第三話 最初の稼ぎ
リゼが目当てにしていた肉の店は、妙にいい音がした。
かち、かち、かち。
胸ほどの高さの焼き台で、横に並んだ串が、少しずつ回っている。台の端に小さな歯車が連なり、店主が取っ手を一周させると、全部の肉がいっせいに裏返った。
薄切りの肉で白い根菜を巻き、串を刺してある。こんがりした面から脂が落ちた。
じゅっ、と炭が鳴いた。
「これだ」
リゼが台へ近づいた。
帽子のつばの下で、灰緑の目が串と取っ手を行ったり来たりする。
「回すところ、もう一回見てもいいですか」
「いいよ。焼けるまでなら、いくらでも」
口髭の店主が取っ手を回した。
肉が揃って向きを変えると、彼女の口元も緩んだ。
「ずるい」
「何が?」
「こんなの、欲しくなる」
俺も欲しかった。
肉と、それを回す道具の両方が。
店は商船の脇から張り出した屋根の下にあった。俺たちが歩いてきた通りを振り返れば、二隻向こうにコハク号の鼻先と、エダさんの出した台が見える。
見知らぬ町だが、帰る船を見失うほど遠くへは来ていない。
「一本、銅貨二枚。辛いのもできるよ」
「あとで二本、お願いします」
リゼが言って、腰の革袋へ手をやった。
口を開きかけて、隣に提げていた小さな巾着を探り直す。
「そっちは?」
「船のお金。水と塩を買う分」
「ああ」
「間違えないように、別にしてる」
彼女は自分の巾着を握ってから、店主を見た。
「水を頼んで、すぐ戻ってきます」
「今焼いてる分で終わりだからね。冷めないうちにおいで」
焼き台には、まだ十数本が並んでいた。
リゼはそれを確かめ、少しだけ歩幅を大きくした。
通りの先では、丸い水槽を背負った船が店を開いていた。
水槽の横腹から太い管が下り、先端に蛇口がついている。その下へ客が桶を置くたび、水が底を叩く音がして、満ちるにつれて響きが高くなった。
飲み水を売る船らしい。
その船の前で、人の流れが止まっていた。
*
大きな樽を載せた荷車が、斜めに傾いていた。
手前の車輪が床の継ぎ目に落ちている。折れた車軸の先が、車輪の中心から上を向いて飛び出していた。
樽は縄で荷台へ縛られていたが、片側へ寄った重みで、荷車の縁がぎしぎし鳴っている。
「そこ、引かないで。樽が転がる!」
リゼが声を上げた。
取っ手を持っていた男が、ぴたりと止まった。
彼女は傾いた荷台の低い側を指した。樽を留める縄が、木の縁へ食い込んでいる。
「車輪を戻そうとすると、そっちへ倒れる」
「分かった。離れろ、下に手を入れるな」
答えたのは、男の後ろから出てきた、三十代前半くらいの人物だった。
黒い髪を短く撫でつけ、薄い外套の袖を肘までまくっている。左手の革手袋だけが新しく、右手のものは指先が白く擦り切れていた。
「そこの角材を噛ませろ。先に荷を受ける」
指示を受けた男たちが、樽の倒れる側へ木を差し込んだ。
荷台がその上へ落ち着くと、嫌な軋みが止まった。
通りのこちら側には水売りの船。向かい側には、黒い船腹を持つ大きな船が停泊していた。
その黒い船から下ろされた長い鉄の軸を、四輪の荷車が載せている。故障した荷車が、その行く手を塞いでいた。
「ネリ。この樽、あとどれだけ入ってる」
外套の男が、水売りの女へ聞いた。
四十代くらいの、赤茶色の髪を短く切った人だった。濡れた前掛けを膝へ押しつけ、樽の下の栓を確かめている。
「十二杯。桶でね。三隻分の配達が残ってる」
「全部流せば、うちの腕で荷車ごと吊れる。水代は払う」
「売った水なの。船に残ってるのも、列のお客の分だけ。代金を返したって、あの三隻は今夜の水を買えないよ」
ネリさんは、樽の腹を平手で叩いた。
「店を閉めて、私が桶で運ぶ。その間だけ待って」
「一人で十二往復か。これを届けなけりゃ、向こうの船は脚を組み直せんのだが」
男は、背後の鉄の軸を親指で示した。
