↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/33

第二話 今夜だけの町

 目を覚ますと、窓の外で、よその家の子供が手を振っていた。


 二階の窓から身を乗り出した、小さな男の子だった。

 家ごと、ゆっくり俺を追い抜いていく。


 俺は腰掛けから身体を起こした。


 コハク号のすぐ横を、四本脚の船が歩いていた。船の上には細長い家が一軒だけ載っていて、その屋根には、畳んだ赤い帆が縛りつけてある。

 男の子の後ろから母親らしい人が腕を伸ばし、服の背を掴んだ。それでも手は振り続けている。


 俺も手を上げた。


「あっちにも、住んでるんだな」

「うん。あの船、速いよ。風がいいと帆も使えるから」


 隣の操船席で、リゼが答えた。

 彼女の膝には、さっき座席の脇にあった地図が広がっている。


 結局、丘の向こうを見る前に眠ってしまったらしい。

 窓から入る光は低くなり、脚が踏む砂にも長い影がついていた。


「どれくらい寝てた?」

「砂丘を二つ越えるくらい」

「……よく寝た、気がする」

「うん。首、何度も落ちそうになってた」


 リゼが自分の首を少し傾けた。

 俺は首筋を押さえた。片側だけ、見事に固まっていた。


 船の歩みが遅くなった。

 追い抜いていった四本脚の船も、砂丘の裾で止まっている。その向こうには、旗を立てた船の屋根がいくつも見えた。


「着いた?」

「港はまだ砂の下。ここで待つの」


 リゼが二本の操縦桿を手前へ引いた。

 床がわずかに沈み、脚の音が止まった。


「そのまま座ってな」


 後ろから声がした。


 開いた扉に、大柄な男が立っていた。四十代の後半くらいだろうか。短く刈った髪に白いものが交じり、袖のない灰色の上着から太い腕が出ている。

 片手に木の椀を持っていた。


「船長。今、起きたところ」


 リゼが地図を巻きながら言った。


「コハク号の船長、オルドだ。リゼから話は聞いた」


 男は俺の隣へ腰を下ろし、椀を差し出した。

 中には、薄黄色の豆が山になっている。表面が油で光り、湯気が少し上がっていた。


「カイです。助けてもらって、ありがとうございます」

「礼はあいつに。船はあのまま通り過ぎるところだった」


 船長は顎でリゼを示した。

 リゼは地図を筒へ戻しながら、こちらに目だけを向けた。


 俺は椀を受け取った。

 豆を一つつまむと、まだ温かかった。噛めば柔らかく潰れ、塩と、知らない香草の匂いが口に広がった。


 そこで急に、腹が減っていることに気づいた。


「帰りたいのは、ニホンって国だったな」


 船長が俺の食べる手を見ながら言った。


「はい。知ってますか」

「悪いが、聞いたことはない。今夜の港には、ずっと遠くから来る船もある。そっちでも聞いてみよう」


 俺は頷いた。

 ポケットには、割れたスマホと財布が入っている。ここまで持ってこられたのだから、帰る道もどこかにあるかもしれない。

 そう考えて、豆をもう一つ食べた。


「どこの船にも心当たりがなかったら、今夜はうちで寝ていけ。下りる荷があるから、寝台を一つ空けられる」

「……ありがとうございます。何か手伝えること、ありますか」

「立つと、ふらつくか?」

「今は大丈夫そうです」


 試しに立ってみた。

 床は動かず、足もちゃんと身体を支えた。


 船長は俺の靴から肩まで見た。


「だったら食ってから、通りを空けるのを手伝ってくれ。荷車を前まで通したい。物をどかすときは、持ち主に聞いてな」

「分かりました」


 彼は立ち上がり、扉の向こうへ出ていった。

 すぐ外で誰かと荷物の数を確かめる声がした。


 腰掛けに戻り、残りの豆を食べた。

 空の椀を扉脇の棚へ置くと、リゼが扉の裏から箒とちり取りを出してきた。


「こっちは、覚えてる?」


 彼女が俺の足元を見た。

 靴から落ちた砂が、まだ小山になっている。


「最初の仕事、あったな」

「それは自分で落とした分」


 箒を受け取った。

 今度は、立ったまま掃除ができた。

 集めた砂を乗降台の外へ捨て、箒とちり取りを扉の裏へ戻した。


     *


 操舵室を出て、船の後ろへ続く通りに足を踏み入れた。


 左右に並ぶ家の屋根が、夕日を赤く受けている。

 通りは荷車が一台通っても人が避けられるくらいの幅があった。ただ、今は軒先から出された椅子や桶、作業台がところどころを狭くしていた。


 右手の家で、男が窓を閉めた。

 窓枠の下にある二つの留め具を掛け、外に置いていた椅子を家へ運び込む。


