第11夜
遠くでクスクスと笑う声がする。それは次第に大きくなり、ついには耳元から聞こえてくる。心なしか胸元に圧迫感がある。足の裏がこそばゆい。そういえば、脇腹もなんだかもぞもぞとする。徐々に視界が明るくなり、子供たちの無邪気な笑顔がいくつも現れる。
夢なのかと思い、再び目を閉じようとして、はたとイケは気づいた。そして、からだを起こそうとしたが、意に反して身動きが取れない。
「起きたぞーっ」
イケの腹に馬乗りになった一人の号令を合図に、他の子供たちが次から次へと腕や脚に被さってきた。
「ちょっ、ちょっと待て。お、おまえら何者だっ?」
小さな手が何本も伸びてくる。イケに群がった子供たちは、これでもかとばかりに全身をくすぐり始めた。
「こら、やめろっ、やめろってば。ちょっと、俺、弱いんだから。ねえ、お願いだから、やめてーっ」
イケが叫べば叫ぶほど、子供たちは嬉々としてくすぐりをエスカレートさせる。イケは必死に身をよじって束縛を逃れようとするが、多勢に無勢、折り重なった子供たちは山のように動かない。
「た、助けてえー。こいつらをど、どけてくれーっ」
イケはもはや涙目だ。滲む視界の先に、腕組みをしながらニヤニヤとこちらを見ているツヤカたちがいた。
「我慢せえ」
「あたしたちもされたんだから」
「苦しみに耐えてこそ、人は成長する」
「鬼! 悪魔! 人でなし!」
絶叫するイケ。上気した顔がいつもに増して赤い。
「ねえ」
昨夜とは異なる阿鼻叫喚に、ミヤコが素朴な疑問を表明する。
「これって、一種のいじめなんじゃない?」
「そう言えるかもしれんな」
表情すら変えず冷静に告げるツヤカとアジポンに、ミヤコは思わず吹き出した。ふたりとも腕組みをしたまま微動だにしない。
「立派ないじめじゃないの」
そう言うミヤコも、頭ではイケが可哀そうだとわかってはいるものの、込み上げる笑いを抑え切れない。
透明な水色が、見る見るうちに澄んだ群青色に染まっていく。朝の空が夏の空に変わるのはそれほど速かった。
ハイキングコースの入口は民宿から歩いて五分とかからない場所にあった。道路脇の木に「紅葉台」と彫られた矢印型の木片が打ち付けられている。
「あ、ここだ」
「あれえ、木に文字が彫ってらぁ」
「いいわね。手作りって感じで」
子供たちは縦列に並び、その先頭に母親たちがいる。
「それじゃ、登りますよー。紅葉台まで出たら一休みしますから、とりあえず、そこまで頑張りましょうねー」
木片の先から山道が始まっていた。まだ比較的傾斜は緩い。縦列は先頭から三分の一のところにイケ、三分の二のところにアジポン、ツヤカとミヤコは仲良く最後尾だ。
「ハイキングなんて、なっつかしーい」
ミヤコは昨日合宿所から持ってきたリュックを背負っている。道は細い丸太で階段状に組まれており、歩きやすい。
「中学校の野外活動以来だから、五、六年ぶりだわ。ツヤカくんは?」
「俺もそんなもんかなあ。高校の頃は修学旅行しかなかったし」
「んーっ、空気がおいしい。鳥のさえずりが耳に心地いい。やっぱり、合宿サボってきて良かったなぁ。みんなは今ごろ炎天下のテニスかぁ」
「そんなこと言ってるから、いつまで経っても上手くならないんじゃないの?」
「いいのよ、上手くならなくったって。体育会系じゃないんだもん。それより、こうして山の息吹を感じられる方が素敵じゃない?」
縦列が少しずつ間延びしてきた。会話が減り、鳥のさえずりやセミの鳴き声、腐葉土を踏みしめる音などが、それに取って代わるようになる。もう階段ではなく土の道だ。坂が徐々に急になっていく。
「おーい、ツヤカー。絆創膏持ってないかー?」
