第四話 町が立ち上がる夜
肉を焼く音が、足元から響く重い音にかき消された。
俺とリゼは、まだ店の前にいた。
この市場には、家を載せた陸上船が向かい合って二列に並んでいる。船と船の間が大通りで、俺たちはそこを歩き、買い物をしていた。
その大通りの地面が、また、どんと突き上がった。
「戻ろう」
リゼに頷き、食べかけの串を店の皿へ置いた。
彼女も隣へ置く。口髭の店主は俺たちを見ると、二本の串を皿ごと引き寄せた。
「預かっとく。飯の続きは、落ち着いてからだ」
店主は焼き台へ鉄の蓋をかぶせた。
俺は木の杯をリゼの肩の袋へ入れてもらい、両手を空けた。
走り出そうとしたとき、道の端で鎖が鳴った。
泊まっている船は、地面の黒い鉄箱から延びる太い鎖で繋がれている。船が勝手にずれないよう、入港したときに船長たちが取りつけたものだ。
その鎖が、箱の中へ巻き取られていた。
さっきまで地面にたるんでいた鎖が、ぴんと張る。
繋がれた船の先端が引っ張られ、鉄の脚が地面を擦った。
ぎい、と、嫌な音がした。
巻き取り用の手車には、誰も触っていない。
隣の船でも、その隣でも、同じことが起きていた。
「手を出すな! 挟まれるぞ!」
店主の声を背に、俺たちはコハク号へ走った。
*
二隻ぶん戻ると、見慣れ始めた赤茶色の屋根が見えた。
六本の脚の上に長い船体があり、その上に小さな家が並ぶ。それがコハク号だ。
市場の大通りへ向けた船首には出入口があり、地面との間に幅の広い板が渡してある。さっき荷車も通った、乗り降りのための坂道だった。
オルド船長が、その板の上で手を振っていた。
「リゼ、操舵室へ! 俺はみんなを上げる!」
灰色の袖なし上着から出た腕が、行き先を示す。
リゼは頷き、板を駆け上がった。船首にある窓の多い小部屋へ、蜂蜜色の三つ編みが消える。あそこで船の脚を動かすのだ。
俺は、板の下に残っていたエダさんへ駆け寄った。
銀髪を後ろでひとつに結んだ彼女は、売り物の手袋や袋を、大きな布へ包んでいた。首に掛けた巻き尺が、前かがみになるたび揺れている。
畳んだ店の机は、もう若い船員が担いでいた。赤い頭巾を被った男が、それを抱えて板を上がっていく。
「その箱、お願い」
エダさんが足元を示した。
蓋の開いた木箱に、鋏と針入れ、色とりどりの糸巻きが収まっている。
俺が蓋を閉めて抱えると、エダさんも商品を包んだ布を両腕に持った。
二人で板へ向かった、そのときだった。
コハク号に繋がれた鎖が、がんと鳴った。
船首が引かれ、地面に置かれていた板の端が横へ滑る。
先に足をかけていたエダさんが、膝をついた。
「エダさん!」
俺は木箱を地面へ置き、板の脇へ回った。
彼女は布の包みを抱えたまま、片膝で身体を支えている。もう片方の靴が、板から半分はみ出していた。
「荷物、こっちへ。手を空けてください」
包みを下から受け取る。
ずしりと腕に来たが、落とさずに済んだ。
エダさんの両手が、板の縁を掴む。
「船長、そこ、押さえてて!」
リゼの声が窓から飛んできた。
船長が板の上端を踏みつける。
船の下で、しゅうっと空気が抜けた。
前の鉄脚がゆっくり曲がり、出入口の高さが下がってくる。板の傾きが緩くなった。
「今だ。手を出せ」
船長がエダさんの手を取り、上へ引いた。
彼女が自分の足で船へ上がるのを見届けてから、俺は抱えた包みを板に載せた。下から押すと、赤い頭巾の船員が受け取ってくれた。
戻って木箱を拾い、俺も上がった。
掌がひりひりした。さっき水を運んだ跡へ、箱の角が当たっている。
エダさんが俺の腕から箱を受け取り、蓋を開けた。
鋏。糸。針入れ。
彼女は指先で順に触れて、長く息を吐いた。
「助かったよ。これがなきゃ、明日から仕事にならない」
細い指の関節が節くれ立っていた。
箱の縁に掛けた親指だけが、まだ少し震えている。
「俺の袖も、直してもらわなきゃ困りますから」
紺色のシャツの破れた右肩を見せると、エダさんは顔を上げた。
目尻の皺が、ようやく深くなった。
「分かってるよ。逃げやしない」
