第二話 今夜だけの町
目を覚ますと、窓の外で、よその家の子供が手を振っていた。
二階の窓から身を乗り出した、小さな男の子だった。
家ごと、ゆっくり俺を追い抜いていく。
俺は腰掛けから身体を起こした。
コハク号のすぐ横を、四本脚の船が歩いていた。船の上には細長い家が一軒だけ載っていて、その屋根には、畳んだ赤い帆が縛りつけてある。
男の子の後ろから母親らしい人が腕を伸ばし、服の背を掴んだ。それでも手は振り続けている。
俺も手を上げた。
「あっちにも、住んでるんだな」
「うん。あの船、速いよ。風がいいと帆も使えるから」
隣の操船席で、リゼが答えた。
彼女の膝には、さっき座席の脇にあった地図が広がっている。
結局、丘の向こうを見る前に眠ってしまったらしい。
窓から入る光は低くなり、脚が踏む砂にも長い影がついていた。
「どれくらい寝てた?」
「砂丘を二つ越えるくらい」
「……よく寝た、気がする」
「うん。首、何度も落ちそうになってた」
リゼが自分の首を少し傾けた。
俺は首筋を押さえた。片側だけ、見事に固まっていた。
船の歩みが遅くなった。
追い抜いていった四本脚の船も、砂丘の裾で止まっている。その向こうには、旗を立てた船の屋根がいくつも見えた。
「着いた?」
「港はまだ砂の下。ここで待つの」
リゼが二本の操縦桿を手前へ引いた。
床がわずかに沈み、脚の音が止まった。
「そのまま座ってな」
後ろから声がした。
開いた扉に、大柄な男が立っていた。四十代の後半くらいだろうか。短く刈った髪に白いものが交じり、袖のない灰色の上着から太い腕が出ている。
片手に木の椀を持っていた。
「船長。今、起きたところ」
リゼが地図を巻きながら言った。
「コハク号の船長、オルドだ。リゼから話は聞いた」
男は俺の隣へ腰を下ろし、椀を差し出した。
中には、薄黄色の豆が山になっている。表面が油で光り、湯気が少し上がっていた。
「カイです。助けてもらって、ありがとうございます」
「礼はあいつに。船はあのまま通り過ぎるところだった」
船長は顎でリゼを示した。
リゼは地図を筒へ戻しながら、こちらに目だけを向けた。
俺は椀を受け取った。
豆を一つつまむと、まだ温かかった。噛めば柔らかく潰れ、塩と、知らない香草の匂いが口に広がった。
そこで急に、腹が減っていることに気づいた。
「帰りたいのは、ニホンって国だったな」
船長が俺の食べる手を見ながら言った。
「はい。知ってますか」
「悪いが、聞いたことはない。今夜の港には、ずっと遠くから来る船もある。そっちでも聞いてみよう」
俺は頷いた。
ポケットには、割れたスマホと財布が入っている。ここまで持ってこられたのだから、帰る道もどこかにあるかもしれない。
そう考えて、豆をもう一つ食べた。
「どこの船にも心当たりがなかったら、今夜はうちで寝ていけ。下りる荷があるから、寝台を一つ空けられる」
「……ありがとうございます。何か手伝えること、ありますか」
「立つと、ふらつくか?」
「今は大丈夫そうです」
試しに立ってみた。
床は動かず、足もちゃんと身体を支えた。
船長は俺の靴から肩まで見た。
「だったら食ってから、通りを空けるのを手伝ってくれ。荷車を前まで通したい。物をどかすときは、持ち主に聞いてな」
「分かりました」
彼は立ち上がり、扉の向こうへ出ていった。
すぐ外で誰かと荷物の数を確かめる声がした。
腰掛けに戻り、残りの豆を食べた。
空の椀を扉脇の棚へ置くと、リゼが扉の裏から箒とちり取りを出してきた。
「こっちは、覚えてる?」
彼女が俺の足元を見た。
靴から落ちた砂が、まだ小山になっている。
「最初の仕事、あったな」
「それは自分で落とした分」
箒を受け取った。
今度は、立ったまま掃除ができた。
集めた砂を乗降台の外へ捨て、箒とちり取りを扉の裏へ戻した。
*
操舵室を出て、船の後ろへ続く通りに足を踏み入れた。
左右に並ぶ家の屋根が、夕日を赤く受けている。
通りは荷車が一台通っても人が避けられるくらいの幅があった。ただ、今は軒先から出された椅子や桶、作業台がところどころを狭くしていた。
右手の家で、男が窓を閉めた。
窓枠の下にある二つの留め具を掛け、外に置いていた椅子を家へ運び込む。
