第7話 一枚目
王都までは六日かかった。
乗合の馬車を三度乗り換え、宿場で二晩泊まり、最後の一日は歩いた。帳の検めは本人が出向く決まりで、これだけは書状では済まない。屋敷から出す手紙が家令の手を通ることを思えば、六日かけて自分の足で来るほうが気は楽だった。
泣き女組合は、王都の南、皮なめし職人の通りの奥にある。死に触れる者の職場は、街のはずれに置かれる。
作業場では、十四人が声を出さずに泣いていた。
板張りの床に膝を並べ、背をまっすぐにして、顔は動かさない。目からだけ、水が落ちている。頬を伝って顎に溜まり、膝の布に染みる。誰も声を出さない。呼吸の音すらほとんどしない。
十六の年に初めてこの部屋を見たとき、リゼットは廊下で足が動かなくなった。
声と涙を切り離す稽古である。悲しくなくても涙を出し、悲しくても声を出さない。両方できて、初めて器になる。器に自分の水を入れてはならないというのが、この職の一つ目の掟だった。
半刻で、稽古が入れ替わる。
今度は涙を止め、声だけを出す。十四人ぶんの泣き声が一度に立ち上がって、板壁が細かく震えた。
その中を、ヨセフィーネが歩いていた。
六十三になる老女である。背が低く、腰が曲がり、耳のうしろに白い後れ毛が跳ねている。目は開いているが、誰も見ていない。
「三番目、息が浅い。ゆうべ寝てないね」
「四番目、あんた昨日、玉ねぎ切っただろう。声に混ざってる」
「七番目」
老女は足を止めた。
「あんた、身内が具合悪いね。稽古から下がりな」
娘のひとりが声を切って、両手で口を押さえた。
ヨセフィーネは顔を憶えない。名も憶えない。四十年やってきて、憶えているのは泣き声だけである。一度聞けば忘れないと本人が言い、実際に忘れたことがない。
リゼットが戸口に立っているのを、老女は振り向きもせずに言い当てた。
「戻ったのかい」
「報告に上がりました」
「ラングヴァイか」
「はい」
それきりだった。
老女は次の娘の前へ歩いていった。
稽古の列から、いくつか視線が来た。
王都でいちばん高い泣き女、というのが彼女の呼ばれ方である。同業の三倍の指名料は、六年かけて一件ずつ積み上げたものだ。それでも、この部屋に彼女の味方はいない。値の高い泣き女は、ほかの泣き女の仕事を減らす。
誰も声をかけてこない。かけられても困る。話すことがない。
帳場は、作業場の隣の狭い部屋である。
棚に組合の台帳が積んであり、紙と黴の匂いがした。ヨセフィーネは窓際の椅子に沈み込むように座り、湯を一口飲んだ。
「預かりは」
「二つでございます」
「一年契約だそうだね」
「はい」
「断らなかったのかい」
「断れる依頼ではございませんでしたので」
老女は湯呑みを膝に置いた。しばらく、窓の外を見ている。皮なめしの匂いが風に乗って入ってきた。
「あの家、どうだった」
「静かでございました」
「泣き声は」
「足りておりませんでした」
湯呑みの縁で、老女の指が一度止まった。
「足りない家は、あるさ」
「はい」
「足りない家には、たいてい、足りない理由があるよ」
それきり、老女はまた湯を飲んだ。窓の下の通りで、荷車が石を跳ねる音がする。
「お前さん」
「はい」
「なんで泣き女になったんだったかね」
六年で、初めて訊かれた。
リゼットは、答えるまでに長くかかった。
「母が、十一年前に亡くなりました。アニェスと申します」
「ああ」
「うちには、もう金がございませんでした。泣き女を雇う金が」
言葉が、思ったより静かに出た。
「ですので、泣かねばならないのは、わたくしでした。父は当主ですから泣けません。使用人は暇を出したあとでした。母のために泣く人間は、あの家にわたくししかおりませんでした」
「泣いたかい」
「声が、出ませんでした」
部屋が静かになった。隣の作業場からは、まだ十四人ぶんの泣き声が聞こえている。
「一晩、棺の前に座っておりました。喉に手を当てて、押しても、叩いても、何も出てまいりませんでした。悲しくなかったわけではございません。悲しかったのは、憶えております。ただ、出てこなかったのです」
母は痩せて死んだ。最後のひと月はほとんど食べられず、手の甲の皮が、指で引っぱっても戻らなくなっていた。
その手を握って、リゼットは待っていた。声が出てくるのを待っていた。喉のどこかに引っかかっているのだと、そのときは思っていた。
朝までに、出てこなかった。
夜が明けて、司祭が来た。
司祭は棺を検め、帳面を開き、それから短く言った。
──泣き足りぬ。
それでも母の名は記された。記載は済み、形の上では渡ったことになっている。神殿の名簿にはそう書いてある。
「わたくしは、母がまだ家にいると思っております」
言ってしまってから、リゼットは口を閉じた。
六年間、誰にも言ったことがなかった。
ヨセフィーネは湯を飲み干した。慰めなかった。違うと言いもしなかった。
「そうかい」
それだけだった。
「だからお前さんは、他人の母親を全部渡すんだね」
リゼットは答えなかった。
答えなくても、この老女には泣き声で分かる。
帳の検めは、四半刻で済む。
組合の規定で、年に二度、預かり帳の頁数と、記載の形式と、綴じの傷み具合を確かめることになっている。中身を読むことは組合の長にも許されていない。読めばその泣き女の資格が消える。だから検めのとき、目を閉じたまま指だけでやる者もいる。ヨセフィーネは指の腹で頁の厚みだけを確かめ、ぱらぱらと紙を鳴らした。
その手が、最初のところで止まった。
「お前さんの帳、一枚目は白紙のままだね」
リゼットは、膝の上で指を組んだ。
泣き女は、最初に預かった名を一枚目に書く。それが決まりで、誰に教わるでもなくみながそうする。組合に入って初めての渡しの夜に、震える手で一行だけ書く。以後の頁は、その一行から始まる。
彼女の帳は、二枚目から始まっていた。
十六の春、初めての渡しの夜、彼女は一枚目を開いて、開いたまま何も書けずに、次の頁をめくった。
ヨセフィーネはそれ以上、何も言わなかった。
訊きもしない。老女は湯呑みを窓枠に置き、指を離した。
「頁の数は足りてるよ。持っておいき」
わたくしは、二枚目をめくって見せた。




