第十二話 相棒になる前に
「見てて」
リゼが両方の袖をまくり、糸巻きを構えた。
次の瞬間、黄色い魚が地面へ突っ込んだ。
鼻先から、ぽすん、と落ちた。
布の尾だけが、まだ元気に揺れていた。
「……今のは、練習」
俺は頷いた。
笑わないようにしたせいで、変な息が鼻から出た。
「笑っていいよ」
「じゃあ、ちょっとだけ」
「ちょっとだけね」
リゼも口を結びきれず、二人で笑った。
港の脇から石段を下り、町の一段低いところへ出た。
そこに、その広場はあった。
崖側には腰より高い石の壁が続き、その内側で子供たちが風見魚を上げている。頭上のずっと高いところを、荷籠が、からからと横切っていった。
風の通る広場には洗った布の匂いがして、屋台の日除けがいっせいに膨らんでは、ぱたぱたと鳴った。
俺たちの魚は、屋台で借りたものだ。
銅貨一枚を払い、夕方の鐘まで貸してもらった。
「引きっぱなしだと、頭から落ちるよ」
貸してくれた女の人が、魚を拾い上げた。
六十歳くらいだろうか。ふっくらした頬に深い笑い皺があり、白髪を赤い布で包んでいる。手の甲には、小さな針の傷がいくつもあった。
「風を食ったら、少し糸を出すんだ。ほら、口が開いた」
黄色い魚の腹が、ふくらんだ。
薄い布で作った体の中へ、風が入っている。
リゼが糸巻きを緩める。
魚は少し揺れ、それから、俺の頭より高く上がった。
「あ」
彼女の声が明るくなる。
女の人が手を離した。
魚は落ちなかった。尾を振り、青い空へ鼻先を向けた。
「上がったな」
「まだ。今、褒めると落とす」
灰緑の目が、真剣に魚を追っていた。
唇は笑いそうなのを我慢している。
糸が、ぴん、と鳴った。
リゼが少し送り出すと、黄色い魚は広場の屋根を越えた。
ひとしきり泳がせてから、彼女は俺へ糸巻きを差し出した。
「持ってみて。思ったより引くよ」
受け取ると、手の中の木が、谷の方へ持っていかれた。
何もない空に向けて引かれる感じが、妙におかしかった。
「おお。でかいの釣ったみたいだ」
「逃がさないでよ。まだ返してないんだから」
リゼが隣から、俺の手元を覗き込んだ。
さっき教わったばかりなのに、糸を出す頃合いを教える声が少し得意そうだった。
*
魚を返した後、広場の角にある木工の店で、杯を選んだ。
底が広く、持ち手の付いた木の杯。
形は俺が持っているものと似ていたが、側面に青い魚が一匹描かれていた。
リゼは棚の前を二度往復し、結局それを持って戻ってきた。
「これ」
「魚、気に入った?」
「うん。でも、ちゃんと底も見たよ」
裏を返して見せる。
店の台へ置くと、がたつかなかった。
「これで飲みに行ってもいい?」
「そのために買うんだし。使ってよ」
リゼが杯をこちらへ渡した。
笑った顔のまま、もう一度、青い魚を指でなぞる。
店主は顎の細い、四十代くらいの男だった。前掛けについた木屑を払い、俺が出した銅貨三枚を受け取ると、杯を柔らかな紙で包んでくれた。
帰りの石段では、俺のふくらはぎが先に疲れた。
リゼは二段先から振り返った。
「船より、町の方が揺れる?」
「俺の脚だけな」
彼女は笑って、一段下りてきた。
そこからは、並んで上がった。
港へ戻ると、コハクの屋根の間から、夕飯の湯気が上がっていた。
*
その夜、俺の机には、新しい杯と、一枚の紙が載った。
紙は船長が一枚くれた。ペンとインク壺も借りてきた。
けれど、ペンを持ったまま、しばらく動けなかった。
仕事のメールなら、まず挨拶を書いて、用件を書けばいい。
けれど、日本へ帰る方法を教えてほしい手紙など、書いたことがない。
久賀さんの紹介文を袋から出し、横へ置く。
名前を間違えないように確かめてから、書き始めた。
久賀さんから紹介されたこと。
俺も日本から来たこと。
帰る方法について、会って話を聞きたいこと。
船長が教えてくれた、途中で寄る町の名も書いた。
返事はローネの湯橋便屋という、手紙を預かる店へ送ってもらう。船長が以前に使ったことのある店で、俺たちより先に着いても、三十日は置いてくれるという。
