第17話 【sideマルグリット】正しい悲しみ方
マルグリット・ラングヴァイは、毎朝、泣く練習をする。
起きて、髪を結い、襟布を当てる。幅を指で測る。鏡の前に立って、背を伸ばし、顎の位置を決めてから、声を出さずに三度泣く。
三度でいい。三度で型が戻る。
六年になる。一日も欠かしていない。
上げる回数は三度。下げるのは二度目と三度目のあいだに一度だけ。息を吸う長さは、心の中で四つ数える。終わりの一声は、落としきらずに残す。落としきると、家を出た者の泣き方になる。
鏡の中の顔は、正しく歪んでいた。
眉の間に皺を寄せすぎない。口を開けすぎない。涙は、右の目から先に落とす。左が先に落ちる泣き方は、若い娘のものである。
泣き方には格がある。
夫を送るときと、子を送るときと、使用人を送るときとで、上げる回数が違う。若い時分に姑から教わった。指の関節を扇の骨で打たれながら、三月かけて覚えた。
もっとも、彼女は使い分けたことがない。
どの型で泣いても誰にも咎められないと分かった年から、一つに決めている。三度上げて一度下げる型が、いちばん崩れにくいからだ。喉に負担がなく、涙の出が悪い朝でも成り立つ。
誰も検めない。
この国の誰ひとり、他人の泣き方の中身を検めたりしない。
悲しみは形である、と彼女は思っている。
中身がどうであれ、形が正しければ、その人は正しく悲しんだことになる。逆に、どれほど身を裂かれていても、床に膝をついて喚けば、それは血の弱さと呼ばれる。この国はそういうふうにできていて、彼女はその決まりを作った側ではなく、守ってきた側だった。
鏡から離れて、彼女は水差しの水で目のふちを冷やした。
毎朝これをするのは、いざというときに出るようにしておくためである。
三月も泣かずにいると、出なくなる。出なくなった人間が葬儀の席で目を乾かせたまま座っているのを、彼女は若い時分に一度見た。あれは家の恥だった。あの家は今、王都にない。
だから彼女は練習する。
悲しくないからである。
六年前の春から、彼女は一度も悲しくなっていない。だからこそ、いつでも正しく泣けるようにしておかねばならない。悲しい人間は練習をしない。練習をするのは、悲しくない人間だけだった。
昼に、息子が来た。
「叔母上、じゃなかった、母上。ただいま」
「お座りなさい」
セヴランは窓辺の椅子に腰を下ろして、脚を組んだ。この子は昔からこの座り方をする。直させたことが十度あるが、直らない。
「泣き女は」
「図書室に来てた。使用人録を探してたよ」
「古いほうは」
「ないよ。三年ぶんしかない。ちゃんと三年ぶんしかなかった」
「結構」
マルグリットは刺繍の枠を膝に置いた。針を三度動かして、糸の張りを確かめる。
「ほかには」
「洗い場の子と話してる。それだけ。あとは干して、書いて、寝てる」
「王都では」
「組合に呼ばれただけだって。報告が届いてないから」
「それは、そうでしょうね」
針が布を通る音がした。
「もう一つ、報せがあるんだけど」
「噂のことでしたら、聞いております」
「早いね」
「洗い場から上がってまいりましたわ。三日前に」
公爵が泣き女を名前で呼んでいる、という話である。
それ自体は、どうということもない。名を呼ぶのはあの子の癖だった。厨房の下働きの名まで呼ぶ。先代が生きていたころから直らない。
問題は、屋敷の者がそれを噂にしたことだった。
噂の立った人間は、扱いやすくなる。品行を疑われた泣き女がどうなるかは、組合の規定を一度読めば分かる。
急ぐことではない。噂は、置いておけば太る。
「あの娘、怒らないんだ」息子が言った。「僕が全部知ってるって分かっても、怒らない。怒る立場じゃないですって」
「賢い娘です」
「賢いのかな」
「怒らないというのは、覚えているということです」
マルグリットは針を止めなかった。
「怒る人は、その場で使い切ってしまいます。覚えている人は、使う日を選びます」
息子は返事をしなかった。
彼女は糸を替えた。灰色から、少し明るい灰色へ。この時季の喪は色を薄くする。
「セヴラン」
「はい」
「あなたが当主におなりなさい」
針の音が続いている。窓の外で、庭師のいなくなった庭の木が、風に鳴っていた。
「家というのは、人より長く生きるものです。人ひとりを退けて家が百年続くのなら、それは正しいことでしょう? 百年のあいだに、この家の畑で食べる人間が何人出ると思っていらして。ひとりや二人ではございませんよ」
「……うん」
「わたくしはそのために、正しくないことを一度だけいたしました」
一度だけ、と彼女は言った。
六年前の春のことである。あれは正しくなかった。認めている。認めているから、毎朝泣いている。
そのあとに起きたことは、後始末である。零れたものを拭くのは、零したこととは別の行いだ。拭かなければ床が腐る。腐れば家が傾く。数に入れるようなものではない。
息子は何も言わなかった。
窓の外を見て、脚の組み方を替えただけだった。
この子は、こういうとき何も訊かない。昔からそうだった。
訊かない子は、育てやすい。育てやすい子は、当主に向いている。当主というのは、訊いてはいけないことの数を憶えている役目である。
ただ、この子は葬儀で泣く。
誰の葬儀でも泣く。八つのときからそうで、何度直させても直らなかった。あれだけは、家の外で出さないように言い聞かせてある。
もっとも、泣くこと自体は悪くない。泣く男は、疑われない。
夕方、小広間で襟布を検めた。
泣き女は、いつもの時刻に来る。時刻を守る娘だった。この三月、一度も遅れていない。
「お直しなさい。半指ぶん」
「失礼いたしました」
娘は襟布を外して、折り直した。折り方が正しい。教えたとおりにできている。
マルグリットはその手つきを見ていた。
この娘は、わたくしと同じことをしている。
悲しくないのに泣く。声の高さを決め、息継ぎの位置を決め、家に合わせて型を選ぶ。金を取って、それをする。
わたくしは金を取らない。それだけの違いである。
だから軽蔑している。同時に、この屋敷でいちばん警戒している。誰かの泣き方の中身を疑うという発想を持つ人間は、この家に二人しかいない。ひとりは自分で、もうひとりが目の前にいる。
「あなた」
「はい」
「少しお痩せになりましたわね」
娘の指が、襟布の端で止まった。
「食事は足りていて。使用人棟の膳は、この時季になると薄くなりますでしょう。厨房に申しておきましょうか」
「恐れ入ります。足りております」
「そう」
マルグリットは椅子から立った。
痩せる娘は、眠っていない娘である。眠らない娘は、夜に何かをしている娘である。
「お顔の色も、よろしくないこと。無理をなさいませんように」
「はい」
「無理をなさる方は、この家では長く保ちませんのよ」
窓の外はもう暗い。秋の日は短い。
娘は頭を下げて、小広間を出ていった。足音が一度も乱れない。
悲しみの種類と、泣き方の型が、合っていない。
──あの方は、六年間、同じ悲しみ方をなさっている。