箱を抱えて家へ戻る背中を見送り、俺は操舵室へ入った。
後ろでは、船長と若い船員が、全員渡り終えた板を引き上げていた。
*
リゼは椅子に座り、左右のレバーを握っていた。
薄青い上着の袖は肘までまくられ、日に焼けた腕に細い筋が浮いている。足元には、脚を動かすための踏み板が二つあった。
俺は壁の取っ手を掴んで立った。
彼女の肩の袋は、客用の腰掛けに置いてある。
「船、歩けるか?」
「脚は動く。でも、鎖で前を押さえられてる」
リゼが窓の下へ目を向けた。
コハク号の先端から、二本の鎖が斜め下へ延びていた。その先は、広場に据えつけられた黒い箱だ。
「前に寄れば緩むと思ったけど、その分だけ、また巻かれるの。無理に歩いたら、船のほうが壊れる」
船を操るリゼでも、外から繋ぎ留められた鎖は外せない。
俺は、窓の下の二本を見た。一本だけでも、両手で持ち上げられそうにはなかった。
そこで、広場が持ち上がった。
最初は、コハク号が立ち上がったのだと思った。
だが、隣の船も、向かいの鍋屋も、こちらと同じ高さのままだった。
遠くの砂丘だけが、窓の下へ沈んでいく。
「……何だ、これ」
市場に来た船は、全部、同じ広場に足をつけている。
その広場ごと、空へ近づいていた。
「入口を見て!」
リゼに言われ、俺は横の窓へ顔を向けた。
コハク号は、船の列の入口に近いところに泊まっていた。
列が途切れる先には、市場と外の砂漠を繋ぐ、広い坂がある。ここへ入るとき、コハク号もあそこを歩いてきた。
坂の脇から、砂が滝のように落ちていた。
砂に埋もれていた鉄の壁が、ゆっくり姿を現す。
さらにその外側で、巨大な脚が動いた。
家を一軒横倒しにしたような太さだった。
鉄の足が砂漠を押し、曲がっていた関節が開いていく。
ごおん。
窓のガラスが震えた。
露出した関節には、人の背丈ほどもありそうな歯が並んでいた。一つ噛み合うたびに、腹の底まで重い音が届く。
あの脚が、広場を持ち上げている。
「これ……船なのか」
俺の背後で、低い声がした。
「船を積んで運ぶ船だ。ここまででかいのは、見たことがねえが」
振り返ると、戸口に男が立っていた。
五十代くらい。背は船長より低いが、胸も肩も厚い。短く刈った灰色の髪の下に四角い顔があり、顎には剃り残した髭があった。
色褪せた作業着の首元へ手拭いを掛けている。
「この船の機械を整備してるボルグだ。お前がカイか」
「はい。カイです」
名乗り返す声が、自分でも頼りなかった。
俺はもう一度、外を見た。
地面だと思っていた市場の広場は、巨大な船の甲板だった。
コハク号も、鍋屋の船も、水売りの船も、その上に載っている。
小さな船を何十隻も積んだ大きな船が、砂の中から立ち上がろうとしていたのだ。
市場全体が、傾いた。
通りを走っていた人たちが膝をつき、店の皿が落ちて割れた。
コハク号の中でも、どこかの戸が勢いよく閉まる。
リゼが踏み板を踏み込んだ。
手前のレバーを引き、もう一方を少し押す。
船の下で、鉄脚の関節がぎしぎしと鳴った。
傾いた足場に合わせて左右の脚が曲げ伸ばしされ、俺たちの立つ床が少しずつ水平へ戻る。
俺は取っ手にしがみついたまま、彼女を見ていた。
唇をきつく結んでいる。
頬の横に落ちてきた髪を払う余裕もない。だが、レバーを動かす指は止まらなかった。
やがて、突き上げる振動が収まった。
巨大船が立ち上がり終えたらしい。
リゼも手を止め、短く息を吐いた。
「うちの船は、大丈夫。倒れない」
俺は頷いた。
彼女の声を聞いて、ようやく取っ手を握る力を少し抜けた。
*
オルド船長が戻ってきた。
短い髪のこめかみに白いものが混じり、額には汗が浮いている。
「十五人、全員いる。家の中の荷も押さえた」
船長は窓へ寄った。
市場だった広場を見渡し、眉を寄せる。
「誰がこんなものを動かしやがった」
「俺たちだ」
答えは、外から来た。
中央の大通りを、黒い回収船が歩いてきた。
鎖に繋がれた船の間を、その船は自由に動いていた。船首に、鎖は掛かっていない。