前方からイケの良く通る声が響いてきた。縦列がいったん止まる。
「あたし持ってるー。どうしたのー?」
「一人転んだー」
ミヤコが子供たちの間を抜けて登っていくと、男の子が地面に座り込んでいた。膝に血が滲んでいる。
リュックを下ろし、中から消毒液を取り出す。軽くスプレーをした後、脱脂綿に浸して患部を拭き、慣れた手つきで絆創膏を貼る。
「上手いもんだな」
「小さい頃は看護師になりたかったの」
心配そうに取り囲んでいる母親たちにも聞こえるように、ミヤコは優しい口調で男の子に問いかけた。
「どう? ボク、歩ける? 強いから、これぐらい平気よねえ?」
男の子は目尻に涙を溜めていたが、ぐっと唇を噛んで頷く。
縦列が再び動き始めた。尾根伝いではあるものの、アップダウンがあって結構きつい。木々の葉の間から漏れ射す陽も強い。だんだんと息が上がってくる。
しばらく行くと急に視界が開け、分校の校庭くらいの空き地が現れた。売店や駐車場もある。
「さあ、ひと休みしましょ」
母親の一人が言うが早いか、子供たちは一斉に売店へと駆けていく。
「若いもんは元気だのう」
アジポンが備え付けの木製ベンチに腰を下ろす。連れて、イケ、ツヤカ、ミヤコの順に並んで座る。ミヤコはリュックからウエットティッシュを取り出して全員に配る。秀麗な円錐形をした、ひときわ高い山が遠くに見える。
「ミヤコちゃんのリュックって、何でも入ってるんだな」
「それって、あれだな。あれに似てるな」
「あれって?」
ミヤコの質問に、アジポンがボソッと答える。
「異次元ポケット」
「何、それ?」
「あれ、知らないの? 国民的人気漫画なんだけど」
「ぼぉく、ドラえもん」
イケが口真似をする。
売店で買ったアイスを手にした子供たちがやってきた。木の柵に近づき歓声を上げる。
「うわあっ」
「おい、みんな、こっち来てみろ。すげえぞ」
眼下には大自然が織り成す雄大なパノラマが広がっているのだ。離れた場所にいた子供たちも駆け寄ってくる。
「ああ、若さが羨ましい」
苦笑するツヤカ。
「どうしたのよ? あたしたちだってまだ充分若いじゃない?」
「こいつさ、ギックリ腰持ちなんだよ。この歳で。あは、この歳で」
イケがツヤカを指差して笑う。次いで、飛び跳ねながらベンチの周りを回る。すかさずミヤコが目を輝かせる。
「あっ、ハイだわ、ハイだわ」
「違うよ。それに飲んでないし」
イケが即座に否定する。顔はにこやかだが、目は笑っていない。
「それにしてもいい眺めだな」
「ホント。湖がちょっとしか見えないのが残念だけど」
「もうひとつ上の湖見台まで行ったら、全部見えるんじゃない?」
母親たちからの合図を受けてアジポンが立ち上がった。柵にへばりついている子供たちを集めに行く。
「そろそろ行くぞ。もうひと頑張りしたら山頂に着くから、そこでお昼ご飯にしよう」
養鶏場のニワトリのように追い立てられた子供たちは、イケを見つけると今度はそちらに群がっていった。我先にと二の腕に取り付き、よじ登ろうとする。
「やめろって。怪獣じゃないんだから」
そう言いつつも、イケは両方の腕に一人ずつ子供をぶら下げたまま歩いていく。
ハイキングコースに戻ると、今までよりも傾斜がなだらかになっていた。道の両側には背の低い松が並び、時として直射日光が当たる。子供たちは音楽の時間に習ったと思しき歌を歌い、母親たちは世間話に花を咲かす。
反対側からやってきたハイカーとすれ違う。母親や子供たちと挨拶を交わしていた彼らは、最後尾で会釈するツヤカを見て一瞬戸惑う。今日もツヤカは麦わら帽子から長い黒髪をなびかせている。
