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第十五話 谷底の六本脚

 谷底の船は、俺の掌に隠れた。


 指を少し広げると、茶色い船体と、左右へ突き出した鉄の脚が見える。

 あそこまで降りる。

 昨夜、自分から行くと言った場所だ。


 俺は手を下ろした。


 昨夜は、地図の石段を指でなぞっただけだった。

 あそこを歩く自分の足までは、考えていなかった。


「カイ。そこより先、出ないで」


 リゼに呼ばれ、半歩下がった。

 靴の先で、小さな白い石が転がる。崖まではまだ距離があったのに、その音だけで腹の奥が縮んだ。


 翌朝の、旧石切り場だった。


 港から上段の道を二十分ほど進んだところに、広い岩の平場がある。

 コハクは、その平場の内側へ停まっていた。前の乗り口から、地面へ渡し板が掛かっている。


 船の向こうでは、まだ暗い谷の縁に風車が並んでいた。

 羽根が一枚ずつ朝日を受け、白く光る。遅れて、木の軸のごとん、ごとんという音が届いた。


 目の前の谷は、底まで一枚の崖ではなかった。

 大きな階段のように、石を切り取った平らな段が幾つも続いている。いちばん下には雨水のたまった窪地があり、そこだけ、空より濃い青に見えた。


 その水のそばに、部品取りの船が置かれている。


 きれいだと思った。

 思ったすぐ後で、できれば上から眺めるだけにしてほしかった、とも思った。


「怖い?」


 隣で、リゼが俺の顔を覗いた。

 帽子の下で、灰緑の目がまっすぐこちらを見ている。


「……思ってたより、高い」


「うん」


「昨夜の俺に、一回これを見せたかった」


 彼女は少し笑いかけたが、すぐに口を閉じた。


「下へ行く人、替わってもらう?」


 断れば、怒るだろうか。

 そう考えてから、違うな、と思った。


 この子は本気で聞いている。

 俺が行けないと言えば、別の人に頼むつもりでいる。それで俺を笑うようなことはしない。


 だから、できるふりをして足場の途中で動けなくなる方が困る。


「最初に、歩き方を教わる。それで無理なら、ちゃんと言うよ」


 リゼが頷いた。


「そうして」


 俺はもう一度、下の船を見た。

 アニカの船へ付ける部品が、あそこにある。


 港を出る前、彼女は手当て所の戸口に座っていた。

 左足を台に載せ、緑の上着の袖から、布を巻いた手を出していた。エダさんが付き添って、今朝も診てもらうのを待っているところだった。


 俺たちが通ると、アニカは右手を上げた。


「お願い。持って帰ってきて」


 いつもの、急ぐ仕事を引き受ける時の声ではなかった。

 俺は頷いて、行ってくる、と返した。


 あの顔を見ている。

 船へ戻って、怖かったからやめたと伝えるのは嫌だった。


 でも、帰れなくなったらもっと困る。

 下りる道を知っている人の言うことは、全部聞こう。


「こっちだ。帯を合わせるぞ」


 ボルグさんが、コハクの渡し板の下から呼んだ。


     *


 港から借りた巻き上げ具は、腰の高さほどの鉄の台に載っていた。


 真ん中に、太い綱を巻く丸い胴がある。

 横の大きな手車を回すと、歯車が噛み合い、胴もゆっくり回る。運ぶための小さな車輪は、今は木の台に浮かせてあった。


 ロクと港の作業員が、岩へ埋め込まれた金具に最後の固定綱を張っている。

 作業員は二十代くらいの男で、太い眉の下に汗が光っていた。

 赤い頭巾の端が揺れるたび、ロクは口で息を吹いて追い払った。両手がふさがって、直せないらしい。


「カイ。俺の右。これ、引っ張ってくれ」


 俺が頭巾の端を襟の内へ入れると、ロクは大きく息を吐いた。


