第1話 買われた声
この作品は全30話です。完結まで執筆済みですので、途中で止まることはありません。
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今日の12時に関連する短編
「泣かなかった夜 ~公爵閣下は、妻の棺の前で一滴も泣かなかった~」
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声が上がった。
低く、長く、途切れない。石の天井に当たって割れ、大広間の隅まで満ちていく。喉の奥だけを細く開いて、そこからしか出さない泣き方だ。
蝋燭の焔がいっせいに傾いた。誰かが息を呑む。
泣いているのは、広間の中央に膝をついた女ひとりだった。黒の喪服。顔は白い薄布で覆われ、目も鼻も口も見えない。指を組み、背をまっすぐ立てたまま、声だけを出している。
この夜の泣き声には、王都でいちばん高い指名料がついていた。同業の三倍である。
リゼット・ヴァレンドが屋敷に着いたのは、日没の四半刻前だった。門から玄関までの短い距離で、彼女は数え終えている。
止まっている馬車が六台。玄関に並んだ使用人が十九人。広間の燭台は片側に七本ずつ。喪主の襟布は指三本ぶんの幅があった。妻を亡くした男の幅だ。
遺族の多い家では低く長く泣く。少ない家では高く鋭く泣く。夭折なら途切れさせ、老衰なら満たす。泣き方をその家に合わせて選ぶのが彼女の仕事で、同じ泣き方を二度しないというのが、六年かけて自分に課した決まりだった。
この家は、人の数のわりに冷えていた。だから低く、長く。途切れさせない。
控えの間で、彼女は家令に三つ訊いた。泣き方を決めるのに要る三つである。
「奥様のご実家は、どちらでございましょう」
「南の、リエンヌ伯爵家でございます。片道十日ほど」
「本日は」
「間に合いません」
「ご兄弟は」
「おられません」
家令は帳面から目を上げずに答えた。答えは全部短かった。乳母はどうか、と訊くと、三年前に亡くなったという返事が返ってきた。
この夜、棺の中の人をいちばん長く知っている人間は、この広間にいない。
同じ家令が、白布と一緒に灰色の襟布を持ってきた。この屋敷では泣き女にも喪の色を着けさせる決まりだという。幅は指二本ぶんしかない。妻の死に対して、雇われた者が示してよい喪の深さが、それだけだということだ。
「お声は、控えめに願います」
家令はそれだけ言って下がった。
控えめに泣かせたがる家はある。声が大きいと外聞が悪い、という理由で。そういう家の依頼はたいてい安い。この家の指名料は、安くなかった。
棺の蓋が下ろされる音がして、司祭が退いた。そこから先は彼女の時間になる。
最初の一声で喉を開く。二声目で広間の広さを測り、三声目からは息の配分に移った。日没に始まり、夜明けに終わる。途中で声が枯れれば、死者は渡れない。
白布の内側は、すぐに湿った。
息を継ぐたび、蝋の焦げる匂いと、まだ青い花の匂いが入ってくる。この季節にこの量の白花を揃えたのなら、北の国から取り寄せたのだろう。
泣きながら、彼女は見ている。
泣き女の席は棺の正面にある。遺族に背を向けず、参列者の全員を正面から見渡せる位置だ。顔を布で覆っているから、こちらの視線は誰にも届かない。六年やってきて、この席より都合のいい場所を彼女は知らない。
まず、喪主。
ラングヴァイ公爵オルデリクは、棺の脇に立ったまま動かなかった。手を前で組み、顎を引き、視線を蓋の一点に落としている。姿勢が崩れない。息の間隔も変わらない。
泣かない。
夜が更けても、泣かない。
泣けない男なら、彼女は何人も見てきた。立ち方で分かる。膝がわずかに緩み、重心が片方に寄り、そのうち視線が棺から逃げていく。人は三刻も同じ一点を見ていられない。
