第3話 一年の依頼
正午の馬車は、出なかった。
控えの間に通されたまま、リゼットは午後を過ごした。窓は一つきりで、庭に面していない。見えるのは石塀と、その上に張り出した楡の枝だけである。霧は昼までに薄れ、日が傾くころにまた戻ってきた。
この屋敷は、静かすぎた。
人が死んだ翌日というのは、たいてい騒がしい。弔問客が来る。使用人が走る。台所が忙しくなる。声を潜めていても、家全体が息をしている音がある。
ここでは、廊下を歩く足音が一度きりしか聞こえない時間帯があった。
水差しの水を三度もらい、三度とも飲み切った。喉の奥はまだ砂を含んでいる。一晩泣いた翌日はいつもこうで、二日目には戻る。戻らなければ次の仕事ができない。
午後の半ば、廊下の向こうから女の声がした。
高くはない。よく通る、丸い声である。席の並べ方について何か指示を出しているらしかった。言葉までは聞き取れず、語尾の上がり方だけが繰り返し届く。この屋敷に来てから聞いた中で、いちばん張りのある声だった。
昨夜、親族席の最前で泣いていた人の声だ。
日が落ちて、燭台に火が入ったころ、扉が開いた。
「お待たせいたしました」
家令の声は、朝と同じ調子だった。
書斎には、本が少なかった。
棚の半分が空いている。残りの半分に並んでいるのは、背表紙の擦れた台帳のたぐいだ。壁には領地の図が一枚。暖炉に火は入っていない。五月に火を入れない屋敷は、この北の土地では珍しい部類に入る。
公爵は、まだ喪服のままだった。
襟布の幅も昨夜と同じ。一日着替えていない人間の襟の折れ方をしている。彼は机の向こうに立ったまま、椅子を一つこちらへ向けた。
「掛けてくれ」
「恐れ入ります。このままで」
職能民は貴族の卓につかない。座れと言われて座る泣き女がいたら、次の日から仕事がなくなる。
オルデリクは無理強いをしなかった。椅子をそのままにして、自分も座らない。
沈黙が長かった。
燭台の焔が一度大きく揺れて、蝋の匂いが濃くなる。リゼットは鞄の把手を両手で持ち、床の一点を見て待った。待つのは慣れている。貴族というのは、用件を切り出すまでに時間のかかる生き物だ。
「昨夜」
声が低い。
「あなただけが、泣いていた」
鞄の把手が、手のひらで滑った。
彼女は顔を上げない。上げてはいけない。この手の言葉のあとに来るのは、たいてい苦情だからだ。声が大きすぎた。品がなかった。うちの家風に合わない。六年で何度も言われている。
「泣くために、雇われましたので」
それだけ答えた。
オルデリクはうなずきもしなかった。彼が見ているのは彼女ではなく、机の上に置かれた自分の手のようだった。指が長い。爪の際に、乾いた蝋が一片ついたままになっている。
「頼みたいことがある」
「これから一年、この屋敷のすべての葬儀で泣いてほしい」
言葉の意味が、頭の中で二度並び直した。
葬儀は、人が死んで初めて成立する。だから泣き女の依頼は必ず、死んだあとに来る。日付が決まり、名が決まり、家が決まってから、組合に話が回る。それが順序だ。
一年ぶんを先に買う。
そんな依頼を、彼女は六年で一度も聞いたことがなかった。
受ければ、王都の仕事が消える。組合の割り振りは月ごとで、一年空ける泣き女は名簿の後ろへ回される。戻ったときに指名が残っている保証はない。同業の三倍という指名料は、六年かけて一件ずつ積み上げたものだ。一年でそれが平らになる。
「──閣下」
声が掠れた。
「それは、これから人が亡くなるという意味でございますか」
書斎の空気が止まった。
オルデリクは答えなかった。答えないまま、彼はしばらく立っていた。焔が二度、三度と揺れる。廊下の遠くで扉が閉まる音がして、それも消えた。
「答えられない」
やっと出た声は、それだけだった。
リゼットは待った。続きがあると思ったからだ。理由を言い足す人間は多い。言い訳でも、脅しでも、なんでもいい。何か言えば、こちらはそれを聞いた形にできる。
彼は言い足さなかった。
「一年でございますか」
「一年だ」
「この屋敷で、一年のあいだに渡しが何度あるとお考えでしょう」
「分からない」
「一度も無いということも、ございます」
「ある」
断言だった。
リゼットは息を止めた。無いとは言えない、ではない。ある、と言った。
「……閣下は、何かをご存じでいらっしゃいます」
「知っていることは、言えない」
彼はそこで初めて視線を上げた。目の下の影が、燭台の光で余計に濃く見えた。
「それでも、来てほしい」
断れる依頼ではなかった。
泣き女は依頼を選ばない。組合が割り振り、泣き女は行く。断れば追われる。追われれば、預かった名を返す資格ごと失う。今この鞄の中には、一つ名が入っている。
選べないのは、掟が彼女を守っているからだと教わった。行きたくない家にも行けと言われれば、恨まれるのは組合であって、泣き女ではない。
その掟が今、彼女をこの部屋に縛りつけていた。
「──承ります」
条件は、ヴィルヘルムが読み上げた。
「お部屋は使用人棟の東の端。お食事は使用人と同じもの。屋敷の内でも白布はお持ち歩きください」
「承知いたしました」
「喪の作法は、奥様がお決めになります。襟布の幅も含めまして」
「奥様、と申されますと」
「先代公爵の妹君にあたられます。マルグリット様。この家の内向きを預かっておいでです」
「かしこまりました」
「それから、外へお出しになる書簡は、すべて私がお預かりいたします」
リゼットは、初めて家令のほうを見た。
「手紙も、でございますか」
「屋敷の決まりでございます」
「組合へ、月ごとに報告を出す義務がございます。預かった名の数と、渡しの日付を」
「お預かりして、私が出します」
「出していただいた控えは」
「控えは、残しません」
家令は帳面から目を上げなかった。そこで押しても、同じ答えが同じ調子で返ってくるだけだと分かる声だった。
報酬の欄は空白のままだった。泣き女の報酬は金では数えない。この一年に預かった名の数を、返名の儀の夜に返し終えて、それで初めて組合から支払いが下りる。
だから確かめておくことが、一つだけある。
「返名の儀は」
彼女は顔を上げた。この夜、初めてまっすぐ公爵を見た。
「一年後の、同じ夜でよろしゅうございますか」
オルデリクの返事に、間があった。
長い間ではない。息を一つ入れる程度の、ほんのわずかな遅れである。だが泣き女は、人の息の間隔を数えて夜を渡らせる仕事をしている。彼女の耳は、その一拍を拾ってしまった。
「そうだ」
彼は目を逸らさずに答えた。
「五月十日。黙島で行う」
黙島、と彼女は口の中で繰り返した。聞いたことのない名だ。
「舟が出るのは日没でございます」ヴィルヘルムが横から足した。「年に一度きり、その夜だけ」
リゼットは頭を下げ、書斎を出た。
廊下は冷えていた。燭台の間隔が広く、影の帯が等間隔に落ちている。
あの一拍が何だったのか、彼女には分からない。日付を思い出すのに詰まったのかもしれないし、妻の一周忌を口にするのが厭だったのかもしれない。人が言葉に詰まる理由は数えきれないほどある。
ただ、泣き女は他人の息の詰まりを商売にしている。詰まった箇所を忘れないようにできてしまっていた。
影の帯を一つずつ踏んで歩きながら、彼女はさっき聞いた言葉を、もう一度並べ直す。
これから一年、この屋敷のすべての葬儀で泣いてほしい。




