まずは時間を計らず、一箱ずつ運んで持ち替えを確かめた。
コハクから地上へ下ろす二人が、そのままヒバリの荷台の縁へ箱を上げる。荷台にいるボルグさんとオルド船長が受け、敷いてある布の上へ滑らせる。
アニカの言ったとおり、一箱目を奥の隅へ押し込むのはやめた。
箱四つを二つずつ並べ、その間へ、あとで縄を通す隙間を残す。エダさんが畳んだ布を差し込み、ガラスの箱同士が触れないようにした。
「これなら、後から箱を持ち上げなくていい」
最後の一本は、ボルグさんに見てもらいながら俺が結んだ。彼が縄を引き、緩まないことを確かめる。
「自分でほどけるか?」
俺は、結んだ端へ手を掛けた。
一度で緩んだ。ボルグさんが頷くのを見て、内心で小さく喜んだ。
それから四箱をコハクへ戻した。エダさんは地上へ下り、アニカから砂時計を借りる。
リゼとアニカはそれぞれの操舵室へ。俺はコハクの前の乗り口へ戻った。
「始め!」
エダさんの声で、全員が動き出した。
後部で縄が外れる。
四箱が、一つずつ通りを進む。
「持った!」
ロクの声。
乗り口で次の二人へ渡り、板を下りる。今度は、地面へ置かない。二人がそのままヒバリの荷台へ運び、船長たちが受け取った。
俺は乗り口から、通りとヒバリを交互に見た。
三箱目が出るところで、ロクが手を上げた。
「後ろ、ちょっと待って! まだ渡せない!」
下ろす二人が、まだ板へ戻っていない。
ロクたちは箱を抱えたまま立ち止まった。奥の組も、それを見て先へ来るのをやめる。
少しして、板を上がる足音がした。
「いいぞ!」
また箱が動いた。
止まる時に、止まれる。
速くすることばかり考えていた俺には、それも大事な成功だった。前の人の背中へぶつかるより、ずっといい。
ヒバリでは最後の縄が締められた。
ボルグさんが箱の角を押し、動かないことを確認する。ボルグさんと船長が荷台から下り、アニカが振り返って全員の退避を確かめた。
「積み終わり!」
俺が声を掛けると、地上のエダさんが砂時計を横にした。
一回返して、二回目の砂が半分ほど落ちていた。
七分か、八分か。五分一回では足りなかった。
皆、息が上がっていた。
悔しい。でも、前に本物のガラスを渡した時の、二十分ではない。
アニカは操舵室から荷台を見て、それから隣のコハクへ目を向けた。
「ここまで早くしてくれたら、走り甲斐がある」
リゼが窓枠を掴んだ。
「まだ縮める」
「うん。でも、今のでも、あの岩門まで私を行かせてくれたら勝負できるよ」
俺は白い二隻の方を見た。
向こうもまだ練習している。俺たちが苦労している間、相手が休んで待ってくれるわけではない。
それでも、勝ち方を考えられるところへ、戻ってこられた。
その後、ヒバリは四箱を積んで練習場の外周を回った。
アニカが、もう少し続けて、手と足の具合を確かめたいと言ったのだ。休みを挟み、曲がる、止まる、また走る。それを繰り返してから、荷を下ろした。
夕方に足を診てもらって戻った時、彼女は俺たちへ右の親指を立てた。
*
夕方には、練習を切り上げた。
借りた試験用の箱と砂袋を返し、明日の荷を積む場所を空ける。ヒバリは再点検の後、コハクの隣へ戻った。
アニカは今夜もリゼの寝台を借りることになった。彼女が自分の船へ戻ろうとすると、リゼが言ったのだ。
「明日の朝、また迎えに行く方が大変だから。今夜までは、こっち」
そういうことにしておく、とアニカが頷いていた。
船長から給金を渡されたのは、その後だった。
「前に払った翌日から、今日まで。五日分だ」
三十枚。
財布に残っていた二十八枚へ足すと、ずいぶん重くなった。
帰る方法を聞きに行くための金でもある。忘れていたわけじゃない。ただ、ここ数日は、明日この船とヒバリが並ぶことばかり考えていた。
森崎さんへの手紙は、まだ道の途中だろう。
返事を待つ間に、俺まで立ち止まっている必要はなかった。
日が傾いてから、リゼと俺は操舵室で地図を見直した。
窓の向こうには、段畑を渡っていく長い風車の影が見える。羽根の回転に合わせ、下の道が明るくなったり暗くなったりした。
「この坂も、使っていいのか?」
俺が指したのは、温室から港へ斜めに下りる細い線だった。
「うん。風車の修理に行く人が使う保守坂。ただ、荷を積んだ中型船は駄目。坂が急すぎるから」
地図の端には、通れる船の幅と重さが書かれているという。
白い二隻なら、空荷になれば使える。コハクを通すだけの道幅はない。ヒバリはもっと下の細道から帰った方が早い。
「ルーガンも、ここを知ってるんだよな」
「知ってる。三回も優勝してるんだもん」
リゼが指先で、コハクの帰り道をなぞった。
俺は、明日の最後を想像した。
あの白い船が、追ってくる。
広い道を一生懸命走っている横へ、短い坂を駆け下りてくる。
ああ、嫌な相手だ。
