第十六話 持って帰ってきた
「下ろせ! 白を下だ!」
ヘルトさんの声で、俺は赤い旗を下げた。
足元の白を拾い、腰より低いところで振る。
頭の上では、鉄の部品を載せた木台が、岩壁へ近づいていた。
揚げるのを止めただけでは、横へ振れる力は消えない。台の角が、壁から突き出た白い岩へ迫る。
上を見た。
白い旗が低いところで動いた。
返事が来た。
がっ、と歯車が鳴り、太い綱が下へ送られ始める。
「ボルグ、外へ!」
二人が細い綱を引き、岩から離れる方へ足を動かした。
宙の台が、斜めになった。
木の角が岩を擦った。
ぎゃ、と、近くで椅子を引きずったような音がして、細かな欠片が落ちる。
俺は白い旗を振り続けた。
頼む。止まるな。あと少し。
台の端が、出っ張りの下へ抜けた。
ヘルトさんが綱を引いたまま、ゆっくり後ろへ下がる。ボルグさんも反対側から支え、台の回転を抑えた。
岩の下を離れた台が、膝の高さまで下りてくる。
「そのまま。誰も寄るな」
石の上へ、木がついた。
どん、と低い音がした。
ヘルトさんが片手を上げた。
赤。
上にも、赤。
太い綱が止まった。
俺は旗の柄を握ったまま、口で息をした。
台は動かない。ボルグさんも、ヘルトさんも無事だ。
足元を見たら、赤い旗の裾が震えていた。
風だけではない。俺の手も震えていた。
「……部品は」
「近づくな。先に綱だ」
ボルグさんに言われ、踏み出しかけた足を戻した。
二人が、台を地面へ落ち着ける。
ヘルトさんが上へ綱を緩めるよう合図し、それからボルグさんが荷の横へ膝をついた。
木台の角は、削れて白くなっていた。
鉄を留めた縄は外れていない。
ボルグさんの太い指が、受け金の縁を辿る。
軸を覗き、留め方を確かめる。
待つしかない時間が、また来た。
さっき使えると言われて、もう半分、持って帰った気になっていた。
まだ谷底だ。直すべき船は、ここから見えもしない港にある。
勝ちたいとか、早く帰りたいとか。
そんなことを思っても、この人の指を速くしてはいけない。
俺は、赤い旗を上へ見せ直した。
「鉄は当たってねえ。木も、この角だけだ」
ボルグさんが顔を上げた。
体の力が抜けかけた。
危うくその場へ座りそうになり、旗を杖の代わりにしそうになってやめる。
「カイ。こっちへ来い」
ヘルトさんは、吊り荷から離れた平らな石を指した。
「座って、水を飲め。風が弱まるまで、こいつは動かさん」
*
水袋の口を開けるのに、二度かかった。
手袋を外した指が、紐にうまく掛からない。
ようやく飲むと、喉を通る音が自分の耳に聞こえた。
ヘルトさんは砂色の胴着の裾を払い、隣へしゃがんだ。
曲がった鼻筋の横を汗が流れている。
「停止は見えた。下ろす方も、ちゃんと届いたな」
「間に合って、よかったです」
「ああ。声だけなら届かんかった」
褒めてもらったのだと分かって、ようやく息が少し楽になった。
その一方で、岩へ寄っていく木台が頭から離れなかった。
次は、もっと高いところまで揚げる。
同じ風が来たらどうする。
ヘルトさんが白い壁を見上げた。
「立つ場所を変える。横へ振れんようにするだけじゃ足りん。岩から離す方へ、綱を引けるようにする」
彼は台から谷の中央へ向かって歩いた。
荷が上がる真下を避け、岩壁から遠い二か所に石を置く。
ボルグさんが、その一つに立った。
台と、上の鉄の腕を見比べる。綱を少し引いてから、頷いた。
「ここなら、あの角から引き離せる。だが、風の強いうちは無理だ」
「待つ」
ヘルトさんは即答した。
俺は上を見た。
崖の縁に、小さな顔が幾つか並んでいる。
赤い旗も、まだ出ていた。
