第4話 名前
三日のあいだ、彼女は領都の宿に置かれた。
組合への書状は初日に出した。届くのに六日、返事が来るのにまた六日かかる。返事を待たずに入れというのが屋敷の意向で、泣き女に交渉する材料はない。
王都で渡すはずだった老女には、別の泣き女がつく。八十過ぎで静かに逝った人に、誰がどんな声を当てるのか、彼女はもう知ることができない。
四日目の朝、荷を持って丘を登った。
荷といっても鞄が一つきりである。着替えと、白布が三枚と、帳と、インク壺。泣き女は身軽でなければ務まらない。呼ばれた日の夕方までに着かねばならない仕事だからだ。
与えられたのは使用人棟の東の端、階段のすぐ脇の部屋だった。
寝台と、椅子と、水差しの台。窓は嵌め殺しで、外は白い。壁の向こうで誰かが階段を上がるたび、床板が短く鳴った。
石鹸と、湿った麻の匂いがする。下の階が洗い場になっているらしい。夜のうちに乾かない土地なのだろう、麻の匂いは一日じゅう薄れなかった。
寝台に鞄を置き、帳だけを出して枕の下に入れる。これは六年変えていない。
「あの、失礼します」
扉が細く開いて、娘が顔を出した。十七か、そのくらいだ。手に洗い籠を提げている。
「白布、あたしがお預かりする係になりまして。……その、洗って、お返しする係、です、けど」
葬儀の夜、壁際で手巾を握りしめていた娘だった。あのとき俯いていた顔が、今はまっすぐこちらを向いている。
「ニナといいます」
名乗られて、リゼットは一拍遅れた。
「よろしくお願いいたします」
娘は籠を受け取り、濡れた白布をたたんで入れ、それから戸口で少し迷ってから出ていった。
扉が閉まってから、彼女は気がついた。
この屋敷に来て、誰も彼女の名を訊いていない。
家令も、司祭も、公爵も訊かなかった。書斎の書きつけの、名前を書く欄には「泣き女」と入っていた。六年間ずっとそうだった。名を訊かない相手に名乗るのは押しつけがましいから、彼女も名乗らない。
名を憶える仕事をしているのに、憶えられることがない。
回廊で呼び止められたのは、その日の昼過ぎである。
「お待ちなさい」
声に張りがあった。控えの間で聞いたのと同じ、丸くよく通る声だ。
灰色の襟布を胸元まで広く取った女が、回廊のこちら側へ歩いてきた。五十絡み。歩幅が一定で、裾が乱れない。
「マルグリットと申します。この家の内向きを預かっております」
リゼットは頭を下げた。
女の指が伸びてきて、彼女の襟布の端をつまんだ。布越しに、爪の硬さが鎖骨に触れる。
「半指ぶん、広うございますわ」
「失礼いたしました」
「喪の深さは、形で示すものですのよ」
マルグリットは襟布を外し、折り目を作り直し、また当ててから、指の腹で二度撫でて整えた。手つきに乱暴なところは一つもない。
「あなたのお立場でその幅を取られますと、この家が身内を見失っているように見えます。みっともないでしょう」
「はい」
「よろしい」
「叔母上、そのへんで」
柱の陰から出てきたのは、若い男だった。喪服の襟が今日も曲がっている。葬儀の夜、隅で泣いていた男である。
「初日から半指の話をされたら、この人、明日には縮んで帰っちゃうよ」
「セヴラン。あなたの襟も曲がっていましてよ」
「これは寝癖だから、直らないんだ」
男は笑って、リゼットのほうを向いた。目が赤い。三日経ってもまだ赤い。
「泣き女さん、うちの叔母上に半指で怒られるのは名誉なことだから、気にしないでいいよ。僕なんか指一本でやられたことがある」
マルグリットは息子を見なかった。裾を捌いて、来たときと同じ歩幅で去っていく。
残された男は、両手を上げて降参の形を作った。
「ねえ、一つ訊いていい?」歩き出しながら、彼は肩越しに言った。「四日前の夜さ。君、僕のほうを見てただろ」
「布をかぶっておりましたので、どこを見ていたかは分かりかねます」
「そういう答え方をするんだ」
男は笑った。笑いながら、指の関節で目のふちを押さえた。
「僕、葬式に弱くてね。誰のでも泣くんだ。子どもの時分からそうで、叔母上に何度直されたか分からない。直らないんだよ、これも」
大広間には、誰もいなかった。
棺のあった場所に何も置かれていない。椅子は片づけられ、白い花は下げられて、床に花粉の跡が残っている。四日前にここで三十七人が息をひそめていたことを示すものは、何もなかった。
窓は北を向いていた。
外は白い。霧が硝子に貼りついて、庭も塀も見えない。
「ラウ湖です」
いつのまにかニナが後ろに立っていた。空になった籠を抱えている。
「この窓、湖に面してるんです。晴れると向こう岸まで見えます、けど。年の半分は、こうです」
「大きい湖なのですね」
「あの、島もあるんです。真ん中あたりに」
娘は硝子に近づいて、白いだけの場所を指さした。
「黙島っていいます。神殿の分祠があって、返名の儀はあそこで。舟が出るのは年に一度きりで、あたし、行ったことないです」
リゼットは白い硝子を見た。
一年後、彼女はそこへ渡る。今この鞄に入っている一つの名を、そこで返す。
夕方の回廊で、公爵とすれ違った。
向こうから来る足音で分かった。歩幅が広く、床を擦らない。リゼットは壁際に寄って頭を下げ、通り過ぎるのを待つ。
足音が、目の前で止まった。
「リゼット」
名前だった。
体が動かなかった。頭を下げたまま、下げた姿勢のまま、返事が出てこない。呼ばれたのが自分だという処理に、一拍かかった。
六年ぶりだった。
組合ではみな「お前さん」と呼ぶ。屋敷では「泣き女」と呼ばれる。名前で呼ばれたのは、父が死んだ日が最後だ。
「……はい」
声が遅れて出た。喉が変な形に鳴った。
オルデリクは、その一拍を待っていた。急かしもせず、繰り返しもせず、彼女が返事をするまで立っていた。
「庭師のヨナスが、明け方から起きられない」
「……はい」
「六十九になる。長い」
それだけ言って、彼は歩き出した。黒い外套の裾が回廊の風にわずかに振れる。足音が遠ざかり、角を曲がって消えた。
リゼットは壁際に立ったまま、まだ頭を上げていなかった。
自分の名が、まだ耳の中で鳴っていた。
部屋へ戻る途中、大広間の前を通った。
風が出たのだろう。硝子の向こうの白が、薄く引きはじめていた。灰色の水面が現れ、対岸の輪郭が浮かび、そのあいだに黒いものが一つ残った。
窓の外、霧の中に、島の影がひとつ。
返名の儀は、あそこで。




