第十三話 負けたくない
「家は下ろさない。誰も船から降ろさない。それで、出たい」
リゼが、机の向こうの船長を見た。
両手で帽子を握っている。継ぎ当てのある鍔が、指の下で曲がっていた。
夕飯のため、コハクの中央の通りには二台の長机が出ていた。
炊事場の壁に畳んであった机だ。脚を起こして裏の金具を掛け、十五人分の椅子を並べる。今夜はアニカの分を一つ足して、十六人になっている。
鍋にはまだ蓋がしてあった。
「私も。今から別の相棒を探す気はありません」
アニカがリゼの隣で言った。
短い赤銅色の髪の下で、茶金色の目が据わっている。
船長は、リゼが握った帽子を見た。
「ボルグ。脚は」
「帰ってから見た。替えた輪は落ち着いてる。練習はできる」
ボルグが、太い指で自分の右耳を引いた。
「積み下ろしに手間取ったのも本当だ。そこは直す。家を壊す必要はねえ」
「俺も乗るぞ」
ロクが机へ肘をついた。
「人が箱を運んでるところも見てねえくせに、降ろせってなんだよ」
リゼの手が、少し緩んだ。
エダは、その手から帽子を受け取った。潰れた鍔を指で戻し、リゼの前へ置く。
「出るんだろ。曲げちまってどうする」
リゼは鍔を撫で、今度は膝に載せた。
船長が二つの机を見渡す。
「家ごと走らせる。皆の返事を聞かせてくれ」
明日の午前中、エダには港で受けた繕い物を渡す用事がある。その間は船を動かさないことになった。
洗い物を干したい人には、練習する時刻を先に知らせる。窓辺の鉢は走る前に下ろす。
一人ずつ返事を聞き、都合を合わせる。
最後に船長が頷いた。
「明日、規則と金を窓口で確かめる。普段の仕事で許す荷と走りを越えない。それで出よう」
リゼはすぐに立ちかけ、椅子へ座り直した。
「……ありがとう」
声の力が抜けた。
怒って押し通すつもりでも、皆が本当に一緒に出てくれるか、怖かったのかもしれない。
「飯を食ってから、明日の相談だ」
船長が鍋の蓋を取った。
芋と肉の湯気が、机の上へ広がる。
リゼは皿を取って、アニカへ先に渡した。
「明日、途中で何か気づいたら、はっきり言って」
「言うよ。負けたくないの、私も同じだから」
アニカは皿を受け取り、腰の留め金を鳴らした。
その音を聞いて、リゼの口元が、今夜初めて少し緩んだ。
*
翌朝、俺とロクは港のガラス商から、練習用の空箱を四つ借りた。
昨日届けた箱は、ガラスごと工房に置いてきている。これは店にあった別の箱だ。
ボルグは、一箱ずつに当て木と布を添え、別々の縄で後部の荷置き場へ留めた。
外した木を置く場所も、先に決める。
「自分でほどけるか?」
俺は結び目を確かめてから、頷いた。
練習が始まると、リゼも箱の片側を持った。
船の後ろから、家の間を通って、前の渡し板まで運ぶ。地面へ下り、隣に停めたヒバリの荷台へ載せる。
「……遠いね」
二往復目で、リゼが言った。
「毎日ここを歩いてるのに」
「箱を持つと伸びるんだよ、この道」
俺の返事に、先を歩いていたロクが吹き出した。
アニカの砂時計で、五分の砂が二度落ち切った。三度目は半分ほどで、最後の箱を載せ終えた。
十三分くらい。昨日よりは短い。
「二十分、かからなかった!」
リゼの声が弾む。
ボルグは右の耳たぶを引いた。
「空だから軽い。本物でも同じとは思うなよ」
「……うん。でも、木を踏まずに済んだ」
「そっちはいい」
わずかに褒められると、彼女は俺の方を見た。
俺が頷くより早く、もう笑っていた。
昼前に箱を店へ返してから、四人で競走の受付へ行った。俺とリゼ、船長、アニカだ。
港の白い小屋の前に、配達先を描いた大きな板が立っていた。
小屋の窓口にいる係は、四十歳くらいの女性だった。黒髪を頭の高いところで巻き、細い鼻の上に眼鏡を掛けている。