向こうからは、部品の傷までは見えないはずだ。
俺と同じように、返事を待っているのかもしれない。
「使えるって、上へ知らせられませんか」
ヘルトさんが俺を見た。
「今のままだと、壊れたかどうか、分からないですよね」
「そうだな。書くか」
工具袋には、ボルグさんの採寸用の紙と筆記具が入っていた。
ヘルトさんが短い文を書いた。部品は無事、風待ち、上から陸へ引き込む綱も一本下ろしてほしい、と読み上げてくれる。
俺は、その紙を折った。
すぐに思いついたことを、自分で書けない。
こんな時くらい、と歯がゆくなる。帰ったら字も習いたい。少なくとも、無事だと伝える言葉くらいは。
太い綱から荷を外した後、小さな工具袋へ紙を入れて結んだ。
空に近い袋を、俺が白旗で上へ送る。
やがて袋が戻ってきた。
中には返事があった。
袋とは別に、もう一本、細い綱が下りてくる。片方の端は上の人が持ったまま、反対側の端をこちらへ送ってくれた。
ヘルトさんが返事を読む。
「了解。上は支度する。風が落ちるまでは下で待て。……全員、飯は残してある」
俺は、紙を見た。
「そこも書いてあるんですか」
「読んだとおりだ」
声を出して笑ったら、脇腹が少し痛かった。
昼飯の話をしたのは、リゼだ。
誰が書いたかは分からない。でも、あいつが上にいると思えた。
*
風が弱まってからも、すぐには揚げなかった。
水溜りの波が細かくなるのを待ち、ヘルトさんが旗を持って上を確かめる。
ヘルトさんが、上から下りてきた綱を台の岩壁側へ結ぶ。台が崖の上まで届いた時に、上の人たちが平場へ引き込むためのものだった。
「縁を越えたら、上の連中がこれで引き込んで下ろす。それまでは緩めとく」
ヘルトさんが言った。
下にいる俺たちが受け持つのは、台が岩へ寄らないようにする二本。重さを支える太い綱は、さっきのままだ。
「途中で強くなったら、また下ろす」
ヘルトさんが言った。
「上の旗が見えなくなっても、止める。手を振って急かすなよ」
「はい」
俺は合図の場所へ戻った。
ボルグさんとヘルトさんが、新しい位置で綱を持つ。
白を上げる。
から、から、から。
頭の上で、同じ歯車の音が始まった。
台が地面を離れる。
膝の高さで一度止め、荷を確かめる。それから、もう一度、白。
さっき擦った場所へ、台が上がった。
今度は、白い岩と木の間に隙間がある。
二本の細い綱が、谷側へ向かって斜めに張っていた。
風が、首の後ろを撫でた。
俺は上を見て、荷を見た。
台は少し動いたが、岩へは寄らない。
ヘルトさんの手が、綱を短く引く。
ボルグさんが足を踏み替える。
台の角が戻った。
越えた。
声にしそうになったが、飲み込んだ。
まだ上まである。
俺は白い旗を持つ腕を、少し下から支え直した。
荷が高くなるほど、地面から延びる綱も立っていく。
ボルグさんたちは余った綱を送りながら、岩から離す方向を保っていた。
上にいる人たちも動いていた。
鉄柱のそばの一人が両腕で旗を持ち、その奥を何人もが行き来する。
どれがリゼか、ここからでは確かめられない。
ただ、一度も旗は消えなかった。
白い壁の半分を過ぎたところで、谷の奥から砂が流れてきた。
俺は赤を上げた。
すぐに、上にも赤が出る。
歯車が止まった。
宙の台が、わずかに向きを変える。
ヘルトさんは足を開き、ボルグさんと声を掛け合った。
岩には届いていない。
届く前に、二人の綱が戻していた。
風が抜けるまで、俺は赤を出し続けた。
急いだところで、風より先には登れない。
だったら一回ずつ止める。何回でも止めて、そのたび無事だと確かめる。
腕が重い。