太さは俺の胴ほどもあり、両端に深い溝が刻まれている。
男の仲間が、荷車の持ち手へ肩を預けて汗を拭いた。
水売りの船には、蛇口を待つ客がまだ並んでいた。
こちらの配達へ手を取られれば、向こうの客も止まる。通りでは、荷を背負った人が立ち止まり、狭い隙間を覗き込んでいた。
「リゼ。俺たちが買う水も、ここ?」
「うん。コハク号へ四杯、届けてもらうことになってる。船長に聞いた」
「残ってる三隻に入ってるか、聞いてもらえる?」
彼女はすぐにネリさんへ顔を向けた。
俺は黒い船を見上げた。
船腹から鉄の腕が突き出し、先端から鎖が下がっていた。途中には円筒形の巻き上げ機があり、その横に手回しの取っ手がついている。
「中身が入ってると、あれじゃ持ち上がりませんか」
外套の男に聞くと、彼は俺の視線を追った。
「この張り出しじゃ重すぎる。八杯も抜けばいけるが」
「じゃあ、水を運び終えるまで、倒れないように支えてもらえますか」
「お前が運ぶのか?」
俺は頷き、ネリさんへ向き直った。
「配達を手伝わせてもらえませんか。行き先と、どこへ入れるかを教えてください。あと、賃金を」
ネリさんが、俺の顔から破れた肩、靴へと目を動かした。
「働きたいの?」
「はい。今日来たばかりで、お金がなくて」
「十二杯、全部届けて十二枚。桶は貸す。ただし、こぼした分は数に入れないよ」
足元には空の桶が二つあった。
俺が片方へ手を伸ばすと、隣からもう片方の取っ手が持ち上がった。
「私も運ぶ。半分ずつでいい?」
リゼが桶を提げていた。
「助かる。でも、買い物は」
「うちの水も入ってた。先にそれを運べば、船長も助かるでしょ」
リゼは革袋からコハク号の水代を出し、ネリさんへ渡した。
外套の男が、巻き上げ機の横にいた仲間へ手を上げた。
「鎖を掛けろ。浮かすなよ。揺れ止めだけでいい」
「はい、船長」
鎖が荷車の枠へ回され、金具が閉じた。
取っ手を回すと、じゃらじゃらと鳴っていた鎖が巻き取られていく。たるみが消えたところで、音が低く、詰まったものへ変わった。
かちん。
歯車の溝へ、小さな爪が落ちた。
男が取っ手から手を離しても、鎖は戻らなかった。
「逆回りを止める爪だ。そこには触るなよ」
俺が見ているのに気づいて、外套の男が言った。
「ありがとうございます。カイです」
「セヴラン。船の回収屋だ。そいつらの仕事を止めてる間に、頼むぞ」
彼が顎で示した先で、二人の船員が角材を見守っていた。
俺はもう一度頷き、樽の栓の下へ桶を置いた。
*
最初の一杯を持ち上げて、話が早すぎたと思った。
腕が、まっすぐ下へ引かれる。
取っ手が指の付け根に食い込んだ。
運べる重さではある。ただ、これを軽々と提げて歩く人と、俺の身体は違う。
リゼが隣で桶を持った。
「歩くとき、腕は振らないほうがいいよ」
「うん。既に、振る余裕はない」
笑った彼女が、俺に歩調を合わせた。
肉の店の前を通り、さらに二隻ぶん戻れば、コハク号だ。
それでも人を避ければ水が揺れ、縁から飛び出しそうになる。
水面を見すぎて足元が危なくなり、俺は顔を上げた。
「水、通ります。すみません」
声をかけると、布を担いだ男が身体を横へ向けた。
空けてもらったところを二人で抜けた。
船の前にいたオルド船長が、こちらを見つけた。
「どうした。運んできたのか」
「向こうで荷車が壊れて。配達を請け負いました」
船長は水の入った桶を見て、先に渡し板を空けた。
「後ろの水槽まで頼む。リゼ、蓋を開けてやってくれ」
船へ上がり、家の間の通りを抜けた。
大きな水槽の横には、足場へ上がる短い階段があった。
リゼが先に上がって蓋を開ける。俺も階段を上がり、船長に手を貸してもらって、桶を縁へ乗せた。
ざあ、と水が流れ込んだ。
金属の壁の内側で、音が低く膨らんだ。最後の一滴が落ちると、広い胴の中へ、短い響きだけが残った。
