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第一話 砂漠を歩く家

 死ぬ間際に思い出したのは、明日の約束だった。


 ゲームの仲間に、九時には入れる、と返事をした。

 駅前の交差点でスマホをしまい、青信号を渡った。


 タイヤの悲鳴がした。


 顔を向けたときには、トラックが歩道の柵を押し潰していた。白い車体が迫り、逃げようとした足が、踏み出す前に浮いた。


 背中が何かにぶつかった。

 息を吸おうとしても、胸が動かない。


 道路に頬をつけたまま、自分の手を見ていた。すぐそこにあるのに、指一本動かせなかった。


 誰かが叫んでいる。

 その声も、遠くなっていく。


 明日は、俺が人を集める番だった。


 断りの連絡をしないと。


 それきり、何も分からなくなった。


     *


 口の中が、じゃりっとした。


 咳き込んで顔を上げると、唇から砂が落ちた。

 両手の下には、日に焼けた白い岩があった。


 息ができる。


 何度も吸った。熱く、乾いた空気が胸をいっぱいにした。


 俺は四つん這いのまま、自分の身体を見下ろした。

 会社へ着ていった紺色のシャツ。黒いズボン。右の袖が肩から裂けているのに、その下には傷がなかった。

 胸を押しても痛くない。


「……どこだ、ここ」


 立ち上がりかけて、膝をついた。


 目の前には、砂漠が広がっていた。


 右も左も、なだらかな金色の丘だった。木も、電柱も、人の姿もない。空は妙に高く、雲ひとつなかった。


 俺がいるのは、その真ん中に突き出した岩の上だ。

 平らなところは六畳ほど。端まで這って覗くと、足を伸ばしても届かない高さに砂がある。


 その砂が、流れていた。


 細かな粒が岩の裾にぶつかり、二手に分かれていく。川のように見えたが、水の光はどこにもない。


 俺は伸ばしかけた足を引っ込めた。


 ポケットを探った。財布はある。スマホもあった。

 けれど画面は蜘蛛の巣のように割れ、何度押しても明かりはつかなかった。


 加瀬海。二十五歳。

 仕事帰りに、駅前で事故に遭った。


 そこまでは覚えている。


 その続きが、この砂漠になる理由が分からなかった。


 遠くで、低い音がした。


 地面を、大きなものが踏む音だった。

 一度。間を空けて、もう一度。


 顔を上げると、砂丘の向こうから、赤茶けた屋根が現れた。


 建物がある。


 そう思った直後、その屋根が横へ動いた。


 砂丘を越えてきたのは、一隻の船だった。


 先端の反った長い船体を、六本の脚が支えていた。鉄の脚は途中で大きく折れ曲がり、広い足の裏を砂へ沈めている。

 片側の三本が順に持ち上がるたび、船は身体を揺らしながら進んだ。


 脚だけで、駅前のビルの三階まで届きそうだった。


 その船の上に、家が載っていた。


 白い壁に、青い窓枠。低い屋根がいくつも重なって見える。

 屋根と屋根の間では、縄に吊られた白いシーツが大きく膨らんでいた。


 窓が開いた。

 中から出てきた腕が、風にめくれた布を引き寄せた。


 人が住んでいる。


 俺は岩の上で立ち上がり、両腕を振った。


「おーい! ここです!」


 船は岩の横を通ろうとしていた。

 大きな脚が砂を踏む音に、自分の声が呑まれる。


「誰か! こっち!」


 船の先端で、人影が動いた。


 手すりから身を乗り出した少女が、こちらを指さした。

 それから、すぐ脇の小さな建物へ駆け込んだ。


 低い汽笛が二度、砂漠に響いた。


 船の歩みが遅くなる。

 目の前で鉄の脚が曲がり、砂を踏み固めた。足の裏から広がった砂が岩の裾を洗い、俺は慌てて膝をついた。


 船が止まった。


「そこにいて!」


 さっきの少女が、手すりの向こうへ戻ってきた。

 継ぎ当てのある帽子から、蜂蜜色の三つ編みが垂れている。十八か十九くらいだろうか。薄青い上着の袖をまくり、抱えてきた縄梯子を外へ投げた。


 梯子の下端が、岩の上へ落ちた。


「登れる?」

「……たぶん」

「一段ずつでいい。上で持ってるから」


 少女は梯子を留めた金具を確かめ、両手で縄を押さえた。


 俺はスマホをポケットへ戻し、最初の横木に足をかけた。


 岩から離れた途端、梯子が身体ごと揺れた。

 空いた横木の間に、流れる砂が見える。


