第2話 預かり
夜が明けても、泣き女の仕事は終わらない。
リゼットは膝の脇に置いた革の鞄を引き寄せた。中に入っているのは帳が一冊と、木の軸のペンと、蓋の固いインク壺だけである。壺の蓋をひねると、鉄と酸の混じった匂いが立った。一晩泣き通した喉には、その匂いがよく染みる。
広間の空気が変わりはじめていた。硝子越しの光が灰から白へ移り、蝋燭の焔が急に頼りなく見える。使用人が燭台をひとつずつ消して回っていた。
棺の脇に、司祭が戻ってくる。
黒い長衣の裾が石を擦る音。彼女の位置からは顔が見えない。見えるのは組まれた両手だけだった。節の目立つ、乾いた指。爪は短く切り揃えられ、袖口に汚れが一つもない。
「伏せ、泣き、預かり、記載」
声は平たかった。抑揚がない。数を読み上げる声だ。
「渡り、成れり」
それで、この夜の死は形になった。
「泣きは」
司祭の手が、初めてこちらへ向いた。
「足りましたか」
「足りております」
泣き女が答える。足りたか足りないかを言えるのは泣き女だけで、司祭はそれを訊いて記す。足りないと言えば夜が延びる。彼女は六年で二度、延ばしたことがあった。
「結構でございます」
乾いた指が、帳面らしきものの端を揃える音がした。
あとは司祭が神殿へ戻り、死者名簿にその名を記す。記された者はその日から法の上で死者になり、爵位も財産も、証言する資格も失う。
泣き女の帳と、神殿の名簿。同じ名が二つの紙に載る。本来なら、二つは一字も違わないはずのものだ。
リゼットは帳を開いた。
前の頁には王都の名前が並んでいる。日付、名、喪主、立会人。字はどれも同じ大きさで、傾きも揃っていた。六年ぶんの頁が、指の腹に厚みとして残っている。
新しい行にペンを下ろす。
五月十日 シビル・ラングヴァイ 喪主オルデリク・ラングヴァイ
インクが乾くまで、彼女は頁を閉じない。
この瞬間から、喪が明けるまでのあいだ、この名を口にしてよい者は世界にひとりもいなくなる。名を呼べば死者が振り返り、渡り損ねるからだ。夫も、叔母も、司祭も、もう呼べない。
憶えているのは、彼女だけになる。
最初の頃は、書くときに手が震えた。他人の名前を丸ごと預かるということの重さに、十六の指が耐えられなかった。今は震えない。慣れた、というより、震えるための場所がどこかで塞がった。
頁を閉じ、鞄に戻す。それで預かりは済んだ。
この帳を、彼女以外の人間が開くことはない。開かせてはならない。預かり帳は泣き女が個人で持つもので、他人の目に触れさせた時点で資格を失う。失えばもう、どの屋敷にも呼ばれない。
だから帳は、寝るときも枕の下にある。
棺が動いたのは、それからすぐだった。
担ぎ手が四人。屋敷の下男らしい体つきの男たちが、両脇に二人ずつついて肩を入れる。掛け声はない。喪の場では声を出さない決まりになっている。
リゼットは膝をついたまま、それを見送る位置にいた。
男たちが立ち上がった。
膝が伸びるのが、速い。
彼女は目を離さなかった。棺を運ぶ人間の体は正直で、重ければ膝が渋り、腰が落ち、最初の三歩で歩幅が縮む。軽ければ肩が上がったまま進む。六年で数百の棺を見送ってきた。歩幅と息の乱れだけで、中がどれくらいかは見当がつく。
四人は、歩幅を縮めなかった。
広間の扉を抜け、石段を降りていく。降りるときのつま先が、探っていない。重い荷を持って段を降りる者は、必ずつま先で先に段を測る。彼らは測らずに降りた。
軽い。
痩せて亡くなる人はいる。長く病んで伏せていれば体は減るし、そういう家では棺に石を入れて重さを繕うこともあった。体面のためだ。
公爵夫人の死は、急なものだと聞いていた。
急に亡くなった人は、減っていない。
もっとも、聞いた話と合わないことは、よくある。病名を言い換える家は多い。若い妻の死ならなおさらだ。彼女の仕事は棺の中を検めることではないし、検めてよい身分でもない。
だから彼女は、見ただけだった。
開いた扉の向こうは、白かった。
霧が庭を埋めていて、車寄せに待つ荷馬車の輪郭がぼやけている。水の匂いがした。塩気のない、藻と泥の混じった重い匂い。この土地には大きな湖があると聞いていたが、屋敷からは見えないらしい。
棺が霧に入って、二歩で消えた。
二階の窓のいくつかで、影が動いた。使用人が見ている。誰も出てこない。
視線を戻すと、扉の脇に公爵が立っていた。
オルデリクは棺を見ていない。担ぎ手も見ていない。彼が見ていたのは、リゼットが帳を鞄に戻す、その手つきだった。
目が合う前に、彼女は目を伏せた。
控えの間に通されたのは、日が屋根を越えたころである。
石の壁が朝の冷えを溜めていて、指の先から温度が引いていく。どこか下の階から、焼けたパンの匂いが上がってきていた。屋敷は動きはじめている。人が死んでも、朝食は作られる。
家令のヴィルヘルムが帳面を持って現れた。夜通し起きていたはずなのに、襟が乱れていない。
「お預かりの数を、伺います」
「一つでございます」
リゼットの声は、まだ戻りきっていなかった。
「シビル・ラングヴァイ様」
名は言わない。喪が明けるまで口にできないから、泣き女は「一つ」と数だけを言う。ヴィルヘルムも重ねて確かめようとはしなかった。この屋敷の家令は、決まりを知っている人間らしい。
彼が帳面に何か書きつける。
泣き女の報酬は、金では数えない。預かった名がいくつあるかで数える。一年後の返名を果たして、その名を正しく返し終えて初めて、組合から支払いが下りる。だから泣き女は、預かった名を抱えたまま一年を生きることになる。
途中で投げ出せば、その名は返らない。返らない名は、渡り損ねたまま残る。
依頼を選べないのも同じ理屈だった。組合が割り振り、泣き女は行く。断れば、誰かの名が誰にも預けられずに終わる。
屋敷が組合へ納める指名料と、泣き女本人の取り分は別のものだ。前者は紙の上で動くだけで、彼女の手には触れない。
王都へ戻れば、着いた翌日に次の仕事が入っている。パン屋の組合長の母だと聞いた。八十を越えて眠るように逝った人には、満ちる泣き方をする。声を高く保ち、切らさず、最後に長く伸ばして終える。往復に十二日かかるこの北の仕事を受けたのも、組合がそう割り振ったからにすぎない。
「馬車の手配は、正午でよろしいでしょうか」
「お願いいたします」
ヴィルヘルムは帳面を閉じ、そのまま部屋を出ようとして、扉の前で振り返った。
「その前に、公爵閣下がお呼びです」
喉の奥がひりついた。
仕事は終わっている。名は預かった。棺は出た。泣き女に用のある人間は、この屋敷にもういないはずだった。
リゼットは鞄の把手を持ち直し、立ち上がる。石の廊下は、朝になっても冷たいままだ。
途中で若い侍女とすれ違った。昨夜、壁際で手巾を握りしめていた娘である。娘はリゼットを見るなり目を伏せ、壁に貼りつくようにして道を空けた。
死に触れる者に道を譲るのは作法だ。目を合わせないのも作法である。
ヴィルヘルムの背中を追いながら、彼女は先ほど見たものをもう一度思い出していた。
膝の伸び方。縮まない歩幅。段を測らないつま先。
──あの棺は、軽かった。