「助かった。さっきから鼻ばっかり撫でやがる」


 少し笑えた。

 こういう困り事なら、俺にもすぐ片づけられる。


 綱は、機械から崖の方へ延びていた。

 その先に、太い鉄の柱が二本立っている。柱をつなぐ短い腕が崖の外へ突き出し、先端には溝のある車輪が付いていた。


「あの車輪に通して、下へ降ろす」


 ベッケさんが指した。

 薄い白髪を朝の光が透かし、銅枠の眼鏡の奥で目が細くなった。


「昔、切った石をここへ揚げてた場所だ。巻く機械だけ、よそへ移してある」


「柱は、使えるんですか」


「根元も腕も見た。その部品と台を吊るには、十分な強さがある。固定をもう一度確かめてから、使う」


 彼は俺に説明した後、柱の足元へしゃがんだ。

 岩へ留められた太い金具を、港の作業員と一緒に確かめている。


 昨夜壊れた索道は、谷から港まで荷を運ぶためのものだった。

 今日はその代わりに、下の石切り場からこの平場へ引き上げ、コハクへ積んで港まで戻る。


 船を崖へ寄せて、脚の力で引くわけではない。

 そう分かると、少しだけ息がしやすくなった。


「ここへ足を通せ」


 ボルグさんに言われ、俺は厚い帯の輪へ片脚ずつ通した。

 腰と腿を包む作業用の帯だった。金具を留めてもらい、引っ張られると、ズボン越しにぐっと締まる。


「手袋は」


「あります」


 借りた革手袋を見せる。

 掌のところだけ、色の違う革が重ねてあった。


 ボルグさんは指先を押し、俺の手に合うか確かめた。


「道具は落とすな。落としたら、取りに手を出すな」


「はい」


「両方、覚えとけ」


 顔を上げると、四角い顎に灰色の剃り残しが見えた。

 昨夜、あの人も遅くまで台帳を見ていた。それでも朝飯を食べ、荷を積み、もう下へ行く支度を済ませている。


 俺も寝たはずなのに、まだ肩が重い。

 今ここで欠伸が出ないのは、たぶん高さのせいだ。


「下は三人だ。俺が先、ボルグが次。あんたは最後」


 砂色の胴着を着た男が、俺の前へ来た。

 四十代くらいで、黒髪を短く刈っている。鼻筋が少し曲がり、日に焼けた首は胴着の襟より赤かった。


「港の荷役をやってるヘルトだ。ここでも石を揚げてた。足場は俺が見る」


「カイです。工具を運ぶ手伝いで来ました」


「分かった。怖くなったら、先に言え」


 さっそく言おうかと思ったが、それでは一歩目からになる。


 俺は下り口へ目をやってから、正直に頼んだ。


「木のところ、足の置き方を見せてもらえますか。こういう場所は、初めてです」


「いいぞ。俺の通ったところへ置け。一度に渡らなくていい」


 あっさり言われた。

 それだけで、やることが一つになった。


 谷底へ無事に降りる、と考えると遠すぎる。

 前の人が足を置いたところへ、自分の靴を置く。それなら試せる。


 ロクが詰めてくれた水袋を工具と一緒に入れ、袋を背負った。

 リゼが後ろへ回る。


「待って。こっち、ねじれてる」


 肩の帯が引かれ、首への当たりが軽くなる。

 振り向くと、彼女は指先で平らにした帯を押さえていた。


「これで、擦れにくいと思う」


「ありがとう」


 こんな時に近くに立たれると、困る。

 顔を見ていたいのに、これからは足元だけ見なければならない。


 俺が礼を言った後も、リゼの手は少し残った。


「私、上にいるから」


「うん。戻ったら、昼飯にしよう」


「ロクに取っておいてもらう」


 今度は、ちゃんと笑った。

 その顔を見て、俺も笑えた。


 オルド船長が、下り口へ来た。


「下からの合図が見えなきゃ、こっちは動かさん。無理に急ぐなよ」


 腰の鍵束を、太い指で握っている。

 金属の触れ合う音が止まった。


「はい。行ってきます」


