第十四話 相棒は替えない
アニカが、荷台の前へ跳んだ。
その背後へ、鉄の籠が食い込んだ。
緑の小屋根がひしゃげ、柱が根元から折れる。積まれていた鉄枠が幾つも重なって落ち、耳の奥が痛くなるような音を立てた。
ヒバリの後ろが、沈んだ。
「アニカ!」
俺はコハクの渡し板を駆け下りた。
緑の船は、岸壁に沿って停まっている。左が谷、右が港の広場。その右側へ、アニカの赤銅色の髪が消えた。
飛び下りたのだ。
地面を蹴った。
すぐ横を、リゼが走る。
ヒバリの後ろから、木が裂ける音が続いていた。
下りてきた荷籠は、半分を潰れた荷台へ載せたまま止まっている。上へ延びた綱が、ぎりぎりと鳴った。
「近寄るな! 荷の下を空けろ!」
港の男が叫んだ。
俺たちは船首の方へ回った。
アニカは、操舵室の脇の地面に倒れていた。膝を曲げ、両手で身体を起こそうとしている。
左の足首のすぐ上に、折れた木が載っていた。
小屋根の横木だ。片端を地面へ突き、もう片方で彼女の脚を押さえている。
「足、抜けない」
顔が白かった。
俺はしゃがみ、木の端を掴んだ。
上がらない。
握り直して力を込めても、アニカの靴が少し動いただけだった。
「止めて。端が引っかかってる」
リゼが反対側へ回った。
折れた木の先が、船から垂れた屋根布を巻き込んでいる。
彼女は布を引いた。
裂けたところを大きく開き、木から外す。
「これで、持てる!」
「そこの二人! こっちの木を上げてください!」
荷受け場から来た男たちへ、俺は手を振った。
紺色の服を着た、四十歳くらいの男がこちらを見た。隣の若い男の肩を叩き、二人で駆け寄ってくる。
「俺たちで持つ。あんたは娘の肩を」
「お願いします」
場所を譲り、アニカの後ろへ回る。
リゼが彼女の左足を見ていた。
「上がったら、まっすぐ引いて。私が木を見てる」
アニカが頷いた。
腰の書類入れが、地面に擦れた。
「せえの!」
木が持ち上がる。
俺は両脇から彼女を抱え、後ろへ引いた。
アニカが息を詰めた。
靴の踵が、折れた木の下から抜ける。
「出た!」
リゼの声で、俺はもう一歩下がった。
男たちが木を横へ倒す。地面へ落ちた音に、アニカの肩が跳ねた。
直後、ヒバリの向こう側で、低い金属音がした。
ごん。
ヒバリの荷台が、俺たちから遠い側へ傾いた。
緑の船腹の下で、鉄が石を引っかく音が続いた。
アニカが、俺の腕の中で振り返った。
「待って、脚が」
「アニカ、今は離れよう」
リゼが彼女の右腕を自分の肩へ回した。
俺も反対側を支える。
アニカは一度、左足を地面につこうとした。
すぐに顔を歪めた。
「そっちは浮かせて。俺たちにつかまって」
三人で、荷受け場の石壁まで下がった。
港の人たちが、俺たちと船の間へ縄を張り始める。
船長の声がした。
残っている人はいないか、船の反対側も確かめろ、と言っている。
索道の動く音は、もう止まっていた。
さっきまで何度も谷を渡っていた、からん、からん、という音。
それが消えた港で、ヒバリの木だけが、まだ小さく軋んでいた。
*
荷受け場の壁際に、長椅子を出してもらった。
アニカを座らせると、リゼはその前へ膝をついた。
左の靴を脱がせようとして、手を止める。
「ここ、腫れてる」
「誰か、診られる人を呼んでくる」
俺が立ちかけると、エダさんが来た。
首の巻き尺は外してある。腕に清潔な布と、水の入った桶を抱えていた。
「手当てのできる人が来るよ。あんたたちは、まず息をしな」
言われて初めて、息を詰めていたことに気づいた。
息を吐くと、喉の奥が痛かった。
アニカの左手から、血が垂れた。
掌の端を擦りむいていた。
本人は、まだ気づいていないようだった。書類入れの留め金へ指を掛け、開けようとしている。
「それ、後でもいいだろう」
エダさんが布を出す。
アニカは首を振った。
「札、折れてないかだけ」
リゼが代わりに留め金を外した。
登録札。