その先では、銀髪をひとつにまとめた女性が、台の上の布を巻いていた。六十代くらいだろう。首に細い巻き尺を掛け、口に小さな洗濯ばさみをくわえている。
布が風に持ち上がった。
彼女は慌てず、くわえていた洗濯ばさみで端を台へ留めた。
「すみません。船長に、通りを空けるよう頼まれたんですけど。この台、片づけますか」
女性が顔を上げた。
「あんたが、さっき乗った人?」
「カイです」
「私はエダ。この家で針仕事をしてるの。ちょうどよかった、そっちの端を押さえてくれる?」
言われた角を押さえると、エダさんは布をくるくる巻いた。
布を紐でひと束にしてから、台の裏を指す。
「脚は畳めるよ。指を挟まないようにね」
俺は台の端を少し持ち上げた。
思ったより軽い。ただ、留め具を外そうと片手を下へ回すと、天板が傾いた。
エダさんが反対側を支えた。
「俺が持ってるので、そっちの留め具を外してもらえますか」
「はいよ。今度はこっち」
二人で脚を畳み、薄くなった台を家の壁へ立て掛けた。
エダさんは、壁から出た革の帯を台に回して留めた。
「これで倒れない。ありがとうね」
「家具、みんなそうやって留めるんですか」
「動く物はね。引き出しも忘れちゃだめだよ。夜中に開いて、足の小指に当たるから」
嫌な痛みを想像して、俺は自分の足を見た。
隣の家の扉が開き、今度は二輪の荷車が出てきた。
船長が取っ手を引いている。荷台には木箱が三段に積まれ、縄で締められていた。
俺は通りへはみ出していた桶を見た。
「これも、中でいいですか」
「ああ、それは私が持つよ」
エダさんが桶を持ち上げたので、俺は家の扉を開けて押さえた。
彼女が入ったところで、荷車が脇を通った。
「通れた。助かったぞ、カイ」
船長はそう言って、船首のほうへ進んでいった。
俺は少し遅れて、「はい」と返した。
名前を覚えてもらえたのが、思いのほか嬉しかった。
扉から手を離すと、エダさんが中から布袋を差し出した。
「それ、船長に渡して。今夜の店で使う布だから」
「これも売るんですか?」
「下に敷くの。商品は別。日が落ちたら見においで」
袋を受け取った。
エダさんは、俺の破れた右袖にちらりと目をやった。
「その肩、縫っておこうか。これ以上裂ける前に」
「お願いしたいです。まだ、こっちのお金がないんですけど」
「じゃあ、店を出すときに台を運んで。糸はうちのを使おう。色は少し違うけどね」
俺は袋を持ち直した。
「それなら、できます」
船首へ戻って布袋を渡すと、船長は荷車の木箱の上へ載せた。
その横では、リゼが乗降台の手すりに両肘をついていた。
船の外へ向けた彼女の顔に、夕日が当たっている。
目を細め、じっと下を見ていた。
「カイ。早く」
声は小さかったが、手は大きく俺を招いた。
彼女の隣まで行った。
白い砂丘の裏には、大きなくぼ地が広がっていた。その縁を囲むように、何十隻もの船が止まっている。
長い脚の船。丸い屋根が三つ並ぶ船。さっきの赤い帆の船もいた。
真ん中には、まだ砂しかなかった。
「もうすぐだって」
リゼが、手すりを握り直した。
彼女の肩が俺の肩に触れ、すぐに離れた。
低い音が聞こえた。
コハク号の脚の音ではない。
くぼ地の底から、乾いたものが大量に擦れ合う音が上がっていた。
砂の表面に、細い線ができた。
線は枝分かれし、低いほうへ向かって長く伸びていく。
やがて、砂全体が動き始めた。
風に舞うのとは違う。
上にあったものが下へ落ち、そこへ周りの砂が流れ込む。くぼ地の片側へ、金色の帯が何本も走っていった。
「あそこ」
リゼの指の先で、黒い角が現れた。
四角い、箱のようなものだった。
その周りにも黒い線が伸び、幅が広がり、平らな地面になった。
砂が流れ去ったあとに、大きな灰色の床が残った。
学校の校庭をいくつも並べたくらいある。
表面にはまっすぐな継ぎ目が走り、その線に沿って、さっきの黒い箱が等間隔に並んでいた。
建物は一軒もない。ただ、船が何十隻も載れそうな場所が、夕日の中へ姿を現していた。
「……本当にあった」
「うん」
リゼは頷いたきり、しばらく何も言わなかった。
目だけが、端から端まで動いていた。
くぼ地の端で、緑の旗が上がった。
待っていた船から、短く汽笛が鳴った。別の船が答え、その向こうでも鳴る。
「道が空いた。リゼ、前の船について入ろう」
荷車を留めた船長が言った。
「はい!」