船首に立つ細身の男が、金属の筒を口から離した。
短い黒髪を後ろへ撫でつけ、薄い外套の袖をまくっている。三十代前半に見える、さっきの回収船長。
セヴランだった。
彼の船は、コハク号の前で止まった。
俺たちの窓と、彼の立つ船首が向かい合う。
「人は入口へ集まってくれ。外の二隻で運ぶ。乗るのに金はいらない」
彼の指した先には、屋根のない平たい船が二隻いた。
巨大船の外側で長い脚を伸ばし、こちらの甲板へ細い橋を渡している。荷物を抱えた人が、その橋を一列になって歩いていた。
人だけなら、外へ逃がせるらしい。
オルド船長が窓を大きく開けた。
「動かしたのはお前だと言ったな。何が目的だ」
「この大船が欲しかった。砂が引くたび調べて、ようやく動かせたんだ。これからは俺たちの荷運びに使う」
セヴランは、足元の巨大船を指した。
「下に仲間がいる。そいつらに動かさせて、俺たちの回収場へ持っていく」
「なら、上の船を先に下ろせ」
「その船にも、稼がせてもらう」
セヴランは、コハク号から隣の船へ視線を移した。
「鎖は外さない。ここに載ってる船も、全部一緒に運ぶ。返してほしければ、あとで金を払ってくれ」
俺は聞き間違いかと思った。
「俺たちの船を、勝手に持っていくんですか?」
「そう言ってる」
セヴランは俺を見た。
目尻に、さっき水運びの仕事へ誘ったときと同じ皺が寄った。
「船と積み荷の値段を調べて、その半分。払えば返す。払えないなら船を売って、売れた金の半分をこっちでもらう」
「ふざけるな。そんな金、あるか」
船長の太い腕が、窓枠を掴んだ。
「朝になりゃ、みんな出ていったんだ。そのあとで動かせば済んだだろうが」
「待ったら、あんたらの船がいなくなるだろう」
セヴランは、少しも声を荒らげなかった。
その一言で、腹の奥が冷えた。
事故に巻き込まれた船を助け、代金を取るのではない。
金を取るために、逃げられない船を作ったのだ。
あの鎖は、今は俺たちの家を人質にしている。
「船を盗んで、持ち主に買い戻せってか」
オルド船長が言った。
「断っても、鎖を外すのはうちの人間だ。回収場で待ってるよ」
セヴランは新しい左の手袋を引き上げた。
右の手袋は、指先だけ白く擦り切れている。さっき、倒れかけた水樽を支える指示を出していた手だった。
俺は操舵室の戸から、後ろを見た。
コハク号の上の細い通りに、家が並んでいる。
右側の二軒目では、エダさんが木箱を抱えて戸を閉めるところだった。
さっき、道具を失わずに済んだと喜んだばかりなのに。
今度は、その道具をしまう家ごと奪われる。
人だけ逃げても、帰って暮らす場所がなくなる。
向かいの船から、怒鳴り声が上がった。
鍋屋の主人が、赤らんだ丸い顔を突き出している。
「払わねえぞ! 今すぐ止めろ!」
セヴランはそちらへ向いた。
「人を船に残すな。大船を歩かせたら、揺れる。子供と年寄りを先に下ろしてくれ」
怒鳴り返す代わりに、部下へ手を上げた。
船員たちが人の列を誘導し、救難船への橋に手すりの綱を張り足していく。
逃がす用意までしてから、俺たちを閉じ込めたのだ。
オルド船長が、俺たちに聞こえる声へ落とした。
「金は払わん。この船で出る」
「できますか」
「鎖を外せりゃ、まだな」
船長は入口を指した。
人が渡っている細い橋とは別に、コハク号も通ってきた広い坂がある。
それだけが、船の脚で砂漠へ下りていける道だった。ほかの縁から飛び下りるには、もう高すぎる。
一隻の小さな四本脚の船が、坂を下りていた。
早いうちに鎖を外せたのだろう。慎重に足を運び、最後の脚まで地面へ届くと、そのまま砂漠へ離れていった。
あの船は、逃げられた。
俺たちの船も、まだ動ける。
邪魔をしているのは、二本の鎖だった。
ボルグさんが、船長の肩を叩いた。
「巻き取りの箱を開けてみる。中に、止める仕掛けがあるはずだ」
「頼む。俺も行く」
二人が出ていくと、操舵室が静かになった。
*
リゼは、外を見ていた。
継ぎ当てのある帽子の下で、灰緑の目が、船の出口を追っている。