でも、これだけをやっていればいい。
俺は綱を引かなくていいし、鉄の傷も見なくていい。
ここで旗を持つ仕事が空かないように、立っていればいい。
「カイ。上げよう」
ヘルトさんの声に頷いた。
もう一度、白。
台は壁を離れたまま上がり、やがて、その底が崖の縁より高くなった。
上の人が、こちらへ大きく赤を見せる。
「向こうが受け取る。赤を返せ」
俺はヘルトさんの言葉どおりにした。
上では、台につないだもう一本の綱が張っていく。
木台がゆっくり陸側へ寄った。
上の人たちの腰が、そろって後ろへ下がる。
台を引き込むのに合わせ、太い綱も少しずつ送り出されていた。
ヘルトさんが教えてくれたとおり、上の平場へ引き込んで下ろしているのだ。
俺たちの綱は、少しずつ緩める番になった。
台の向きが変わり、向こうへ消えていく。
最後に鉄の軸が白く光り、それも見えなくなった。
音だけがした。
ごとん。
それから、何かを叩く軽い音と、幾つもの声。
「載ったぞー!」
崖の上から、声が落ちてきた。
俺は旗を持ったまま、上を向いた。
口が、勝手に開いていた。
「上がった……」
ボルグさんが綱を手放した。
太い首の後ろへ手をやり、ゆっくり回す。
ヘルトさんは、長い息を吐いてから笑った。
「よし。次は俺たちだ」
*
工具と丸棒を先に揚げてもらい、俺たちは来た道を戻った。
部品取りの船は、脚の下に支えを残してある。荷台の端に塗られた古い青が、日に当たって見えた。
使う部品だけを持っていく。
この船は、ここに残る。
俺は少しだけ振り返った。
あの部品が、また歩くところを見たい。
そう思ってから、それはもうヒバリの脚になるのだと気づいた。
帰りの階段は、下りよりきつかった。
怖さに加えて、腿が重い。
段を一つ上がるたび、紺のシャツが背中へ貼りつく。
木の足場の手前では、もう一度風を待った。
壁際の綱を持ち、ヘルトさんが渡った位置へ、俺も足を置く。
途中で下は見なかった。
見なくても、下がどれくらい遠いかは知ってしまっている。
「少し、待ってください」
広い石段へ戻ったところで、俺は言った。
「足、休ませたいです」
「そこで座れ。俺も飲む」
ボルグさんが、水袋を出した。
平気な顔で先へ行きたかった。
上でリゼが待っているなら、なおさらだ。
でも、さっき揚げた部品より、俺の方が面倒な荷物になって戻るのは嫌だった。
息が整うまで座り、二人について、残りを上がった。
最後の段から顔を出すと、最初に赤い旗が見えた。
リゼが持っていた。
帽子の鍔の下で、灰緑の目が俺を捉える。
彼女は旗をそばのロクへ渡し、こっちへ来かけて、止まった。
俺の後ろには、まだボルグさんがいる。
狭い階段の出口を、ちゃんと空けて待っていた。
三人とも平場へ出ると、リゼが歩いてきた。
「おかえり」
「ただいま」
返事をしたところで、膝の力が抜けた。
俺は石へ腰を下ろした。
「……そこ、痛めた?」
「疲れただけ。たぶん明日、もっと痛い」
リゼがしゃがみ、俺の顔を覗く。
左右同じ高さにまくられた袖の下で、腕が白い粉まみれだった。
「顔、白いよ」
「そっちも」
彼女は自分の頬へ触った。
手も白かったので、頬の粉が増えた。
俺が笑うと、リゼは一瞬むっとして、それから自分でも笑った。
前へ落ちた蜂蜜色の三つ編みが、膝の上で揺れた。
見られていたのが、格好悪いところばかりでも。
今は、こうやって顔を見られる方が嬉しかった。
「上の旗、リゼだったんだな」
「うん。カイの赤が見えたら、私が止めるって決めてた」
彼女が、自分の二の腕をさすった。
「上げっぱなしって、重いね。途中、ロクに代わってもらった」