相手の速さを想像すればするほど、勝った時の顔を見たくなる。
「荷を渡したら、俺たちもすぐ戻る。板と縄を片づけて、乗ったら知らせる」
「うん」
「操舵室から呼びに来なくていい。全員乗ったかは、俺が確認する」
リゼが顔を上げた。
灰緑の目が、まっすぐ俺を見る。
「じゃあ、私のことも見てて」
「見るよ」
「速かったら、後で言って」
その頼み方が妙に素直で、俺は少し笑った。
「言わなかったこと、あったか?」
「もっと言ってくれてもいい」
自分で言ってから恥ずかしくなったらしい。リゼは地図の端を揃え、必要以上にきっちり折り目をつけた。
俺は笑うのをやめた。
「明日、あいつを抜いたら、たぶん黙ってられないと思う」
リゼが顔を上げる。
蜂蜜色の三つ編みが肩から落ちた。
「私も」
その顔には、試走で最後になった時の悔しさが、まだ残っていた。
残っていてよかったと思った。
船が直った。それで充分だなんて、俺も言う気はなかった。
*
本番の朝、ベルカの港は、足の踏み場もないほどの人だった。
船の通る場所だけは綱で仕切られ、その向こうに見物人が並んでいる。高い所から見ようと、荷車の荷台にまで人が上がっていた。
六組、十二隻。
コハクとヒバリにも、揃いの青い布が結ばれた。同じ組だと、遠くからでも分かる目印だ。
荷主の前でガラス四箱と鉄の二箱を確かめ、コハクの後部へ載せる。鉄は動かないよう奥へ。青旗の停船場で先に下ろすガラスは、その手前だ。
ヒバリへは、封をした染め紐の包みが一つ。
アニカは支えてもらって乗船を終え、もう操舵室にいた。今朝も手当て所で状態を見てもらっている。借りた椅子と足台は返し、杖だけは帰港まで預かることになった。
出走前の説明をしているのは、登録の時にいた、黒髪を高く巻いた女性だった。
「積み替えは、青旗の停船場だけ。配達先で受領札をもらうのを忘れないように。三か所の札と二隻が帰り、最後の船が帰着枠へ完全に停まって、札の確認が済んだ組から順位が決まります」
広場へ、声が通る。
「係の赤旗が出た区域では、全船停止。緑に変わるまで出発しないこと。救助のために人を乗せるのは構いませんが、競走の荷を組の外の船に運ばせてはいけません」
リゼはひと言ずつ聞き、帰着枠を見ていた。
あそこで止まる練習は、もうしてある。
俺は受領札を入れる袋の口を確かめた。今は空だ。俺たち二隻で三か所の札を揃え、ここへ戻ってくる。
隣の列で、白い船が身を持ち上げた。
赤い輪の印。
その操舵室の窓から、ルーガンがこちらを見た。
白い上着は洗い直されている。短い口髭を両側から撫で、コハクの家並みと、隣のヒバリへ順に目をやった。
「間に合ったか」
アニカが窓から顔を出した。
「間に合わせたの」
ルーガンの視線が、ヒバリの新しい床板へ落ちる。
「なら、今日は言い訳なしだ」
「最初から、するつもりないよ」
リゼが言った。
帽子の鍔へ手をやり、握り潰しかけた指を開く。
「勝ったら、皆の前で取り消してもらうから。家も住民も、余計な荷じゃない」
「覚えてる」
ルーガンはそれだけ答え、前を向いた。
俺はコハクの通りを振り返った。
窓が閉まり、最後の戸に留め具が掛かる。ロクが畳んだ机を壁へ固定し、額から二本の指を払った。
エダさんはガラスの箱に挟んだ布を押さえ、ボルグさんが縄を見ている。
船長は乗り口の脇に立ち、腰の鍵束を握った。
誰も降りていない。
家も、その中で暮らす人も、全員ここにいる。
俺は操舵室へ戻り、窓際の手すりを握った。
リゼが左右の袖を、同じ高さにまくる。
「全員、乗った?」
「乗った。出してくれ」
リゼは頷いた。
港の鐘が、一つ鳴った。
重い余韻が谷へ広がり、見物人の声が少しずつ静かになる。
次の一つで、十二隻の機関が低く唸った。
俺の足元へ振動が来た。木の床から、靴底へ。握った手すりへ。
三つ目。
出走の旗が、振り下ろされた。
ヒバリが飛び出す。
低い船体が人垣の前を駆け抜け、谷下の染め場へ向かう道へ折れた。アニカの赤銅色の髪が、窓の中で跳ねる。
白い二隻が、それぞれの道へ散った。
ルーガンの船は、俺たちと同じ上り道だ。
コハクの右前脚が、地面を押した。
どん。
通りの家の戸が、一斉に鳴る。
俺は手すりを握り直した。
前を走る白い船の荷台には、ガラスの箱が四つ見えた。積んでいる。こっちと同じ、壊してはいけない荷を。
それでも、あいつは速かった。
坂へ入ったところで、白い脚の動きがもう一段速くなった。見物人の声が、追いかけるように上がる。
リゼが、その背を睨む。
俺は、唇の端が上がるのを止められなかった。
怖い。負けたら絶対に悔しい。
それでも、この船で、あいつを追い越すところを見たい。
「リゼ!」
「分かってる!」
二本の梃子が、前へ倒れた。
家も、住民も、全部載せたまま。
コハク号が、白い船を追って坂へ踏み込んだ。