彼女が板を指しながら、規則を説明してくれた。
本番は五日後。
二隻一組で、重い荷、割れ物、小さな荷を、三か所へ届ける。どの船に載せ、どこから回るかは自由。ただし、積み替えていいのは検査を済ませた指定の停船場だけだ。
「最後に、受領札を持って二隻とも港へ戻ります。二隻目が帰着枠で停まって、札を確認できた時点で、おしまい。一隻だけ戻っても勝ちではありません」
「相棒を変更するなら、本番前日の昼までに、組む二隻の船長が届け出てください」
係の女性はアニカを見た。
「今年も言っておくからね」
「去年は一人で出られないか聞いただけでしょ」
小さい船長の口が尖った。
ほかの船に代わって走ってもらうのは禁止。積み過ぎも、相手の邪魔も駄目。
荷を壊して早く帰っても、配達を終えたことにはならない。
参加料は一隻につき銅貨十二枚。
優勝賞金は、六百枚だった。
思わず自分の日給で割ってしまい、途中でやめた。
船を二隻動かし、何人も働く競走だ。全部が俺の財布に入るわけではない。
副賞は港の整備台を二日使える券。部品代まで出るものではないらしい。
そのほか、定期便を頼みたい荷主たちも見物に来るという。
船長とアニカは参加料をそれぞれ払い、賞金を取れたら二隻で半分ずつにすると決めた。コハクの取り分をどう使うかは、経費も含めて船で相談する。
昨日の給金六枚を受け取って二十八枚になった俺の私費は、使わずに済んだ。
登録札を受け取ると、リゼが両手で持った。
「本当に出るんだ」
「今から取り消す?」
「しない」
アニカへの返事は即答だった。
そこへ、白い袖が窓口に差し出された。
「俺たちも、いつもの二隻で頼む」
振り返ると、ルーガンがいた。
昨日、二隻の白い船を連れてきた男だ。近くで見ると俺よりひと回り肩が広い。日に焼けた首の上で、短く整えた口髭が動いた。
「許可はもらえたか」
「今、登録した」
アニカが答える。
リゼは登録札を握った。
「昨日の約束、忘れてないから」
「勝ってから聞こう」
ルーガンは二隻分の参加料を窓口へ置いた。
俺は船長へ顔を向けた。
船長は腰の鍵束を握り、じゃらつく音を止めた。
「飯を食ってからだ」
*
午後の試走は、本番よりずっと単純だった。
港の外にある練習広場から、同じ側の崖を上がり、白い風車へ箱を一つ届けて戻る。
それを、二隻とも行う。
箱の中身は、水の入った陶器の壺だ。
四隻の分を係が秤に載せ、重さを揃えてから渡してくれた。壺に傷がないか、蓋がきちんと閉まっているかも、一緒に確かめる。
「今回は一隻に一箱。途中で渡すのはなし。向こうで壺を見せて、札をもらって帰ってきてください。順位の決め方は本番と同じです」
受付にいた眼鏡の女性が、練習広場に四つ並んだ帰着枠を示した。
線の内側へ入って停まる。二隻目の札まで確認して、組の記録が出る。
道は往復とも左側を通る。狭くなる曲がり角では追い越さない。
風車の脇には、四隻が荷を下ろせる平場がある。一般の荷受けとは分けた、祭りの練習用の区画だという。
荷受け側の係が、一隻に一人ずつついて荷下ろしを手伝う。
ヒバリは荷台が低いので、アニカと係の二人で、地面から箱を抱えて下ろせるそうだ。コハクのように家の間を運ぶ必要はない。
説明が済むと、ルーガンが俺たちの箱を見た。
「空箱は、やったか」
「午前中に。昨日より短くなりました」
「水が入ると、また違うぞ」
アニカが留め金を弾いた。
「今日の試走、私たちも本気で走るからね」
「ああ。こっちも手は抜かん」
白い上着の男は、口髭を左右から撫でて揃えた。
昨日の言葉を取り消すことになるとは、少しも思っていない顔だった。
俺は、壺の箱の持ち手を握り直した。
