第9話 品
小広間に呼ばれたのは、朝の仕事が済んだあとだった。
侍女が三人、壁際に控えている。呼ばれた者を叱るのに人を残す家は多い。聞かせるために残す。
マルグリットは窓を背に座り、膝の上で手を組んでいた。
「白布は、どなたが洗っておいでですの」
「ニナと申す方が」
「あの娘」
名を確かめるように、女は少し間を置いた。
「あなた、あの娘と長くお話しになるそうね」
「布をお渡しするあいだだけでございます」
「そう」
それきり、その話は終わった。終わったことが、かえって残った。
「三度、拝見しましたわね」
「はい」
「講評をいたします。お座りにならなくて結構」
リゼットは立ったまま頭を下げた。
「まず、奥様のお渡しの夜。あれはよろしゅうございました。低く、長く、途切れさせず。この家に合っておりましたわ」
「恐れ入ります」
「次に、庭師の家」
声の調子は変わらない。丸く、よく通る。
「あれは、いけません」
窓の外で鳥が鳴いた。侍女のひとりが、身じろぎもせずに床を見ている。
「泣き方にも品というものがございましてよ。あなた、少し声が高すぎますわ。それに崩れておりました。息継ぎの位置が揃っていない。途中で咳のような音が混じっておりましたでしょう」
「はい」
「はい、と仰るということは、憶えていらっしゃるのね」
「憶えております」
「では、なぜ」
答えなくてもよかった。職能民が主家の作法に口を返すことはできない。黙って頭を下げれば、話は終わる。
それでもリゼットは、一度だけ口を開いた。
「あの家では、ご遺族が泣いておられましたので」
「泣いていらしたから」
「はい」
「それに、合わせたと」
「はい」
マルグリットの指が、膝の上でわずかに動いた。組み替えたのではない。上の手の指を、一本だけ下の手の甲に置いた。
「まあ」
息が、笑いの形に抜けた。声にはならなかった。
「合わせる必要が、どこにございますの」
「泣き声が足りませんと、渡れませんので」
「足りていましたでしょう。あの土間で、みなさん存分に」
「量は足りておりました。ただ、途切れておりました」
「途切れても、泣いていることに変わりはございませんわ」
彼女は膝の上の手をほどき、袖の折り目を指で撫でた。
「よろしくて。悲しみというものは、揃うものですのよ」
リゼットは顔を上げなかった。
「正しく悲しめば、みな同じ形になりますわ。形が崩れるのは、悲しみが足りないからか、育ちが足りないか、どちらかです。あなたは公爵家に雇われた泣き女ですから、崩れたものに合わせてはいけません。この家の格が、あなたの声で決まるのですよ」
「かしこまりました」
「三度目の、文書係のときはよろしゅうございました。あれをお続けなさい」
「かしこまりました」
「それから、もう一つ」
「はい」
「白布は、儀のあいだ一度もお外しにならぬこと。ご存じでしょうけれど」
「存じております」
「先の夜、夜明けにお外しになりましたわね」
息が止まった。
あの朝、大広間で白布を外したのは、渡しが終わってからである。声が消え、広間が静まり、誰も動かなくなったあとだ。作法には触れていない。
「終わってからでございました」
「終わったかどうかを決めますのは、この家でしてよ」
窓の外で、鳥がもう一度鳴いた。
話は終わった。
侍女たちが道を空け、リゼットは頭を下げて小広間を出た。
廊下に出てから、彼女は思い出していた。
三度である。
公爵夫人の広間で、庭師の土間で、小教区の礼拝堂で。マルグリット・ラングヴァイの泣き方を、彼女は三度聞いている。
三度とも、同じだった。
上げる回数が同じ。下げる位置が同じ。息を吸う長さが同じ。終わりの一声を落とす角度が同じ。
義理の姪を送る夜と、庭に花を植えた老人を送る夜と、四十年紙を綴じた男を送る夜。三つの悲しみは、種類が違う。深さも違う。近さも違う。
それなのに、寸分ずれない。
同じ泣き方を二度しないというのは、六年かけて自分に課した決まりである。守っているうちに、耳のほうが勝手に変わった。人の泣き方の差が、聞き分けられるようになってしまった。
差が分かるということは、差がないことも分かるということだ。
悲しみは、揃うものですのよ。
あの人は、自分のことを言っていたのだと思った。揃えられるということを、揃えてきた人の口から聞いたのだと。
言えなかった。
言葉にして誰かに渡した瞬間、この屋敷での一年は終わる。彼女は帳を抱えて廊下を歩き、階段を降り、洗い場の裏まで来て、そこでようやく息を吐いた。
葬儀の場でなくても、言えないことはある。
回廊で、足音が止まった。
「リゼット」
顔を上げるまでに、一拍かかった。三度目でもまだ、一拍かかる。
オルデリクは彼女の襟布を見ていた。
「直させたのは、叔母か」
答えられない。答えれば、そのまま奥へ伝わる。
彼女が黙っているあいだ、彼も黙っていた。急かさない。理由を訊かない。
「そのままでいい」
言って、歩き出した。
外套の裾が回廊の風に振れて、角を曲がって消えた。
リゼットは襟布に手をやった。指二本ぶんの幅。半指ぶん詰められて、朝からずっと喉が締まる位置にある。
そのままでいい、というのが襟布のことなのか、彼女のことなのか、分からなかった。分からないまま、彼女は手を下ろした。
その夜、水を汲みに中庭へ出た。
夏に入って、霧が薄い。井戸の縁が月の色を返している。石畳の隙間から夜の草の匂いが上がって、どこかで水がひとしずくずつ落ちていた。
柱の陰に、人がいた。
セヴランだった。
壁に背をつけ、膝を立てて座り、腕に顔を埋めている。肩が上下していた。声は殺しているが、息の継ぎ目で漏れる。あの夜と同じ、みっともない泣き方だった。
文書係の渡しから、八日が経っている。
彼は喪主でもなければ、遺族でもない。血の繋がりもない。屋敷の帳面を届けに来る男が四十年いて、その男が死んだ。それだけのことである。
この家では、誰もそれで泣かなかった。
彼が泣くのを見るのは、これで三度目である。
公爵夫人の広間で、親族席の椅子を一つ空けて。四日後の回廊で、まだ目を赤くしたまま。そして今夜、誰も来ない中庭で。
リゼットは桶を持ち直し、音を立てずに退がった。
声はかけない。かければ、この人は明日から泣かなくなる。人前で泣く男が屋敷でどう扱われるかを、彼女は六年ぶん知っている。
部屋に戻って、白布をたたんだ。
誰も見ていない場所で、あの方はまだ泣いていらっしゃった。
──この家で、いちばん正しく泣いているのは、この方かもしれない。