俺たちは、コハク号でそちらへ向かっています。
最後の一文を書いた時、戸が鳴った。
「お茶、今でいい?」
リゼだった。
炊事場から借りた小さな椅子を、戸の外へ置いている。俺がそれを中へ入れると、彼女は向かいから茶の入った小鍋を持ってきた。
俺は二つの杯へ茶を注ぎ、青い魚の方をリゼへ渡した。
リゼは自分の膝へ布を一枚広げ、熱い杯を両手で包んだ。
「書けた?」
「うん。船長に宛先を書いてもらったら、明日の朝、預けてくる」
「よかった」
俺も、自分の杯から一口飲んだ。
窓の外では、町の風車がまだ回っていた。
昼より低く聞こえる羽根の音に、遠くで戸を閉める音が重なる。
この部屋で向かい合って茶を飲むだけなのに、リゼは時々、杯を回して青い魚を見ていた。
「明日の走りは、今日の魚より上手くやるからね」
「あれも、最後はちゃんと上がっただろ」
「そこを覚えてて」
彼女は少し笑い、茶を飲んだ。
寝る前に、借りた椅子と小鍋を炊事場へ返した。
船長には宛名と返事の送り先を現地の字で書き添えてもらい、ペンとインク壺を返した。その日の給金、銅貨六枚も受け取った。
紹介文は袋へ、二つの杯は洗って棚へ戻す。
翌朝、港の手紙を扱う店で、銅貨五枚と手紙を渡した。
丸眼鏡を掛けた三十代くらいの女性が、宛先を読み上げて確かめてくれた。サイハまでは直行の便で八日ほど。そこからローネへの便りは、さらに五日ほどかかるという。
何もかも予定通りに運ぶとは限らない。
それでも、こちらから知らせることはできた。
受け取りの小さな札をもらい、財布へしまった。
残りは銅貨二十二枚。
問い合わせる時に見せられるよう、札は紙幣と分けて入れた。
*
コハクへ戻ると、右の後脚が、いつもより少し浮いていた。
船腹の下へ太い支え台が入れてあり、その先で、曲がった鉄の脚が止まっている。
ボルグさんは脚の関節の横に立ち、外した金属の輪を見せてくれた。掌より大きい輪の内側が、一部分だけ白く削れていた。
「ここで、脚の軸を受けてる。こいつが減ると、余計に動く」
「これを替えるんですか」
「ああ。荷を載せたら、もう一度歩かせて見る」
短く刈った灰色の髪に、朝日が当たっていた。
四角い顎には、いつも通り剃り残した髭がある。輪を台へ置き、首の手拭いで指を拭う。油の筋が一本増えた。
俺にできる修理ではなかった。
近くの台へ置かれた工具に手を伸ばしかけると、ボルグさんの目も、そちらへ動いた。
「渡すなら、そっちの布ごとな。端が油で滑る」
言われた通りに、布を使って持ち上げた。
彼は受け取ってから、ようやく俺の手元を見るのをやめた。
脚を見てもらっている間に、アニカが荷主を連れてきた。
細い目をした中年の男で、革の前掛けをつけていた。港でガラスを売る店をやっているという。
男の荷車には、同じ大きさの木箱が四つ載っていた。
一つの蓋を開ける。
薄い板ガラスが、何枚も立てて収められていた。板と板の間には柔らかな詰め物が入り、木の枠で両側を支えている。
「風車の修繕をする工房へな。窓を増やすんだ。明日、はめる職人が来る。今日のうちに着けばいい」
ガラス屋は箱の横を撫でた。
「傾けるなとは言わんが、倒すなよ。一本、ひびが入れば、その板は使えん」
「中身も、向こうで確かめてもらいます」
船長が答えた。
その横で、アニカが平たい板を出した。
白い石で、三本の線を引く。
「港から、ここまで。風が強い道だけど、幅はある」
一本目の先に、四角を描いた。
「石壁のある停船場。そこから工房へは、二つ道がある。コハクは、右の広い道。ヒバリなら、左の棚道を通れる」
左の線は短い。
右の線は大きく外へ曲がり、同じ丸へつながっていた。
「この停船場までコハクでガラスを運んで、ヒバリへ載せ替えるんですね」
俺が言うと、アニカが頷いた。
「うちで最初から運ぶと、風のところで遅くなるから。あそこを揺らさず走れるなら、任せたい」
