第6話 【sideオルデリク】待つ人
「庭師ヨナス。六十九。老衰にございます」
ヴィルヘルムが読み上げるのを、オルデリクは机の向こうで聞いていた。
朝の書斎は暗い。窓が北を向いているうえ、霧が出ている。燭台に火を入れるほどではないが、字を追うには足りない明るさだった。
「医者の見立ては」
「腎の弱りと。三月ほど前から足が浮腫んでおりました」
「診たのは、いつだ」
「十六日でございます」
オルデリクは報告書を受け取らなかった。指も動かさない。
「葬儀の手配は」
「組合へは私が出しました」
「指示は」
「奥様から」
「日付は」
「……十四日でございます」
家令の声が、そこで初めて一段落ちた。
二日、早い。
医者が診るより先に、葬儀の手配が回っている。
「よくあることでございます」ヴィルヘルムが言葉を足した。「お年を召した者が起きられなくなりましたら、先に手筈を整えておくものかと」
「そうだな」
オルデリクは同意した。同意しておくのが早い。
この家では、六年前から手続きのほうが先に動く。人が死ぬ前に紙が動き、人が死んだあとに紙が追いつく。そういう順序を、彼はもう何度か見ている。
「記載は」
「済んでおります」
「早いな」
「司祭様は、記載漏れをなさったことが一度もございませんので」
「ヴィルヘルム」
「はい」
「叔母上の指示は、お前を通るな」
「通ります」
「通さずに動いたことは」
「ございません」
「一度もか」
家令は帳面を閉じた。閉じるとき、指が縁で少し止まった。
「……一度も、とは申し上げられません」
「そうか」
オルデリクはそれ以上訊かなかった。訊けばこの男は正直に答えるだろうし、答えたことはやがて奥へ伝わる。この屋敷で忠誠と情報は同じ廊下を通る。
それは事実だった。ドルーガの帳面には抜けがない。日付の書き損じもない。この領で誰が死者であるかを決めているのは公爵ではなく、あの司祭の万年筆である。
オルデリクは領地図のほうへ目を移した。
「泣き女の部屋は、東の端だったな」
「はい」
「階段の脇だ」
家令は答えるまでに、ひと呼吸を使った。
「はい」
「上がり下りが聞こえる」
ヴィルヘルムは何も言わなかった。言わないのが答えだった。誰が夜に階段を使うかは、その部屋にいる人間に全部聞こえる。
「そのままでいい」
彼は言った。
部屋を替えさせるつもりはなかった。あの部屋は、屋敷でいちばん人の出入りが分かる場所である。彼女をそこに置いたのは偶然ではない。
昼過ぎ、回廊の窓から中庭が見えた。
霧が薄れて、地面に日が落ちている。洗い場の裏の物干しに、白い布が三枚かかっていた。風がないので、垂れたまま動かない。
その下に、女がひとり座っている。
黒い服。髪を後ろで固く結った、痩せた形。膝の上に、革表紙の帳が一冊。
オルデリクは足を止めた。
彼女は帳を開いていない。ただ膝に置いて、両手をその上に重ねている。洗い上がりを待っているだけの姿だ。侍女の娘が桶を運んできて、何か言い、彼女が短く答え、娘がまた走っていく。
あの帳を、彼女は人前で開かない。膝に置いて、両手を上に重ねたまま、洗い上がりを待っている。
あの帳の中に、六年ぶんの名前がある。
この領で、あの帳より古くまで遡れる記録を持っている人間は、神殿にしかいない。神殿の記録は司祭が書く。司祭の記録を疑うことは、この国では涜神になる。
だから彼は、あれが要った。
ほかの道は、二年かけて全部潰してある。
王都へ訴え出れば、王家は調べを寄越す。寄越すまでに半年、来た調べ役は神殿の認証を覆せない。領内の司法権は彼にあるが、誰が死者であるかを決める権限だけは彼の手の外にある。人を雇って探らせたこともあった。雇った男は三月で領を出た。出た先は誰も知らない。
残ったのが、身分の外側にいて、どの家の渡しにも呼ばれて、六年ぶんの名を書き留めている女ひとりだった。
彼女に説明はしていない。
説明すれば、彼女は自分が何を持っているかを知る。知った人間は顔に出る。顔に出れば、この家では長く保たない。
行かない、と決めていた。
中庭までは廊下を二つ折れるだけだ。声をかける理由はいくらでも作れる。今夜の食事のことでも、王都へ出す書状のことでもいい。
行けば、屋敷の誰かが見る。
見た者は、そのうち噂にする。噂になった人間は、この家では長く保たない。六年でそれを三度見ている。
オルデリクは窓から離れた。
名を呼ぶことだけは、やめられなかった。
人の名を呼ぶのは、その人間がまだこちら側にいるという確認である。呼んで、相手が振り返れば、その日はそれでいい。彼が屋敷じゅうの人間の名を憶えているのは、覚えがいいからではなかった。
夕方、彼は自室で二刻ほど横になった。眠るためではない。この二年、朝までひと続きに眠れた夜がなかった。天井の梁の節を数えているうちに日が落ちて、それで一日が終わる。
六年前は、こうではなかった。兄が生きていたころは、次男というのは呑気な立場だった。
夜、書斎に戻って、彼は書架の下の段を開けた。
台帳の裏に、布が一枚しまってある。
灰色の襟布だった。幅は指四本。当主の血縁が最も深い喪に着ける幅である。折り目が一箇所だけ、他より深く残っていた。誰かが強く握った跡だ。
喪はとうに明けている。明けた襟布は焼くか、仕立て直すか、どちらかにするのが作法で、六年も引き出しに残しておくものではない。
彼はそれを取り出さなかった。手も触れなかった。段を開けたまま、しばらく立っていただけである。
机に戻って、紙を一枚引き寄せた。
名前を三つ書いた。
書くのに時間はかからない。三つとも、六年のあいだに何度も頭の中で並べ替えてきた名だ。順序を変えても、抜けているものが同じ形に残る。
彼は紙を燭台の焔に近づけた。
端から縮んで、黒くなり、指のところまで来たところで放した。灰は机に落ちて、羽のように薄く割れた。書いたものを残さないのは、この六年で身についた癖である。
窓の外で、湖の方角から鳥が鳴いた。
この夜、屋敷は静かだった。
泣き女は明日、王都へ発つ。往復で十二日かかる。そのあいだ、この家で誰も死なないという保証はなかった。むしろ、いなくなるのを待っている者がいるかもしれない。
彼は段を閉じた。
閉じてから、口を開いた。
「──アルヴィス」
六年ぶりに口に出した名は、思ったより短かった。