コハクへ戻ると、リゼは操舵室の前で、左右の袖をまくり直した。
蜂蜜色の三つ編みが胸へ落ち、彼女はそれを背中へ払った。
「見てて。昨日より、早く渡せるように停める。あの人に、もう遅いって言わせたくない」
俺も箱を運ぶつもりで、頷いた。
昼食の机は畳まれ、窓辺の鉢も床に下ろしてある。住民は帰船を済ませ、試走の間はそれぞれの家や邪魔にならない場所へ入った。
後ろでは、ボルグが壺の箱を固定している。ロクが縄の余りをまとめ、歩くところに出ないようにした。
俺は出発の間だけ、操舵室の客用の腰掛けへ座った。
隣の枠では、ヒバリの小さな窓から、アニカの腕が出ていた。
その手が、こちらを指す。
次に、自分を指す。
そして親指を立てた。
リゼも片手を上げた。
笛が鳴った。
軽い足音が、まず前へ出た。
ヒバリの六本の脚が、乾いた地面を細かく蹴っていく。
白い二隻が続く。
こちらより低い船腹の下で、鉄の関節が揃って起きた。ガッ、ガッ、と短く揃った音が、広場の壁に当たる。
リゼが手元の操縦桿を押し、足で踏み板を動かした。
コハクの床が、ぐう、と持ち上がる。
左右の家の窓がいっせいに高くなり、地面に落ちた屋根の影が、俺たちと並んで動き始めた。
前の三隻には、少しずつ離された。
それでも、リゼは踏み板を無理に踏み込まない。
道は白い崖に沿って、緩く上がっていた。
左手の斜面には、石を積んだ細い畑が何段も続く。風車で汲み上げた水が木の樋を流れ、継ぎ目からこぼれて、葉の大きな野菜を濡らしていた。
道が曲がると、ずっと下にベルカの屋根が見えた。俺たちが運んできた赤い幕も、小さく風を受けている。
その上を、荷籠が渡る。
支柱を越えるたびに、からん、からん、と車輪が鳴った。
曲がり角の先には、目印の白い風車が見えていた。
四枚の大きな羽根が、家の背より高いところをゆっくり回っている。
近づくにつれて、羽根が風を切る、ぶうん、という音と、石を擦り合わせる低い響きが重なった。
俺は腰掛けを離れ、中央の通りを後ろへ急いだ。
荷置き場では、ロクが箱のそばで待っていた。
四角い木枠の内側に、布で守られた壺が見える。まだ縄をほどく時刻ではない。
俺は箱へ手を添え、船が停まるのを待った。
平場に入ると、後部の開けた場所から、隣の白い船が見えた。
ルーガンの船だ。
あちらは荷受けの庇を横目に、平場の奥まで進んだ。
そこで大きく弧を描き、船首を帰り道へ向ける。
「遠くないか」
俺の声に、ロクも顔を上げた。
受け渡す場所は、風車の壁際だ。
白い船の乗り口は、そこから離れている。
一方、コハクは壁の方へ船首を寄せて停まった。
長い通りの向こうで、庇が正面に見える。渡し板を下ろせば、受け手のすぐそばに着くはずだ。
すぐ隣で、もう一隻の白い船も向きを変えた。
どちらも、船首は帰り道を向いていた。
「脚、畳むぞ」
通りの中ほどから、船長が声を届けた。
床が下がる。
木枠の中で壺がわずかに鳴ったが、傾かなかった。
完全に停まってから、ボルグが縄を解いた。
俺とロクが箱の持ち手を掴む。
「せえの」
空箱とは、全然違った。
肘が伸び、肩の奥へ重さが掛かる。
長い通りを二人で運ぶ。
前へ着くと、渡し板はもう下りていた。その先には、受け取りの係が待っている。
船首の位置はぴったりだった。
「近いな。助かる」
ロクが言った。
白い船の荷役の二人は、地面をこちらより長く歩いていた。
それでも、俺たちの箱を台へ置いたとき、あちらはもう壺の蓋を開けていた。
船の中を運ぶ距離が、短いのだ。
白い船は、操舵室の前にも荷台がある。箱を持てば、すぐ乗り口へ出られる。
こちらの係は、髪を短く刈った五十代ほどの男だった。膝の上へ布を広げ、壺を箱から出すと、底と側面を順に確かめる。
