第5話 二人目
白布を出しながら、リゼットはそのことを考えないようにしていた。
契約から十日である。
十日で一人。庭師は六十九だったと聞いた。長く働いた人が春の終わりに逝くのは、珍しいことではない。珍しいことではないと、彼女は自分に二度言った。
鞄の底で、帳の角が指に当たった。
庭師ヨナスの家は、領都の外れの、川に近い低いところにあった。
土間に入ると、煮えた麦の匂いがした。隣の家から届けられたものだろう。鍋が三つ竈の脇に置かれ、湯気がまだ立っている。
蝋燭は少ない。二本きりだ。棺は板を釘で留めた簡素なもので、蓋の隙間から白い野の花がはみ出していた。庭で花を作って生きた男の棺に、庭の花が詰めてある。
「泣き女様に、こんなところまで」
老いた妻が土間の縁で頭を下げた。手の甲に土の色が染みついている。
「お代のことは、旦那様が」
「伺っております」
「あの人、庭のことしか知らないもんで」
老妻は棺の隙間からはみ出した白い花に触れた。指の腹で、折れないように押し戻す。
「屋敷の薔薇は先々代の奥様のご趣味でしたけど、この花は勝手に植えたやつなんです。畑の隅に。毎年、叱られてました」
リゼットは白布を顔にかけ、棺の正面に座った。屋敷の広間の三分の一もない部屋である。声を張れば、天井を突き抜けて外まで届く。
日が落ちて、渡しが始まった。
最初の声を上げたのは、彼女ではなかった。
老妻が泣いた。喉を絞るような、形の崩れた声だった。息継ぎがめちゃくちゃで、途中で咳になり、咳のまま続く。息子が背をさすっている。その息子も、さすりながら肩が震えていた。嫁は声を出さずに、前掛けの端を噛んでいた。
これが本物である。
貴族の家では、まずこの音がしない。取り乱すのは血の弱さだと教えられて育った人たちは、悲しむときも姿勢を崩さない。それでも泣き声が足りなければ死者は渡れず、家に留まって禍いを置いていくとされている。だから声を買う。買える家が買う。
庭師の家に泣き女が来ることは、めったにない。
リゼットは、声を出さなかった。
しばらく聴いていた。泣き女の仕事は、いつも全力で泣くことではない。この場に足りない量を測って、足りないぶんだけ足すことだ。多く足せば遺族の声を潰す。少なければ死者が渡れない。
老妻の声は、四つ数えるあいだに一度、途切れる。息が続かない年齢だ。息子の声は低いところにしか出ない。嫁は最後まで声を出さないだろう。
途切れる四つ目に、リゼットは自分の声を差し入れた。
低く、細く。老妻の声の下に潜り込ませて、途切れた隙間だけを埋める。老妻が息を吸っているあいだ、部屋の泣き声は途切れない。老妻が声を戻したら、こちらは退く。
誰も気づかない。気づかせないのが仕事である。
夜が深くなるにつれ、遺族の声は細っていった。人は一晩泣き続けられない。彼女の声の比重が少しずつ上がっていき、真夜中を過ぎるころには、部屋を支えているのは彼女ひとりになっていた。
それでも、この家の夜は温かかった。
泣くべき人間が泣いている家の空気には、厚みがある。
夜半に、馬車の音が止まった。
土間の入口が開いて、灰色の襟布が入ってくる。
「まあ、ヨナス」
マルグリット・ラングヴァイは、棺の前で膝を折った。屋敷から半刻の道を、この時刻に来ている。老妻が慌てて立とうとするのを、手で制した。
そして、泣いた。
高い声だった。よく通る。三度上げて、一度下げ、また上げる。息継ぎの位置が正確で、声の高さが最後まで一つも下がらない。
リゼットは泣きながら、その声を聴いていた。
十一日前、あの広間で、親族席の最前から聞こえた声だ。
同じというのは、似ているという意味ではない。
上げる回数が同じ。下げる位置が同じ。息を吸う長さが同じ。終わりの一声を落とす角度が同じ。
妻を亡くした家の夜と、庭師を送る夜である。
悲しみの種類が違う。
種類が違えば、泣き方は変わる。夫を亡くした人と、六十九まで仕えた老人を送る人とで、同じ声が出るはずがない。彼女はそれを六年、体で覚えてきた。だから同じ泣き方を二度しないという決まりを、自分に課している。
マルグリットは、まったく同じ泣き方をした。
やがて声を収め、襟布の折り目を整え、老妻に何か短く言って、立ち上がった。滞在は四半刻に満たない。
出ぎわに、彼女はリゼットの脇で一度足を止めた。
「よく通るお声ですこと」
白布の下から見えるのは、灰色の裾だけである。泣き女は葬儀の場で泣き声以外の言葉を発してはならない。答えないのが正しい。
「ですが、この家には少し余りますわね」
裾が動いて、土間を出ていった。
弔問として、非の打ちどころがなかった。
残された土間で、老妻がまた泣き出した。今度は形の崩れた、汚い泣き方に戻った。
リゼットは、そちらに声を合わせ直した。
夜明け前、預かりの前に、息子が水を持ってきた。泣き女に水を出す遺族は少ない。
「うちの親父、あの奥様のこと、可哀想がってました」
声が嗄れている。
「息子さん、それ、外で言わないほうが」
嫁が横から低く言った。
「言わないよ」
男はそれきり口を閉じ、土間の隅に戻っていった。
リゼットは水を飲み、椀を返した。訊かなかった。葬儀の場では訊けない。掟である。
屋敷に戻ったのは、翌日の昼過ぎである。
部屋の扉が叩かれたのは夕方だった。ニナが洗い籠を提げて立っている。
「あの、白布を」
濡れた三枚を渡す。娘は籠に入れ、それから出ていかなかった。籠の把手を持ち直し、また持ち直している。
「どうかなさいましたか」
「あの」
ニナは籠を胸に抱えた。
「あたし、あの夜、泣けなかったんです」
リゼットは、白布をたたむ手を止めた。
「奥様の、お渡しの夜です。あたし、壁のところにいて。……泣かなきゃって思ったんですけど、出てこなくて。声が」
早口が、途中から遅くなった。
「泣かない奉公人がいる家は、いくらでもございます」
「そうじゃないんです」
娘の指が、籠の縁を強く握った。
「悲しかったんです。奥様、あたしみたいなのにも名前で呼んでくださって、それで、あたし、悲しかったんです。悲しかったのに、出てこなくて」
「なぜ、出てこなかったのでしょう」
訊いてしまってから、リゼットは自分の声に少し驚いた。仕事の外で人に理由を訊くのは、六年でほとんどしたことがない。
ニナは口を開いて、閉じた。
もう一度開いて、また閉じた。それから、床のほうを向いた。
「……怖くて」
訊けば、答えるだろう。
葬儀の場ではないから、掟にも触れない。この娘は言いたがっている。言いたがっている人間が黙るときの顔を、彼女は六年で何百と見てきた。
訊けば、この娘は口にする。口にしたことは、屋敷の中でいつか誰かに伝わる。
リゼットは白布をたたみ終え、籠を娘の手に押し戻した。
「湯を、たっぷり使ってくださいませ。落ちにくいものが染みておりますので」
ニナは籠を抱え直し、頭を下げて出ていった。階段の床板が、下りていく足の下で短く鳴った。
何が、とは訊かなかった。
それは、わたくしの仕事ではございませんので。