リゼはぱっと手すりを離した。
操舵室へ駆け込みかけて、扉のところで振り返る。
「カイも、中へ。港に入るところ、見てて」
*
砂の残る緩い坂を、コハク号は下りていった。
俺は元の腰掛けに座り、窓の下を見た。
鉄の足が灰色の床を踏む。砂の上とは違う、硬い音が操舵室まで上がってきた。
目の前を、別の船が横切った。
家の壁が窓いっぱいに広がり、去っていくと、その後ろからまた一隻現れた。
リゼは前の船が空けたところへ、ゆっくりコハク号を進めた。
「もう少し左。そこの線まで」
扉の外に立った船長が、腕で方向を示した。
正面には、船が向かい合う間に広い空間が残されていた。
コハク号もその並びに入り、空間へ鼻先を向けて止まった。
「下げるよ。座ってて」
リゼが足元の踏み板を深く踏んだ。
窓の外の地面が近づいた。
窓の脇で、前脚の関節が深く曲がっていく。
腰掛けごと静かに降りていく感覚に、喉の奥がひゅっとした。
思わず取っ手を握った。
低くなった窓の外に、人の頭が見えた。
さっきまで見下ろしていた港の床が、もう、乗降台から板を渡せそうな高さにある。
「こうやって泊まるのか」
「毎回、梯子で荷物を運ぶのは大変でしょ」
リゼは前を見たまま答えた。
片手で桿を少し戻すと、最後の揺れが静まった。
扉の外で、船長が港の人から太い鎖を受け取った。
鎖は床に並ぶ黒い箱の一つから伸びていた。船長がその端を船の金具へ掛けると、港の男が箱の横の手車を回した。
たるんでいた鎖が持ち上がったところで、男は手を止めた。
反対側でも、同じ音がした。
「よし。リゼ、休んでいいぞ」
船長の声を聞いて、リゼが息を吐いた。
桿から離した指を、一度握って開く。
俺も取っ手から手を離した。
その間に、向かいの船で壁が開いた。
大きな一枚板が外へ倒れ、柱に支えられて、店の台になった。
内側には、大小の鍋がぎっしり吊られていた。
隣の船では、帆布の日除けが通りへ張り出す。
さらに向こうで、色の違う灯りが三つ続けて点いた。
コハク号の後ろから、車輪の音が近づいてきた。
さっき空けた通りを、木箱の荷車が来る。
船長と、荷車を押してきた若い男が、乗降台から幅の広い板を渡した。
荷車の車輪が板の上で鳴り、そのまま港へ下りていった。
そのあとに、エダさんが出てきた。
片手に包みを下げ、もう片方で、壁に留めていた作業台を引いている。
俺は操舵室を出た。
「約束の分、運びます」
「そっち、お願い」
二人で台を下ろした。
港の床は細かな砂でざらついていたが、足を置くと硬く、しっかりしていた。
渡し板の脇で台の脚を開き、荷車から受け取った布を敷く。
エダさんが包みをほどくと、大小の袋や、丈夫そうな手袋、刺繍の入った襟飾りが現れた。
家の前にあった台が、店になった。
顔を上げると、向かいでは鍋を叩いて客を呼んでいた。
少し先で油がはぜ、焼けた肉の匂いが風に乗った。頭の上に渡された縄へ、次々と灯りが吊られていく。
さっきまで砂しかなかった場所を、人が歩いていた。
肩に布を担いだ男が、知り合いを見つけて声を張る。
子供が大人の手を引き、光る玉を並べた台へ走っていく。
船の窓から誰かが値段を叫ぶと、別の船から笑い声が返った。
俺は、店の端を押さえたまま見ていた。
「カイ」
振り向くと、リゼが渡し板を下りてくるところだった。
帽子を被り直しながら、通りの先へ顔を向ける。その足が、俺の横で止まった。
「船長に頼まれた買い物があるんだけど、一緒に行かない?」
俺はポケットの中の財布に触れた。
「行きたい。日本を知ってる人も、探せるかもしれないし」
「じゃあ、聞いて回ろう」
リゼは俺の顔を見て頷いた。
そのあとで、少しだけ声を落とした。
「途中で、寄ってみたい店もある」
「どこ?」
「あの、肉を巻いて焼いてるところ。船から見えてた」
彼女は人の間を覗き、見失っていないことを確かめた。
操船中も、ちゃんと見つけていたらしい。
「案内、頼んでいい?」
「任せて。あそこまでなら分かる」
リゼが笑った。
エダさんに声をかけてから、俺は彼女と通りへ出た。
すれ違う人の向こうに、鍋も、布も、見たことのない道具も並んでいた。
家々の窓が、砂漠の夜を照らしていた。
明日の朝には、なくなる町だ。
俺はもう、夜が足りるのか心配になっていた。