 その先では、銀髪をひとつにまとめた女性が、台の上の布を巻いていた。六十代くらいだろう。首に細い巻き尺を掛け、口に小さな洗濯ばさみをくわえている。


 布が風に持ち上がった。

 彼女は慌てず、くわえていた洗濯ばさみで端を台へ留めた。


「すみません。船長に、通りを空けるよう頼まれたんですけど。この台、片づけますか」


 女性が顔を上げた。


「あんたが、さっき乗った人?」

「カイです」

「私はエダ。この家で針仕事をしてるの。ちょうどよかった、そっちの端を押さえてくれる?」


 言われた角を押さえると、エダさんは布をくるくる巻いた。

 布を紐でひと束にしてから、台の裏を指す。


「脚は畳めるよ。指を挟まないようにね」


 俺は台の端を少し持ち上げた。

 思ったより軽い。ただ、留め具を外そうと片手を下へ回すと、天板が傾いた。


 エダさんが反対側を支えた。


「俺が持ってるので、そっちの留め具を外してもらえますか」

「はいよ。今度はこっち」


 二人で脚を畳み、薄くなった台を家の壁へ立て掛けた。

 エダさんは、壁から出た革の帯を台に回して留めた。


「これで倒れない。ありがとうね」

「家具、みんなそうやって留めるんですか」

「動く物はね。引き出しも忘れちゃだめだよ。夜中に開いて、足の小指に当たるから」


 嫌な痛みを想像して、俺は自分の足を見た。


 隣の家の扉が開き、今度は二輪の荷車が出てきた。

 船長が取っ手を引いている。荷台には木箱が三段に積まれ、縄で締められていた。


 俺は通りへはみ出していた桶を見た。


「これも、中でいいですか」

「ああ、それは私が持つよ」


 エダさんが桶を持ち上げたので、俺は家の扉を開けて押さえた。

 彼女が入ったところで、荷車が脇を通った。


「通れた。助かったぞ、カイ」


 船長はそう言って、船首のほうへ進んでいった。


 俺は少し遅れて、「はい」と返した。

 名前を覚えてもらえたのが、思いのほか嬉しかった。


 扉から手を離すと、エダさんが中から布袋を差し出した。


「それ、船長に渡して。今夜の店で使う布だから」

「これも売るんですか?」

「下に敷くの。商品は別。日が落ちたら見においで」


 袋を受け取った。

 エダさんは、俺の破れた右袖にちらりと目をやった。


「その肩、縫っておこうか。これ以上裂ける前に」

「お願いしたいです。まだ、こっちのお金がないんですけど」

「じゃあ、店を出すときに台を運んで。糸はうちのを使おう。色は少し違うけどね」


 俺は袋を持ち直した。


「それなら、できます」


 船首へ戻って布袋を渡すと、船長は荷車の木箱の上へ載せた。

 その横では、リゼが乗降台の手すりに両肘をついていた。


 船の外へ向けた彼女の顔に、夕日が当たっている。

 目を細め、じっと下を見ていた。


「カイ。早く」


 声は小さかったが、手は大きく俺を招いた。


 彼女の隣まで行った。

 白い砂丘の裏には、大きなくぼ地が広がっていた。その縁を囲むように、何十隻もの船が止まっている。

 長い脚の船。丸い屋根が三つ並ぶ船。さっきの赤い帆の船もいた。


 真ん中には、まだ砂しかなかった。


「もうすぐだって」


 リゼが、手すりを握り直した。

 彼女の肩が俺の肩に触れ、すぐに離れた。


 低い音が聞こえた。


 コハク号の脚の音ではない。

 くぼ地の底から、乾いたものが大量に擦れ合う音が上がっていた。


 砂の表面に、細い線ができた。

 線は枝分かれし、低いほうへ向かって長く伸びていく。


 やがて、砂全体が動き始めた。


 風に舞うのとは違う。

 上にあったものが下へ落ち、そこへ周りの砂が流れ込む。くぼ地の片側へ、金色の帯が何本も走っていった。


「あそこ」


 リゼの指の先で、黒い角が現れた。


 四角い、箱のようなものだった。

 その周りにも黒い線が伸び、幅が広がり、平らな地面になった。


 砂が流れ去ったあとに、大きな灰色の床が残った。


 学校の校庭をいくつも並べたくらいある。

 表面にはまっすぐな継ぎ目が走り、その線に沿って、さっきの黒い箱が等間隔に並んでいた。

 建物は一軒もない。ただ、船が何十隻も載れそうな場所が、夕日の中へ姿を現していた。


「……本当にあった」

「うん」


 リゼは頷いたきり、しばらく何も言わなかった。

 目だけが、端から端まで動いていた。


 くぼ地の端で、緑の旗が上がった。

 待っていた船から、短く汽笛が鳴った。別の船が答え、その向こうでも鳴る。


「道が空いた。リゼ、前の船について入ろう」


 荷車を留めた船長が言った。


「はい!」


 リゼはぱっと手すりを離した。

