第10話 三つ多い
蝋燭を一本立てて、リゼットは帳を開いた。
夏の夜で、窓を開けても風が入らない。石の壁が昼の熱を吐き出していて、部屋は温い。階段のほうから、下働きが上がってくる足音が二つした。二つとも、途中の踊り場で止まって、それきりになった。
半期の報告を作る。組合の決まりで、六月の末と十二月の末に出す。
書くのは三行だった。
五月十日 シビル・ラングヴァイ 喪主オルデリク・ラングヴァイ
五月二十一日 ヨナス 喪主 妻ベルタ
六月八日 マティアス 喪主 兄ヴィルヘルム
これを写して、綴りに添える。
報告は毎回、同じ手順で作る。帳から書き写し、日付を確かめ、綴りを添えて封をする。六年で十二回やった。手が順序を憶えている。
今夜はいつもより早く終わった。三行しかないからである。
綴りは、王都で受け取ってきた。一年契約という前例のない話だったので、組合が二つの束を持たせてくれた。
一つは、過去六年ぶん、この領で神殿が出した死者名簿の写し。半期ごとに神殿から組合へ送られてくるものである。
もう一つは、同じ六年に、組合がこの領へ泣き女を割り振った記録。
ラングヴァイ家に前の泣き女の預かりが残っていないか、確かめておけと言われていた。残っていれば、返名の儀でその名も返さねばならない。一年入る泣き女の務めである。
リゼットは二つの束を机に並べた。
右が神殿。左が組合。
まず、右を数えた。
過去六年、ラングヴァイ家の名において記された渡しは、九件ある。
九つの名を、彼女は紙の端に年ごとに書き出した。
五百六年に二つ。当主の兄と、家女中がひとり。
五百七年に一つ。侍従長。
五百八年に一つ。御者。
五百十年に一つ。先代の公爵。
五百十一年に一つ。文書番。
そして今年、五百十二年に三つ。
次に、左を数えた。
同じ六年に、この家へ泣き女が入った記録は、七件ある。
二つ、少ない。
彼女は数え直した。指で押さえて、行を一つずつ潰していく。九件のうち七件には、日付と、泣き女の名と、預かった名が揃っている。組合の割り振りは金の出入りに繋がるから、書き落としは起きない。
残った二件には、何もなかった。
五年前の侍従長と、去年の文書番。
この二人には、泣き女がついていない。
リゼットは指を止めた。
泣き女なしの渡しは、成立しない。泣き声が足りなければ死者は渡れず、家に留まる。だから遺族は、金を借りてでも泣き女を雇う。庭師の家でさえ雇っている。
公爵家が、二度、雇っていない。
雇わずに、名簿には記されている。
彼女は蝋燭を引き寄せて、二つの行を近くで見た。字は整っていて、日付にも訂正の跡がない。書いた人間は迷っていない。
迷っていない字だった。
そこで終わらせてもよかった。
報告に書く必要はない。彼女が預かるのは今年の三つだけで、五年前の侍従長は彼女の帳の外にいる。
それでも彼女は、残りの七件を照らし合わせた。六年やってきた癖である。数を合わせる仕事をしていると、合ったものも一度は見る。
六件までは、合っていた。
渡しの日付。翌日の記載。組合の割り振り。三つの紙が同じ日を指している。夜が明けてから司祭が神殿へ戻り、その日のうちに名を記す。それが順序だから、記載は必ず渡しの翌日になる。
七件目で、指が止まった。
シビル・ラングヴァイ 記載 四月一日
彼女の帳には、五月十日と書いてある。
組合の割り振りにも、五月十日と書いてある。あの夜、彼女は日没から夜明けまで泣いた。喉に鉄の味がした。三十七人がいて、泣いていたのは二人だった。
神殿の名簿には、四十日前の日付が入っている。
リゼットは、右の束をもう一度めくった。書き損じではない。写しの端に、神殿の判が押してある。押した位置も、他の頁と同じである。
四十日。
王都まで往復して、なお二週間余る長さである。
四十日前、彼女はまだ王都にいた。ラングヴァイという家の名は、地図の上でしか知らなかった。
その四十日のあいだ、この屋敷の人間は、奥様が生きていると思っていたはずである。思っていなければ、五月十日に葬儀を出す理由がない。棺を用意し、北の国から白い花を取り寄せ、王都から泣き女を呼ぶ理由がない。
紙の上でだけ、先に死んでいた。
あの人は、四月一日に死者になっていた。
そして五月十日に、渡しが行われた。
順序が、逆だった。
部屋の中で、蝋の芯が小さく鳴った。彼女は机の縁を握った。木のささくれが手のひらに刺さって、それでようやく、自分が息を止めていたことに気づいた。
三つある。
泣き女のいない渡しが、二つ。
泣き女がいたのに、日付の合わない渡しが、一つ。
誰に言えるかを、彼女は考えた。
考えるまでもなかった。
葬儀の場では口をきけない。泣き声以外の言葉を出せば、その場で資格を失う。
この帳は、誰にも見せられない。見せた時点で泣き女ではなくなる。証拠を持っているのに、机の上に出せない。
手紙は家令が預かる。控えは残らない。
王都までは片道六日。往復十二日のあいだに、この屋敷で何が起きても、彼女には知らせが届かない。
訴え出る先を、順に潰していく。
領主。この家の当主である。雇い主であり、日付の合わない一件の喪主でもある。
神殿。記したのは神殿である。
組合。片道六日。届く頃には半月が過ぎている。
王家。遠い。動きが遅い。調べが来る前に、彼女はこの屋敷にいなくなっているだろう。
残るのは、口で言うことだけだった。
言って、信じてもらえる相手を、彼女は一人も思いつかなかった。泣き女は身分の外にいる。職能民の言葉は、貴族の言葉に勝てない。数が合わないと訴え出れば、まず数え直されるのは彼女のほうである。
リゼットは三枚の紙をたたみ、帳のあいだに挟んで、枕の下に入れた。
それから、名簿の写しにあった二つの名前を、口の中で読んでみた。
侍従長。文書番。
どちらも、彼女の知らない人である。会ったことも、声を聞いたこともない。
名簿には、年と、日と、名前しか書かれていない。歳も、どこで生まれたかも、何が好きだったかも書いていない。庭の隅に勝手に花を植えたとか、酸い林檎が好きだったとか、そういうことは、泣き女が遺族に訊いて、その夜のためだけに使って、あとは消える。
この二人には、訊いた者がいない。
五年前と去年、この家で死んだことになっているのに、彼女はその人たちのために一度も泣いていない。
誰も、泣いていない。
この家では、渡しの数と、記された死の数が、三つ合わない。
誰にも泣かれないまま死者にされた人が、二人。
わたくしが泣いたときには、もう死者にされていた人が、一人。
わたくしは蝋燭を消した。
暗くなってからも、長いこと目を開けていた。
階段の踊り場で止まった足音のことを、思い出していた。
二つとも、降りていく音がしなかった。