 足が止まった。


「こっち見て」


 見上げると、少女が俺を見ていた。


「今、右足が乗ってる。そのひとつ上に左足。そう。次は右手」


 言われたとおりに動かした。

 もう一段。息を吐いて、その次。


 手すりまで来たときには、腕が震えていた。

 少女が差し出した手へ右手を伸ばす。汗で滑り、指が抜けかけた。


「手首、掴んでもらっていい?」

「うん」


 彼女が俺の手首を握り直した。

 俺もその腕を掴み、手すりへ膝をかけた。


 身体が内側へ落ちる。


 木の床へ転がり込んで、俺はようやく息を吐いた。


 少女が隣にしゃがんだ。

 帽子のつばの下に、灰色がかった緑の目があった。俺の顔を覗き、肩へ視線を移す。


「そこ、怪我してる?」

「服が破れただけ、みたいだ」


 袖をずらして見せると、彼女の眉が少し緩んだ。


「よかった。あんなところ、一人でどうしたの」

「俺にも分からない。気がついたら、あの岩にいた」


 少女は俺の顔を見た。

 冗談だと思った様子はなかったが、納得もしていなかった。


「ほかに人は?」

「いなかった。見渡したけど、誰も」


 彼女は手すりへ寄って、岩と、その向こうを確かめた。


 俺も起き上がった。

 靴の下の板は、日に焼けて灰色になっている。手すりには縄の擦れた跡があり、足元の金具は油で黒かった。


 触れれば、どれも指に感触が残った。


「助けてくれて、ありがとう」


 そう言うと、少女は振り向いた。


「間に合ってよかった。あの岩、夕方には砂に沈むところだったから」


 俺は、今しがた離れた岩を見た。

 白い縁を、砂が絶え間なく削っていた。


「私、リゼ。この船の操船士」

「加瀬海。……カイでいい」

「カイね。もう少し、立てる?」


 頷くと、リゼは傍らの建物を指した。


「ここにいて。すぐ船を出すから」


 大きな窓のついた、小さな部屋だった。

 扉は開いている。中には前向きの椅子と、その両側に、長い棒のようなものが二本立っていた。


 俺が梯子を登ってきた場所は、船の先端にある、狭い乗降台だった。

 操縦する部屋は、そのすぐ隣にある。


 後ろを振り向いて、初めて家の並びが見えた。


 船の真ん中を、一本の通りが奥へ延びていた。両側に小さな家がくっつくように並び、突き当たりには大きな水槽が光っている。

 通りに面した窓には植木鉢が置かれ、開け放した扉の内側で、誰かの上着が揺れていた。


 人が立って歩ける、普通の通りだ。


 ただ、その端を囲う手すりの外には、砂漠があった。


「カイ?」


 呼ばれて振り返った。

 リゼはまだ乗降台にいて、引き上げた梯子を畳んでいた。


「ごめん。見たことがなくて」

「陸上船?」

「うん」


 彼女の手が止まった。


「初めて?」

「家が載ってる船も、船が歩くところも」


 リゼは通りを一度見て、それから俺を見た。

 口元が、少しずつ緩んだ。


「動いてるときは、もっといいよ」


 言ってから、彼女は急いで梯子をまとめた。

 ほどけた縄の端が足元へ逃げたので、俺はそれを拾った。


「これ、どこへ?」

「そこの鉤に掛けて。ありがと」


 彼女が畳んだ梯子を、二人で壁へ留めた。


     *


 操舵室には、乾いた木と油の匂いがした。


 正面の窓のすぐ前にリゼの椅子があり、その横に、二人ほど座れる低い腰掛けがある。俺はそこへ座った。

 足元まで窓になっているので、前方の砂がよく見えた。


「揺れるから、ここを持って」


 リゼが壁の取っ手を叩いた。

 自分は椅子へ座り、帽子を少し上げて、両側の棒へ手を置く。


 彼女の靴の下には、踏み板が二つあった。


 棒の一本が倒され、リゼの足が動いた。


 床が持ち上がった。


 窓の下から、巨大な鉄の脚が前へ伸びた。

 足が砂を踏み、身体がゆっくり押し出される。


 俺は取っ手へしがみついた。


 さっきまでいた岩が、窓の横を通り過ぎた。

 六畳ほどしかなかった俺の世界が、小さくなっていく。


「大丈夫?」

「すごい」


 返事のつもりではなかった。

 ほかの言葉が出てこなかった。


 リゼがこちらを見た。

 さっきまで真剣だった目が、ふっと細くなった。


「そっちか」


 彼女は前へ向き直ったが、口元にはまだ笑みが残っていた。


 船は砂丘の脇へ進んだ。