     *


 石段は、崖の壁に沿って下へ曲がっていた。


 片側は白い岩。

 もう片側には、何もない。


 俺は壁の側へ身体を寄せ、前を行くボルグさんの背中を追った。

 手袋の中で汗がにじむ。冷たい朝なのに、背負った工具袋の下だけが熱かった。


 足を一段下ろすたび、袋の中で金具が触れた。


 かち。

 かち。


 その音が、壁の先から少し遅れて返ってくる。


 途中の木の足場へ来た時、ヘルトさんが止まった。


 石段が途切れ、崖へ打ち込まれた支えの上に板が渡されている。

 長さは数歩ぶん。幅は、俺の靴を二足並べたくらいしかなかった。

 外側には、柵も綱もない。


 壁側には、手を掛ける綱が張ってあった。

 ヘルトさんが引いて確かめ、俺たちの帯につないだ綱も一人ずつ見た。


「一人ずつ来い。向こうで待つ」


 彼の靴が板へ載った。


 ぎ、と音がした。


 俺は足を止めた。

 頭では、今のは板が鳴っただけだと分かっている。目の前の男は落ちていないし、板も外れていない。


 それでも、膝が次の動きを嫌がった。


 現実の高い場所へ行く機会なんて、ほとんどなかった。

 仕事帰りに電車へ乗り、家へ帰って、夜は仲間と遊ぶ。画面の中なら、崖の上に道を見つければ真っ先に行った。


 あそこから何が見えるだろう。

 どうやって上るんだろう。


 その時の俺に、この膝を貸してやりたかった。

 きっと少しは慎重になったと思う。


 ヘルトさんが渡り切った。

 次にボルグさんが進み、向こうの石へ足を置く。


 俺の番になった。


「カイ。最初の板、真ん中だ」


 向こうから指されたところへ、右足を出す。

 板の真ん中が、ほんの少し沈んだ。


 下は見ない。

 靴を見る。次の板を見る。


 一歩進んだ時、肩の袋が壁へ触れた。

 こつ、と工具が鳴り、身体が外側へ押された気がした。


 俺はその場で止まった。


「止まりました」


「ああ。背中をこっちへ向けるな。袋は、そのままでいい」


 ヘルトさんの声は変わらなかった。

 彼にとっては、まだ慌てる場面ではないらしい。


 俺は息を吐き、肩を少し戻した。

 袋が岩から離れる。


 次の一歩。

 もう一歩。


 石に載った靴の底が、木の時とは違う硬い音を立てた。


 渡り終えた。


「よし。そこ、少し広い。息を整えろ」


 俺は壁へ背中を預けた。

 手袋をした手が、まだ綱から離れなかった。


 ボルグさんが、俺の工具袋を軽く持ち上げる。


「どこか引っかけたか」


「いえ。ぶつけただけです」


「ならいい」


 それ以上、急げとも、怖がるなとも言わなかった。


 俺はようやく綱から手を離した。

 格好はつかなかったと思う。でも、工具を落とさずに渡れた。


 誰にも迷惑を掛けないように、というのは無理だった。

 さっきから二人に待ってもらっている。


 だから、待ってもらったぶん、下で働こう。

 今の俺にできるのは、それくらいだ。


     *


 石切り場のいちばん下へ着く頃には、朝日が谷の途中まで差していた。


 さっき頭の上にあった木の足場が、白い壁に貼りついた細い線に見えた。

 あそこを歩いたのか。


 もう一度見たら足が震えそうだったので、目を前へ戻した。


 水溜りのそばには、小さな黄色い花が咲いていた。

 石の割れ目に土がたまり、そこから草が伸びている。風車の並ぶ町を出て、こんな場所へ来るとは思っていなかった。


 近づくと、水は青くなかった。

 底の白い石が透け、上の空が映っている。縁でしゃがんで手袋を外すと、指先に触れた水は、眠気が飛ぶほど冷たかった。


「飲むなよ。石の粉が沈んでる」


 ヘルトさんに言われ、俺は手を引っ込めた。


