第13話 【sideニナ】数えていた
ニナは、数えるのが癖になっている。
シーツは十九枚。枕覆いは二十二。台所の白い皿は四十一枚で、そのうち縁の欠けたのが三枚ある。蝋燭は毎朝、燭台の数だけ出して、燃え残りを数えて戻す。
数え間違えると叱られるからだ。
十四で奉公に来た年、蝋燭を一本合わせられなくて、家令の前に半刻立たされた。盗んだのかと訊かれ、盗んでいませんと答え、それでも数が合わないのは同じだと言われた。あれ以来、彼女は何でも数える。
その朝も、洗い場で白布を数えていた。
四枚ある。
泣き女様の布は三枚のはずだった。組合から配られたものだと、いつか本人が言っていた。端の縫い目が繕ってあるのが三枚で、繕っていないのが一枚。
繕っていないほうは、洗うと手触りが違う。指がすべる。
「ねえ、聞いた?」
洗濯板の向こうで、年かさの侍女が声を落とした。
「泣き女様、旦那様に名前で呼ばれてるって」
「うそ」
「回廊で聞いた人がいるの。リゼット、って」
ニナは布を絞る手を止めなかった。
「あの方、お名前あったんだ」
同い年の娘が言った。悪気があるようには聞こえなかった。この屋敷では、泣き女は泣き女である。厨房の女中が「女中」と呼ばれるのと同じことだ。
「旦那様は、みんなの名前を呼ぶよ」
ニナは言った。
「あたしのことも呼ぶもん」
「あんたは侍女でしょ」
年かさの侍女が、洗濯板に石鹸をこすりつけた。
「泣き女は違うの。あれは、名前で呼ぶもんじゃないの」
誰も反対しなかった。
「あの方、いつまでいるんだろうね」
同い年の娘が言った。
「一年って聞いたけど」
「一年もいたら、そりゃ、いろいろ見るよねえ」
年かさの侍女は、それだけ言って洗い物を続けた。含みのある言い方ではなかった。この屋敷では、そういう話し方をする必要がない。誰も、はっきりとは言わない。
ニナは四枚目をたたんで籠に入れた。増えていることを、この人たちに言う気はなかった。言えば、明日には奥様のところまで届く。この屋敷で話は下から上へ流れる。水と逆だ。
夕方、裏門で荷馬車が出るのを、ニナは井戸端から見ていた。
週に二度、領都の郵便所へ行く馬車である。屋敷から出る手紙は全部これに乗る。
泣き女様が、裏門の石段を降りてきた。
手に封筒を一つ持っている。厚みからして、中に何枚か入っている。
「これを、お願いいたします」
御者に渡そうとした手が、途中で止まった。
家令が、荷台の脇に立っていた。いつからいたのか、ニナには分からなかった。あの人はいつも、気づいたときにはそこにいる。
「恐れ入りますが、その書簡はお預かりいたします」
「組合への半期の報告でございます。期限を、過ぎておりますので」
「承知しております。私が確かに出します」
「封を」
「屋敷の決まりでございますので」
家令は封筒を受け取り、指で厚みを確かめた。それから、封の紙を留めた部分に爪をかけた。
剥がす音が、井戸端まで聞こえた。
泣き女様は、動かなかった。手を出しもしないし、下ろしもしない。差し出した形のまま、石段の一段目に立っている。
家令は中身を抜き、その場で目を通した。三枚あるようだった。一枚目、二枚目、三枚目。読むのは速い。読み終えると、また封筒に戻して、新しい封蝋を出した。
「不都合はございません。お預かりいたします」
「……ありがとうございます」
泣き女様は頭を下げて、石段を上がっていった。
ニナは井戸の桶を持ったまま、それを見ていた。
あの人は、顔色が変わらない。
この屋敷に来て二月半、ニナは何度もそれを見ている。奥様に襟布を直されたときも、小広間で叱られたときも、庭師さんの家で一晩泣いた翌朝も、同じ顔をしていた。困った顔をしない人だと思っていた。
今も、していない。
していないのに、石段を上がる足が、途中で一段飛ばしそうになって、止まった。
荷馬車が出ていった。
家令は封筒を上着の内側にしまい、荷台には乗せなかった。乗せずに、屋敷のほうへ戻っていった。
ニナは桶の水を井戸に戻して、汲み直した。
あの封筒が郵便所に着くかどうかを、彼女は知らない。知る立場にない。ただ、この屋敷で内側にしまわれたものが外へ出たのを、彼女はまだ一度も見たことがなかった。
夜、白布を返しに部屋へ行った。
泣き女様は寝台の縁に座って、膝の上に帳を置いていた。開いていない。いつも開いていない。
「ありがとうございます」
布を受け取る手に、繕った跡のある指が見えた。爪が短い。
ニナは、出ていかなかった。
籠の把手を持ち直して、また持ち直した。前もこうやって、この部屋で立っていたことがある。あのときは「怖くて」としか言えなかった。
「あの」
「はい」
「あたし、数えるのが癖なんです」
「存じております」
「シーツとか、蝋燭とか。数え間違えると叱られるから、癖になっちゃって」
泣き女様は待っていた。急かさない。この人はいつも、こちらが言い終わるまで何も足さない。
「人も、数えてました」
膝の上の手が、少し動いた。
「この屋敷で、急にいなくなった人が三人います」
言ってしまった。
「あたしが来る前に一人、来てから二人です」
「来る前の方は」
「侍従長のリカルドさんです。上の人たちが話してるのを聞きました。ある日から来なくなって、それきりだって」
「来てからの方は」
「文書番のエルマさん。去年です」
「お暇を出されたのではなく」
「荷物が残ってたんです」
ニナは籠を抱えた。
「エルマさんの部屋、あたしが片づけました。上着も、櫛も、書きかけの手紙も、全部そのまま。暇を出された人は荷物を持っていきます。あたしの姉も、出るときは鍋まで持っていきました」
「葬儀は」
「なかったです」
窓の外で、夏の虫が鳴いていた。
「亡くなったって、聞いてないんです。でも、いないんです」
泣き女様は、何も言わなかった。
驚きもしないし、そんなはずはないとも言わない。ただ聞いている。だからニナは、その先まで言った。
「奥様のお渡しの夜、あたし、泣けなかったって言いましたよね」
「はい」
「怖かったんです。……泣いたら、次はあたしかもしれないと思って」
声が小さくなった。
「変ですよね。泣いただけで、そんなこと」
「変ではございません」
「え」
「怖いから泣けない家を、わたくしは知っております」
泣き女様は、そう言っただけだった。慰めはしなかった。違うとも言わなかった。
ニナは籠を抱え直した。抱え直してから、いちばん引っかかっていたことを言った。
「三人って言いましたけど」
「はい」
「あたし、お名前を言えるのは、二人だけなんです」
泣き女様が、初めて顔を上げた。
燭台が一本しかない部屋で、その目だけがまっすぐこちらに向いた。ニナは、この人にちゃんと見られたのが初めてだと思った。
「三人目のお名前は」
「言っちゃいけない人だからです」