俺は、その指が回るのを見ていた。
急いでくれ、とは言えなかった。
壊さず届けたかを調べるために、ここへ来たのだ。
「よし。水も漏れてない」
札を受け取った。
俺が振り向いたとき、緑色のヒバリは、もう帰り道を下っていた。
次に、ルーガンの船が動いた。
船員たちが乗り込み、短い乗降板を引き上げる。
六本の脚が起きると、そのまま、前へ。
それを見て、分かった。
俺たちは戻るために、コハクの向きを変えなければならない。
札を握って板を上がると、リゼの声がした。
「全員、戻った?」
「戻った!」
ロクが板を引き上げる。
船長が左右を確かめ、合図を出した。
コハクが立つ。
前には風車の壁。船首を振るには近すぎる。
リゼはゆっくり後退させた。
ごん、と後脚が地面を踏む。家々が後ろへ動き、庇との間にようやく隙間ができる。
もう一歩。
そこから片側の歩幅を変えて、長い船体を回す。
俺は操舵室の戸口で壁の取っ手を掴んでいた。
前の窓には、まだ白い風車が映っている。
隣の白い船が立ち上がった。
あちらはもう、曲がらなくていい。
「……分かってる」
リゼが、小さく言った。
誰も何も言っていなかった。
操縦桿を握る指が、一度、開いて握り直された。
彼女は速度を上げず、前脚がほかの船の枠へ入らないように曲がった。
俺には、その慎重さまで歯がゆく思えてしまった。
いちばん悔しいのは、操っている本人のはずだった。
*
帰り道で、リゼは一度も無理な追い越しをしなかった。
曲がり角を抜けるたびに、前の白い船の赤い輪印が見えた。
近づいた、と思う。
次の曲がり角で、また離れる。
港へ下る最後の坂からは、練習広場を見渡せた。
ヒバリがもう帰着枠に座っていた。
白い一隻も、その隣で脚を畳んでいる。
俺たちの前を行く、もう一隻の白い船が広場へ入った。
リゼが息を吸った。
コハクの前脚が、最後の坂を踏み終える。
白い船は枠へ寄り、止まった。
待っていた係へ、窓から札が渡る。
笛が鳴った。
俺たちは、まだ枠へ入っていなかった。
コハクが停まり、札を確認してもらうと、係の女性が結果を告げた。
「両組とも、壺は無傷。今回はルーガン組の勝ち」
拍手がした。
見物していた船員たちの、気軽な拍手だった。
練習なのだから、それくらいで当たり前だ。
俺は、妙に喉が渇いていた。
先に上陸していたアニカが、帰着枠のそばで待っていた。
自分の受領札は、とっくに渡してある。それでも、彼女の目は俺たちが乗ってきたコハクを追っていた。
リゼが板を下りると、アニカが近づく。
「私、一番だった」
「うん。見えた」
「でも、負けたね」
リゼは頷いた。
その時、白い上着が、二人の間へ近づいてきた。
「これで、分かったか」
ルーガンだった。
後ろにいた若い船員が、水差しから杯へ注いで渡した。左の眉の端が途切れた男で、短い茶髪が汗で額に貼りついていた。
ルーガンは半分ほど飲み、コハクを顎で示した。
「先に帰った相棒を待たせて、四隻の中で最後だ。家を載せた船は遅い。俺は、間違ったことを言ったか」
リゼの肩が動いた。
けれど、言葉は出なかった。
俺も、札を確かめる係の手元を見てしまった。
壺は割っていない。無事に届けた。
それを言えば、速さでは負けた話から逃げたようになる。
「アニカ。お前の走りは悪くなかった。登録は今日済ませたばかりだ。相棒を替えるなら、まだ間に合うぞ」
アニカが腰の留め金へ指を掛けた。
弾かなかった。
「替えない」
「勝つ気はあるんだろ」
「あるから、二人で直す。人の相棒を勝手に降ろさないで」
ルーガンが、鼻で小さく笑った。
「なら、勝ってみろ。その船で」