「俺も。最後、両手だった」
「見えたよ」
リゼは笑ったまま頷いた。
それだけで、下でずっと上を見ていたことが、急に報われた気がした。
平場の奥では、木台が角材の上に載っていた。
ボルグさんが鉄を見ている。そばで、ベッケさんが眼鏡を拭いていた。
部品は、本当に上にあった。
誰かが代わりの物を置いたわけではない。擦れた台の角まで、さっきのままだ。
船長が、俺たちの方へ来た。
「怪我は」
「ありません。疲れました」
「そりゃそうだ」
太い手が、俺の肩を一度叩いた。
「よくやった。片づけが終わったら帰るぞ」
俺は立とうとした。
船長が、掌をこっちへ向けた。
「お前は帯を外して、飯を食え。上にも、まだ働ける奴はいる」
*
コハクへ上がると、炊事場の前に腰掛けが二つ出ていた。
ロクが、布を掛けておいた皿を持ってくる。
薄く焼いた芋の上に、細かく切った肉と豆が載っていた。
「お前の分、ちゃんと残したぞ」
「紙で聞いた」
「あれ、俺が書いた」
ロクが二本の指を額から払った。
「リゼが三回も言うから」
「二回。最後はボルグの分も、って言ったんだよ」
「二回だったか。ボルグの分も、ちゃんと取ってあるよ」
リゼが俺の隣へ座った。
自分の皿も受け取り、俺が匙を持つと、ようやく自分の匙を取った。
俺は芋を一口食べた。
端が少し硬くなっていた。
でも、噛むと焼いた油の匂いがして、豆には肉の味がしみている。
「……うまい」
リゼも芋を頬張り、何度も頷いた。
その顔を見てから、昼飯を一緒に食べる約束だったと思い出した。
残しておくと言ったのは、皿だけではなかったのかもしれない。
「待たせたな」
「うん。だから、その端っこの焦げたところ、ちょうだい」
俺は皿を寄せた。
彼女が欲しがったところを半分に割る。リゼは小さい方を取ろうとしたので、俺は大きい方を先に渡した。
帽子の下から、目だけが上を向いた。
「そっちでいいの?」
「うん。待っててくれて、ありがと」
素直に言うと、今さら照れくさくなった。
リゼは俺の皿を見て、笑った。
「じゃ、こっちの肉あげる」
結局、何か増えた。
俺は礼を言って食べた。
炊事場の扉が鳴り、足元から機関の低い音が伝わってくる。
谷底の船では、聞こえなかった音だった。
家の間を、ロクが空の水袋を持って通る。
後ろでは、住民たちと港の人たちが部品を固定している。地上の巻き上げ具も、外してコハクへ積み戻すところだった。
皆がここで働いていた。
下に降りた俺たち三人だけの仕事みたいに、帰ってきたら話してしまわないようにしよう。
借りた帯と手袋を返し、食べ終わった皿を洗って戻した。
リゼは最後の一口を飲み込むと、袖をまくり直して立った。
「港まで。部品、揺らさずに運ぶよ」
「頼む」
俺が答えると、彼女は操舵室へ向かった。
*
港へ戻った頃には、日が高くなっていた。
前の乗り口から、ヒバリが見えた。
低い船体の左後ろに木の支えが入り、緑の屋根は途中で切れている。昨夜の鉄籠はもう引き離されていたが、壊れたところが直ったわけではない。
その横に、椅子が一つあった。
アニカが、左足を台へ載せて座っている。
エダが隣に立ち、膝へ掛けた布の端を直していた。
コハクが止まる前に、アニカの背中が伸びた。
俺は乗り口で、片手を大きく上げた。
今は作業の旗ではない。本人に、見てほしかった。
渡し板が地面へつく。
俺が下りると、アニカは右手を椅子へついて、立ちかけた。
「待って。こっちで運ぶから」
エダが肩へ手を置くより先に、俺が言った。
アニカは座り直した。
茶金色の目が、俺の顔と、渡し板の上を行き来する。