公爵の重心は、動かなかった。
泣かないのではなく、泣かないことに慣れている。
親族席の最前で、五十絡みの女が高く声を上げていた。灰色の襟布を胸元まで広く取った、姿勢の美しい人だ。泣き方に品がある。息継ぎの位置が正確で、声の高さが最後まで一定に保たれていた。
その後ろの三人も、同じ高さで泣いている。同じ位置で息を継いでいる。
揃いすぎている、とリゼットは思う。
悲しみは、揃わない。
夜半、彼女は泣き方を変えた。
低く伸ばしていた声を、一度だけ高いところへ跳ね上げる。泣き女が型を変えると、遺族の呼吸がそれに引かれる。堰の板が一枚抜けるように、こらえていた者から順に崩れていく。六年やってきて、これが外れたことはほとんどない。
誰も、続かなかった。
二刻ののち、今度は途切れさせる型を試した。息を詰め、ひと息ぶん空けて、また落とす。子を亡くした母がよくする泣き方だ。
広間は静かなままだった。
声を返してこない広間で、彼女はひとりで夜を持ち上げていた。喉の奥に鉄の味がする。六年のうちに三度、声を潰しかけたことがあった。あのときと同じ味だ。
使用人たちは壁際に並んでいた。俯いて、肩を落として、誰も声を出さない。若い侍女がひとり、手巾を握りしめたまま唇を噛んでいる。泣くのを我慢しているのではなかった。
出てこないのだ。
冷たい主人の家では、奉公人は泣かない。それは珍しくない。だがそういう家の者は俯かない。まっすぐ前を見て、早く終われと思っている。
この家の者は、俯いている。
親族席には五つ椅子が並び、四つしか埋まっていなかった。
五人目は、広間の隅にいた。
二十代半ばの男である。喪服の襟が曲がっている。息が乱れ、肩が跳ね、手の甲で目を拭っては、また濡らしている。声を殺しきれずに、時々それが漏れた。みっともない泣き方だった。
彼が誰なのか、彼女は知らない。
三十七人。この夜、広間にいた人間の数だ。
そのうち泣いていたのは、隅の男と、雇われた自分。
窓の色が変わりはじめた。
黒だった硝子に灰が混ざっていく。夜明けが近い。
リゼットは声を細くしていった。急に止めてはいけない。細く、遠く、退がっていくように。糸を引いて、最後の一本を静かに離す。
声が消えた。
広間には蝋の爆ぜる音だけが残った。三十七人が、誰も動かない。
彼女は膝をついたまま、白布の端に指をかけた。
外す。
薄布が落ちて、顔が出た。頬は濡れ、まつげが束になり、目のふちが赤く腫れている。一晩泣き通した顔だ。
そこに、何もなかった。
悲しみも、疲れも、安堵もない。呼吸が二つぶん整うと、彼女は袖から乾いた布を出して顔を押さえ、崩れた髪を指で撫でつけた。手は震えていない。喉の奥が焼けているのに、指先だけが落ち着いている。このまま帳の続きを書きはじめられる指だった。
視線を感じて、顔を上げる。
公爵が、こちらを見ていた。
黒い外套の男は、まばたきをしなかった。目の下に濃い影がある。棺の前に一晩立っただけの目には見えなかった。もっと前から、何日も眠っていない目だ。
何か言われるのを、彼女は待った。
何も言われなかった。
公爵は視線を外し、棺のほうへ戻っていく。足音が石を渡って遠ざかった。
広間の人間が動きはじめた。椅子が引かれ、衣擦れが起き、誰かが低く咳をする。三十七人ぶんの息が、いっせいに楽になった音がした。
葬儀が明けて遺族の呼吸がほどけるのは、珍しいことではない。悲しむのは体力を使う。
この広間で体力を使ったのは、彼女ひとりだった。
リゼットは白布を四つに折り、湿ったまま袖の内側に入れた。
組合へ出す報告には、喪主と親族の泣きの有無を記す欄がある。
そこに書ける言葉は、ひとつしかなかった。
──あの広間で泣いていたのは、雇われたわたくしだけでございました。