リゼが顔を上げた。
「本番で勝ったら、取り消してもらう」
「ああ。俺たちより先に戻れたらな」
俺はあの口髭の下の笑いを、どうしても消してやりたかった。
ルーガンは、白い船の若い男へ杯を返した。
男の運んできた縄を見ると、端のほつれを示し、短く交換を指示する。それから乗り口へ歩いていった。
荷も、部下も、よく見ている。
俺たちの船のことだけ、見ようともしない。
アニカが長く息を吐いた。
「……腹立つ」
「うん」
リゼは帽子を被り直した。
「ごめん。待たせた」
「次は、待つ時間を減らして。私もできること考える」
その返事に、リゼが頷いた。
アニカもリゼと並び、コハクへ戻った。
*
コハクへ戻ったリゼは、船長たちへ、停める向きが悪かったと報告した。
俺も荷運びのことを話した。前へ持っていくだけで時間がかかり、相手は先に下ろし終えていた。
ボルグは頷いた。
「壊さなかったのはいい。箱の置き方も、まだ考えられる」
怒る人はいなかった。
船長は試走の係へ礼を言いに下り、ロクは炊事場へ入った。
窓の中から、食器を並べる音が聞こえ始める。
俺は操舵室の入口で、リゼと二人になった。
彼女は客用の腰掛けへ座り、帽子を脱いだ。
額に貼りついていた短い髪を指で剥がし、帽子の内側を見つめる。
「あの人の言った通りになった」
リゼは帽子を見たまま言った。
「コハクだけ、帰ってこなかった。アニカが、あそこでずっと待ってた」
膝の上へ、帽子を置く。
昨夜、直してもらった鍔へ指を掛け、途中で手を止めた。
「私、自分で勝つって言ったのに。皆の前で取り消してもらうって」
「俺も、あの帰着枠に早く入ってくれって、そればかり考えてた」
「速くしたかった。でも、あそこで無理に曲がったら、家も荷物もぶつける」
声が詰まった。
リゼは唇を一度噛み、それから息を吐いた。
「悔しい。あんなこと言われて、何も言い返せなかった」
俺には、慰めになることが思いつかなかった。
無傷で運んだだけでも立派だと言われても、今の俺なら嬉しくない。
通りでは、ロクが空いた荷置き場へ戻っていった。
ボルグはそこにしゃがみ、床の枠を確かめている。二人とも、もう次の積み方を見ていた。
「まだ、皆を降ろさずにできることはあるよ」
俺が言うと、リゼも通りの奥を見た。
「停める向きも、変えられる」
「うん。船長に、もう一回使わせてくれって頼んでくる。俺も箱、運ぶ」
リゼが立った。
帽子を被り、左右の袖をまくり直す。
「空箱でいいよ」
「助かる。壺は、正直きつかった」
彼女は少しだけ笑った。
笑った後の目は、まだ赤かった。
「カイ。私、あの人に勝ちたい」
「俺もだよ」
今度は、返事に迷わなかった。
俺は船を下り、戻ってくる船長を迎えた。
「ひとつ、相談です」
頼みたいことを、指を折りながら話した。
空いている練習区画で、帰り道へ船首を向けて停める。
全速では走らない。荷役用に船の空箱を使い、夕飯までに片づける。
船長は俺の指を見て、それから船上のリゼを見た。
「二回までだ。住民にも時刻を言え。場所は係に聞いてやる」
「ありがとうございます」
「礼は、時間までに戻ってから聞く」
ボルグに脚の負担と練習の仕方を確かめ、船の皆にも声を掛けた。
リゼは炊事場を覗き、ロクに夕飯の時刻を聞く。
アニカはヒバリの荷台を片づける約束があるから、今日は戻ると言った。
「明日、その停め方、見せて。私も荷台を直す」
腰の留め金が、ぱちんと鳴った。
練習区画へコハクを移すと、俺は地面へ下りた。
地面の白線を目印に、荷を運ぶ道を決める。船はその脇へ、帰る方向を向いて停める。
その向きでも渡し板の先が運ぶ道へ出るように、どこで脚を畳むかを試すのだ。