空になった桶を下ろした。
指の付け根に、赤い筋がついていた。
「無理はするなよ」
船長に言われ、俺は片手ずつ握り直した。
「あと一往復で、ここの分は終わりです」
リゼの桶の水も入れた。
塩はこのあと買うと船長に伝え、二人で通りを引き返した。
次に水を満たしてもらう間に、ネリさんへ聞いた。
「日本って場所、知りませんか。俺、そこへ帰る道を探してて」
「ニホン? どっちの地方?」
「それが分からなくて」
ネリさんの手が一度止まった。
「悪いね。聞いたことがない」
桶の中で、泡が弾けた。
分かっていたつもりでも、腹の奥が少し冷えた。
「……ありがとうございます。遠くから来るお客さんがいたら、聞いてもらえると助かります」
「いいよ。今夜はあの六本脚にいるんだね」
頷いて、桶を持ち上げた。
コハク号への四杯を終え、次は青い屋根の船へ運んだ。
こちらは船べりに受け口があり、上へ運ぶ必要がなかった。
二往復目を終えるころには、取っ手の形が掌へ赤く残っていた。
桶を受け口へ置くと、向こうの乗組員が下から持ち上げてくれた。
「助かる。片手、離していいぞ」
水が落ちる音を聞きながら、指を一本ずつ解いた。
元の荷車へ戻ると、セヴランが樽の中を覗いた。
「もういける。二人とも、離れて」
俺たちは桶を持ったまま、船腹のほうへ退いた。
船員が取っ手を回した。
かち、かち、かち。
止め爪が、歯を一つずつ乗り越える。
焼き台で聞いたものより、ずっと硬い音だった。鎖が張り、荷車の枠が角材から離れると、巻き上げ機の台座がきしんだ。
セヴランは樽の傾きを見ながら、掌を下へ向けた。
「その速さでいい。止めろ。腕をこっちへ」
船員が、鉄の腕の根元にある長い棒を押した。
腕が横へ旋回し、宙に浮いた荷車も、ゆっくり通りの脇へ移った。
別の船員が鉄の台を二つ並べる。その上へ、荷台の枠が降ろされた。
ごとん。
樽の中の水が遅れて片側へ寄り、腹の内側で、どぷん、と鳴った。
船員が鎖を少し緩め、荷車が安定しているのを確かめた。
通りの向こうから声が上がった。
長い鉄の軸を積んだ荷車が動き出した。
車輪が継ぎ目を一つ越えるたび、四つの車輪が順々に、ごと、ごと、と鳴る。待っていた人たちも、その後ろを歩き始めた。
「おかげで水代を払わずに済んだ」
セヴランが笑った。
近くで見ると、目の端に細かい皺があった。顔より先に、目が笑う人だった。
「カイ。今からうちで荷を運ばないか。そこの配達の倍は出す」
「あと四杯、残ってるんです」
「道は空いた。あとは水屋に任せりゃいい」
最後の配達先は、赤い帆の船だった。
今日、窓から子供が手を振っていた船だ。水が遅いのを気にしたのか、乗降口に女の人が立って、こちらを見ていた。
俺は桶を樽の栓の下へ置いた。
「最後の客が、待ってるんで」
栓を開いた。
水が、桶の底を叩き始めた。
セヴランは俺の手を見て、それから赤い帆の船を見た。
何か言いかけた口を閉じ、片方の肩を上げる。
「じゃあ、そっちを頼む」
外套を翻し、彼は鉄の軸を追っていった。
隣の桶を寄せながら、リゼが俺を見ていた。
「手、痛いでしょ」
「痛い」
答えると、彼女は自分のハンカチを取り出した。
俺の桶の取っ手へ二重に巻き、結び目を外へ向ける。
「もっと早く、こうすればよかった」
「帰ったら洗って返す」
「うん。まず、最後の船までね」
彼女は自分の桶を提げた。
俺も布を巻いた取っ手を握った。
赤い帆の船は、青い屋根の船より少し遠かった。
途中で一度、二人で桶を置いた。
*
二往復目の桶が空になると、赤い帆の船の二階から、昼間の子供が顔を出した。
「あっ。さっきの!」
短い腕が窓から突き出された。
俺は空いた手を上げた。掌がひりひりしたが、今度は指がよく開いた。
