第12話 四人目
四人目は、顔を知っている人だった。
屋敷の東の廊下で、二度すれ違っている。書付の束を胸に抱えて、壁際を早足で歩いていく男だった。下級の書記で、名は聞いていない。すれ違うとき、二度とも道を譲られた。
死んだのは三日前だという。熱病だと聞いた。
小教区へ向かう荷馬車の上で、御者が言った。
「今年は熱の年じゃねえんですがね」
「と、申しますと」
「熱が出る年は、村で五人も六人も寝込むんです。あの村、今年は一人も出てねえ」
御者はそれきり、鞭の柄で首の後ろを掻いた。悪気のない口調だった。
リゼットは荷台の縁に手を置いて、道の埃を見ていた。
渡しの場は、六月に文書係を送ったのと同じ礼拝堂だった。
喪主が立たない。
書記には身寄りがなかった。親も兄弟も、妻子もいない。村に借りていた部屋の家主が来ているが、家主は喪主にはなれない。
費用は、ラングヴァイ家が出していた。
「閣下のご指示でございます」
ヴィルヘルムが手配の帳面を閉じながら言った。彼は立ち会わない。手配だけして、屋敷へ戻る。
身寄りのない書記のために、公爵家が泣き女を雇う。
異例だった。この六年、そんな家を彼女は知らない。身寄りのない者の渡しは、村がまとめて出す。泣き女は呼ばれず、隣の家の女房が三人ばかり交代で声を上げる。それで足りることになっている。
これから一年、この屋敷のすべての葬儀で泣いてほしい。
あの言葉の範囲を、彼女は初めて測った。
この屋敷の葬儀ではない。この家に関わる者すべての葬儀である。
範囲を先に決めておいた人がいる。
日が落ちる前に、彼女は家主に訊いた。泣き方を決めるのに要る三つである。
「亡くなられた方のお名前は」
「ライナルといいます」
「いちばん近いご身内は」
「おらんです。三年うちにおりましたが、手紙の一本も来たことがねえ」
「今夜、いちばん長くあの方をご存じの方は」
家主は口を開けたまま、少し考えた。
「……わしですかね」
彼女はもう一つ足した。
「何が、お好きでしたか」
「そりゃ」
男は顎の下を掻いた。
「知らんですなあ。酒も飲まん、女っ気もない。夜は部屋で書き物して、朝に出ていく。挨拶はきちんとする人でした。それだけです」
三年下宿させた相手について、家主が言えたのはそれだけだった。
日没に、渡しが始まった。
礼拝堂に集まったのは、九人だった。家主と、村の年寄りが数人と、書付を届けに来ていた役所の若い男が一人。
九人では、足りない。
リゼットは白布をかぶり、棺の正面に座って、最も強い泣き方を選んだ。
高く上げて、切らずに、途中で一度も落とさない型である。声帯に負担がかかるので、六年で数えるほどしか使っていない。遺族の声が一つもない場所では、これしか届かない。
喉が焼けた。
半刻で鉄の味がして、それでも彼女は落とさなかった。九人の呼吸が、彼女の声に合っていく。年寄りのひとりが途中から一緒に泣きはじめ、家主が袖で顔を覆った。
この人たちは、この男を知っている。
知っている人がいる家では、泣き声は増える。増えれば渡れる。
役所の若い男だけが、最後まで泣かなかった。
壁に背をつけ、腕を組んで、床を見ている。二十歳そこそこに見えた。同じ役所で机を並べていたはずの相手の渡しで、彼は一度も声を出さない。目も上げない。
俯いている。
俯いている人を、彼女はこの夏、何度も見ている。
夜半に、司祭が入ってきた。
燭台を数え、参列者を数え、棺の位置を見る。線からずれていなかったのだろう、今夜は直させなかった。
記載に入ったのは、夜明けの一刻ほど前である。
小部屋の机に、二冊が並んだ。右が死者名簿、左が彼女の帳。手順は前と同じだった。
ドルーガが万年筆の蓋を取り、書いた。
名を、書いた。
リゼットは自分の帳に向かおうとして、手を止めた。
司祭は、帳面を見ていない。
名前を訊いてもいない。家主にも、村の年寄りにも、彼女にも訊かなかった。持ってきた書付を開いてもいない。机の上には名簿が一冊あるだけで、参照するものは何も置かれていなかった。
彼女がこの男の名を知っているのは、日が落ちる前に家主へ訊いたからである。訊かなければ、四つ目の名を帳に書けなかった。
司祭は、誰にも訊いていない。
顔も合わせたことのないはずの下級の書記の名を、この人は最初から持っていた。
「泣きは」
「足りております」
「結構でございます」
ドルーガは書き終えた行の端に、爪で軽く印をつけた。
リゼットは帳を開き、四つ目の名を書いた。
ライナル。喪主なし。立会、渡し司祭。
字が、少し傾いた。
四つになった。
シビル・ラングヴァイ。ヨナス。マティアス。ライナル。
返名の儀までは、まだ十月ある。それまでこの四つを、彼女ひとりが憶えている。憶えているというのは、頭のどこかに置いておくという意味ではない。夜中に目が覚めたときに順番に並べて、抜けていないかを確かめるということだ。
湯を飲んでも、喉が通らなかった。
棺が動いたのは、それからすぐだった。
担ぎ手は四人。村の男たちである。両脇に二人ずつついて、肩を入れた。
男たちが立ち上がった。
膝が伸びるのが、速い。
彼女は動かなかった。膝をついたまま、礼拝堂の床の一点を見ていた。見ていないふりをして、目の端だけで追った。
歩幅が縮まない。
石段を降りるとき、つま先が段を探らない。
五月の大広間で、同じものを見た。
あのときは、聞いた話と合わないことはよくある、と自分に言った。若い妻の死なら病名を言い換える家は多い、と。
二度目である。
彼女は膝の上で指を握った。
この人は、小柄だっただろうか。
思い出そうとした。廊下ですれ違った男。書付の束を抱えて、壁際を早足で。背は。
思い出せない。
二度とも、彼女は道を譲られている。譲られる側は、譲る側の背丈を見ない。目の端に人がいて、通り過ぎて、それだけだった。机の向こうにいる男の背丈を、彼女は一度も測っていない。
だから、これは何の証しにもならない。
軽い棺の理由は、いくらでもある。痩せて死んだ。小柄だった。三日で熱に焼かれた。どれでも成り立つ。
成り立つのに、指が握れたままだった。
外の空が灰色になっている。担ぎ手たちは霧の中へ入り、二歩で見えなくなった。
礼拝堂には、家主が一人残っていた。膝をついたまま、床板の木目を指で撫でている。
「泣いてくださって、ありがとうございました」
立ち上がりながら、男は言った。
「あれは寂しがりじゃなかったが、それでも、誰もおらんよりはよかった」
リゼットは頭を下げた。
この礼は、いつも死んだ人のほうを向いている。
男たちの足取りは、軽かった。
──この棺も、軽い。




