第11話 替えられた布
白布は、塩を吸う。
一晩泣くと、布は顔の形に硬くなる。乾けば白い粉が浮いて、指で弾くと落ちる。だから泣き女は儀の翌日に必ず洗う。洗って、干して、次の夜に備える。塩の残った布で泣けば、頬が荒れて三日は使いものにならない。
洗い場は使用人棟の一階の裏にあって、朝のうちは湯気が天井に溜まっている。灰汁と石鹸の匂いが混じって、喉の奥に張りついた。
リゼットは籠の中を見て、手を止めた。
四枚ある。
彼女が持っているのは三枚だった。組合の支給品で、六年使っている。端の縫い目がほつれて、自分で二度繕ってある。
四枚目には、繕った跡がなかった。
布を持ち上げて、光にかざしてみる。織りが細かい。糸が均されていて、目が詰んでいる。支給品はもっと粗い麻で、洗うたびに毛羽が立つ。この一枚は毛羽が立たない。
上等な麻だった。
「ニナさん」
洗い場の隅で桶を洗っていた娘が、顔を上げた。
「これは、あなたが」
「あたしじゃないです」
娘は手を拭いて近寄り、布を覗き込んだ。
「あの、それ。あたし、先月から気になってて」
「先月から」
「はい。あたしがお預かりして洗うのは、いつも三枚なんです。でも、朝に取りに行くと四枚あって。……一枚、増えてるんです」
「毎朝」
「毎朝じゃないです。泣かれた翌朝だけ」
ニナは指を折った。数えるのが癖らしい。
「庭師さんのときと、文書係さんのとき。それから、儀のない日にも二回」
誰かが、彼女の部屋の前に布を置いていく。
置いていくだけで、何も言わない。名乗らない。古い布を持っていくわけでもない。ただ、増える。
「あの、泣き女様」
「はい」
「それ、返さないほうがいいと思います」
娘は桶の縁を指でこすっていた。
「名乗らないってことは、名乗れないってことだと思うんです。返しに行ったら、誰かに見つかっちゃうから、です、けど」
洗い場の向こうで、別の侍女が二人、洗濯板を並べて何か話していた。こちらを見て、すぐに目を戻す。この屋敷に来て二月になるが、ニナ以外の使用人と口をきいたことがない。死に触れる者に道を譲るのは作法である。
リゼットは四枚目をたたみ、自分の籠に入れた。
湯気が肩のあたりでほどけていく。ここで返さなければ、受け取ったことになる。
中庭に出たのは、昼を過ぎてからだった。
半期の報告が、まだ出せていない。
六月末が期限で、今日は七月の八日である。六年で初めての遅れだった。
書くこと自体は済んでいる。三行と、綴りの写し。封もできている。ただ、封をした瞬間から、それは家令の手を通る紙になる。
彼女は井戸の縁に腰を下ろして、順に考えた。
組合に事情を書けば、家令が読む。書かなければ、ただ遅れた報告になる。遅れた報告は、組合が理由を訊きに来る。訊きに来るのは早くて一月後で、来る相手は屋敷の門で家令に迎えられる。
帳を見せる道はない。見せた時点で泣き女ではなくなる。泣き女でなくなれば、四つの名は誰にも返せない。
王都まで六日。誰かに託せば、託した相手が屋敷を出るところを見られる。
考えるほど、道が減った。
残っている道は一つだけだった。何も書かず、遅れたまま、一年を勤め上げること。返名の儀の夜に、預かった名を全部返すこと。
それは道ではなく、ただ待つことである。
井戸の水を汲み上げて、手のひらに受けた。夏でも湖の水は冷たい。指の節が痛くなるまで浸けて、それから顔を洗った。
顔を上げたとき、中庭の向こうを二人が歩いていた。
灰色の襟布と、黒い長衣。
マルグリットと、司祭である。並んで、同じ速さで、回廊の柱のあいだを横切っていく。片方が何か言い、もう片方が短く答えたようだった。
声は届かない。
距離にして三十歩もない。柱の影に入り、出て、また入って、二人は東の扉から屋敷の中へ消えた。
リゼットは井戸の縁に座ったまま、その扉を見ていた。
二人が並んで歩くことに、おかしなところは一つもない。喪の作法を決める人と、渡しを司る人である。話すことなら、いくらでもある。
聞こえないというだけだった。
聞こえないことに、意味はない。意味はないのに、彼女は膝の上で指を組んでいた。
その夜、部屋に戻ると、扉の前に布が置いてあった。
白く、たたまれて、床に直に置かれている。誰の足音も聞かなかった。
彼女はそれを取り上げた。同じ織りだった。目が詰んでいて、毛羽が立たない。指で挟むと、支給品より薄いのに、しっかりしている。
顔を上げると、廊下の先に人がいた。
燭台の間隔が広いので、影の帯の向こうに立っている形しか見えない。長身。外套の裾。動かない。
「リゼット」
三度目でも、返事は一拍遅れた。
「はい」
オルデリクは近づいてこなかった。廊下の途中に立ったまま、そこから訊いた。
「よく眠れているか」
布のことは、一言もなかった。
彼女は手の中の布を、後ろに回さなかった。回せば隠したことになる。持ったまま、頭を下げた。
「はい」
嘘だった。
この一月、蝋燭を消したあとに天井を見ている時間が長い。数字が三つ、頭の中で並び替わる。並び替えても、同じ形に欠ける。
「食事は」
「いただいております」
「そうか」
「あの」
言いかけて、彼女は口を閉じた。
この布は、と訊けば済む。訊けば、置いた人が分かる。分かってしまえば、礼を言わねばならない。礼を言えば、置いた人の名前が屋敷の中で口に出る。
名乗らないということは、名乗れないということだ。
「いえ。おやすみなさいませ」
オルデリクは、しばらく動かなかった。何か続けるのかと思ったが、続かない。やがて足音が向きを変え、影の帯を一つずつ渡って、遠ざかっていった。
リゼットは扉を閉め、布を寝台の上に置いた。
三枚は、支給品である。組合が泣き女に配るもので、泣いた量とは関係がない。
塩を吸って硬くなるのは、その夜どれだけ泣いたかで決まる。庭師の家の布はよく硬くなった。文書係の夜のものも硬かった。硬くなった翌朝に、一枚増える。
増えない朝もある。声を抑えた夜の翌朝だ。
布の硬さを見る人間は、この世に泣き女しかいない。仕事の道具である。洗って干せば消える。誰も見ない。
見ている人がいた。
彼女は寝台に腰を下ろし、両手を膝の上で組んだ。それから、組んだ手をほどいて、布の端をつまんだ。目の詰んだ麻が、指の腹を滑る。
六年間、この仕事で誰かに礼を言われたことはある。泣いてくれてありがとう、と遺族が言う。あれは死者に向けられた言葉で、彼女に向けられたものではない。
これは、どちらだろうと思った。
布は、毎晩替えられていたわけではなかった。
わたくしがどれだけ泣いたかを知っている人が、この屋敷に一人だけいる。