長い睫毛の先に小さな光が溜まり、瞬きで消えた。
「ここ、私の家なんだ」
彼女の片手が、レバーから窓の下の木枠へ移った。
塗装の剥げたところを、指で一度なぞる。
「船から降りることはあっても、帰ったら、ここにあると思ってた」
俺は、さっきまでの食事を思い出した。
次は自分が店を選ぶと笑った顔。熱い肉を頬張って、しばらく喋れなかった口元。
その人が今、自分の家を捨てるかどうか迫られている。
リゼは手を戻した。
レバーを握り直してから、こちらを向く。
「カイは、あっちに乗っていいよ。荷物も持っていける。船長には、私から言うから」
俺には、この船に残る義務はない。
今日、拾われたばかりの客だ。
だから彼女は、逃げてもいいと言っている。
自分は、操船席に座ったままで。
腰掛けの袋から、木の杯の持ち手が覗いていた。
俺がここで稼いで買った物だった。
「俺にも手伝わせてくれ」
リゼが目を上げた。
「船を歩かせるのは無理だけど、人に頼んだり、物を運んだりならできる。さっきも、それで水が届いた」
「でも……」
「助けてもらった家を、見送るだけは嫌なんだ」
俺は開いた戸へ手を掛けた。
「船を出せるようになったら、俺も乗せてくれ」
リゼは俺の顔を見ていた。
すぐには頷かなかった。
やがて、小さく息を吸った。
「乗るところ、空けておく」
口元が少しだけ緩む。
「だから、戻ってきて。勝手に置いていかせないで」
「うん」
俺は返事をして、外へ出た。
*
船長が掛け直した板を下りると、広場の空気は冷たかった。
巨船が高く立ち上がったせいか、船の間を砂の匂いのする風が通っていた。
ボルグさんは、船首の右から延びる鎖の先で、しゃがんでいた。
黒い箱の蓋が外され、中に、鎖を巻きつけた太い鉄の筒が見える。
「カイ。こっちだ」
船長に呼ばれ、二人の横へ膝をついた。
「外せそうですか」
「道具がありゃな」
ボルグさんは、油の染みた太い指で箱の中を示した。
「この大船の機械が、鎖を引っ張り続けてる。繋がりを切る仕掛けはあるんだが、引く力がかかってて、動かせねえ」
言いながら、彼は張った鎖と、コハク号を交互に指した。
「別の道具で、代わりに船を引き留める。そうすりゃ、こっちの鎖にかかる力を抜ける。機械から切り離したら、ゆっくり緩めて、船から外す」
「二本とも、そのやり方で外せるんですね」
「ああ。そのための、持って歩ける巻き上げ具が要る。手で巻く鎖と鉤がついてて、重い物を少しずつ引っ張る道具だ。重い荷を扱う船なら持ってる」
船長が顔をしかめた。
「うちのは船に据えつけてある。ここへは持ってこられん」
道具が足りない。
でも、できないわけじゃない。
俺は通りの奥を見た。
水売りのネリさんの船が、ほかの船の向こうに見えていた。
あの人は、いろんな船へ水を売っている。
誰がどんな荷を運ぶのか、俺よりずっと知っているはずだ。
「ネリさんに聞いてきます。道具だけじゃなくて、使える人にも来てもらう」
船長が頷きかけたとき、入口で鋭い笛が鳴った。
黒い回収船の上で、セヴランが腕を上げていた。
少し離れた甲板の開き戸から、革の帽子を被った男が顔を出す。セヴランの部下だろう。合図を返すように片手を上げると、戸の下へ引っ込んだ。
巨船の甲板の下で、大きな歯車が回り始めた。
入口の坂の両脇に、鎖が張った。
砂漠へ届いていた坂の先が、ずるずると砂を引きずって浮き上がる。
あの坂は、巨大船に取りつけられた、折り畳み式の乗り降り口だった。
今、それを上へ引き上げて閉じようとしている。
「まずいな」
船長が立ち上がった。
「あれが閉じたら、鎖を外しても出られん」
俺は反射的に、コハク号を振り返った。
リゼが操舵室の窓からこちらを見ていた。
「まだ行ける!」
灰緑の目は、もう坂の傾きを見ていた。
「でも急いで。下りる道がなくなる!」
鎖を外す。
コハク号を歩かせる。
坂が閉じる前に、この家ごと逃げる。
やることは、分かった。
俺はネリさんの船へ向かって走った。