「触っただけです」


「じゃ、先に行くぞ。船はこっちだ」


 顔を上げると、少し笑っていた。


 俺も立ち上がった。

 足は疲れている。でも、ここへ降りてきてよかったと思い始めていた。


 ゲームでも、目的地へ急ぐ仲間を待たせて、見晴らしのいい場所を探すことがあった。

 今なら、待たされる方の気持ちも分かる。


 俺は二人に追いついた。


 部品取りの船は、水溜りから離れた平らな石の上にあった。

 ヒバリより少し長い、低い荷台の船だ。茶色くなった板の端に、昔の青い塗料が残っている。


 左右の脚は地面へ広げたまま、動かない。

 船腹の下には、石と木を重ねた台が入っていた。


 近づいても、機関の低い震えが聞こえなかった。


 昨日までなら、船を見たらまず歩くところを想像した。

 でも今は、静かすぎることが気になった。


 コハクでは部屋にいても、床から低い音が伝わってくる。

 あれがなくなると、同じ六本脚でも、ずいぶん違って見える。


「ここ、前は蓋があったんですか」


 俺は荷台の前にある、四角い穴を指した。


「動かす機械を、そこから抜いた」


 ヘルトさんが答えた。


「荷が載るところは低くしてある。石は重いからな。こいつがいた頃は、あっちの段でも切ってた」


 向こうの壁には、途中まで削られた四角い跡が残っていた。


 ボルグさんが、船の左後ろへ回る。

 俺も後を追い、工具袋を、広げられた布の上へ置いた。


 太い脚の根元に、丸い軸が見えた。

 その周りを、厚い鉄の金具が囲っている。

 昨夜、ヒバリでは割れていたところだ。


 ボルグさんは紙を出し、金具へ顔を近づけた。


 印を見て、測る。

 穴の位置を確かめ、もう一度、紙へ目を落とす。


 俺は口を開きかけて、閉じた。

 使えますか、と聞きたい。聞いたところで、まだ見ている途中なのは分かっている。


 返事が欲しい時ほど、相手が返事を作っている時間を邪魔しやすい。

 仕事で何度かやった。頼んだ五分後に様子を聞きに行って、結局また説明させたこともある。


 代わりに、俺は布の端を直した。

 置かれた工具が、石の方へ転がらないようにする。


 ボルグさんが、細い金具を一本外した。

 脚の根元の小さな蓋が開き、内側から黒い油が指へつく。


 彼は布で拭き、灯りを寄せた。

 溝の奥まで見てから、短い鉄の棒で、場所を変えて叩く。


 こん。

 こん。


 高いところで鳴る風車の音とは違う、近くて詰まった音だった。

 俺にも聞こえる。でも、それで傷が分かるわけではない。


「型は合う」


 ボルグさんが言った。


 俺は顔を上げた。


「使えますか」


「外して、軸の隠れたところを見る。今、見えるところに割れはない」


 まだ全部ではなかった。

 それでも、肩の力が少し抜けた。


 同じような形をしただけの鉄ではない。

 ヒバリへ付くものが、目の前にある。


「何を持ちますか」


 俺が聞くと、ボルグさんは右の耳たぶを引いた。


「先に、あの台をこっちへ。脚を支える」


     *


 上から、綱が下りてきた。


 鉄の腕の先で車輪が回り、綱が少しずつ延びる。

 地上から聞いていた時には小さかった歯車の音が、谷へ入ると、壁の間で重なって聞こえた。


 船の左側から数歩離れた平場で、ヘルトさんが綱を受け取る。ここが荷揚げの場所だった。

 その後に、部品を載せる木の台と、二本の細い綱、台を転がすための丸い棒が下ろされた。


 太い綱は、重さを持つため。

 細い二本は、吊った台が回らないようにするためだと教わった。


 俺は台材を運び、ヘルトさんと一緒に脚の下へ入れた。

 ボルグさんが位置を確かめてから、留め具を外していく。