何枚かの配達の紙。
革に包まれた中身を一つずつ確かめ、彼女へ見せる。
「大丈夫。全部あるよ」
「……うん」
アニカの右手が、今度は隣の小袋へ伸びた。
五分の砂時計。
袋から出すと、ガラスにひびはなかった。逆さになったまましまわれていたのか、細い砂がまだ落ちている。
アニカは、それを見ていた。
「これは、割れてない」
アニカはガラスの両側を、右の指で確かめた。
何度も向きを変え、端まで見ている。
俺は、その手から目を上げた。
ヒバリの荷台に、壊れた屋根が垂れ下がっていた。
アニカはそちらを見ず、小さな砂時計を丁寧に拭いていた。
向こうで、白い上着が動いた。
ルーガンが自分の船員二人と、港の太い縄のたるみを取っている。
先は、作業員が長い鉤竿で荷籠へ掛けたものだった。籠がもう一度振れないよう、地面に据えた鉄の輪へ留めている。
ボルグさんもヒバリの前にいた。
港の作業員へ何か指し、厚い木の支えを運ばせている。
俺は立った。
「手を貸してくる。ここにいて」
アニカが顔を上げた。
「動かせるか、聞いて」
頷きかけて、止まった。
「見てもらう。分かったら、すぐ戻る」
彼女は砂時計を袋へ戻した。
留め金は、鳴らなかった。
*
空が暗くなるまで、荷を外す作業は続いた。
港の大きな吊り上げ機を使い、鉄枠を一本ずつヒバリから降ろす。
長い腕の先で鎖が張り、歯車が、かち、かち、と重く鳴った。荷が船から離れるたび、下に入れた木の支えをボルグさんたちが確かめる。
俺とロクは、外へ運び出された屋根の木を、邪魔にならない場所へ積んだ。
緑の塗料が手についた。
最後に荷籠を吊り上げると、ヒバリの荷台が見えた。
左の後ろが、潰れていた。
屋根は半分なくなり、床板の間から、曲がった鉄の骨が突き出している。
俺は持っていた木を、そっと置いた。
昼には、あそこに壺の箱が載っていた。
荷台が低いから、アニカと係の二人で簡単に降ろせると聞いた場所だ。
「この船の船長は、どこだ」
聞かれて振り向いた。
五十代くらいの男が、灯りを持って立っていた。
薄い白髪に銅枠の眼鏡。紺の前掛けには、灰色の粉がついている。
「俺じゃありません。あそこの、緑の上着の人です」
「分かった。ベッケだ。港の整備を預かってる」
男は荷受け場の方へ顎を向けた。
「船の周りにいた者は全員見つかった。手当てが必要なのは、あの船長だけだ」
俺は頷いた。
胸の奥で、詰まっていたものが少し動いた。
「直せますか」
「今から見る。灯りを、こっちへ持ってくれ」
俺は彼の後ろから、ランプを掲げた。
ヒバリの左後ろに、木を積んだ支えが入っている。
ベッケさんは船の下へ潜らず、横から折れた脚の根元を照らさせた。
丸い鉄の軸が、斜めに曲がっていた。
それを囲んで船腹へ留める金具は、端から真ん中まで割れている。
ボルグさんが、その割れ目を指した。
「こっちまで来てる」
「うん。受け金ごと替える」
ベッケさんは前掛けから布を出し、地面へ広げた。
外した小さな蓋と留め具を、取った順に並べる。
「脚を身体へつなぐところだ。ここが割れたままじゃ、立たせられん」
俺にも分かるよう、二つの部品を手で示した。
「屋根と荷台は木を替える。曲がった骨も直せる。だが、この受け金は継ぎ当てじゃ駄目だ。走れば、また割れる」
「同じものは、ありますか」
「倉を当たる」
彼はそばの作業員へ、金具に打たれた印と数字を読み上げた。
作業員が紙へ写し、荷受け場の裏へ走っていく。
俺は、その足音が遠くなるまで待った。
アニカのところへ戻ると、左足を低い箱へ載せていた。
足首には布が巻かれ、掌にも白い当て布がある。手当てに来た人は、今夜は左足へ体重を掛けず、明日の朝にも診せるよう言ったそうだ。
リゼが椅子の横に立っていた。
俺はしゃがんで、二人へ話した。
屋根と荷台は直せる。
脚の付け根は、部品を替えなければならない。