リゼは地図を見ていた。
「昨日、港へ下りる前に見えた、白い壁の道?」
「そう。その先」
アニカが停船場の印を叩く。
「コハクなら、ここまで三十分くらい。そのまま広い道で行くと、あと二十五分。うちの道なら、十分で着く」
「載せ替えが十分以内なら、少し早くなるな」
指を折りかけた俺へ、ボルグさんの声が飛んだ。
「それを今日、確かめるんだ。結んだ縄をほどくだけじゃ、荷は隣へ移らんぞ」
俺は指を止めた。
船の後ろへ荷を積み、通りを運んで、渡し板を下りる。
隣の船でも、もう一度留める。
「はい。積むところから、時間を見ます」
アニカが書類入れの隣につけた袋から、小さな砂時計を出した。
「一回で五分。今日はこれで測ろう」
船長はガラス屋に、二隻で運ぶ案を話した。
今日中に壊さず届くなら構わない、という返事だった。
運賃は、合わせて銅貨四十八枚。
コハクへ三十、ヒバリへ十八。途中の積み下ろしは俺たちが手伝う。アニカが書類へ書き、船長と荷主が確かめた。
まだ、競走の話ではない。
預かった四箱を、今日のうちに届ける仕事だった。
*
脚の部品が替わり、空荷での確認が終わった。
ガラスを後部の荷置き場へ運ぶと、ボルグさんは床へ当て木を並べた。
四箱を寄せ、外側へ横木を当てる。
箱同士がぶつからないよう、間に畳んだ布を入れる。
「この布も、使えるかい」
エダさんが、通りを布の束を抱えて歩いてきた。
まとめた銀髪に小さな布屑がつき、首の巻き尺が揺れている。
「切り端だから、いるだけ持っておいき」
「助かる」
ボルグさんが受け取ると、彼女は手元に残った布を、端から三つ折りに揃えた。
「取っておくと、役に立つだろう」
俺が頷くと、エダさんはボルグさんへ顎を向けた。
「片づけろって言ったの、誰だっけね」
ボルグさんが右の耳たぶを引いた。
エダさんは機嫌よく、残りの布を抱えて戻っていった。
荷を留めた後、船を低く保ったまま、港の端を少し歩いた。
脚の曲がり目からは、規則正しい、こっ、こっ、という音がする。停めてからボルグさんがもう一度確かめ、船長へ頷いた。
「行ける。帰ってからも見る」
俺たちが前の乗り口へ戻ると、返事を待っていたリゼが、操舵室から顔を出した。
「じゃあ、すぐ――」
「飯を食ってからだ」
船長が言う。
通りで昼飯の盆を運んでいたロクが、赤い頭巾の下で大きく頷いた。
俺たちは昼飯を食べ、使った器を片づけた。
船長は住民に、午後のうちに運搬をして戻ると伝え、全員が帰船したことを確かめた。
アニカは先にヒバリへ戻った。
出航の前、リゼが俺を操舵室の戸口へ呼ぶ。
「カイは、荷物の方を見てて。がたついたら、すぐ船長に言って」
「分かった」
「揺らさないようにするから」
俺が頷くと、彼女は袖を左右同じところまでまくった。
*
港からの道は、麦畑の端を回って、崖の上へ続いていた。
左手の谷から、風が吹き上がってくる。
低い草は地面へ伏せ、道沿いに立つ風車の白い羽根が、青空を大きく切っていた。
ぶおん、と鳴る。
その下を通る時だけ、船へ落ちる影がぐるりと回った。
俺は後ろの荷置き場にいた。
船長が通りの途中に立ち、俺と操舵室の両方を見ている。
風が強くなった。
上着が背中へ張りつき、軒先に結んだ短い布が、ばたばたと鳴る。
けれど、足元の傾きは、思ったほど変わらなかった。
左の脚が地面へ着く。
どん、と響くはずのところで、低い、ぐっ、という振動が靴の裏へ伝わった。
次の脚が着くまでに、床がゆっくり戻ってくる。
箱は動かない。
蓋の中から、ガラスの触れ合う音もしなかった。
「こっちは、大丈夫です」
船長へ声を掛けると、太い腕が上がった。
前へ向けて同じことを知らせてくれる。
アニカは一度、ヒバリを道の左へ寄せ、俺たちが通り過ぎるのを待った。
家の列が途切れた荷置き場から、彼女の窓が見えた。俺が手を上げると、アニカはコハクの脚へ目をやって頷く。
ほどなく、緑の小船はまた俺たちを追い越していった。