 一つは、なかなか動かなかった。


 柄を引くボルグさんの腕に、太い筋が出る。

 鉄が、き、と嫌な音を立てたところで、彼は手を止めた。


「油」


 言われた小瓶を渡す。

 留め具の隙間へ垂らし、少し待つ。


 俺は上を見た。

 日が当たる場所が、さっきより下へ広がっていた。


 早くしてほしい。

 そう思っているのを顔に出したくなくて、船の方を向いた。


 ボルグさんは気づいたらしい。


「折ったら、余計に掛かる」


「……はい」


 図星だった。


 使えるかもしれない部品を、自分たちで壊したらどうする。

 昨夜、直せるかと聞いたアニカに、誰もすぐ答えられなかった。その時間を、もう一度増やしたいわけじゃない。


 俺はしゃがみ、外した留め具を布の上へ順に並べた。


 待つ間に、俺は袋から水を出して、ボルグさんへ渡した。

 彼が飲んだ後、俺も一口もらう。口の中に入っていた細かい石の粉が、ようやく流れた。


「上へ、まだ動かさないように知らせましょうか」


「そうしてくれ。巻く支度は、まだだ」


 俺はヘルトさんと、船から離れた明るい場所へ出た。

 上から俺たちが見えるように、そこを合図の場所と決めていた。


 ヘルトさんが赤い旗を広げる。

 上の鉄柱のそばでも、赤い旗が上がった。


「あれは、分かったってことだ。向こうが見せるまで、下ろすな」


「向こうが見えなかったら?」


「何も上げん。止めたままだ」


 ヘルトさんは旗を巻き、もう一本の白い旗を指した。


「白を頭より高く上げたら、巻け。腰より下で振ったら、下ろせ。俺が荷を見てから合図を頼む」


 ヘルトさんは実際に旗を動かして見せた。

 俺は同じ動きをして確かめる。早く覚えたふりをする必要はない。間違えれば、あの重い部品が動く。


 俺は一度、自分で赤い旗を広げてみた。

 太い柄を両手で持つ。

 上から同じ色が返り、そこで下ろした。


 コハクも見えた。


 白い岩の向こうから、家の屋根が幾つか突き出していた。

 船体は崖の奥で見えない。けれど、見覚えのある屋根の並びで、そこだと分かった。


 リゼも上にいる。

 今の旗を見ただろうか。


 手を振りたくなったが、やめた。

 仕事の合図を決めたばかりだ。余計なことをして、何か知らせたいのかと思わせたくない。


 俺は旗を持って、船へ戻った。


 しばらくして、留め具が動いた。


 ぎり、と低い音がして、ボルグさんの肘が下がる。

 もう一度回すと、今度は滑らかに回った。


「取れた」


 俺まで息を吐いた。


 軸を抜く時は、ヘルトさんが支えの位置を見た。

 俺は言われた木を持ち、空いたところへ差し込む。重さが掛かる前に、二人とも手を離した。


 太い鉄が、ゆっくり台へ載った。


 ごん、と腹に響く音がした。

 石の壁が、少し遅れて同じ音を返した。


 受け金と軸は、思っていたより大きかった。

 抱えて階段を上る話ではないと、持ち上げるまでもなく分かった。


 ボルグさんは隠れていた部分を拭き、指を添えて調べた。

 穴を測る。軸を転がす。

 俺とヘルトさんが、転がしすぎないよう木で止める。


 いつもなら何でもない数息が、長かった。


 ボルグさんの指が止まった。

 俺は、その顔を見た。


「使える。ヒバリへ付けられる」


 思わず、笑ってしまった。


「本当に?」


「ああ。港で洗って、合わせるところを仕上げる」


 俺は木を押さえたまま、下を向いた。

 笑った口が閉じられなかった。


 あった。

 昨夜は紙の中にしかなかったものが、ここにあった。


 アニカに言える。

 リゼにも、ちゃんと使えるものを見つけたと伝えられる。