 片側の脚が高く上がり、窓の外の地平線が傾く。リゼが左右の棒を別々に動かすと、床はすぐに水平へ戻った。


 俺は椅子の端を握り直した。


 この子が、さっき見た家を全部運んでいる。


 窓から吹き込んだ風が、破れた袖を膨らませた。

 傷のない肩をもう一度触る。トラックの白い車体が、急に目の前へ戻ってきた。


 俺は、自分の膝へ視線を落とした。


「……リゼ。日本っていう国、知ってる?」


 彼女は少し考えた。


「聞いたことない。どのあたり?」

「それが、分からない」


 財布を開き、千円札を一枚出した。

 リゼは差し出した紙幣へ目をやったが、首を傾げただけだった。


 窓の外で、鉄の脚が砂を踏む。


 病院で目が覚めたのではない。

 仕事へ遅れると連絡すれば済むところにも、いない。


 札をしまう指が震えた。


 リゼは急かさなかった。

 船をまっすぐ進めながら、自分の椅子に掛けていた水筒を、俺の座る側へ差し出した。


「飲める?」


 受け取って、栓を抜いた。

 水は少しぬるかった。口の中の砂が流れ、喉を通っていく。


 一度に飲みすぎないようにと思ったのに、なかなか止められなかった。

 ようやく口を離すと、リゼがこちらを見ていた。


「ごめん。半分くらい飲んだ」

「また入れればいいよ」


 水筒を膝へ置いた。


 どこへ帰ればいいのか分からない。

 あの事故の続きを考えるのも、怖かった。


 けれど、ここで黙っていても、この船がどこまで乗せてくれるのかさえ分からない。


「この船、次はどこへ行くんだ?」

「夕方に港へ着くよ。そこで一晩、泊まる予定」


 俺は窓の外を見た。

 砂の向こうに、建物らしいものはない。


「そこまで、乗せてもらえないかな。こっちの金は持ってないんだけど、荷物運びとか、掃除ならできる」


 リゼはすぐには答えなかった。

 砂丘を回りきり、船をまっすぐ向けてから、俺の破れた肩へ目をやった。


「まず休んで。助けた人から、港までのお金は取らないよ」

「そうか。……助かる」

「仕事の話は、そのあと。変なところで拾った人を、いきなり働かせたら怒られる」


 彼女の言い方がおかしくて、少しだけ笑った。


「じゃあ、休んだあとで、できる仕事を教えてほしい。世話になりっぱなしは落ち着かないんだ」

「うん。聞いておく」


 リゼが頷いた。


 俺は水筒の栓を閉め、座席脇の輪に戻した。

 その隣に、角の擦り切れた地図が丸めて差してあった。


「リゼは、ずっとこの船に?」

「うん。コハク号で育ったの。動かす仕事を任されたのは、まだ去年から」

「さっき、すぐ俺を見つけてくれたな」

「岩の上で布が動いたから。最初、旗が立ってるのかと思った」


 彼女は俺の紺色の袖を見て、少し笑った。


 俺も窓へ目を向けた。


 砂漠は、さっきまでと同じ色をしていた。

 けれど今は、窓枠の向こうにある。足の下には床があり、隣には、名前を呼べる人がいた。


 腰を落ち着けようと足を引くと、靴の縁から砂がこぼれた。

 きれいに磨かれた床に、小さな山ができた。


「……掃除は今からできそうだ」

「箒は扉の後ろ」


 彼女の肩が、小さく揺れた。


 俺は立ち上がりかけ、船の一歩で腰掛けへ戻された。

 リゼがとうとう声を出して笑った。


「止まってからでいいってば」


 俺も、取っ手を掴んだまま笑った。


 開いた扉の向こうで、誰かが窓辺の鉢を引っ込めていた。

 風に押された洗濯物が、家と家の間で大きく膨らむ。


 あの家も、部屋も、全部このまま港へ着くのだ。


「その港って、大きいところ?」

「うん。今夜は、船が何十隻も集まると思う」

「そんな町が、この先にあるのか」


 リゼは前方の、ひときわ白い砂丘を指した。


「今はまだ、ないよ」


 俺は彼女を見た。


「あの砂が引くと、下から古い港が出てくるの。そこへ船が集まって、一晩だけ町になる」


 彼女は椅子から少し身を乗り出した。

 砂丘の向こうを、早く見たいというように。


「私も初めて行くんだ。今朝からずっと、あっちを見てる」


 船の上には家があって、砂の下には港がある。


 俺はもう一度、窓の外へ目を向けた。


 少しでも早く、あの丘の向こうが見たかった。

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