「使えた?」
「使える。今、下ろす」
ボルグさんと港の人たちが、台を下ろす支度をしていた。
板の先に低い荷車を据え、台を少しずつ移す。俺も言われた場所に木を置いた。
ヒバリの脇へ運んできた時、アニカは何も言わなかった。
左掌の布を見て、右手を伸ばす。
汚れを拭いた軸の端へ、指が触れた。
「これ、付くんだ」
ボルグさんが頷いた。
「穴も型も合う。洗って、合わせるところを仕上げる。曲がった軸と割れた金具は、こいつと替えられる」
アニカの指が、太い鉄をもう一度撫でた。
泣かないようにしているのかと思った。
でも、彼女は急に顔を上げた。
「下、怖かった?」
「怖かった」
即答すると、アニカの口が少し開いた。
「途中で、帰りたくなった」
「……帰ってきてるじゃん」
「持って帰ってきた」
俺は台を指した。
それを言いたくて、最後の階段を上がった。
気の利いた慰めは思いつかなかったが、今度はちゃんと、目の前に置けた。
アニカは下を向いた。
短い赤銅色の髪の間から、片方の耳が見える。首の後ろまで赤くなっていた。
「ありがとう」
小さな声だった。
次に顔を上げた時は、目が濡れていた。
「皆に言いたい。あとで、一人ずつ」
「飯の時でいい」
船長が、後ろから言った。
「今、呼び止めると荷が途中で止まる」
アニカは笑った。
笑いながら、右手で目の下を拭いた。
ベッケさんが、部品を見てからヒバリを見た。
「この場所で修理を進める。軸だけ付けても走れん。左後ろの枠と床も直し、荷を載せて確かめるところまでだ」
「本番には」
リゼが、途中で口を閉じた。
主任は曖昧に頷かなかった。
「間に合わせたい。だが、終わったと言えるのは歩かせてからだ。港から人を二人、回す」
ボルグさんが頷き、工具を取りに戻る。
ベッケさんは布を広げ、使う部品を順に置いた。
もう、探しているだけではない。
直す人の手元に、必要な物がある。
俺はアニカの足を見た。
「そっちは?」
「まだ、左足に体重を掛けちゃ駄目だって。腫れが引くか、明日も見てもらう。操船できるかは、そのあと」
左足へ目を落とす時だけ、彼女の眉が寄った。
少し向きを変えただけでも、痛むらしい。
「走るのは船だからって言ったら、操るのはあんたでしょって」
「それは、そうだな」
「分かってるって。だから座ってる」
エダが、膝の布を三つ折りに直した。
「座ってても、口と頭は使える。今日はそっちで働きな」
アニカは鼻をすすり、書類入れの留め金を、右の親指で鳴らした。
「じゃあ、砂時計。出していい?」
*
アニカが見ていたのは、港の端の練習区画だった。
ヒバリの修理場所から、広い荷車道を一本隔てた向こう。
二隻の白い船が、乗り口を同じ平場へ向けて停まっていた。
赤い輪の印。
ルーガンの船だ。
一方の荷台には、木箱が四つ並んでいた。
もう一方の荷台には、まだ何もない。
その間の地面には白い線が引かれ、作業員がそれぞれの位置へ立っている。
荷を移す練習をするらしかった。
アニカが、袋から砂時計を取り出す。
「最初から、見よう」
俺はリゼと一緒に、彼女の椅子の脇へ立った。
エダも手を止めた。
向こうで、短い笛が鳴った。
アニカが五分の砂時計を返す。
縄が外れる。
箱が持ち上がる。
四人が二つの箱を抱え、白い船から下りてきた。
別の二人が、後ろの箱の縄を解いている。空いた当て木は、もう運ぶ道にない。
地上の短い距離を渡り、相棒の船へ載せる。
受け取る側では、運んできた人とは別の船員が、すぐに箱を固定し始めた。
運んだ四人は戻っていく。
その頃には、次の二箱を持てるようになっていた。