「今、同じものを探してもらってる」
「いつまでに、直る?」
アニカが聞いた。
答えられなかった。
*
ランプがもう二つ運ばれてきた頃、ベッケさんが戻った。
手には、一枚の紙しかなかった。
「港の倉には、なかった。近くの修理屋にも、同じ寸法はない」
アニカが、箱に載せていた足を動かした。
痛かったのか、すぐに止める。
「作れば?」
「鋳型から作って、削って合わせる。工房が明日すぐ取り掛かっても、八日はみてくれ」
「五日後」
小さな声だった。
「競走、五日後なの」
ベッケさんは頷いた。
「聞いてる」
船長が、俺の後ろへ来た。
灰色の上着の肩に、細かい木屑がついている。
「港として、どうする」
「索道の荷が壊した船だ。修理はこちらで持つ。人手と、今夜置く場所も用意する。止まっていた船の船長に、払わせる話じゃない」
ベッケさんは、アニカをまっすぐ見た。
「ただ、五日で仕上がるとは言えん」
アニカは返事をしなかった。
遠くの酒場から、笛と手拍子が聞こえた。
誰かが歌っている。祭りの幕は、事故のなかった通りで、いつものように揺れていた。
俺はその音が、やけに遠く感じられた。
「替えの船を借りる手はある」
ルーガンだった。
袖には黒い汚れがつき、口髭の片側が乱れている。こちらへ来ながら、指でそれを揃えた。
「小口の運びをやってる奴なら、今夜の宿に何人かいる。組み直すにも、まだ日があるだろう」
リゼが顔を上げた。
「アニカが、別の船で?」
「貸す方が、怪我した娘に初めての船を操らせると思うか。船長ごとだ」
俺は、思わず相手を見た。
それは、アニカを外すという話だった。
ルーガンはリゼへ言った。
「勝ちたいなら、今度こそ相棒を選べ。走れん船を待っても、速くはならん」
リゼの両手が、袖口を掴んだ。
まくり直さず、握っている。
「まだ、直す方法を探してる」
「探してる間にも、他の船は練習する」
男はそれだけ言い、船長へ、使った縄を港へ返すと伝えた。
白い背中が、吊り上げ機の方へ戻っていく。
俺は口を開いたが、リゼが先にアニカの前へしゃがんだ。
「足、痛む?」
アニカは、その目を見なかった。
「リゼ」
「うん」
「ほかの船、探して」
リゼの指が、袖から離れた。
「私が言えば、いいんでしょう。ヒバリじゃ、もう間に合わない」
アニカは腰の書類入れを開いた。
白い当て布のある手で、登録札を抜こうとする。角が引っかかり、一度では出てこなかった。
リゼが手を伸ばした。
手伝うのかと思った。
彼女は札を押し戻した。
「嫌だ」
短い返事だった。
アニカが顔を上げる。
「負けたくないって、言ってたじゃない」
「だから、あんたと出るんだよ」
リゼの声も、少し震えていた。
「今日、最初に戻ったの、誰だった? 私、あの緑の船がもう着いてるのを見たんだよ。私が早く戻れば勝てるって、思ったんだよ」
「でも、その船が」
「壊れた。見てるよ」
言って、息を吸う。
「だから直したい。あの人に馬鹿にされたコハクと、ヒバリで勝ちたいの。ほかの船とじゃ、嫌なの」
アニカの口が、かすかに開いた。
言葉にはならなかった。
リゼは、彼女の手から離れた。
札は書類入れの中に残っていた。
「私が遅くても、替えないって言ってくれたでしょう。私だって、そうするよ」
アニカの目から、涙が一つ落ちた。
すぐに右手で拭った。
その手が、また書類入れへ戻る。
「……ずるい」
声が詰まった。
「そんなこと言われたら、諦められないじゃない」
リゼは頷いた。
灰緑の目の縁も、赤くなっていた。何度も頷いて、口をぎゅっと結んでいる。
俺は、ベッケさんへ向き直った。
「ひとつ、相談です」
指を一本立てた。
手には、まだ緑の塗料がついていた。
「新品でなくても、同じ部品なら使えますか。古い船から外したものとか」
「傷と摩耗を調べてからならな」
「港に泊まってる船だけじゃなくて、動かしてない船も探したいです。どこへ行けば、分かりますか」