俺は、リゼが毎日こうやって走らせていたことを思い出した。
湯の入った鍋があり、仕事台があり、寝ている人がいる船だ。
速く進むことだけを、覚えてきたわけではない。
道が曲がり、風が少し弱くなった。
石壁で囲まれた広い平場に、ヒバリ号が停まっていた。
*
停船場の先で、道は二つに分かれていた。
右の広い道は、丘を回って上へ伸びる。
左の細い道は、崖の途中を横切っていた。ヒバリなら通れるが、家を載せたコハクの幅では入れない。
その二本の間に、人が歩く石段があった。
上を見ると、木の足場を組んだ風車と、その脇の工房の屋根が見えた。
「ちょうど三十分」
アニカが砂時計をしまった。
コハクが脚を曲げる。
ボルグさんが止まったことを確かめてから、俺たちは渡し板を下ろした。
ヒバリは、その左へ横づけされていた。どちらの船からも地面へ下りて運べる。
一箱目を動かすまでが、思ったより長かった。
縄をほどく。
外側の横木を外す。
箱の間へ詰めた布を、落とさず寄せる。
それから、ロクと二人で持ち上げた。
後ろの荷置き場から前の乗り口まで運び、板を下りる。アニカに向きを見てもらって、ヒバリの荷台へ上げる。
戻ると、二箱目の前に横木があった。
さっき外して、そこへ寄せたものだ。
「すみません。これ、どっちへ」
「右へ。先に通りを空けろ」
ボルグさんが受け取り、壁際へ置く。
急ぐほど、手が余計な物へ伸びた。
ヒバリの横で、砂時計が返された。
二度目。
三度目。
俺は四箱目を持ち上げ、ロクと顔を見合わせた。
「せーの」
腕が張った。
板の端では急がず、足元を確かめた。
四箱を渡し終えた時、砂時計は四度目の終わりに近づいていた。
アニカが最後の留めを確かめ、顔を上げる。
「二十分。走って得した分より、かかったね」
「……はい」
風のせいでも、リゼの走りのせいでもなかった。
運ぶ手順は聞いていた。それでも、十分あれば四箱くらい移せると思っていた。
実際に歩く距離も、一つずつ留め直す手間も、軽く見ていた。
「急いで倒すよりはいいよ。ちゃんと着けば、今日の仕事はできる」
アニカは、荷台の縁から手を離した。
俺は上の工房を見た。
あの石段なら、人だけなら先に上がれそうだった。
「ひとつ、相談。あの階段で、工房へ先に行けますか」
「行ける。五分くらい。荷を持っては無理だけど」
「じゃあ、先に下ろす場所を空けてもらってきます。ここで待たせた分、着いてからは待たせたくない」
ロクが、俺の隣へ来た。
「俺も行く。箱、ひとりじゃ持てないだろ」
俺たちは船長へ話し、工房で落ち合うことにした。
コハクは広い道を上がり、荷を下ろしたヒバリと合流する。
リゼが操舵室の窓から、こちらを見ていた。
「脚、気をつけてね」
「俺の方な。分かった」
俺は石段の下で、一度だけ息を整えた。
ロクが額から二本の指を払ってみせる。
「行こうぜ」
*
昨日、杯を買って上がった石段より、長かった。
最初の十段で、勢いよく行きすぎたと分かった。
途中からは走るのをやめ、息を切らさない速さで上がった。
ロクも黙った。
二人とも、返事に使う息が惜しかった。
上に着くと、工房の前に、削りかけの木材が積まれていた。
入口の横では、日に焼けた三十代くらいの男が、足の長い台へ板を載せている。革紐で束ねた黒髪に、白い木屑がついていた。
「港から、ガラスを……」
「来たか。船は?」
「あと、少しで。下ろす場所を、先に」
男が俺の顔を見て、木材の山を振り返った。
「ああ、そこへ来るな。すまん。おい、二人、こっちを空けてくれ」
中へ声を掛ける。
俺たちも息を整えてから、足元の端材を脇へ寄せた。荷車を一台、船が停まる場所へ出してもらう。
工房の壁には、まだ板で塞いだ細長い窓があった。
屋根の下は暗い。男が使っていた台だけが、開いた戸から差す光を受けている。
「ここに、あのガラスを?」
「そう。日が落ちる前から手元が暗くてな。明日には、奥でも仕事ができる」
