第14話 湖のほとり
泣き女は、返名の儀の場所を先に検めておく決まりになっている。
当日に段取りを間違えれば、名が返らない。舟が何艘出るのか、島に着いてから分祠まで何歩あるのか、灯りは何本立つのか。そういうことを一年のうちに一度、自分の目で見ておく。
八月の半ばに、リゼットは舟着場へ降りた。
屋敷の丘を下って、麦畑の脇の道を四半刻。湖は、思っていたより大きかった。
水は灰色をしている。晩夏の午後で、風が湖の面をこすっていた。杭に舫った小舟が三艘、波に合わせて木を鳴らしている。桟橋の板は乾いていて、踏むと乾いた音がした。魚と、水草と、日に焼けた木の匂い。
対岸が、遠い。
霧が薄いので、今日は向こう岸の線が見える。その手前に、黒いものが一つ浮いていた。
ニナの言ったことを、この十三日、彼女は考えないようにしてきた。
言ってはいけない名を持つ人は、この屋敷にひとりしかいない。
それ以上は考えない。考えたところで、口に出せない。
「三艘では、足りないな」
声がした。
振り返ると、オルデリクが桟橋の付け根に立っていた。いつからいたのか分からない。この人はいつも、足音が聞こえてから止まる。
「儀の夜は、四艘出す」
「参列は、何名でございましょう」
「例年は十二人ほどだ。神殿から三人、家から四人、村から数人」
「灯りは」
「分祠に六本。舟に一本ずつ」
リゼットは頭の中に絵を描いた。六本の灯りで、名を読み上げるには足りる。声を張るのは楽ではない。石造りなら反響が助けてくれるが、木ならこちらの喉が全部持つことになる。
「分祠は、石でございますか」
「石だ」
「では、声は届きます」
「そうか」
「儀のあいだ、泣き女は泣きません」
「泣かないのか」
「返名は、渡しの逆でございますので。渡しは泣いて送り、返名は読んで返します。声を上げるのは一度だけ、全部の名を返し終えたあとに、短く」
オルデリクが、こちらを見た。
「決まりが、一つございます」
「言ってくれ」
「読み上げた名に、応える声があってはなりません」
「あれば」
「その渡しは、無かったことになります」
言い慣れた説明である。組合で最初に教わることの一つで、六年で三度、遺族に訊かれて答えたことがある。
「名簿から名が消えます。法の上でも、その方は死んでいなかったことになります。生きている者の名を返すことはできませんので」
彼は、何も言わなかった。
水が杭に当たる音が、三つ聞こえた。
「そうか」
それだけだった。
二人は桟橋の上に立っていた。
用件は、それで済んでいる。済んでいるのに、彼は帰らない。彼女も帰らない。桟橋の板が、波のたびに一度だけ軋む。
「歩くか」
湖沿いの道は、草が膝まで伸びていた。
少し前を、彼が歩いた。並ばない。並べば、屋敷から見えたときに困るのはこちらである。それを分かっている歩き方だった。
しばらく、水の音だけが続いた。
「泣き女は」
彼が言った。
「自分のためには泣かないと聞いた」
草を分ける音が止まった。
「器の掟と申します」
「器」
「泣き女は器でございます。遺族の悲しみを預かって、代わりに出す。器に自分の水を入れてはなりません。入れれば、どちらの水か分からなくなります」
「破れば」
「資格を失います」
「破った者はいるのか」
「存じません。破ったと分かった者が、いないだけかもしれません」
オルデリクは足を止めた。振り返らない。灰色の水のほうを向いたまま、聞いている。
その背中に向かって、彼女は言った。
「わたくしは、母のためにも泣けませんでした」
言うつもりはなかった。
「掟のせいではございません。組合に入る五年も前のことでございます。母の棺の前に一晩座って、喉に手を当てて、押しても叩いても、声が出ませんでした。悲しくなかったわけではございません」
「そうか」
「泣き足りぬ、と司祭様は仰いました。それでも母の名は記されました。ですから、形の上では渡っております」
風が湖の面を撫でて、草の穂が一度に傾いた。
「わたくしは、まだ家にいると思っております。十一年になります」
彼は何も訊かなかった。
なぜ泣けなかったのかとも、今も泣けないのかとも、訊かなかった。訊かれれば答えようがなかったから、それは助かった。
沈黙が長かった。
水鳥が一羽、湖の上を低く渡っていった。
「泣けないのは」
彼が言った。
「あなたのせいではない」
リゼットは顔を上げた。
背中しか見えなかった。黒い外套の肩が、少しも動いていない。
慰めの言葉として聞けば、よくある種類のものである。泣けなくても仕方がない、あなたは悪くない。六年のあいだ、遺族に何度もそう言ったことがある。言うほうは、たいてい適当に言っている。
この人の声は、そうではなかった。
言い切る声だった。確かめたことのある人間の言い方だった。
どこで確かめたのですか、と訊けばよかったのだと思う。
訊かなかった。この三月、彼女は屋敷でずっと訊かずにきた。訊かないことが仕事の一部になっていて、仕事の外でも同じ形に固まっている。
代わりに、頭を下げた。
「恐れ入ります」
礼を言われるようなことは言っていない、とでも言いたげに、彼は肩を一度だけ動かした。
霧が出たのは、それからすぐである。
湖の霧は、寄せてくるのではなく、湧く。水の上に白いものが立って、横に広がって、対岸の線から順に消していく。四半刻で、向こう岸が無くなった。
黒い島の影も、消えた。
オルデリクは、そこに立ったまま動かなかった。
消えたあとの場所を見ている。何もない白を、目を細めもせずに、長く見ている。彼女がここへ来てから三月になるが、この人がこれほど長く一つのところを見ているのを、初めて見た。
「あちらには」
訊いてから、出すぎたと思った。
「何かございますか」
風が鳴った。
波が桟橋の杭に当たって、木が軋んだ。彼の返事は、その音のあとに来た。
「──何もない」
一拍あった。
書斎で返名の儀の日を答えたときと、同じ長さの一拍だった。
何もない、という答えが正しくないことは、彼女にも分かった。
対岸には村がある。荷馬車の道が湖を回っていて、屋敷の食卓に上がる魚はあちら側で獲れる。ニナがそう言っていた。何もないはずがない。
だが、そう答えたのだから、そうなのだろう。
彼女は訊き直さなかった。
彼は踵を返して、丘のほうへ歩き出した。今度は並んで歩かなかった。彼が先で、彼女が後ろで、麦畑の脇の道を上がった。霧が背中から追いかけてきて、途中で二人とも見えなくなった。
「泣けないのは、あなたのせいではない」
あの方が誰に向けて仰ったのか、わたくしには分かりませんでした。