俺は脚の動く範囲から十分離れ、前の窓から見えるところに立った。
船長は乗り口から周囲を見ている。
俺が腕を下ろしたら停止。手が見えなくなっても停止。合図は先に二人で決めた。
一回目は、寄せ切れなかった。
脚を畳み、板を下ろすと、先端が目当ての線から離れている。
俺も板を上がり、ロクと空箱を持って下りた。地面を余計に歩かなければ、決めた道へ出られない。
「もう一回だけ」
リゼが窓から言った。
「あと一回。ちょうどだな」
船長の返事に、彼女は真剣に頷いた。
箱を戻し、俺が下船する。ロクが渡し板を収める。
再びコハクが立った。
俺は地面に落ちた家々の影を見ていた。
長い屋根の列が、ゆっくり向きを変える。
前脚の関節から、低く軋む音がした。片側が地面を押さえ、反対側が小さく踏み替える。
船の鼻先が、こちらへ向いた。
俺は腕を上げたまま、待った。
もう少し。
窓の中で、リゼが俺の手を見ている。
腕を下ろした。
コハクが停まった。
船長が確かめてから、脚を畳む合図を出す。
船腹が静かに下がり、前の渡し板が地面へ下りた。
板の先は、白線のすぐ脇に着いた。
「そこ!」
思わず声が出た。
窓の中で、リゼの顔がぱっと明るくなった。
片手が上がりかけ、すぐ操縦桿へ戻る。
完全に動きを止めてから、今度こそ、両手を上げた。
俺は笑って、板を上がった。
ロクと箱を運び下ろし、地上を歩く距離も確かめる。
空箱を船へ戻してから、俺たちも乗り込んだ。
板を戻せば、コハクの前には、何もなかった。
家を載せた船は、一度も後退せず、帰る道へ踏み出した。
これだけで、あの二隻に勝てるわけじゃない。
それでも、さっきの場所で無駄にした時間は、確かに減らせる。
練習を終えて元の場所へ戻ると、俺は前の乗り口で渡し板を下ろすのを待った。
コハクの少し前、岸壁沿いに、ヒバリが停まっていた。アニカが荷台からこちらへ手を上げる。
その向こうでは、索道の荷籠が港へ届くところだった。岸壁の外側を渡ってきた籠を、端に立つ支柱の車輪が荷下ろし台へ導いている。船の泊まる場所より、谷側の設備だ。
リゼが操舵室から出てきた。
ボルグへ脚の様子を伝え、船長に終了を報告する。
それから俺のところまで来て、声を落とした。
「二回目、ちゃんと見た?」
「板の先が、白線のすぐ脇に来た。ぴったりだったよ」
「うん」
もう一度、頷く。
抑えようとしているのに、口元が笑っていた。
「カイ。明日も、付き合って」
「もちろん」
「次は、箱を積む場所から」
炊事場から、ロクが呼んだ。
「続きは明日! 芋、潰れちまうぞ!」
リゼは、俺の手から空箱を取ろうとした。
俺は反対側の持ち手を彼女へ向けた。
二人で荷置き場へ戻し、手を洗ってから、夕飯の席へ行った。
リゼは俺の隣の椅子を引いた。
「明日の朝ご飯のあと、荷置き場ね」
「分かった」
リゼは俺の皿にも芋をよそった。
俺たちは食べながら、次に箱を置いてみる場所を話した。
その途中で、金属を引き裂くような音がした。
匙を置いた。
荷籠の車輪が鳴る、いつもの音ではなかった。
港で、笛が短く連続した。
「索道を止めろ!」
荷下ろし場の方から、男の怒鳴り声がした。
船長が立ち、俺も前の乗り口へ走った。
家の間を抜けた先で、港の端の支柱が見えた。
上にあった大きな車輪が、斜めに垂れ下がっている。
張っていた荷綱が沈んだ。
そこから吊られた籠が、荷下ろし台の縁にぶつかった。
木が割れる。
積んでいた鉄の枠が、一つ、港へ滑り落ちた。
アニカが、ヒバリの荷台で顔を上げた。
「アニカ、離れろ!」
俺の声に、彼女がこちらを見た。
その背後で、傾いた荷籠が岸壁を越えた。
重い鉄の荷を載せたまま、緑色の船へ振れてきた。




