第16話 気安い人
帳は、枕の下にある。
六年、そうしてきた。寝台の頭のほうを壁につけて、枕の下に平らに入れる。角が枕の縁から指一本ぶん出る位置に置くのが癖で、朝、起きたときにその指一本ぶんを見る。見てから起きる。
王都から戻って十日目の朝、それが指二本ぶん出ていた。
リゼットは寝台の縁に腰かけたまま、しばらくそれを見ていた。
自分で動かした憶えはない。ゆうべは早く寝た。夜中に起きた記憶もない。
帳を引き出して、頁を確かめた。開かれた跡はなかった。糸で綴じた背は詰まったままで、頁の縁の指の跡も増えていない。誰かが読んだのなら、必ずどこかが緩む。
開いていない。
開かずに、動かした。
この部屋に入るのは造作もない。鍵はない。使用人棟の扉に鍵をかける屋敷を、彼女は見たことがなかった。
開けば、掟破りとして訴えられる。触った側が咎められる。だからこの人は、開かずに動かした。
見たぞ、ではない。
見られるぞ、である。
彼女は帳を胸に抱いて立ち上がった。
その日から、どこへ行くにも持ち歩くようになった。厨房へ行くときも、洗い場へ行くときも、脇に抱えている。
持ち歩けば、置いていかれることはない。取り上げられることはある。
取り上げられたときにどうするかは、考えなかった。考えて答えの出る種類の問いではない。
図書室は、屋敷の西の翼にある。
九月の午後で、窓から入る日が低くなっていた。棚の三段目までは領内の帳簿で、その上は誰も触らない本が並んでいる。埃と、乾いた革の匂い。指でなぞると跡が残った。
彼女が探していたのは、屋敷の古い名簿である。
どの年に誰が雇われ、誰が暇を取ったか。使用人の出入りを記した帳面が、この家のどこかにあるはずだった。神殿の記録には死んだ者しか載らない。生きて出ていった者は、屋敷の帳面にしか残らない。
棚の四段目に、それらしい背があった。
抜き出して開くと、紙が新しかった。綴じ糸が白く、頁の縁が焼けていない。
三年ぶんしかなかった。
五百九年の春から始まって、それより前がない。誰がいつ雇われ、いつ辞めたか。三年ぶんだけが、揃った字で並んでいる。
古いものを探した。同じ段にも、上の段にも、下の段にもない。床に積まれた束も見た。
この家の使用人の出入りは、三年より前を辿れない。
手を伸ばしたとき、後ろで扉が鳴った。
「探し物?」
セヴランだった。
外套も着ずに、襟の曲がったままの上着で立っている。手には何も持っていない。
「埃をかぶっておりますね」
「そこは誰も来ないからね。僕も年に一度くらいかな」
彼は棚のあいだを抜けて、窓辺の椅子に腰を下ろした。腰を下ろしてから、脚を組んだ。
「君、この三月でずいぶん歩いたよね」
リゼットは手を下ろした。
「庭師の家に一度、小教区に二度。王都に二度」
「お仕事でございます」
「知ってる。二度目の王都は、組合に呼ばれたんだろ。半期の報告が届いてないって」
棚の埃の匂いが、急に濃くなった気がした。
「洗い場の娘とはよく話すよね。ニナだっけ。あと、うちの家令とは事務の話しかしない。叔母上には二回叱られてる。襟布と、泣き方」
「よくご存じでいらっしゃいます」
「僕、暇だから」
「一つ、間違っておいでです」
「え」
「洗い場の娘とは、布の受け渡しのあいだだけでございます。長く話したことはございません」
セヴランは目を丸くして、それから声を出して笑った。
「そこを直すんだ」
笑いながら、椅子の肘掛けを指で二度叩いた。
「大丈夫だよ。あの子の話はしてない」
してない、と彼は言った。誰に、とは言わなかった。
彼は笑っていた。屋敷でいちばん人当たりのいい笑い方だった。
この人はいつもこうだった。四月に回廊で会ったときも、叔母から庇うような口をきいた。あれから何度も廊下ですれ違い、何度も軽口を叩かれた。この屋敷で、彼女に話しかける人間は二人しかいない。ひとりは白布を洗う娘で、もうひとりがこの人である。
「君ってさ」
セヴランは窓の外を見ていた。
「うちの家の誰よりこの家に詳しいよね」
悪気は、なかった。
声の調子も、四月の回廊と同じだった。誰にでも好かれる人の、誰にでも同じ声である。
だから分かってしまった。
この人は、彼女が三月のあいだにしたことを全部並べられる。並べられるということは、並べて誰かに渡してきたということだ。日付と場所と相手を揃えて、人の動きを言える形にする。それを人は報告と呼ぶ。
リゼットは棚の前に立ったまま、帳を抱え直した。
「そうかもしれません」
それだけ言った。
責める言葉は持っていない。職能民が主家の血縁を責めれば、翌日には屋敷を出ることになる。出れば、四つの名は返らない。
セヴランは椅子から立った。
「怒らないんだね」
「怒る立場ではございませんので」
「そういうとこ、叔母上が嫌がると思うよ」
彼は棚の背を指でなぞって、その指を服で拭って、出ていった。
夜の回廊で、もう一度すれ違った。
燭台の間隔が広く、影の帯が等間隔に落ちている。この屋敷の廊下はどこもそうだった。明るい場所と暗い場所が交互にあって、人の顔は明るいところでしか見えない。
「まだ起きてるの」
「白布を干しておりました」
「働き者だなあ」
彼は通り過ぎようとした。
リゼットは、その背中に向けて口を開いた。
「一つだけ、伺ってもよろしゅうございますか」
「なに」
「あなた様は、なぜ本当に泣かれるのですか」
足音が止まった。
「六月の終わりの夜、中庭においででした。文書係の方のお渡しから、八日経っておりました。あなた様は柱の陰で泣いておいででした」
影の帯の中に立っているので、顔は見えない。肩の線だけが、燭台の光の縁にかかっている。
「奥様のお渡しの夜も、あなた様だけが泣いておいででした。親族席の椅子を一つ空けて、隅で」
「……見てたんだ」
「白布をかぶっておりますと、どこを見ていたかは分かりかねます」
彼の息が、笑いの形に抜けた。うまく抜けなかった。途中で引っかかって、咳のような音になった。
「僕、葬式に弱いんだよ。前に言ったろ」
「はい」
「それだけ」
「はい」
「それだけだよ」
二度言った。
セヴランは歩き出した。今度は振り返らない。影の帯を三つ渡って、四つ目に入る手前で、足が一度だけ止まった。
止まっただけだった。
そのまま角を曲がって、足音が消えた。
「君ってさ、うちの家の誰よりこの家に詳しいよね」
悪気のない声だった。だからこそ、それは報告書のように聞こえた。




