第15話 前任者
「届いておりません」
組合の書記は、台帳から目を上げずに言った。
王都までの六日は、雨に二度降られた。宿場で乾かした外套がまだ湿っていて、帳場の窓から入る夏の終わりの日差しが、その匂いを立たせている。
「六月末が期限でございます。本日は八月の二十七日」
「出しました」
「届いておりませんので、出ていないのと同じでございます」
言い返す言葉が、なかった。
封筒を家令に渡したところを、彼女は見ている。中身を検められ、封蝋を押し直され、上着の内側にしまわれた。荷馬車には乗らなかった。
それを言えば、屋敷の家令が書簡を握り潰したという話になる。証しはない。あるのは彼女が見たという事実だけで、泣き女の見たことは、公爵家の家令の言葉に勝てない。
膝の上の鞄に、帳が入っている。
開いて机に置けば、四つの名と日付が並んでいる。書いたのは本人にしか読めない癖字で、六年ぶんの筆跡と続いている。半期の報告を作っていた形跡は、そこに全部残っている。
開けない。
他人の目に触れた時点で、彼女は泣き女でなくなる。四つの名は誰にも返らない。
「口頭で、報告いたします」
「では、伺います」
「五月十日、シビル・ラングヴァイ様。五月二十一日、ヨナス。六月八日、マティアス。七月二十三日、ライナル」
書記は書き取った。書き終えてから、初めて顔を上げた。
「四件。三月半で四件は、多うございますね」
「はい」
「次は、遅れませんように」
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「一年契約の泣き女が、途中で組合へ戻ることはできますか」
書記の手は、台帳の頁を繰るのをやめなかった。
「できません。割り振られた依頼を途中で返した者は、名簿から外れます」
「病でも」
「病でしたら、代わりを送ります。ただ、代わりが着くまでに片道六日でございます。それから、代わりの泣き女は、あなたの預かった名を返せません。預かった者にしか返せませんので」
「承知いたしました」
それだけだった。
奥の間には、湯の匂いがした。
ヨセフィーネは窓際の椅子に沈み込んで、湯呑みを両手で包んでいる。夏の終わりでもこの人は湯を飲む。喉のためだと昔から言っている。
「戻ったのかい」
「呼ばれましたので」
「怒られたかい」
「はい」
老女は湯を一口飲んだ。それから、リゼットのほうへ耳を向けた。目は開いているが、誰も見ていない。
「お前さん、この夏、いちばん強いのを使ったね」
声が、少し止まった。
「……七月に、一度」
「喉に残ってる。二月経っても抜けてない。何人だった」
「九人でございました」
「九人で、あれを使ったのかい」
「身寄りのない方でしたので」
ヨセフィーネは湯呑みを膝に下ろした。
「馬鹿だね」
褒めているとも、叱っているともつかない言い方だった。
リゼットは、数のことを言わなかった。
言えば、この人が数え始める。数え始めた人がどうなるかを、彼女はまだ知らないが、知らないことが起きている家に、この人を引き込む理由はない。
「あの家は、どうだい」
「静かでございます」
「前もそう言ったね」
「……はい」
「二度同じことを言うのは、言えないことがあるときだよ」
湯の面に、老女が息を吹きかけた。
「言わなくていい。言われたらあたしが数え始めちまうからね。あたしは数え出すと止まらない」
だから黙っていた。
黙っていたのに、老女のほうから言った。
「あの家の渡しはね」
湯呑みの縁を、皺の寄った指がなぞった。
「あたしが全部やったよ」
「全部、でございますか」
「先代の公爵。その前の奥方。屋敷の女中も、御者もね。あの家に泣き女が要るときは、あたしが行くことになってた。二十年そうだった」
リゼットは膝の上で指を組んだ。
「六年前の、若い方も」
「ああ」
老女は少し黙った。
「あれは、ひどい夜だった」
それ以上は言わなかった。
言わないと決めている人の黙り方だった。この人はそういう黙り方をするから、六年間、リゼットは訊かずにきた。
「去年から、あたしは呼ばれなくなった」
「なぜ」
「歳だからだろうね」
湯呑みが窓枠に置かれた。
「それで、王都でいちばん高いのが呼ばれた」
ヨセフィーネは椅子の脇に置いた革の袋を引き寄せて、中から帳を出した。
四十年ぶんである。
背が二度、三度と綴じ直されていて、糸の色が層になっている。厚みは、リゼットの帳の四倍あった。革表紙の角が擦れて丸くなり、下の芯が覗いている。手垢で色の変わった場所が、ちょうど親指の当たる位置に二つついていた。
王都で四十年、泣き女をやった女がひとりいて、その四十年ぶんの名前が、この一冊の中にある。返した名も、返しそこねた名も。呼ばれた家も、呼ばれなかった家も。
この人が死んだら、この帳はどうなるのだろうと思った。
「あたしの帳には、全部載ってる」
節くれだった指が、その背を軽く叩いた。
「載ってないものも、載ってないってことが載ってるよ」
リゼットは、その帳を見た。
載っていないことが載っている。呼ばれなかった夜。行かなかった家。立ち会わなかった渡し。泣き女の帳は、預かった名を書くための帳だが、四十年つけていれば、書かれていない場所そのものが形になる。
この家で、泣き女がいなかった渡しが二件ある。
その二件が、この帳の上では空白として存在している。
喉の奥が乾いた。
「見せてくれとは、言うんじゃないよ」
老女が先に言った。
「見せた時点で、あたしもお前さんも終わりだ。掟だからね」
「存じております」
「知ってりゃいい」
門前まで、老女はついてきた。
組合の建物は皮なめし職人の通りの奥にあって、夕方になると革の匂いが濃くなる。荷を積んだ車が石畳を跳ねて、犬が一匹、日陰で伸びていた。
「六日かけて戻るのかい」
「はい」
ヨセフィーネは、日陰の犬を見ていた。
「お前さん」
「はい」
「泣き女が消える家ってのはね、たまにあるんだよ」
言い方は、いつもと同じだった。天気の話をするときと同じ調子である。
「消える、と申されますと」
「呼ばれなくなる。それだけならいい。名簿から名前が消える者もいる。二十年に一人か二人だ。組合は騒がない。泣き女は身寄りのない女が多いからね」
「あたしはね、四十年で二人送った」
「泣き女を、でございますか」
「泣き女をだよ。二人とも、いい耳をしてた」
老女は日陰の犬から目を離さない。
「一人は、数を数えた。もう一人は、数えたことを人に言った」
「どちらが、消えましたか」
「両方さ」
荷車が石畳を跳ねていった。犬が耳だけ動かして、また目を閉じる。
リゼットは、老女の横顔を見た。
背が低く、腰が曲がって、耳のうしろの後れ毛が夕日に透けている。
「わたくしは、消えません」
自分でも思っていなかった強さで、声が出た。
ヨセフィーネが笑った。声を出さずに、口の端だけで。
「──お前さんの心配はしてないよ」