湖見台からの眺めは最高だった。眼下にはセルリアンブルーの湖が広がり、それを取り囲むように深緑の山々が連なる。他にも小さな湖がいくつか樹海に埋もれているらしく、色彩と起伏のコントラストはまさに絶景だ。ミヤコがうっとりと呟く。
「テレビで見た南の島のジャングルみたい」
湖見台には広場があり、中央にやぐらが組まれていた。目ざとく見つけたイケが真っ先に突進していく。立ちどころに頂上まで駆け登ると、着ていたTシャツを脱ぎ、空に突き出している丸太に掛ける。
「二百三高地征服!」
「オランウータンかよ」
それを見た子供たちも競って登り始めるが、なかなか頂上までは辿り着けない。結果、やぐらの壁面に張り付くような格好になる。
「ていうか、サル山のボスね」
客観的なミヤコの評価にツヤカとアジポンも無言で頷く。
待ちに待った昼食の時間だ。ビニールシートが広げられ、母親たちの手でサンドイッチやおにぎりが並べられる。ミヤコたちもありがたくご相伴にあずかる。
ツヤカと並んで座っていたミヤコの前に、昨夜の帰り道で仲良くなった女の子がやってきた。
「あ、みゆきちゃん。ここ、座ってもいいわよ」
シートの端にちょこんと腰を下ろした女の子は、ニコニコしながら手にしたおにぎりを食べ始めた。ときどき隣のミヤコを見上げては、楽しそうな表情を浮かべる。
「どうしたの? なにかいいことでもあった?」
「ねえ」
「なあに?」
「おねえちゃんとおにいちゃんはアイシアッテるの?」
聞き耳を立てていたツヤカは、思わず口に含んでいた米粒を噴き出した。
「いきなりどうしたの?」
「ん? だって、さっきからとっても仲いいんだもん」
「みゆきちゃんだって、お友だちとは仲良しでしょう?」
「お兄ちゃんとお姉ちゃんはお友だちなんだよ。お友だちっていうのと愛し合ってるっていうのは、ちょっと違うかな」
口の周りを拭きながら、ツヤカが割って入る。
「だって、夏休みなのに一緒にいるじゃない? 夏休みになると、お友だちとはあんまり会えなくなるよ」
「お兄ちゃんとお姉ちゃんはこっちに来てから知り合ったの。だから、お友だちになって間もないのよ」
「同じガッコじゃないの?」
「大きくなると、同じ学校じゃない友だちもできるようになるんだよ」
「ふーん」
女の子はまだ釈然としない様子だったが、おにぎりに戻って続きを食べ始めた。ミヤコは何となく気まずくなってしまい、ツヤカと目を合わせられない。手にしたサンドイッチも、なかなか口に運ぶことができなかった。
昼食後は急な下りの連続だった。標高と反比例するように樹高が上がってきて、次第に木々の葉が頭上に覆い被さるようになる。風も出てきた。
「きゃっ」
ツヤカが振り返ると、ミヤコが足首を手で押さえてしゃがみ込んでいた。
「どうした? 転んだ?」
ミヤコが顔をしかめながら頷く。
「捻挫しちゃったみたい」
「ドラえもんリュックに湿布薬は入ってないの?」
「ないわ」
「じゃあ、おぶされよ。ミヤコちゃん軽いから、下までおぶっていってやるよ」
そう言うと、ツヤカはミヤコの前にしゃがんで、両手を後ろに回した。
ミヤコはためらった。急速に顔が上気してくる。からだが内側から熱を帯びてくるのが自分でもわかる。意識すればするほど、アルコールランプにかけられたフラスコの中の水のように、全身がふつふつと沸き立ってくるように感じる。自分で自分の反応が制御できない。
なんで? なんでこんなに恥ずかしいの?
「遠慮すんなよ。歩けないんだろ?」
ツヤカの屈託のなさが、さらにミヤコの羞恥心を煽る。前を行く縦列とは見る見るうちに差が開いていく。
「……うん」
気持ちの整理がつかないまま、それでもミヤコはツヤカの背中にからだを預けた。しなやかで逞しい、男の背中だった。