かかっ、かかっ、と、軽い脚音が上がってきた。
細い道の曲がり角から、緑の船が現れる。
荷台に四箱。アニカが窓からこちらを見て、停める場所を確かめた。
「そこ、空いた?」
「空けてもらった!」
俺が手を上げると、ヒバリは荷車の前で脚を曲げた。
今度は、箱を持ったまま行き先を探さずに済んだ。
船から荷車へ。荷車から、工房の入口へ。
四箱の蓋を開け、受け取る男が、光へ一枚ずつかざす。
俺はその横で、息を詰めて見ていた。
最後の一枚が、木枠へ戻された。
「いいよ。ひびなし。全部、受け取った」
俺の肩から、ようやく力が抜けた。
男は受領の紙をアニカへ渡した。
彼女は内容を確かめてから、書類入れの留め金を鳴らした。
「これで、配達完了」
ロクが荷車へ肘を載せた。
「今夜の飯、多めにしてもらおう」
「俺も頼む」
「自分で言えよ。俺の分まで減るだろ」
笑おうとして、まだ息が少し引っかかった。
*
コハクが工房へ着いた時、四箱を壁際へ寄せ終えたところだった。
船長へ受領紙を渡し、帰りは俺もコハクに乗った。
リゼが操舵室の横の腰掛けを指してくれた。
「座ってていいよ。立つと、脚が笑うでしょう」
「もう笑ってる」
「今日は、町の方が強いね」
言いながらも、彼女は俺が腰を下ろすまで船を動かさなかった。
ヒバリの後ろについて港へ戻り、荷主へ受領紙を渡した。
船長が運賃を受け取り、アニカへ十八枚を渡す。
約束した額のままだった。
アニカは数え終えると、リゼへ顔を向けた。
「昨日のは、訂正する」
「どれ?」
「コハクが、ただ遅い船だって決めつけたこと。風のところ、あんなに走れると思わなかった」
リゼの指が、袖口へ伸びた。
まくり直しかけて、今は終わった後だと思い出したように、手を下ろす。
「そっちも。あの道、ちゃんとガラスを運べるんだね」
「私だって、速いだけじゃ仕事にならないから」
二人とも少し笑った。
俺は、空いた荷台を見た。
「次は、一箱ずつ、当てる木と布をまとめておけないでしょうか。運び出す順に、手前へ積んで。外したものを置く場所も、先に決めたいです」
ボルグさんは、すぐには頷かなかった。
「一箱ずつ支えて、同じように揺れを止められるか。そこから試すんだ」
「はい」
「今度は空箱でな」
俺が頷くと、アニカが小さな砂時計を持ち上げた。
「載せ替えを半分の時間にできれば、コハクだけで運ぶより、五分早く着く」
リゼが、それを見た。
「もっと短くできる」
「できる?」
「試したい」
アニカは砂時計をしまった。
それから、リゼへ右手を出した。
「じゃあ、組もうか。競走」
「うん。船長たちに、ちゃんと話そう」
リゼが、その手を握った。
俺は、ようやく笑った。
考えていたほど上手く運べなかった一日が、それだけで終わらずに済んだ。
その時、港の入口で、鐘が二つ続けて鳴った。
*
白い船が二隻、港へ入ってきていた。
コハクより小さく、ヒバリより大きい。
家はなく、船体の真ん中に低い操舵室、その前後に広い荷台がある。船首に同じ赤い輪の印が描かれていた。
一隻が、荷受け場の前で止まる。
後ろの船は、前の船が脚を曲げ終わるより早く、少し離れた空き場所へ入っていた。
まだ渡し板が地面へ届かないうちに、船員が荷車を押して乗り口へ来た。
板が着く。
男が地上の係へ手を上げる。
車輪が、ことことこと、と下りてくる。
誰も走っていなかった。
けれど、何かが終わるたびに、次の誰かがもうそこにいた。
俺は自分たちの横木を思い出した。
これをどこへ置こうかと、箱の前で止まっていた時間を。
「あれが、ルーガンの組」
アニカが言った。
先の船から、白い上着の男が下りてきた。
三十代半ばくらい。日に焼けた大きな身体で、濃い栗色の髪を短くまとめている。広い額の下に、手入れした口髭があった。
船員が何か言うと、彼は口髭を両側から撫で、手を下ろして頷いた。
俺たちの近くへ来た時、アニカが声を掛けた。
「今年、私も出るよ」