ベッケさんは、すぐに答えなかった。
眼鏡を押し上げ、手の紙を見直す。
「古い船の台帳は、俺の詰所にある」
「見てもらえますか。片づけの人手が足りないなら、俺が残ります。ボルグさんにも、一緒に見てほしいです」
ボルグさんは、もうこちらへ歩いていた。
「その印、俺も昔見た覚えがある」
右の耳たぶを引き、ヒバリへ目をやる。
「脚の大きさだけじゃ選べん。取り付ける穴の位置も要る。測ってから行く」
ベッケさんが頷いた。
「人手は、港の者で足りる。あんたは船長のそばにいてくれ」
俺を見て、それからアニカを見る。
「使えるものがあれば、持ち主も含めて当たる。今夜のうちに、分かるところまで調べる」
「お願いします」
頭を下げると、隣でも帽子が揺れた。
リゼが、俺と一緒に頭を下げていた。
*
ヒバリは、支えを入れた場所で夜を越すことになった。
折れた床を大きな布で覆い、周りの縄には灯りが掛けられた。
アニカはその前へ、もう一度連れていってほしいと言った。
肩を貸して近づくと、荷台の低い縁へ右手を置いた。
爪の下へ、緑の塗料が剥がれて入る。
「今朝、ここ拭いたのに」
それだけ言った。
俺は彼女の肩を支えたまま、待った。
リゼも、何も言わなかった。
支えの位置を確かめた作業員が、無事だった荷台の前端の箱から、小さな袋を取ってきた。
アニカの着替えと、丸めた毛布だという。
受け取ろうとした彼女の手より先に、リゼが袋を持った。
「今夜は、私の部屋に来て」
「でも」
「寝台を使って。私は下に毛布を敷くから。足を下ろさずに済むようにする」
アニカは少し迷い、頷いた。
コハクへ戻る渡し板では、ロクが上から下りてきた。
アニカの足を見ると、俺たちの背後へ回る。
「段差だけ、椅子で上げるか。人、呼ぶぞ」
「それ、余計に恥ずかしい」
アニカが初めて、顔をしかめて返した。
「転ぶよりましだろ」
「……そうだけど」
結局、渡し板の下へ椅子を持ってきてもらった。
俺とロク、船長ともう一人で、座ったままの彼女を上まで運んだ。
リゼは左足がぶつからないよう、前で見ていた。
船に並んだ家の戸が、幾つも開いていた。
エダさんが、寝台へ敷く布を抱えて立っている。
奥の炊事場では、鍋の蓋が鳴った。
「飯、温め直したぞ」
ロクは椅子を置くと、赤い頭巾を結び直した。
「俺の分は?」
「取ってあるよ」
エダさんの返事に、彼は大きく息を吐いた。
「よかった。昼から、壺と木しか運んでねえ」
少しだけ笑いが起きた。
アニカも笑いかけたが、すぐに下を向いた。
人が通りに出ている。
皆、自分の夕飯も途中だったのに、布や水や椅子を出してくれる。
俺はルーガンが窓を見上げて言った言葉を思い出した。
住人も下ろせ、と。
リゼが俺の袖を引いた。
「カイ。ボルグ、まだ戻らないね」
「調べてくれてる。待とう」
彼女は頷き、袖をつまんだ手を離した。
その指が、冷たかった。
「何か、持っていこうか。ご飯」
「船長に場所を聞こう。俺、運ぶよ」
「私も行く。……その前に、あの子を部屋まで」
リゼは俺の客室の隣、乗り口から見て左側の二軒目の戸を開けた。
中には幅の狭い寝台と、壁際の小さな机が見えた。
エダさんと話しながら、寝台の脇にあった箱を動かす。アニカの足をぶつけず、椅子を横へ寄せる場所を作っていた。
俺は鍋を覗くロクへ、ボルグさんたちの分も残してほしいと頼んだ。
芋は、ずいぶん柔らかくなっていた。
それでも一口食べると、腹が急に空いた。
*
ボルグさんが戻ったのは、三人分の食事を包み終えた時だった。
ベッケさんも一緒だった。
脇に、厚い台帳を抱えている。
俺は、皿を置いた。
「見つかったんですか」
「同じ型を使った船が、一隻ある」
立ち上がった拍子に、椅子が床を擦った。
リゼが戸口から出てくる。
「使える?」
「現物を見るまでは、そこまでは言えん」
