第8話 三名
王都から戻って、四日目だった。
三人目である。
白布を鞄から出しながら、リゼットはそのことを二度考えた。
契約から一月で三人。屋敷の主から言われた文言を、彼女はそのまま憶えている。これから一年、この屋敷のすべての葬儀で泣いてほしい。
あの夜、彼は「ある」と言った。一度も無いということもございます、と申し上げたのに、無いとは言わなかった。
どうして、続くと知っていたのか。
考えても仕方のないことだった。泣き女は依頼を選べない。
渡しの場は、領内の小教区の礼拝堂だった。
石の床が湿っていて、履き物の底から冷えが上がってくる。麦を刈ったあとの藁が焚かれているのか、外の風に焦げた匂いが混じっていた。
死んだのは、家令ヴィルヘルムの弟である。名をマティアスといい、領の文書係を四十年務めた男だった。四十四になる。朝、机に伏したまま動かなくなっているのを、下働きが見つけた。
文書係というのは、領の書付を綴じて残す役である。田畑の売り買い、婚姻、出入りの人足の数、そして生き死に。四十年ぶんの紙をこの土地に積んできた男が、その紙の上に伏して死んだ。
喪主は、兄である。
入る前に、リゼットは三つ訊いた。泣き方を決めるのに要る三つである。
「弟御のご家族は」
「おりません」
「ご友人は」
「役所の者が、幾人か参ります」
「今夜、いちばん長く弟御をご存じの方は」
「私でございます」
答えは全部短かった。朝と同じ調子で、朝と同じ速さだった。
彼女はもう一つ足した。この六年で、足したことはほとんどない。
「弟御は、何がお好きでしたか」
家令が、初めて手を止めた。
「……林檎の、酸いのを」
それだけ言って、彼はまた参列者のほうへ顔を戻した。
ヴィルヘルムは礼拝堂の入口に立って、参列者を席へ通していた。順序に迷いがない。誰をどこに座らせるかを一人ずつ決め、遅れて来た者にも同じ丁寧さで頭を下げる。襟布の折り目が朝と変わっていない。
日没に、渡しが始まった。
リゼットは棺の正面に座り、声を出した。
この場に合う泣き方を選ぶのに、少し迷った。遺族は兄ひとり。妻子はいない。四十年勤めた文書係の死に、この土地の誰がどれだけの重さを感じているのかが、入ってから測りきれなかった。結局、中庸を選んだ。低くも高くもなく、切らずに続ける型。
喪主は、泣かなかった。
彼女は泣きながら、その顔を見ていた。
堪えている人間の顎は動く。喉のあたりが、飲み込むときに一度上下する。呼吸が乱れないように意識するから、かえって間隔が不自然になる。六年見ていれば分かる。
ヴィルヘルムには、それがなかった。
顎が動かない。喉も動かない。呼吸は始めから終わりまで同じ長さで、時々首を巡らせて燭台の残りを確かめている。段取りをする人間の目だった。
三度目である。
公爵は泣かなかった。使用人たちは泣かなかった。そして今夜、弟を送る兄が泣かない。
泣かない人が続く家というのは、ある。冷たい家、貧しい家、疲れた家。だがこの三人は、泣かない理由が全部違うように見えた。
司祭が入ってきたのは、夜半だった。
黒い長衣。節の目立つ乾いた指。爪は短く切り揃えられ、袖口に汚れが一つもない。
あの朝と同じ手だった。
今度は顔が見えた。四十代の後半だろう。髪を撫でつけ、眉が薄く、目は細い。表情という言い方をするなら、この男には表情の置き場がない。
彼は入ってきて、まず燭台を数えた。次に参列者を数えた。それから棺の位置を見て、床に引かれた線から半寸ほどずれているのを、片手で直させた。誰にも急がせず、誰にも待たせない。
礼拝堂に、慌てるところが一つもなくなった。
完璧な段取りというものを、リゼットは泣きながら見ていた。恐ろしいという言葉が浮かびそうになって、彼女はそれを喉の奥へ押し戻す。手際のよい司祭は、遺族にとってありがたいものである。それだけのことだ。
夜半過ぎ、灰色の襟布が入ってきた。
マルグリットは棺の前で膝を折り、三度上げて、一度下げ、また上げた。息を吸う長さも、終わりを落とす角度も、これまでと寸分違わない。
三度目である。
彼女は四半刻で立ち、司祭のほうへ短く目を向けてから、出ていった。司祭も彼女を見た。互いに何も言わなかった。
夜明け前、預かりの手順に入った。
礼拝堂の脇の小部屋に、机が一つある。そこに、二つの帳面が並べて置かれた。
右が、死者名簿。
左が、リゼットの預かり帳。
同じ名を、別々の人間が別々の紙に書く。神殿の記録と、泣き女の記録。本来なら一字も違わないはずの二重の記録が、この夜、初めて同じ机の上に並んだ。
「お名前を」
「マティアス」
「姓は」
「ございません」
平民に姓はない。司祭は驚きもせず、万年筆を運んだ。字が小さく、傾きが揃っている。書き終えると、行の端に爪で軽く印をつけた。
リゼットも自分の帳に書いた。三行目である。
「本年、この家でお預かりになったのは」
司祭が顔を上げずに言った。
「三名でございますな」
「はい」
「三名」
彼はそこで、いったん万年筆を置いた。
名簿の頁を、前へ二枚戻す。指の腹で行をなぞる。もう一度、こちらへ戻す。所要は数える息にして四つか五つ。
「──失礼、数え直しました。三名でございます」
リゼットの手が、帳の上で止まった。
司祭は万年筆を拾い、蓋を閉め、机の上の二冊のうち右だけを持って立った。左には触れない。触れてはならないことを、この男は正確に知っている。
「泣きは」
「足りております」
「結構でございます」
「司祭様」
声が出てから、リゼットは自分で驚いた。
男は扉の手前で足を止め、こちらへ向き直った。細い目が、まっすぐ彼女に当たる。急かしもせず、不審がりもせず、次の言葉が来るのを待っている。
待たれると、出なくなった。
訊いてどうなるものでもない。数え直したのが何なのかを訊く権利は、泣き女にない。答えが返ってきたところで、帳に書き足せる形にはならない。
「……いえ」
彼女は頭を下げた。
「ご苦労さまでございました」
礼が返ってきて、出ていった。
窓の外が灰色になっている。夜が明ける。
リゼットは自分の帳を閉じ、膝の上で両手を重ねた。
三名でよかったのだ。彼女の帳にも三つある。数は合っている。合っているものを、あの人は二度数えた。
数え直す必要など、どこにもございませんでしたのに。