男が足を止める。
アニカからリゼへ、それからコハクへと目を向けた。
「組むのか」
「そのつもり」
ルーガンは、荷物のなくなったヒバリの荷台を見た。
「今日は何を運んだ」
「ガラス。四箱」
「割ったか」
「割ってない」
口髭の下が、わずかに緩んだ。
「無傷なら、今日の仕事はできたな。で、祭りも、その船と組むのか」
「うん」
アニカが答える。
ルーガンは、コハクの家々を眺めた。
「家は、競走の前に下ろすんだろうな」
リゼの笑みが消えた。
「下ろさない。皆で暮らしてる船だから」
「だったら、出るだけにしとけ。優勝争いに入れる船じゃない」
あまりに簡単に言ったので、俺は返事ができなかった。
相手の船を見た。家のない、広い荷台。たしかに、荷を運ぶための船だ。
だからといって、そこまで言われる理由はなかった。
「走るところ、まだ見てないでしょう」
リゼが言った。
ルーガンは片方の眉を上げた。
「家を載せた船は何度も見てる。重い。荷台が狭い。積み下ろしにも手間がかかる。今日のガラスは、何分で渡した」
「……途中の載せ替えに、二十分」
「ほらな」
俺は口を開きかけた。
その二十分には、俺が横木の置き場を決めていなかった分も入っている。
でも、短く運べたという結果は、まだ出せていなかった。
ルーガンはアニカへ向き直った。
「お前の船なら先に戻れるだろうが、相棒がそれじゃ、待つだけだ。勝ちたいなら、組み直せ」
「そのコハクと組むって、私が決めたの」
アニカの声が硬くなった。
「今日、一緒に運んだ。あんたは、見てないでしょ」
「見なくても分かることはある」
リゼが一歩、前へ出た。
「私たちは、この船で勝つつもり」
「なら、家を下ろしてこい。住人もだ。余計な荷を積んだまま、俺たちに勝てると思うな」
コハクの窓で、エダさんが手を止めた。
洗った端布を、窓の内側の紐へ広げていた。今日、俺たちへ分けてくれた布の、残りだった。
ルーガンの視線は、もう別の船へ動いていた。
言った言葉が誰に届いたか、気にもしていないようだった。
「その言い方、やめて」
リゼの声は、大きくなかった。
「あの家も、そこにいる人も、邪魔な荷物みたいに言わないで」
「速くする方法を教えてやってるんだ」
「そんな方法、頼んでませんよ」
俺は言った。
ルーガンの目が、こちらへ戻る。
上手い言い方は、思いつかなかった。
エダさんの布を使って、ボルグさんが留めた荷を、俺とロクが運んだ。
その船の仕事を、何も見ずに切り捨てられたことに、腹が立っていた。
リゼは、相手から目を逸らさなかった。
「家も、皆も、載せたまま勝つ。勝ったら、今の言葉を取り消して」
ルーガンは彼女を見た。
それから、口髭を撫でていた手を下ろした。
「明日の午後、公開の試走がある。二隻揃えて来い。俺たちが相手をしてやる」
「勝ったら、取り消すの?」
「ああ。ここにいる連中の前で、言い直してやる」
荷受けをしていた船員が、こちらを見ていた。
一人が笑いかけ、リゼの顔を見て口を閉じた。
「聞いたからね」
アニカが言った。
書類入れの留め金を、指で強く押さえている。
ルーガンは、白い二隻へ歩き始めた。
「待たせるなよ。競走の後まで、のんびり付き合う気はねえ」
リゼの手が、横でぎゅっと握られた。
俺はもう、綺麗に揃った荷役を褒める気になれなかった。
「カイ」
「俺も、腹が立ってる」
彼女がこちらを見た。
少しだけ息を吐き、それでも声は震えていた。
「あの人に、皆の前で謝ってもらう」
「うん」
俺たちはコハクの乗り口へ向かった。
船長の許可をもらう。積み替えも、今のままでは駄目だ。
白い船へ戻ったルーガンが、乗り口から声を投げてきた。
「明日は先に戻って待ってるぞ。お前らは、ゆっくり来い」
リゼが振り返った。
「先に帰るのは、私たちだから」
「口で言うだけなら、誰でも一番だ」
男は笑い、船へ上がっていった。
リゼはその乗り口を、扉が閉まるまで睨んでいた。