 操舵室へ駆け込みかけて、扉のところで振り返る。


「カイも、中へ。港に入るところ、見てて」


     *


 砂の残る緩い坂を、コハク号は下りていった。


 俺は元の腰掛けに座り、窓の下を見た。

 鉄の足が灰色の床を踏む。砂の上とは違う、硬い音が操舵室まで上がってきた。


 目の前を、別の船が横切った。

 家の壁が窓いっぱいに広がり、去っていくと、その後ろからまた一隻現れた。


 リゼは前の船が空けたところへ、ゆっくりコハク号を進めた。


「もう少し左。そこの線まで」


 扉の外に立った船長が、腕で方向を示した。


 正面には、船が向かい合う間に広い空間が残されていた。

 コハク号もその並びに入り、空間へ鼻先を向けて止まった。


「下げるよ。座ってて」


 リゼが足元の踏み板を深く踏んだ。


 窓の外の地面が近づいた。


 窓の脇で、前脚の関節が深く曲がっていく。

 腰掛けごと静かに降りていく感覚に、喉の奥がひゅっとした。


 思わず取っ手を握った。


 低くなった窓の外に、人の頭が見えた。

 さっきまで見下ろしていた港の床が、もう、乗降台から板を渡せそうな高さにある。


「こうやって泊まるのか」

「毎回、梯子で荷物を運ぶのは大変でしょ」


 リゼは前を見たまま答えた。

 片手で桿を少し戻すと、最後の揺れが静まった。


 扉の外で、船長が港の人から太い鎖を受け取った。

 鎖は床に並ぶ黒い箱の一つから伸びていた。船長がその端を船の金具へ掛けると、港の男が箱の横の手車を回した。

 たるんでいた鎖が持ち上がったところで、男は手を止めた。


 反対側でも、同じ音がした。


「よし。リゼ、休んでいいぞ」


 船長の声を聞いて、リゼが息を吐いた。

 桿から離した指を、一度握って開く。


 俺も取っ手から手を離した。


 その間に、向かいの船で壁が開いた。


 大きな一枚板が外へ倒れ、柱に支えられて、店の台になった。

 内側には、大小の鍋がぎっしり吊られていた。


 隣の船では、帆布の日除けが通りへ張り出す。

 さらに向こうで、色の違う灯りが三つ続けて点いた。


 コハク号の後ろから、車輪の音が近づいてきた。


 さっき空けた通りを、木箱の荷車が来る。

 船長と、荷車を押してきた若い男が、乗降台から幅の広い板を渡した。

 荷車の車輪が板の上で鳴り、そのまま港へ下りていった。


 そのあとに、エダさんが出てきた。

 片手に包みを下げ、もう片方で、壁に留めていた作業台を引いている。


 俺は操舵室を出た。


「約束の分、運びます」

「そっち、お願い」


 二人で台を下ろした。

 港の床は細かな砂でざらついていたが、足を置くと硬く、しっかりしていた。


 渡し板の脇で台の脚を開き、荷車から受け取った布を敷く。

 エダさんが包みをほどくと、大小の袋や、丈夫そうな手袋、刺繍の入った襟飾りが現れた。


 家の前にあった台が、店になった。


 顔を上げると、向かいでは鍋を叩いて客を呼んでいた。

 少し先で油がはぜ、焼けた肉の匂いが風に乗った。頭の上に渡された縄へ、次々と灯りが吊られていく。


 さっきまで砂しかなかった場所を、人が歩いていた。


 肩に布を担いだ男が、知り合いを見つけて声を張る。

 子供が大人の手を引き、光る玉を並べた台へ走っていく。

 船の窓から誰かが値段を叫ぶと、別の船から笑い声が返った。


 俺は、店の端を押さえたまま見ていた。


「カイ」


 振り向くと、リゼが渡し板を下りてくるところだった。

 帽子を被り直しながら、通りの先へ顔を向ける。その足が、俺の横で止まった。


「船長に頼まれた買い物があるんだけど、一緒に行かない?」


 俺はポケットの中の財布に触れた。


「行きたい。日本を知ってる人も、探せるかもしれないし」

「じゃあ、聞いて回ろう」


 リゼは俺の顔を見て頷いた。

 そのあとで、少しだけ声を落とした。


「途中で、寄ってみたい店もある」

「どこ?」

「あの、肉を巻いて焼いてるところ。船から見えてた」


 彼女は人の間を覗き、見失っていないことを確かめた。

 操船中も、ちゃんと見つけていたらしい。


「案内、頼んでいい?」

「任せて。あそこまでなら分かる」


 リゼが笑った。

 エダさんに声をかけてから、俺は彼女と通りへ出た。


 すれ違う人の向こうに、鍋も、布も、見たことのない道具も並んでいた。

 家々の窓が、砂漠の夜を照らしていた。


 明日の朝には、なくなる町だ。

 俺はもう、夜が足りるのか心配になっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。