誰かが立ち止まって、次に何をするのか尋ねる声がない。
靴音の間へ、金具の鳴る音が途切れず混じった。
ルーガンは荷台の端に立っていた。
白い上着の袖をまくり、最後の箱へ自分でも手を掛ける。船員が縄を締める間に、置いた位置を確かめていた。
最後の留め具が閉じた。
彼が片手を上げる。
笛が、もう一度鳴った。
「……え」
声が出た。
アニカの砂時計を見た。
上のガラスには、まだ砂が残っていた。
一度も、返していない。
俺たちが四箱を移した時は、空でも二回落ち切った。
三回目の途中まで掛かった。
箱の重さも船の形も違う。これだけで、正確に何分負けるとは言えない。
それでも、今の手際は分かった。
ルーガンが船員へ何か言う。
一人が笑いながら、首の汗を拭いた。
限界まで急いで、ぎりぎり出した時間には見えなかった。
リゼの指が、帽子の鍔に触れた。
今度は、潰さない。
「……速い」
「うん」
アニカが答えた。
悔しかった。
谷から部品を持ってきたことで、勝負にも一歩近づいた気になっていた。
相手はその間、もっと速くなろうとしていた。
戻ってこられたことに喜んでいい。アニカと一緒に、ちゃんと喜びたい。
でも、それだけで、あの二隻には勝てない。
俺は白い船の荷台を見た。
さっき箱を運んだ人が、今は縁に座って水を飲んでいる。
縄を解いていた人が、当て木を箱の横へ戻していた。
皆が全部をやっていたわけではない。
谷底でも、そうだった。
俺が旗から手を離して綱を引きに行ったら、誰が上に止まれと伝える。
「ひとつ、相談」
俺は、リゼたちへ向き直った。
「空箱で、もう一度やりたい。今度は、運ぶ人が最初から最後まで往復するのをやめる」
リゼが俺を見た。
「途中で渡す?」
「うん。後ろで縄を解く人と、運ぶ人を分ける。運ぶ方も、通りの途中で次の二人に渡す。長い道を、毎回端から端まで往復するのをやめたい」
俺は、後ろ、通りの途中、乗り口と指を折った。
「ただ、人を増やしたら、かえって通りが詰まるかもしれない。どこで渡せばいいか、一緒に見てほしい」
アニカが砂時計を伏せた。
「ヒバリには、まだ積めないよ」
「今日は、コハクから地面まで。五分で四箱、下ろしたい」
「じゃあ私が、下で見る」
彼女は左足を見てから、付け足した。
「椅子でね」
エダが頷いた。
「それなら、あたしも数える方に入れるよ」
リゼはコハクへ目を向けた。
家の間の通りを見て、前の乗り口へ視線を戻す。
「私、前の二箱をロクと持つ」
「リゼは、操舵室にいてほしい」
彼女がこっちを見た。
「本番では、船を止めたあと、すぐまた動かすだろ。荷物を運び終わるのを、下で待つ操船士にはできない」
言ってから、俺は少し息を吸った。
本人が手伝おうとしてくれたのを、断っている。
この船では俺よりずっと先輩だ。それでも、今日見たことを試すなら、そこは頼まなければいけない。
「最後の箱が下りたら、俺が合図する。その時、すぐ出せるところにいて」
リゼは、少し考えた。
それから左右の袖を、同じ高さへまくった。
「分かった。じゃあ、私を待たせないでね」
アニカの口が、にっと上がった。
*
船長は話を聞くと、コハクの通りを一度歩いた。
家の前に置かれた桶を見て、戻ってくる。
「今日は一回。空箱四つを下ろすだけだ。疲れた奴は、走るなよ」
「はい」
「ボルグ、縄だけ見てやってくれ。そのあとは修理へ戻れ」
俺たちは地上の借用機材を港へ返し、乗り口の周りを空けた。
ボルグさんが自船の空箱へ縄を掛け、手を抜けば軽い箱が滑ることを見せる。
固定の仕方を変えるのは、そのあとだ。
まずは、運ぶ人の動きを変えてみる。