 足場を渡る時には、もう二度とこんな仕事は引き受けないと思っていた。

 今は、来てよかったとしか思えなかった。


「よく運んだな」


 ボルグさんが、俺の足元の工具袋を見た。


 ほんの短い言葉だった。

 でも、胸の辺りが急に熱くなった。


「上まで、持って帰りたいです」


「そのための綱だ。ヘルト、掛けるぞ」


     *


 部品を木の台へ載せ、ボルグさんとヘルトさんが固定した。

 台の下へ丸い棒を入れ、三人で少しずつ転がして、荷揚げ綱の真下へ運ぶ。俺は前へ回り、平らな石を選んで棒を置いた。


 ヘルトさんが台の下から太い綱を回し、上から来た綱へつなぐ。

 ヘルトさんは二本の細い綱を、台の左右へ結んだ。


 俺は、邪魔になる工具と丸い棒を船の脇へ運んだ。

 下ろしておいた赤と白の旗を持ち、合図の場所へ戻る。


 靴に細かな砂が当たった。


 顔を上げると、水溜りに細い波が走っていた。

 さっきは映っていた崖の白い線が、崩れている。


 風が出た。


 ヘルトさんも水面を見ていた。

 次に、吊り台と、頭の上の鉄の腕を見比べる。


「まず少し浮かせる。回りそうなら、下ろす」


 ボルグさんが頷いた。

 二人は部品の下から離れ、細い綱を持って、台の左右へ分かれた。


 俺も台の真下にはいない。

 少し外側の、上から見える石の上へ立った。


 ここからなら、ボルグさんの手も、荷物も、上の旗も見える。


「カイ。白」


 俺は白い旗を上げた。


 上でも白が広がる。

 それを見てから、ヘルトさんへ頷いた。


 から、から、から。


 歯車の音が、頭の上で始まった。

 地面にたるんでいた太い綱が、ゆっくり伸びる。

 部品を載せた台が、石から離れた。


 人の膝くらいの高さで、ヘルトさんが片手を上げた。

 俺が赤い旗を広げると、上からも赤が返り、台が止まる。

 ボルグさんが台の横から固定を見て、ヘルトさんへ合図した。


「いい。上げろ」


 俺は赤い旗を下ろし、白を高く掲げた。


 木の台が、今度は俺の胸を越え、頭より高いところまで上がる。

 ボルグさんとヘルトさんは細い綱を持ち、台が回らないよう歩く位置を変えていた。


 上から下へ、太い綱がまっすぐ延びている。

 その先で、ヒバリへ付ける部品が上がっていく。


 これが港へ戻れば、修理が始まる。

 アニカは、また自分の席に座れるかもしれない。


 そうなったら、あの白い二隻ともう一度走る。


 勝ちたい。

 ルーガンの前で、こっちの二隻が先に戻るところを見たい。


 その時、谷の奥で低い音がした。


 風車の軸ではなかった。

 壁に沿って草が倒れ、石の粉が白く流れてくる。


 俺は旗を持つ手に力を入れた。


 木の台が、横を向いた。


 ヘルトさんが細い綱を引く。

 ボルグさんも足を開き、もう一本を張った。


 台の角が戻りかける。

 そこへ、もう一度風が当たった。


 平場の奥にそそり立つ岩壁には、人の背より高いところに、削り残された出っ張りがあった。

 揚がっていく綱はそこから離れていたはずなのに、今は、木の台の角が近づいている。


 重い鉄が載っている。

 あそこへぶつけたら、固定した部品ごと台が傾く。


 俺は白い旗を足元へ置き、赤い旗を掴んで広げた。


「止めて!」


 叫んだ声は、風に押し返された。

 届くかどうかではない。旗を見てもらうしかない。


 上の鉄柱のそばに、赤い色が見えた。


 歯車の音が止まった。

 綱は、もう巻き取られていない。


 それでも木の台は、風に押されて岩の角へ振れていった。

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