ベッケさんは机へ台帳を広げた。
脇へ置いたランプが、古い紙を黄色く照らす。
アニカも、リゼに支えられて部屋から出てきた。
船長が椅子を引き、足を載せる箱を添える。
皆が机の周りへ寄った。
ベッケさんが、一隻の船の絵を指した。
俺には文字が読めない。ただ、横へ並んだ脚の図が、ヒバリのものによく似ているのは分かった。
「港が持ってる、石切り場の運搬船だ。動かす機械は外してあるが、脚は六本残した。部品取りにするためにな」
「この印。同じだ」
ボルグさんが、手元の紙を並べた。
ヒバリから写してきた数字と、台帳の数字を指で追う。
「左後脚の受け金も軸も、同じ型だ。割れや減りがなければ、ヒバリへ付けられる」
アニカの右手が、机の縁を掴んだ。
「その船、誰に頼めば」
「俺でいい。使える部品は、修理へ回す」
リゼが、俺の方を見た。
笑いそうになった顔が、ボルグさんの声で止まる。
「場所を聞け」
ベッケさんが台帳の次の頁を開いた。
船の図ではなかった。
谷の断面だった。
上の縁に、風車と家が描いてある。
下の方には、石を切り取った平らな段が幾つも続いていた。いちばん低い段に、小さな船の絵がある。
「下の旧石切り場だ。船の道は、去年の崖崩れで切れた。人が降りる石段は残ってる」
「歩いて行けるんですか」
「ああ。だが、外した部品は人一人の荷じゃない。何人もで抱えたまま、あの狭い石段は上れん」
ベッケさんの指が、谷底から上へ延びる線を辿った。
「大きな物は、この索道で揚げてた」
線の終わりには、港の支柱が描かれていた。
俺は顔を上げた。
家の間の向こうに、事故の場所へ灯した明かりが見える。
「今夜、壊れた……」
「そうだ。あの終点を直す方が、ヒバリの新品を作るより長くかかる」
リゼの手が、机の上で止まった。
部品はある。
使わせてもらえる。
ただ、谷底から運んでこなければならない。
船長が鍵束を握った。
じゃらり、と鳴りかけた音が、太い指の中で止まる。
「ベッケ。運べる巻き上げ具はあるか。コハクに積んで、谷の上まで持っていきたい」
「台車付きのがある。こいつを揚げる力は足りるが……港の外で使うのか」
船長は頷いた。
ボルグさんが部品の数字を読み、右の耳たぶを引く。
「コハクには積める。だが船は崖の縁まで出せん。上の岩場へ、綱をどう回す」
俺は地図を覗いた。
谷底で部品を外す人と、上でそれを引き上げる人。
自分たちの船で、壊れた索道の代わりをする話だった。
ベッケさんが、眼鏡を押し上げた。
「ここから部品を吊るなら、下で外して綱を掛ける者も要るぞ」
俺は、机へ手をついた。
「下へ行くのは、俺にやらせてください」
リゼが俺を見た。
アニカも顔を上げた。
「一人で部品を外せるとは言いません。職人さんについて、道具も綱も運びます。荷運びが要るなら、俺を使ってください」
ボルグさんが、船長を見た。
「なら、俺も下だ」
船長は頷いた。
まだ出航の指示ではなかった。台帳の上へ手を置き、谷の縁の道を確かめている。
リゼが、左右の袖をまくった。
「上のコハクは、私が動かす」
アニカの右手が、ゆっくり机から離れた。
書類入れの留め金に触れる。
今度は、指を引っ込めなかった。
ぱちん、と鳴った。
アニカは書類入れから、登録札を取り出した。
「そこまでして、私と出るの」
リゼが、谷底の船の絵を指した。
「その脚、取りに行く。だから登録札、しまってて」
アニカは何度も頷いた。
札を一度胸へ押し当て、それから書類入れへ戻した。
俺は、地図に描かれた石段を見た。
上から下まで、細い線が崖に貼りついている。
ベッケさんが、その途中を爪で叩いた。
「降りるなら、夜明けだ。ここから先は柵がない。谷風が強くなる前に、通り切れ」
爪の下で、道は一度、白紙の上に途切れていた。
次の段までをつないでいるのは、崖から突き出した、細い木の足場だった。