後ろの荷置き場から、家の間の通りを抜け、前の乗り口へ。
箱を渡す場所は、通りの真ん中と、前の乗り口の二か所に決めた。
二人ずつ三組に分かれ、一つの箱を後ろから前へ、順に渡していく。
俺はロクを連れて、家の並ぶ通りの真ん中まで歩いた。
ここから後ろを向くと、荷置き場の四つの箱が見える。前を向けば、地面へ下りる渡し板を掛けた乗り口が見えた。
「最初の二人は、あそこからここまで運ぶ」
俺は荷置き場を指してから、自分の足元を示した。
「ロクたちはここで待ってて、箱を受け取ってほしい。二人で底を支えて、『持った』と声を掛けたら、運んできた組が手を離す。その二人は、次の箱を取りに戻る」
「で、俺たちは前へ運ぶんだな」
「うん。乗り口まで、一緒に歩いてみて」
ロクと並んで、家の間を前へ進む。
乗り口に着くと、足元から斜めに下りた渡し板の先に、港の地面が見えた。
「ここに、最後の二人が待ってる。その二人へ渡したら、ロクたちはさっきの場所へ戻る。板を下りて地面に箱を置くのは、最後の組の仕事」
俺は渡し板を指し、それから、歩いてきた通りを振り返った。
ロクたちが箱を前へ運ぶ間に、最初の組は後ろへ戻って、次の箱を持ってくる。
もう誰も、一つの箱を抱えて、船のいちばん後ろから地面まで歩き通す必要はない。
「渡したあと、俺たちはすぐ後ろへ戻っていいか?」
ロクに聞かれ、俺は通りの真ん中へ戻った。
受け渡しの場所に選んだ戸口には、桶と腰掛けが出ている。住む人に頼んで中へ入れてもらうと、壁に寄って二人が立てる場所が空いた。
「手を離した組は、まずこっちへよけよう。受け取った二人が箱を持って前へ進んでから、後ろへ戻ってほしい」
俺は壁際へ身を寄せ、空いた通りをロクに歩いてもらった。
渡す時には四人が集まる。手を離した二人が脇へ退けば、箱を受け取った組は、そのまま前へ出られる。
前の乗り口でも、渡し板の付け根を塞がずに二人がよけられるか確かめた。
ロクたちは箱を渡して脇へ退き、最後の組が板を下り始めたら、空手で通りの真ん中へ戻る。担当する距離を短くしても、受け渡すたびに人が詰まったら意味がない。
「俺たちは、真ん中で受け取って、乗り口で渡す。その間だけ往復すればいいんだな」
「うん。そこを頼む」
「それなら分かる」
彼が二本の指を額から払った。
俺は前の乗り口へ立った。
ここからなら、通りの箱も、地面のアニカも、操舵室の窓も見える。
リゼが窓を開けた。
「見えてるよ」
返事をしようとして、喉が少し熱くなった。
皆に頼んだのは俺だ。
あの白い船より速くなれる方法だと、言い切ることはできない。
それでも、俺たちが何もしないうちに、本番の日が来るのは嫌だった。
家も人も降ろせと言われた船で。
目の前にいる人たちと、あいつを負かしたい。
エダが地面の白線の外へ出る。
アニカはエダと船長に運んでもらった椅子へ座り、足を台に載せたまま、砂時計を持ち直した。
「四箱、全部ここ。落としたら、やり直しだから」
俺は頷いた。
赤い頭巾の向こうで、家々の戸が開いていた。
いつもの通りに、いつもそこで暮らしている人たちが、自分の持ち場を決めて並んでいる。
アニカが、砂時計を返した。
「始め!」
俺は、片手を上げた。
後ろの四人が、一斉に縄へ手を伸ばす。
最初の箱を二人が持ち上げ、通りの途中で待つロクたちへ運ぶ。
箱が次の二人の手へ移り、運んできた組は、すぐ後ろへ引き返した。
俺は操舵室へ目を向けた。
リゼは席に座ったまま、窓から通りを見ている。
あいつの目が丸くなったところで、二つ目の箱が、もう通りへ出てきた。