水売りの船へ戻り、取っ手からハンカチを外した。湿った布を畳んでポケットへ入れ、桶を返す。
ネリさんは二つの桶を並べ、俺たちの手へ銅貨を六枚ずつ数えた。
重ねると、薄い金属がちりちりと鳴った。
「助かったよ。水を捨てずに済んだ」
「こっちも。仕事、ありがとうございました」
俺は銭を握った。
親指の腹に、表面のざらつきが触れた。
この世界で、俺が使える金だった。
リゼは船のお金で塩も買い、布包みを肩の袋へ入れた。
俺は帰り道の雑貨の台で、銅貨を一枚使った。
買ったのは、木の杯だった。
指を入れられる持ち手があり、底が広い。船が揺れても倒れにくい、と店の人が台を揺すって見せた。
水売りの船へ少し戻ると、ネリさんが自分の水筒から一杯、分けてくれた。
水筒を借りずに、自分の杯で飲んだ。
少し木の匂いがした。
喉を鳴らして飲み終えるまで、リゼは急かさず待っていた。
「行こう」
「うん」
彼女が振り返った先で、焼き台の炭はまだ赤かった。
ただし、串は二本しか残っていなかった。
リゼの足が止まった。
店の前に、客が一人いる。
俺たちと同じ串を指さしていた。
「ああ、それは先の二人の分なんだ。もう肉がなくてね」
店主がそう言って、こちらへ顎を上げた。
「遅かったな。根菜、柔らかくなっちまったぞ」
「すみません。水を運んでて」
リゼが台へ近づいた。
さっきまで桶を下げていた手が、今度は小さな巾着へ伸びる。
俺は先に、銅貨を四枚置いた。
「二本、ください」
「カイ。自分の分は出すよ」
「助けてもらった日の夕飯くらい、俺に出させてくれ」
俺は渡された串の片方を、彼女へ差し出した。
リゼは、串より先に俺の顔を見た。
目が合ってから、少し遅れて、その手が上がった。
「……じゃあ、次は私の番ね。お店も、私が選ぶ」
「ぜひ」
串を受け取った彼女が、台の端へ移った。
帽子のつばを上げ、小さく息を吹きかける。それから一口かじって、両目を丸くした。
まだ熱かったらしい。
唇を閉じたまま、しばらく動かない。
俺は笑いそうになって、自分の串へ顔を向けた。
肉の表面は薄くぱりっとしていた。
噛むと、中の白い根菜がほぐれ、甘い汁と肉の脂が一緒に出てくる。塩のほかに、鼻へ抜ける爽やかな匂いがした。
確かに熱い。
笑わなくてよかった。
「おいしい」
リゼが、ようやく言った。
頬が少し赤い。次の一口を見つめながら、空いている手で帽子を深く被り直した。
「次は、カイが食べたことない物にする」
「たぶん、だいたいそうだよ」
「じゃあ、選び放題だ」
彼女は笑って、今度は念入りに息を吹きかけた。
焼き台の取っ手が回った。
串の外れた軸も回り、歯車の列が、かち、かち、と鳴った。
向かいの店が戸を開け、誰かが楽器を弾き始めた。
高い弦の音の向こうで、巻き上げ機の鎖が鳴る。
その奥では別の船が、一定の間隔で、空気を吐くような音を立てていた。
音を追うと、人が何をしているのか、少しずつ分かる。
ここで暮らしているうちに、コハク号の音も聞き分けられるようになるのだろうか。
歩き出す前の音とか。
誰かが帰ってきて、戸を閉める音とか。
俺は木の杯を小指へ引っ掛け、もう一口、肉をかじった。
そのとき、靴底を何かが叩いた。
どん、と一度。
大きな荷物を落としたのかと思った。
だが、少し間を置いて、もう一度来た。
リゼが串を口から離した。
足元の、灰色の床。
その継ぎ目から、細かい砂が跳ねていた。
「リゼ」
彼女は答えず、しゃがんだ。
空いた手を床へつけ、店の脇に見えている船の脚を振り返る。
隣の船は動いていない。
今度は、衝撃のあとに音が続いた。
ずっと下で、重い歯車が一枚ずつ噛み合っていくような、ゆっくりした音だった。
リゼが立ち上がった。
俺の袖を掴んだ指に、力が入る。
「船長を呼ぼう」
食べかけの串を握り直した。
俺たちの足の下で、何かが動いていた。




